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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
190/244

Ⅲ-Ⅵ 正体

2019.11/16 更新分 1/1

 再建工事の中断されていた銀獅子宮の敷地は、ディラーム老が率いる遠征兵団の兵士たちによって埋め尽くされることになった。

 ジェイ=シンが聖剣の力によって《まつろわぬ民》の潜伏場所を感知したと言いたてたため、このような措置が取られたのである。


 また、その場には《まつろわぬ民》の陰謀を阻止せんとする同志たちが結集していた。

 レイフォンにティムト、ディラーム老にイリテウス、クリスフィア、メルセウス、ジェイ=シン、ホドゥレイル=スドラ、そして、ダリアスにラナにリッサという顔ぶれである。ただひとり参ずることができなかったのは、罪人として審問を待つ身であるゼラのみであった。


「とはいえ、全員でこの地下通路に踏み込もうというのは、あまりに無謀な行いだろうね。もしも《まつろわぬ民》がこの場所に潜伏していたとしても、何か危険な罠が仕掛けられている可能性もあるのだからさ」


 レイフォンがそのように声をあげると、同志の何名かが同意を示すためにうなずいた。

 そのうちのひとり、ジェイ=シンが横目で自分の主人であるメルセウスをねめつける。


「まず、俺たちの主人にはこのような場所に足を踏み入れる理由もなかろうな。というか、そのように危険な真似を許すことは、とうていできん」


「うん。まあ僕は剣の腕に覚えがあるわけではないし、そちらの方々のように魔術の世界に造詣が深いわけでもないからねえ」


 残念そうに微笑みながら、メルセウスはそのように答えていた。

 そちらの方々というのは、『禁忌の歴史書』によって魔術の世界の知識を得たティムトとリッサである。ずっと何かを考え込んでいたティムトは、それでようやく「そうですね」と発言した。


「こちらに足を踏み入れるのは、聖剣の所有者であられるダリアス将軍かジェイ=シン殿のどちらかと、魔術の知識を持つ僕かリッサ殿のどちらかで十分でしょう」


「ならば、俺とリッサが出向くことにしよう。《まつろわぬ民》の素顔を知る人間は、この中で俺ひとりであるのだからな」


 ダリアスがそのように応じると、リッサが「えー!」と不平そうな声をあげた。

 しかしその口が何かをまくしたてるより早く、ティムトは「いえ」と首を横に振る。


「申し訳ありませんが、《まつろわぬ民》と対面する役は僕が担わせていただきたく思います。リッサ殿はこの場に留まり、事後に備えていただけますか?」


「ふむ。俺はそれでもかまわんが……ラナを連れていくことは同意してもらいたく思う。ラナは魔を除ける護符を携えているので、危険はないはずだ」


 そのように語るダリアスの瞳には、何があってもラナの身は守り通してみせようという気迫がみなぎっていた。レイフォンの見立てによると、この両名はおたがいに懸想し合っているようなのである。

 そんな情緒には何の関心もない様子で、ティムトは「はい」とうなずく。


「聖剣による生命力の消耗を抑制するためにも、それは懸命なご判断でしょう。……かなうことならば、ジェイ=シン殿にもご伴侶を同行していただきたかったほどです」


「馬鹿を言うな。あのようなお転婆を、こんな危なっかしい場所にまで連れてこられるものか」


 わずかに頬を赤くしながら、ジェイ=シンはそう言った。

 それを微笑ましく思いながら、レイフォンはティムトのほっそりとした肩に手を置いてみせる。


「何にせよ、ティムトが乗り込むつもりであるなら、私も同行させていただくよ。まさか、それを許さないなどとは言わないだろうね?」


「……レイフォン様が御身を危険にさらす必要はないかと思われます」


「だったらティムトは、何のために危険を担おうとしているのさ? 《まつろわぬ民》を退治するだけなら、ティムトがリッサを押しのけてまで志願する必要はないはずだろう?」


「……僕はただ、《まつろわぬ民》の真意を探りたいと願っただけです。どうして自分の居場所をさらすような危険を犯してまで、ロネック将軍に妖魅を憑依させたのか……それを問い質したいと願っています」


「うん。しかも、ロネックに憑依した妖魅は、王陛下ではなくティムトに狙いを定めていたのだからね。私だって、そのことはずっと気にかかっていたんだよ」


 そう言って、レイフォンはティムトに笑いかけてみせた。


「ティムトの主人として、私だってあのような真似は看過できないさ。それに、ティムトをそんな危険な場所にひとりで送り出すなんて、そんなことができるわけはないじゃないか」


 ティムトは不満そうな目つきをしていたが、レイフォンの言葉を退けようとはしなかった。

 その結果に満足しながら、レイフォンは「さて」と一同を見回してみせる。


「それじゃあ、地下通路に下りるのは、私とティムト、ダリアスにラナの四名だね。もちろん、遠征兵団の方々にもご足労を願わなければならないけれど――」


 すると、「待たれよ」と声をあげるものがあった。

 誰かと思えば、クリスフィアである。


「わたしも、同行を願いたい。妖魅と相対した経験があるぶん、王都の精鋭たる兵士たちにも引けは取らないはずだ」


「クリスフィア姫が? なぜ同行を?」


「《まつろわぬ民》を退治するのに、外でぼけっと待っていることなどできるはずがない。そやつがどのような面相をしているのか、わたしも拝ませていただきたく思う」


 レイフォンは苦笑を禁じ得なかったが、その申し出を固辞する理由は思い当たらなかった。剣の腕に覚えがあるぶん、レイフォンよりはよほど戦力になることだろう。


「承知したよ。それじゃあ、こちらから出向くのはこの五名だ。ディラーム老、そのようにお願いいたします」


「相分かった。……それでは、突入の準備をせよ!」


 周囲に控えていた兵士たちが、灯篭に火を灯す。その中には、若き千獅子長イリテウスの姿もあった。元帥の身となったディラーム老が危険に身をさらすわけにはいかぬため、陣頭指揮はイリテウスの手に託されたのだ。


「イリテウス殿、相手は妖魅を操る妖術師です。それを相手取るにはダリアス将軍の力こそがもっとも有効であるはずなので、そのように心置きください」


 ティムトがこっそり耳打ちすると、イリテウスは硬い表情で「承知しています」とうなずいた。


「ダリアス殿は十二獅子将であり、わたしは千獅子長に過ぎないのですからね。兵の指揮はわたしが取らせていただきますが、わたし自身はダリアス将軍のご命令に従う所存です」


「ありがとうございます。……それでは、行きましょう」


 月の始めにも足を踏み入れた、銀獅子宮の地下通路である。まずは兵士の何名かが灯篭を手に石段を下り、危険がないことを確認してからレイフォンたちを呼びつけた。

 ダリアスを先頭にして、五名の同志も石段を下る。灯篭を掲げる役目はレイフォンとティムトとラナが受け持ち、ダリアスとクリスフィアは身軽でいてもらうことにした。

 長い石段の下に待ち受けるのは、天然の鍾乳洞である。通路が左右にのびているのも、レイフォンの記憶通りであった。


「前回は、こちらの道――たしか、北西だったよね。北西の方向に進んだんだ。このたびは、どちらに進むべきだろうね?」


 レイフォンが問うと、ティムトはダリアスの長身を見上げた。


「ここはやはり、北西に進むべきかと思われますが……何か妖魅の気配などは察知できるでしょうか?」


「いや。いまのところは、何も感じぬな」


「では、北西に進みましょう。南東の道は、すぐに行き止まりであるはずですので」


 左右を兵士たちに守られながら、レイフォンたちはいざ鍾乳洞の奥深くへと歩を進めることになった。

 レイフォンたちが進むにつれ、地上からは後続の兵士たちが続々と投入される。後ろを振り返ると、その兵士たちの掲げた灯篭が道しるべのように長くのびていた。


「ところで、ティムト。ひとつ、聞かせてもらえるかな?」


 レイフォンがそのように呼びかけると、ティムトは無言で視線だけをよこしてきた。その張り詰めた面持ちを見返しながら、レイフォンは言葉を重ねる。


「私などが言いたてるまでもなく、この先は外界に繋がっているのだよね。たとえ《まつろわぬ民》がこの場所に潜んでいたのだとしても、その出口から逃げられてしまったら追いかけようがないんじゃないのかな?」


「そうですね。その場合は、撤退するしかないでしょう」


「でも、ティムトは《まつろわぬ民》が逃げたりはしていない、と考えているように見受けられる。それは、何故なんだろう?」


 ティムトはしばらく、何も答えようとしなかった。

 その末に、低い声で「勘です」とつぶやく。


「勘? ティムトが、勘に従って判断を下したというのかい?」


「……それで何か、悪いことでもありますか?」


「いや、悪いことはないけれど……何よりも論理を重んずるティムトが勘で動くなんて、私にはなかなか信じられないなあ。何か、説明したくないわけでもあるのかい?」


「ありませんよ、そのようなものは。ただ、《まつろわぬ民》はこの場に留まっているという気がするだけです」


「では、どうしてそんな気がしたのだろう? 理由もなく、そんな風に考えることはないはずだよね?」


 ティムトはいくぶんうんざりした様子で眉をひそめた。


「しつこいですね。論理的根拠など皆無なのですから、このようなものは直観も同然ですよ」


「それなら、どうしてそのような直観を得ることになったのか、その理由だけでも教えてはもらえないものかなあ? ティムトが勘に従って指針を定めるなんて、私はひどく落ち着かない気分になってしまうのだよ」


 レイフォンがしつこく言いたてると、ティムトは溜め息まじりに説明してくれた。


「この王都は、西方神の加護に守られています。《まつろわぬ民》は聖堂の地下に邪神を覚醒させてその加護を打ち破ろうと試みましたが、それもジェイ=シン殿のおかげで未然に防がれました。ならば、たとえ《まつろわぬ民》であっても、外道の魔術を発動することはできないはずであるのです」


「うん。この地下通路にも、かつては妖魅がうじゃうじゃ湧いていたものだけれど……あれはやっぱり、地下だったからなのかな?」


「はい。地底は、妖魅の領域です。しかし、それらの妖魅が王都の地上に出ることはできないはずです。そうだからこそ、《まつろわぬ民》は聖堂を破壊して西方神の加護を打ち破ろうとしたのでしょう」


「なるほど。それで、それがティムトの判断とどう繋がるのかな?」


「……《まつろわぬ民》は、ロネック将軍に妖魅を憑依させました。あのようにちっぽけな魔術であっても、この王都の真ん中で発動させるには、魂を削るような行いであったはずです。それこそ、自分の生命と引き換えにでもしなければ、王都の真ん中で外道の魔術を発動させることなどはかなわないはずなのですよ」


 そう言って、ティムトは闇の向こうを透かし見ようとするかのように目を細めた。


「そうであれば、《まつろわぬ民》はもはや自分が破滅することを恐れたりはしていない……というよりも、この場から逃げのびたいなどという気持ちを抱えていたならば、最初から魔術を発動させたりはしなかっただろうと、僕はそのように判断を下しました」


「なんだ。だったら、立派な論理的根拠があるんじゃないか」


「このようなものは、論理だなんて言えませんよ。もしかしたら、《まつろわぬ民》は僕が思っている以上の魔術を極めていて、この場からもまんまと逃げおおせているかもしれないのですからね」


 レイフォンは「ふうむ」と考え込んだ。


「この王都で外道の魔術とやらを発動させるのは、そんなに大変なことなのか。まあ、王都で魔術を好きなだけ使えるのなら、わざわざロネックやバウファを手駒にする甲斐もなかったのだろうしね」


「ええ、その通りです」


「それじゃあ、王都の真ん中ではなく城下町だったら、それほど身を削らずに魔術を発動できるのかな? 城下町の宿舎では、ジョルアンが使い魔に襲われたという話だったものね」


「そうですね。王都の中央から離れれば離れるほど、加護の力は弱まるはずです。城下町であれば、それほど魂を削られることはないのでしょう」


「なるほどなるほど」と納得しかけてから、レイフォンは「あれ?」と首を傾げることになった。


「でも、おかしいな。聖堂にほど近い場所にも、妖魅は出現しているじゃないか。ほら、たしか――」


 そこに、ダリアスの「止まれ!」という声が響きわたった。


「この先に、何者かが潜んでいる! 各々、用心せよ!」


 ダリアスのかたわらを進んでいたイリテウスも、得たりと後方を振り返る。


「行進、止まれ! 敵襲に備えよ!」


 黙然と歩いていた兵士たちが、一気に色めきだった。

 ダリアスは、早くも聖剣を抜き放っている。


「わずかにだが、魔なる気配を感じる……ラナ、こちらに来るのだ」


「は、はい」と、ラナがダリアスに身を寄せる。

 ダリアスは正面に視線を据えたまま、イリテウスに命じた。


「あまり大人数では、混乱を招く恐れがある。半個小隊のみ同行し、レイフォンらを守ってもらいたい」


「承知しました。わたしはどういたしましょう?」


「俺の声が届くように、十歩を空けて追従せよ。総員撤退もありえるので、そのように心得るのだ」


「承知しました。十歩を空けて追従し、万事に備えます」


 どうやらイリテウスは、もともと十二獅子将であったダリアスには心から敬服しているらしい。父の代からの武人に相応しいたたずまいである。


 そうしてレイフォンたち一行は、五名の兵士とともに鍾乳洞を進むことになった。

 行く手はゆるやかに湾曲しているために、あまり先を見通すこともできない。ティムトとクリスフィアの息づかいをすぐそばに感じながら、レイフォンは慎重に歩を進めていった。


 そうして、どれほど進んだのちか――灯篭の火だけが目の頼りであった暗がりに、ぼうっとした青白い光が灯った。

 外界への出口にはまだ早すぎるし、そもそも太陽の光とも思えない。それはもっと不吉で冷たい気配のする、沼地を漂う鬼火のごとき光であった。


「あれは……!」と、クリスフィアが鋭く囁く。

 不吉な青白い光の下に、さらに不吉な人影が浮かびあがったのだ。

 それは、漆黒の頭巾と外套で人相を隠した、背の高い人影であった。


「お前は……あのときの《まつろわぬ民》だな?」


 ダリアスが緊迫した声で問い質すと、その人影は長身を揺らして嘲弄をあらわにした。


「忌々しき背信者よ……やはり、我の最期に立ちあうのは貴様であったか……」


 それは、錆びた金属をこすりあわせるような、聞き苦しい老人の声音であった。

 その声を聞いて、クリスフィアは愕然と立ちすくんでいる。


「貴様たちの邪魔立てによって、我の術式は水泡に帰してしまった……蜘蛛神ダッバハを闇に返したのは、貴様ではなくもうひとかたの背信者であったようだが……そのように忌々しき魔道具を操る貴様らの魂は、死してなお深淵をさまようことになろう……」


「魔道具とは、この聖剣のことか? これは四大神の聖なる力を呼び起こされた、鋼の剣に過ぎん」


「たわけたことを……魔術で四大神の力を呼び起こすなど、外道というも愚かしいほどのおぞましき手管ではないか……大神から授かった大いなる力を、忌まわしき石の文明の利器に施すなど……そのような背徳が許されていいわけがないのだ……」


 毒々しいまでの悪意に満ちた声でつぶやきながら、その影はうっそりと面を上げた。

 黒い頭巾の陰に覗くのは、死人のように灰色がかった老人の顔だ。その皮膚は老木のように皺が寄っており、双眸は闇を凝り固めたかのように黒い。


「貴様たちにそのような魔道具を与えた痴れ者こそが、外道の魔術師よ……その魂は、大神によって八つに裂かれることであろう……」


「ふん。確かにあやつも、自らの存在を誇ったりはしていなかった。それゆえに、現世との縁を絶って、隠遁の生活に身を置いていたのだ。貴様たちが馬鹿げた野望などを抱かなければ、あやつも安穏と余生を過ごせただろうにな」


 ダリアスはこの期に及んでも、トゥリハラの名を隠そうとしているようだった。

 まあ、用心を重ねるに越したことはないのだろう。目の前に立ちはだかっているこの老人は、妖魅そのもののように不吉な気配を発散させていた。


「忌まわしい……忌まわしい背信者どもめ……貴様たちさえいなければ、この石の都を混沌の渦に沈めることがかなったものを……」


 耳障りな声を陰々と響かせながら、老人は視線を動かした。

 その闇の色をした瞳がとらえたのは、ティムトである。


「幼き賢人よ……特に、貴様だ……よくもそうまで、好きなように我の絵図面をかき乱してくれた……不浄の魔道具を操るこやつらを除けば、貴様こそがもっとも呪わしい……」


「なるほど。だから、己の魂を削ってまで魔術を発動させ、僕を亡き者にしようとした、ということなのでしょうか?」


 感情を殺した声で、ティムトが問い詰めた。

 老人――《まつろわぬ民》は、にたりと笑う。その口には、獣のように鋭い牙がびっしりと生えそろっていた。


「その通りよ……石の都が滅ぶ運命に変わりはないが、貴様さえ道連れにすることがかなえば、大きな一助になったものを……」


「やはりあなたは、もはや自らが生きのびる道など考えてもいないのですね」


「……《神の器》を体現させたことによって、我は使命を終えている……あとは我の同胞らが、世界を正しき姿に立ち返らせてくれよう……」


「いえ。その言葉が真実であるのなら、あなたが悪あがきをする必要などなかったはずです。カノン王子の心に希望をもたらされては困るから、あなたは数々の手段を講じて悪あがきをしていたのでしょう?」


 ティムトは、凛とした声で言った。


「僕はなかなか、あなたの描いた絵図面から脱することがかないませんでした。でも、最後の最後で、ようやく出し抜くことがかなったようですね。あなたの泣きどころはただひとつ、カノン王子に希望をもたらすことであったのです。カノン王子が人間としての生に希望と喜びを見出し、《神の器》として在ることを否定すること――僕たちの勝利条件は、その一点にあったということですね」


「幼き賢人よ……貴様の知略こそは、不浄の魔道具にも匹敵する害悪であった……」


 そのように言いながら、老人は邪悪に笑っていた。

 剥き出しにされた鋭い牙が、青白い鬼火によって妖しく照らし出されている。


「しかし、もうよい……貴様の小賢しい知略など、大いなる神の前では何を為すこともできん……我はこの場で魂を返すが、我の同胞こそが貴様たちに破滅をもたらそう……」


「それは――」と、ティムトが色の淡い瞳に白刃のごとき光をたたえた。


「それは、もしかして……カノン王子ではない別の《神の器》がこの王都に迫っている、という意味でしょうか?」


《まつろわぬ民》は答えず、枯れ木のような長身をのけぞらして哄笑した。

 それは、人間とも思えぬおぞましい笑い声であった。


「貴様たちが、火神の御子に希望をもたらそうというのなら……その希望ごと、石の都を打ち砕くまでよ……火神の御子もろとも、貴様たちも絶望に打ち沈むがいい……そのときこそ、火神の御子も自らの進むべき道を見出すであろう……」


「たわけたことを抜かすな! どのような苦難に見舞われようとも、我々は決して屈せぬぞ!」


 そのように叫んだのは、クリスフィアであった。

 その灰色の瞳は、火のような激情に燃えている。


「わたしにも、ようやく理解することができた! ティムトはもう、とっくに察していたのだろうがな!」


「え? どうしたんだい、クリスフィア姫? ティムトが察しているというのは……?」


 レイフォンが尋ねると、クリスフィアは《まつろわぬ民》の異形をにらみすえたまま、勇猛に笑った。


「理解できたのは、こやつの正体だ! こやつこそが、薬師のオロルだ!」


「な、何を言っているのさ。彼はすでに、魂を返しただろう? 『賢者の塔』で、妖魅に襲われて――」


 と、そこでレイフォンはティムトを振り返ることになった。


「いや、それもおかしな話なのだよね。さっきのティムトの話によると、聖堂の近くで魔術を発動することは難しい、ということだったのだからさ」


「ええ。聖堂にほど近い『賢者の塔』で、人間の首を食いちぎるほどの妖魅を召喚することはできません。『禁忌の歴史書』を読み進めるうちに、僕はその事実を知ることができました」


 こともなげに、ティムトはそう言った。


「しかしどうせ、薬師のオロルというのも真の名ではないのでしょう。あなたは十六年前にシムの占星師として現れて、前王に不吉な予言をもたらしました。そののちに、今度は薬師のオロルとして王弟ベイギルスに取り入った。そうして十六年がかりで、カノン王子に絶望をもたらそうと画策したわけです」


「ふん。お前は包帯で顔を隠していたが、その虚ろな黒い瞳と聞き苦しい声は、いまでも脳裏に焼きついている。言い逃れはきかぬぞ、《まつろわぬ民》よ」


 クリスフィアも重ねて言いたてると、《まつろわぬ民》は金属的な笑い声をこぼした。


「くだらぬな……いまさらそのようなことを暴きたてて、何を得意になっておるのだ、貴様たちは……」


「それじゃあ……これが本当に、薬師のオロルなのか」


 レイフォンは、呆然とつぶやくことになった。

 レイフォンとて、何度かはオロルと対面している。しかし、あの陰気な老人とこの邪悪な存在を重ね合わせることなど、とうていできそうになかった。


「お前が薬師のオロルならば、話が早い。いっそのこと、お前も審問で裁きを受けたらどうだ? 前王殺しの大罪人として、その名を歴史に残せばよいではないか」


 挑発するようにクリスフィアが言いたてると、《まつろわぬ民》はまた不気味な笑い声を響かせた。


「愚かなる背信者どもよ……ささやかな満足感を胸に、魂を返すがよい……貴様らの生命は、我の手の上だ……」


《まつろわぬ民》の双眸が、黒い炎を噴きあげた。

 その瞬間、足もとの岩盤がみしりと軋む。


「おのれ!」と、ダリアスが突進した。

 聖剣が、白銀の閃光をほとばしらせる。その閃光が消えたとき、《まつろわぬ民》の生首が宙に飛んだ。


 頭部を失った肉体は、赤黒い鮮血を噴きこぼしながら、ぐしゃりと倒れ込む。

 そして――岩盤に落ちた生首は、目を剥きながら哄笑した。


「破滅せよ! 間もなく石の都は打ち砕かれ、大いなる神が再臨するのだ! 新しき世界に、貴様たちの居座る場所はない!」


 壁に、大きな亀裂が走った。

 岩盤を踏みしめた足もとからは、ゆるやかな鳴動が伝わってくる。

 こちらに駆け戻ってきたダリアスが、「撤退せよ!」と号令を発した!


「敵は排除した! 総員撤退だ! 鍾乳洞が、崩落するぞ!」


「そ、総員撤退せよ!」


 後方から、イリテウスの声が聞こえてくる。

 ダリアスはラナの肩を抱きながら、レイフォンたちを振り返ってきた。


「何をぐずぐずしているのだ! さっさと逃げなければ、押し潰されるぞ!」


「う、うん。だけど、あれはあのままでいいのかい?」


《まつろわぬ民》の生首は、いまもなお哄笑を響かせているのだ。

 ダリアスはちらりとそちらを見やってから、首を横に振った。


「聖剣は、すでにあやつの生命を絶っている。あれは……あやつの執念の残滓なのだろうよ」


 レイフォンは、背筋に冷水をあびせられたような心地であった。

 しかしその間にも、足もとの鳴動は大きくなってきている。左右の兵士たちも、青ざめた顔でレイフォンたちを見やっていた。


「わかった。とにかく、ここは撤退だね」


「うむ、撤退だ」


 言うが早いか、ダリアスは鍾乳洞を駆け出した。

 ティムトとともにそれを追おうとしたレイフォンは、最後に《まつろわぬ民》の遺骸を振り返る。地面に転がされた老人の生首は、哄笑を止めて何事かをつぶやいていた。


「火神の御子……我の作りし、神の子よ……どうか正しき道に立ち戻り、この穢れた世界を浄化の炎で清めたまえ……そのときこそ、あなたは新世界の神そのものとなるのです……」


《まつろわぬ民》は、穏やかに微笑んでいた。

 それはまるで、愛しき我が子に言葉を投げかけているかのような、慈愛にあふれた微笑であった。

 その無垢なる表情こそが、レイフォンを戦慄させてやまなかった。


(君たちは本当に、自分が正しいのだと心から信じているのだね)


 胸に渦巻く感傷をねじ伏せて、レイフォンはティムトの手を取った。


「さあ、それじゃあ撤退しようか」


 ティムトもまた、《まつろわぬ民》の遺骸を見据えていた。

 きっとティムトも、何らかの感情に胸をかき乱されていたのだろう。しかしティムトはそのような内心をさらすこともなく、ただ「はい」とうなずいた。


 鍾乳洞は、大神が寝返りを打ったかのような鳴動に包まれている。

 やがては岩の天井が崩れて、黒装束の痩せた老人の遺骸を呑み込んでいった。

 それが、西の王都に空前の災厄をもたらした、名も知れぬ《まつろわぬ民》の最後であった。

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