Ⅴ-Ⅵ 密談
2019.11/30 更新分 1/1 ・2020.1/20 誤字を修正
黄の月の二十四日――メナ=ファムたちは、思いも寄らぬほどの平穏さの中で、その日を迎えることになった。
無人であったドルエの砦に突入したのは、昨晩の話である。聖教団のダックなる男が予見した通り、ゼラドの軍も王都の軍も、その日の内に戦端を開こうとはしなかったのだった。
「要するに、この砦に居座ったゼラドの軍は、ベアルズ大公の率いる後続部隊と合流しようという目論見であるのだろう。俺たちに残されているのは、あと二日か三日といったていどであろうな」
エルヴィルは、そのように言っていた。
後続の部隊が合流すれば、それは王都の全軍に匹敵する脅威になるという。およそ八万ずつの兵士を有した大軍同士の戦など、メナ=ファムには想像もつかない馬鹿騒ぎであった。
「だけどそれなら、どうしてわざわざ軍をふたつに分けたのかねえ? たった二、三日で合流するんなら、分かれる甲斐もなさそうなもんじゃないか」
「それはおそらく、この三万の軍勢が露払いの役であったのだろう。こちらの軍が速やかに王都の咽喉もとまで迫れるならよし、もしもどこかでつまずくようなら、五万の本隊は無傷のまま別の進路を探る――といった目論見だったのだろうと思う」
「用心深いこったね。ま、あの大公はいかにも悪知恵が働きそうな面がまえをしてたから、べつだん驚きはしないけどさ」
何にせよ、たとえ数日でも猶予が与えられるというのは、ありがたい話であった。
そのゼラドの本隊とやらが到着する前に、メナ=ファムたちはこのドルエの砦を脱出しなければならないのだ。聖教団のデックという思わぬ協力者も得られたことであるし、これでようやく希望の道を見いだせたのかもしれなかった。
「それで、あんたもあのデックにことは信用できたんだよね、エルヴィル?」
朝になり、水瓶の水で適当に顔を洗ってから、メナ=ファムはそのように問うてみた。
長椅子に座したエルヴィルは、「うむ」と重々しくうなずく。シルファとラムルエルはまだ目を覚ましていないため、この執務室にはふたりの姿しかなかった。
「正直に言えば、完全に信用しきったとは言えん。しかし、俺たちがこのドルエの砦から脱出するには、あやつを頼る他なかろう。あやつがもしも、よからぬことを企んでいたならば……そのときは、剣で始末をつけるまでだ。三万から成るゼラド軍を相手取るよりは、よほど安楽な道であろうからな」
デックの耳を用心して、エルヴィルは小声で囁いていた。
デックはこの執務室の、巨大な戸棚の背後の隠し部屋に潜んでいるのである。
「うん、あたしも賛成だよ。あたしたちの閉じ込められた部屋に隠し通路があるなんて、ずいぶん出来過ぎな話だとは思うけどさ。ああして実際に隠し部屋はあったんだから、そこを疑ってもしかたないしね」
「うむ。砦に籠城した高官のために逃走経路が準備されているというのは、ありえなくもない話だ。あやつの潜んでいる隠し部屋とやらは、すべての執務室に繋がっているという話なのだからな」
そう言って、エルヴィルは舌打ちでもこらえるような仕草を見せた。
昨晩、この執務室に戻った後、エルヴィル自身もデックと直接言葉を交わすことになったのだ。その際に、エルヴィルとデックはいささか意見が食い違うことになったのだった。
「お前の潜んでいる隠し部屋がすべての執務室に通じているというならば、ゼラドの公子や将軍らを暗殺することもかなうではないか。指揮官を討てば、三万の兵でも無力化することはできるやもしれんぞ」
エルヴィルは昨晩、そのように主張していた。
しかしデックは、「いえ……」と遠慮なくその言葉を否定してみせた。
「わたしはしがない従者に過ぎず、暗殺者ではございません……たとえ毒の吹き矢を用いても、そのような大役を果たすことはかなわないでしょう……」
「だったら俺たちが、この剣でその役を――」
「この軍は、ひとりの指揮官に率いられているわけではないようにお見受けいたします。盗み聞きから判じた話ですので、確たることは申せないのですが……少なくとも、指揮官と呼べる人間は三名ほど存在するのではないでしょうか……?」
それはどうやら、ふとっちょ公子のデミッドとラバッド、およびジャガルの血を引くタラムス将軍のことを指しているようだった。
「公子たちなどは、名目上の指揮官に過ぎん。実際に兵を運用しているのは、タラムス将軍であるはずだ」
「では、そのタラムス将軍を暗殺すれば、この三万の軍を無力化できるのでしょうか……?」
「いや、それでは副官や大隊長が後任となるだけだろう。しかし、一時的には大きな混乱を招くこともできようから――」
「混乱は、我々の助けとなるのでしょうか……? むしろ我々は、慎重に慎重を重ねて行動するべきだと考えているのですが……」
デックは陰気な小男であるが、性根は据わっているし頭も明敏であるようなのだ。そして彼には、凶刃に倒れた同胞の仇を討つという、大きな目的も存在するのだった。
「たとえ首尾よく指揮官を暗殺することがかなったとしても、それが余人に知れれば大きな騒ぎとなりましょう……そして、どうして堅く守られた執務室の中で、暗殺することなどがかなったのか……それを疑われたならば、隠し部屋の存在を気取られてしまいます……それではいっそう、脱出も困難になってしまうのではないでしょうか……」
「それはそうかもしれんが……しかし、夜の深くに暗殺をすれば、露見するのは明朝となろう」
「夜には誰も訪れないと、断ずることがかなうのでしょうか……? また、ゼラド軍が混乱に陥るのが明朝であるのなら、我々の脱出行に関わりが生じるのでしょうか……? 益のない行いのために危険を犯すことは、避けたく思います……」
メナ=ファムが聞いていた限り、正論と思えたのはデックの弁であった。
脱出直前の行きがけに将軍や公子を暗殺したところで、メナ=ファムたちの利益にはならないだろう。それどころか、余計にゼラドの怒りを買って、より執拗な追撃を受けてしまうかもしれない。それでは、寝ている大鰐の尻尾をつつくようなものであった。
「そしてまず第一に、暗殺自体に失敗をして騒ぎを起こしてしまっては、脱出そのものが困難となりましょう……どうかここは、御身の安全を一番に考えていただきたく思います……」
「わかった、もういい。そうまで言うなら、暗殺というのは取りやめだ」
と、エルヴィルはたいそう気分を害していた様子であった。
ただメナ=ファムは、そんなエルヴィルを見つめるシルファの瞳に、とても温かい光が灯っていたことに気づいていた。そのときのエルヴィルはいくぶん子供がすねているような様相であったので、それで心を和まされたのかもしれなかった。
(何にせよ、デックみたいなやつが力を貸してくれるってのは、心からありがたいこった)
メナ=ファムがそんな風に考えていると、ようやくシルファとラムルエルも寝所から出てきた。寝台はひとつしかなかったので、男どもはゼラド軍から支給された寝具を床に敷いて眠ることになったのだ。シルファの足もとでは、黒豹のプルートゥも大きくあくびをしていた。
「そろったね。ま、あんたたちはしばらく出番もないから、脱出に備えて力を蓄えておいておくれよ」
しばらくすると、ゼラドの従士が朝の食事を運んできた。砦の厨が使えるようになったわけだが、食材は自前のものがすべてであったので、本日もポイタンの団子と固い干し肉と水みたいに薄い汁物料理のわびしい朝食であった。
「上りの四の刻に軍議が開かれますので、その際にエルヴィル隊長をお迎えにあがります」
若い従士は、そのような言葉を残して立ち去っていった。
王都を陥落させるために、あれこれ計略を立てているのだろう。汁物にひたしたポイタンの団子をかじりながら、エルヴィルはまた不服そうな顔をしていた。
「あのデックという男は、この砦を捨てた王都の軍についても、詳しくは語ろうとしなかったな。俺が王都の軍の情勢を把握していれば、ゼラドの連中を間違った方向に誘導できたやもしれんものを」
「それでゼラドの連中に何かカンづかれちまったら、厄介だろ? いいからあんたは、戦のことじゃなくってシルファの安全のことを考えておくれよ」
「わかっている」と、エルヴィルは乱暴に団子を噛みちぎった。
シルファはやはり、穏やかな目つきでそんな兄の横顔を見つめている。思わぬ方向に希望の道が垣間見えたからか、シルファもずいぶんと平穏な気持ちを取り戻せた様子であった。
「それよりも、背中の傷は大丈夫なのかい? あたしらは梯子を使って、最上階から地下まで下りるって話なんだからね。あんたが無理なら、あたしが背負っていくことになるんだよ」
「女人などに背負われてたまるか。このていどの手傷は、どうということもない」
メナ=ファムはひとつ肩をすくめてから、プルートゥのほうを振り返った。
「だったら、あたしの荷物はあんただね。さすがにその足じゃあ梯子を下ることはできないだろうからさ」
シルファのかたわらに身を伏せていたプルートゥは「ご随意に」とばかりに瞬きをしていた。
そうして為すべきこともないままに時間が過ぎ、上りの四の刻である。
従士の案内でエルヴィルが軍議におむむいたのち、十分に時間を取ってから、メナ=ファムは作戦を決行することにした。
現在のメナ=ファムたちが取り組まなくてはならない問題は、ただひとつ。遠くに引き離されてしまったドンティおよびギリル=ザザと、合流することのみであった。
「おおい、誰かいるんだろう? ちょいと話があるんだけどね!」
回廊に通じる扉を乱打すると、鍵の開けられる硬質の音色が響いた。
不機嫌そうな顔をしたゼラドの兵士が「何だ?」と顔を覗かせる。
「実は、頼みがあるんだよ。あたしを旗本隊のところまで案内しちゃもらえないもんかねえ?」
「旗本隊だと? あやつらに、何の用があるというのだ」
「用っていうか、あいつらが元気にやってるかどうかを確かめたいんだよ。何せあいつらは、王子殿下のために集まってくれた大事な同胞なんだからさ」
兵士はますますうろんげに眉をひそめて、扉を閉ざそうとした。
「隊長殿から、そのようなご命令はお預かりしておらん。お前たちは、この場で大人しくしておけ」
「へえ、あんたは王子殿下に対しても『お前』扱いしようってのかい?」
メナ=ファムは扉と壁の間に足をはさんで、そのように言いつのってみせた。
「どうしてそんなに、あたしらをあいつらから遠ざけようとするのさ? こいつはひょっとして、王子殿下の嫌な予感ってのが当たっちまったのかねえ?」
「嫌な予感? いいから、その足を引っ込めろ」
「やなこった。あんたらは、邪魔者になった旗本隊の連中を皆殺しにしちまったんじゃないのかい?」
「なんだと?」と、兵士は目を丸くした。
「馬鹿を言うな。どうして我々が、そのような真似をしなくてはならないのだ」
「だってあいつらは、ゼラドじゃなくてセルヴァの兵士だろう? 現在の王様にはそっぽを向いて、王子殿下と運命をともにするって誓った身だけど、あんたたちがそれを信用したかどうかは、知れたもんじゃないからねえ」
メナ=ファムは、せいぜいふてぶてしく見えるように微笑んでみせた。
「いざ戦が始まったら、あいつらは王都の連中に寝返るかもしれない。そんな不安を抱え込んだら、戦が始まる前に始末しちまおうって気になるかもしれないじゃないか」
「下らぬ浅知恵だな。我々は、そのように悪逆な真似はせん」
「へえ、今度は浅知恵よばわりかい。あんたには、王子殿下を敬う気持ちってもんが、これっぽっちも存在しないみたいだねえ」
男は眉を吊り上げて、何か言い返そうとした。
が、途中で言葉を呑み込んで、一歩だけ回廊のほうに後ずさる。プルートゥを引き連れたシルファが、メナ=ファムの背後から近づいてきたのである。
「わたしはこれまでエイラの神殿に幽閉されていた身であり、この世の道理を学ぶすべもなかった。貴殿たちにしてみれば、聞くにたえない妄言なのであろうな」
「あ、いや、決して王子殿下を愚弄したわけでは……」
「いいのだ。しかし、わたしにとってあの者たちは無二の同胞であるのだということを、どうか理解してもらいたい」
シルファはこれまで、ラギスのような高官ぐらいとしか言葉を交わす機会がなかった。そんなシルファといきなり相対することになり、兵士の男はずいぶん辟易している様子であった。
「あの者たちをこの場に呼んでほしいとは言わぬ。ただ、メナ=ファムの目であの者たちの壮健な姿を確認してもらいたいだけなのだ。それすらも、許されぬ願いであるのだろうか?」
「いえ、あなたがたを部屋の外にお連れするには、隊長殿のお許しが必要となるので……」
「隊長殿とは、ラギス殿のことであろうか? ならば、わたしからラギス殿に言伝てを願いたい。情理を尽くせば、きっとラギス殿の理解を得られることであろう」
兵士は、苦りきった顔になってしまった。
大隊長であるラギスは、もちろん軍議の真っ最中なのである。直情的である彼は、軍議の場に余計な話を持ち込まれることを嫌がるだろう――という推測をしたのは、同じく軍議に参加しているエルヴィルであった。
(さあ、どうする? 軍議とやらの邪魔をして説教をくらうか、あいつの知らないところで勝手な真似をして説教をくらうか……あるいは、あいつには何も知らせないまま知らんぷりを決め込むか、選ぶのはあんただよ)
やがて兵士は、大仰な溜め息とともにこう答えた。
「承知いたしました。自分の裁量で、そちらの侍女めを旗本隊のもとにご案内いたします。ただし、あやつらが無事であると知れたら、すぐに戻っていただきますぞ?」
「少しぐらいは言葉を交わす時間を作ってもらいたいもんだねえ。あたしらの知らないところで酷い目にあわされていないか、確認しなくちゃならないからさ」
「……では、四半刻だけ。刀は置いていってもらおう」
「当然さ。これだけ兵士がうじゃうじゃいるんだから、あたしが刀を持ち歩く必要はないだろ」
メナ=ファムは背後を振り返り、シルファに片目をつぶってみせた。
王子らしい厳粛な面持ちをたたえたまま、シルファはいくぶん心配そうな眼差しになっている。これが必要な行いであると理解はしていても、やはりメナ=ファムの身を案じずにはいられないのだろう。
(何も危ないことはないだろうけど、シルファのおもりを頼んだよ、プルートゥ)
シルファの足もとの黒豹にもうなずきかけてから、メナ=ファムは回廊へと歩を進めた。
兵士はメナ=ファムの顔を忌々しげにねめつけてから、施錠をする。そして、同じように扉を守っていた兵士に命令を下した。
「こやつを旗本隊のもとまで案内せよ。時間は、四半刻までだ。そして、行きがけに代わりの兵士をこちらに呼んでおけ」
「は、承知いたしました。代わりの兵士は、一名でよろしいでしょうか?」
「お前の代わりなのだから、一名で十分だ。……あと、隊長殿には内密にな」
どうやら彼は、ラギスに何も通達しないという道を選んだ様子である。メナ=ファムたちにしてみれば、もっとも望ましい結果であった。
(ラギスのやつは普段から威張り散らしてるから、余計な恐れを買っちまうんだよ。ま、こいつも自業自得ってこった)
そんな風に考えながら、メナ=ファムは石の回廊を進むことになった。
階段を下った兵士は、すぐ下の階でもっとも近い場所にあった扉を叩き、一名の仲間を呼びつける。小声で指示を出された兵士は、メナ=ファムたちの辿ってきた階段を速足で昇っていった。
メナ=ファムたちはあらためて、石の階段を下っていく。
下の階に到着するたびに、メナ=ファムは視線を巡らせたが、やはりどの場所にもゼラドの兵士たちが居並んでいた。その多くは装備を外して身軽な格好であったが、刀だけはしっかり下げている。想像していた通り、メナ=ファムたちが砦の内部を強行突破することは不可能なようだった。
(デックが現れていなかったら、万事休すだったかもしれないね)
案内役の兵士とメナ=ファムは、やがて一階に降り立った。
一階には、さらに数多くの兵士たちがひしめいている。なおかつ、その大部分は甲冑を纏った物々しい姿だ。自分たちから打って出るつもりはなくとも、やはり敵襲には備えなければならないのだろう。
兵士はずかずかと歩を進めて、見覚えのある大きな扉の前まで出た。前庭に通じる扉である。
それを開くと、やはりそこも兵士たちの群れであった。広大なる前庭に敷物を敷いて、賭け事やら談笑やらに励んでいる。メナ=ファムにとっても、見慣れた光景であった。
「王子殿下の旗本隊は、こちらだ」
案内役の兵士は、建物に沿って西側に回り始めた。
それについて歩きながら、メナ=ファムはまた視線を巡らせる。明るい日の光の下で見ても、やはり砦を囲む城壁は堅牢であった。何の道具もなく人間がよじのぼることは、まず不可能であろう。
建物の西側でも、兵士たちが待機という名の休息を取っている。
その中に、旗本隊の姿があった。
「よお、メナ=ファムじゃねえか!」
目ざといひとりが、大きな声をあげながら立ち上がった。とたんに、周囲の男たちも喜色をあらわにして腰を浮かせる。
「まだ半日しか経ってねえけど、元気そうで何よりだ。王子殿下もご無事なんだろうな?」
「エルヴィル隊長の様子はどうだ? まだ背中の傷は悪いのか?」
「ここまで来れば、王子殿下も安全だろうからな。旅のお疲れを癒やすように、伝えておいてくれよ」
砦に到着したという安心感に、いよいよ戦が近いのだという思いも加わってか、彼らはずいぶんと昂揚している様子であった。
陽気に言葉を返しながら、メナ=ファムは重い石でも呑み込んだような心地になってしまう。
(あたしらは、こいつらを置いて逃げ出そうとしてるんだ)
もともと五十余名いた旗本隊は、四十名足らずに減じている。ギリル=ザザたちが引き連れてきた妖魅との戦いにより、七名の兵士が魂を返し、同じぐらいの兵士が深手を負ったのだ。
そして彼らはシルファが本物のカノン王子だと信じ、王都に牙を剥こうとしている。王殺しの汚名を着せられた不遇のカノン王子を救うために、本来の剣の主である現王に叛旗をひるがえしたのだった。
(たとえこの場を生き抜いたところで……あたしやシルファやエルヴィルは、いずれ西方神に魂を砕かれることになるんだろう)
そんな思いを胃の腑に呑み込んで、メナ=ファムは手近な兵士に笑いかけてみせた。
「そういえば、ドンティのやつはどうしたんだい? 姿が見えないじゃないか」
「あいつなら、あっちで賭け事遊びだろ。でも、あいつとは不仲なんじゃなかったか?」
「あたしにふざけた真似をしたのは、あいつの相棒のほうだよ。まあ、いまさら過ぎた話でうだうだ言ったりはしないさ」
ゼラド兵の視線を背中に感じながら、メナ=ファムはさりげなく人間の輪の中に入り込んでいった。
そこで、目当ての人物の姿を見つけて、素早く耳もとに囁きかける。
「ねえ、あたしはちょいとドンティに話があるんだ。ゼラドの兵士の目をそらしてくれたら、恩に着るよ」
それは、かつてドンティからの使者として、言伝ての役を担った若者であった。
「しかたねえな」と薄く笑って、その若者は兵士のもとに近づいていく。それを横目に、メナ=ファムは別の男にも囁きかけた。
「実は、王子殿下の命令でドンティと話しに来たんだよ。しばらくの間、盾になってもらえないかね?」
男は仰天したように目を見開いたが、すぐに真剣な面持ちで「了解」と囁いた。
その男から他の者たちにも話が回され、メナ=ファムは人垣の奥へと誘される。
その果てに、ドンティとギリル=ザザの姿があった。
ゼラド兵の視界に入っていないことを確認してから、メナ=ファムは両名のもとに駆けつける。
「時間がないんで、要点だけを話すよ。実は、脱出の目途が立ったんだ」
メナ=ファムは、自分たちの部屋に隠し通路が存在することと、逃亡の手助けをしてくれる人間が潜んでいたことを、かいつまんで説明してみせた。
ドンティは、「へえ」と感心しきった声をあげる。
「それはそれは……さすがレイフォン様ですねえ。そんな秘策を残していたとは、やっぱり大したお人でやすよ」
「うん。だから、どうにかしてあんたたちもこっちに来てほしいのさ。警護役の人間として招くのはどうかって、エルヴィルは言ってたんだけど……あんたはエルヴィルよりも頭が回るだろ? なんか、上手い手立てはないもんかね?」
するとドンティは、何故だか苦笑めいた表情を浮かべた。
「いや……そういうことなら、俺たちにかまいつける必要はございやせん。どうぞお好きなときに逃げてくださいな」
「そういうわけにはいかないだろ。あんたたちは、どうするのさ?」
「俺たちは俺たちで、何とかしやすよ。ちょうど昨晩も、そのための計略を練っていたんでね」
メナ=ファムは、意外の念にとらわれることになった。
「どういうことだい? まさか、自分たちだけで逃げ出す計略を立ててたわけじゃないんだろ?」
「俺たちだけではないですねえ。この場にいる旗本隊のお人らを引き連れて、ですよ」
メナ=ファムは、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「旗本隊の人間を……? でも、こんな大勢で逃げ出すなんて、不可能だろ? そもそもこいつらには、逃げる理由がないじゃないか。こいつらは、王子が偽物ってことも知らないんだから――」
「でも、偽王子だけが逃げちまったら、このお人らは全員処刑でやしょう? それじゃああんまり忍びないって、俺の相棒が言い出したもんでね」
激しい驚きにとらわれたまま、メナ=ファムはギリル=ザザを振り返った。
浅黒い肌をした森辺の勇敢なる狩人は、いつもの感じでふてぶてしく微笑んでいる。ここでは人の目があるために、言葉を発することがかなわないのだ。
「ただ、あちらを立てればこちらが立たずで、偽王子と旗本隊のお人らをいっぺんに逃がす算段が見当たらなかったんでやすよ。偽王子が自力で逃げ出せるってんなら、俺たちも大助かりでさあ」
「それじゃあ……本当に、旗本隊の全員を助けるつもりなんだね?」
「ええ。とにかくこの場を逃げ出しちまえば、レイフォン様が何とかしてくださるでしょうからねえ」
メナ=ファムは、ぐっと奥歯を噛みしめることになった。
そうでもしなければ、嗚咽をもらしてしまいそうだったのだ。
「だったら……もうひとつ伝えておくよ。あと二、三日したら、ゼラドの本隊が合流するらしい。そっちの数は、五万って話だね」
胸中の激情を呑み下しながら、メナ=ファムはそのように告げてみせた。
ドンティは「なるほど」と目を光らせる。
「やはり、来やしたか。俺もこの軍勢がすべてではないだろうと当たりをつけていやしたよ。ゼラドにどれぐらいの兵力が集められていたかは、最初に探りを入れてたんでね」
「あと、レイフォンってお人はグリュドの砦に現れた化け物のことも知ってるらしい。伝書鴉とかいうやつを使って、あちこちと連絡を取り合ってるみたいだよ」
「なるほどなるほど。グリュドの砦に関して、何か他に情報はありやすかい?」
「よくわからないけど、グリュドに控えた王都の軍を放置して、ここのゼラド軍が兵を進めることはできないはずだ、とか言ってたね」
「へえ。それじゃあグリュドの砦にも、それ相応の軍勢が潜んでいたんでやすね」
ドンティは、にんまり微笑んだ。
「その軍勢が、あの真っ黒な化け物に皆殺しにされていなければ……うん、いい感じに話がまとまりやした。貴重な情報、感謝しやすよ」
「全員で逃げ出す算段が立ったのかい?」
「ええ。なんとかなるでしょう。最後は半分がた神頼みでやすがね」
メナ=ファムは手をのばして、ドンティとギリル=ザザの腕をわしづかみにした。
「どうか、お願いするよ。……みんなが助かったって、あたしたちの罪が減るわけじゃない。でも、あたしはこれ以上、シルファに罪を背負わせたくないんだ」
ドンティはきょとんと目を丸くし、ギリル=ザザは静かに笑っていた。
そして、素早く左右を見回したかと思うと、ギリル=ザザがメナ=ファムの耳もとに口を寄せてくる。
「こちらのことは、俺たちに任せろ。お前はお前の仕事を果たすがいい」
メナ=ファムは、「ああ」と笑ってみせた。
しかし、速やかに身を引いたギリル=ザザの笑顔は、うっすらと涙ににじんでしまっていた。
(父なるセルヴァに、母なるシャーリよ……あたしは罪深い大馬鹿野郎だけど、このお人たちは心正しき人間だ。どうか、それに相応しい正しき行く末に導いてあげておくれよ)
そうして、その日の密談は終わった。
メナ=ファムたちの運命が決する日は、もう目前に迫っていた。