エピローグ 希望と絶望
2019.12/7 更新分 1/1 ・2020.9/22 文章を一部修正
ナーニャとリヴェルとイフィウスの三名は、冷たく凍てついた大地を駆けていた。
ナーニャの魔術を目の当たりにして呆然としていた兵士たちの何名かも、いくぶん遅れて追従してきている。メフィラ=ネロは、まだ生きている――という、ナーニャの言葉を耳にした人間がいるのだろう。
もともとそこは、数千から成るセルヴァ軍の陣中である。彼らはメフィラ=ネロを頭から生やした氷雪の巨人や妖魅たちを取り囲み、ついさきほどまで果敢に戦っていたのである。
ナーニャが発動させた炎の魔術によって、そういった妖魅どもも一掃されている。
あれほどに巨大であった氷雪の巨人も、然りである。
よって、巨人や妖魅どもが暴れ狂っていた空間はぽかりと広場のように無人であり、ナーニャたちはその中心を目指していたのだった。
「あそこだ……もう悪さをする力は残っていないと思うけど、いちおう用心を忘れないようにね……」
リヴェルに肩を支えられながら、ナーニャはいまにも昏倒してしまいそうだった。
そのほっそりとした身体は、火そのもののように熱を帯びている。あれだけ凄まじい魔術を行使したのだから、ナーニャはすぐにでも休息しなければならない状態であるはずだった。
(でも、これでようやく決着がつくんだ)
白い息を吐きながら、リヴェルは懸命に駆けた。
ナーニャが指し示す方向には、こんもりと土が盛り上がっている。氷雪の巨人が消滅した衝撃で、地面がえぐれてしまったのだろう。ならば、メフィラ=ネロはその盛り上がった土の向こう側にいるはずだった。
近づいてみると、土の盛り上がりはリヴェルの腰に届くぐらいの高さがあった。
大地が大きく丸くえぐれており、そこから押し出された土がこのようなものを形成しているのだ。
おそるおそる、その向こう側を覗き込んでみると――穴の深さはさほどでもなかったが、松明の光も届かないので、巨大な深淵のごとき様相になっている。
その暗がりの中心に、ぼんやりとした青白い光がぽつんと灯っているのが見えた。
「あれだね……僕にはもうひとかけらの魔力も残されていないから、とどめはイフィウスにお願いするよ……」
無言でうなずいたイフィウスは、恐れげもなく土の山を乗り越えた。
ナーニャとリヴェルもそれに続き、数名の兵士たちも意を決した様子で飛び込んでくる。
長剣をかざしたイフィウスを先頭に、一同は青白い光を目指した。
そして――そこに、メフィラ=ネロがいた。
「来やがったね、火神の御子……ご丁寧に、とどめを刺してくれようってのかい……」
メフィラ=ネロは、力なく横たわっていた。
その身体は、青白い鬼火のような光に包まれている。これが、メフィラ=ネロに残された最後の魔力の残り火であるのだろう。
その弱々しい姿を目にした瞬間、リヴェルは息を呑むことになった。
氷雪の巨人が消滅したことにより、リヴェルたちは初めてメフィラ=ネロの全身を目にすることとなったのだ。
メフィラ=ネロは、一糸まとわぬ裸身である。ただ、炎のように渦巻く金色の髪が、その裸身をわずかばかりに隠している。
彼女はとても小さくて、とても細かった。年齢のわりに小柄であるリヴェルと、それほど差がないぐらいであろう。あれだけ化け物じみていたメフィラ=ネロも、魔力を失えばこのようにちっぽけな存在であったのだ。
全身を覆っていた奇怪な紋様も、いまはすっかり消え失せている。その額に第三の瞳が存在する他は、無力で美しいだけの、北の王国の娘にしか見えなかった。
ただもう一点、普通とは言い難い特徴もあらわにされていた。
これまで巨人の内側に隠されていた彼女の両足は、骨と皮だけの枯れ木めいた形状をしていたのだ。
「なるほど……それが、君の抱えていた欠落か……」
ナーニャが、感情のない声でつぶやいた。
地面に倒れ伏したまま、メフィラ=ネロは悪鬼のように笑う。
「ああ、そうさ……あたしは生来、歩けない身体だった……医術師が言うには、背骨の一部分がぶっ壊れてるんだとよ……それで額に目ん玉まで生えてたもんだから、『神の器』なんていうありがたいもんに選ばれちまったわけだねえ……」
『神の器』の条件は、ひとつの過剰とひとつの欠落――ナーニャは両性具有であり、肉体の色が欠落していた。このメフィラ=ネロは、第三の目を持ち、背骨の一部分が欠落していたのだ。
「そうして君は、この世に絶望することになったわけかい……? 『神の器』のもうひとつの条件は、この世界を心から憎悪していることだからね……」
「はん……こんな身体でも、まともな人間のもとに生まれれば、健やかな生ってやつを味わえたのかもしれないけどねえ……生憎と、あたしの親はそうじゃなかったらしい……ま、親の顔なんざ覚えちゃいないけどさ……物心ついたときから、あたしは旅芸人の一座のもとで暮らしていたんだよ……」
メフィラ=ネロの紫色をした瞳が、ふっと遠くを見るように細められた。
ただ、その額に輝く第三の瞳だけは、爛々と火のように燃えている。
「だけどあの頃は、楽しかったよ……旅芸人の連中は、みんな陽気な馬鹿ばっかりだったからねえ……歌を歌うぐらいしか能のなかったあたしを、一人前の仲間として扱ってくれたのさ……」
「でも、その生活が奪われた、というわけだね……」
「そうさ……」と、メフィラ=ネロの双眸にも、激情の炎が灯された。
「あたしはあいつらを、かけがえのない仲間だと思ってた……だけどあいつらは、あたしを銀貨で売り払ったんだ……弱い人間をいたぶることでしか悦楽を覚えられない、西の貴族の変態野郎にね……」
ふいに、メフィラ=ネロは獣が威嚇するように口を開いた。
そこには一本の歯も存在せず、ただ血の気のない青紫色の歯茎だけが剥き出しにされた。
「あたしの股座は役立たずだからねえ……あいつを楽しませるために、すべての歯を引っこ抜かれちまったのさ……あたしに歌を歌わせながら、吐瀉物まみれで腰を振るのが、あいつの一番のお楽しみだったよ……」
リヴェルは悲鳴を呑み込みながら、ナーニャの腕に取りすがることになった。
知らず内、両方のまぶたから涙があふれだす。リヴェルの胸は、正体の知れない激情にふさがれてしまっていた。
「あたしのために、泣いてくれるのかい……? そうそう、前にも言ったよねえ……火神の御子にはあんたがいたけど、あたしには誰もいなかった……これでもあたしはこの世を憎まずに、大人しく自分の運命を享受するべきだったのかねえ……?」
そのように語るメフィラ=ネロの顔は、邪悪な笑いに引き歪んでいた。
運命が、彼女にこのような形相を与えてしまったのだ。
「君の運命について、僕にとやかく言う資格はない……ただ、旅芸人の一座が君を手放すことになったのは……十中八九、《まつろわぬ民》の策謀なのだろうと思うよ……希望を知らない人間に、大きな絶望を与えることは難しい……大きな希望を打ち砕くことこそが、もっとも大きな絶望の因子になるのだろうからさ……」
「だけど、あたしを捨てたのはあいつらだ……あたしを慰みものにしたのは、あの野郎だ……あいつらは、どっちも《まつろわぬ民》の命令でそんな真似をしたわけじゃないだろう……? あたしを絶望させたのは、この世界のくそったれどもなんだよ……」
「君がその憎悪を然るべき相手にだけ向けていれば、僕にだって文句はなかったさ……でも、それだけで王国を滅亡させようなんていう話には……やっぱり賛同することができないんだよ……」
リヴェルは涙に濡れた目で、初めてナーニャを振り返った。
ナーニャもまた、その真紅の瞳にえもいわれぬ激情を燃やしているようだった。
「残念ながら、君は道を誤ってしまった……君にそのような凶運を与えた《まつろわぬ民》は、僕がこの手で始末してあげるよ……だからせめて、最期ぐらいは安らかな気持ちで魂を返すといい……」
そのときである。
あちこちから、兵士たちの悲鳴が響きわたった。
ナーニャは愕然とした様子で、天空を仰ぎ見る。つられて顔を持ち上げたリヴェルは、兵士たちと同じように悲鳴をほとばしらせることになった。
『無念である……これでもまだ、貴方は偽りの希望に取りすがろうというのか、火神の御子よ……』
くぐもった声が、陰々と響きわたった。
声の主は、天空にある。
夜の闇に閉ざされた空いっぱいに、巨大な老人の顔が浮かびあがっていたのである。
「へえ……《まつろわぬ民》が、自分から姿をさらすとはね……まあ、こんな幻影じゃあ、姿をさらすとは言えないかもしれないけどさ……」
白い咽喉をのけぞらしつつ、ナーニャはそのように言い捨てた。
べつだん声を張り上げたわけでもないのに、遥かなる高みに浮かぶ老人のもとにも、それは届いた様子である。老人は、顔中の皺を蠕動させながら不気味に微笑んだ。
『貴方は偽りの希望にひたっているに過ぎない……石の都は、滅ぶべきであるのだ……』
「君たちの理念は、おおよそ把握しているつもりだよ……その上で、僕は『神の器』として在ることを拒絶したんだ……君たちが正しかろうと間違っていようと、僕は自分の好きなようにやらせてもらうよ……」
『愚かである……貴方を覚醒させた我が同胞も、大いなる無念の中で魂を返すことになろう……』
どうやらその声は、下界にたたずむ人間たちの頭の中に直接響いているようだった。
狂乱した兵士たちが、頭上に火矢を放っている。しかしもちろん、天空に浮かんだ《まつろわぬ民》の顔にそれが届くことはなかった。
「つまり君は、僕ではなくメフィラ=ネロに『神の器』の術式を施した術者ということか……たったいま、君のことを滅ぼしてみせると、メフィラ=ネロに誓ったところだよ……」
『我々は、魂を返すことを恐れたりはしない……ただ、大願を成就するために身命を捧げるのみである……』
老人の巨大な顔には、とうてい正気とは思えぬような、虚ろな笑みが広げられていた。
横に平たくて、蛙を潰したような醜き顔貌である。まばらになった髪は雪のように白く、巨大な裂け目のごとき口からは黄ばんだ歯が覗いており、肌は死人のような灰色をしている。そして、その瞳はぽっかりと空いた穴のように漆黒であった。
『火神の御子よ……貴方は、道を踏み外した……しかし、取り返しがつかぬことはない……貴方は火神の御子として、石の都に滅びをもたらすのだ……』
《まつろわぬ民》は黄ばんだ歯を剥き出しにして、邪悪に微笑んだ。
『そして、貴方もだ、氷神の御子よ……貴方が進むべき道は、我が指し示してみせよう……』
「へえ、そうかい……」と、メフィラ=ネロが喜悦にまみれた声で囁いた。
「そいつは、ご親切なことだねえ……どんな道を指し示してくれるのか、楽しみなこった……」
すると、これまで石像のように不動であったイフィウスが、いきなり長剣を振り下ろした。メフィラ=ネロの声に、よからぬ気配を感じたのだろう。
しかし、イフィウスの長剣は空を斬り、大地にめりこむことになった。
どこからともなく出現した氷雪の妖魅が、メフィラ=ネロの首をくわえて、大きく跳びすさったのである。
イフィウスは無言のまま、そちらにさらなる斬撃を繰り出した。
しかし妖魅はメフィラ=ネロをくわえたまま、穴の外へと逃げてしまった。
「にがずな! ごのばでうぢどるのだ!」
周囲の兵士たちも我に返って、メフィラ=ネロを追おうとする。
そこに、《まつろわぬ民》の声が響きわった。
『西の王都に向かうがいい……北の領土は、魔力が足りぬ……西の王都に渦巻く魔力を我が物とし、その地に滅びをもたらすのだ……その行いが、火神の御子の覚醒をもうながすであろう……』
天空に浮かんだ老人の顔は、すでに輪郭を崩し始めていた。
メフィラ=ネロの狂笑が響きわたり、それがどんどん遠ざかっていく。それを聞きながら、ナーニャはがくりと膝をついた。
「しくじったね……僕たちの注意をそらすために、《まつろわぬ民》はわざわざ姿をさらしたんだ……我を失っていた兵士たちが、メフィラ=ネロを捕らえることは難しいだろう……」
「では、どうずるのだ?」
妖魅の追跡を断念したイフィウスが、こちらに近づいてきた。
「ざぎぼどのろうじんは、にじのおうどをぼろぼずどいっでいだ。どうでいみずごずごどはでぎん」
「そうだね……僕たちも行くしかないのかな……西の王都に……」
リヴェルの腕の中で、ナーニャは力なくまぶたを閉ざした。
それはいまにも息絶えてしまうのではないかというぐらい、衰弱し果てた姿であったが――ナーニャの秀麗な口もとには、どこか満足そうにも見える穏やかな微笑がたたえられていた。