Ⅰ-Ⅵ 浄化の炎
2019.11/2 更新分 1/1
ナーニャとリヴェルとイフィウスは、セルヴァの軍の兵士にまぎれて、ひそかにメフィラ=ネロのもとを目指すことになった。
行く手には、氷雪の巨人のおぞましい姿が見える。その頭頂部に上半身を生やしたメフィラ=ネロは、狂ったような哄笑をあげながら、足もとの兵士たちを蹴散らしているようだった。
「ひどい有り様だね……セルヴァの軍には、いったいどれだけの被害が出てしまったんだろう……」
ナーニャが低くつぶやくと、案内役の兵士がいくぶん上ずった声で答えた。
「あの氷雪の巨人めは凄まじい怪力を有しているようですが、動きはずいぶんと鈍重であるようです。よって、あやつが手足を振り回すだけの存在であったなら、さしたる被害も出なかったかと思うのですが……」
「うん。だけどあの巨人は、氷雪の息吹を吐くからね……このように人間が密集していたら、それから逃げるのもひと苦労のはずだ……」
「……はい。すでに二個中隊の兵士は、その忌まわしき魔術の犠牲になっているかと思われます」
ナーニャが物問いたげな視線を送ると、イフィウスが濁った声でそれに答えた。
「いっごぢゅうだいは、びゃぐめいのへいじでごうぜいざれでいる。にごぢゅうだいならば、にびゃくめいだ」
「二百名か……僕が援軍を要請したりしなかったら、それほどの犠牲者が出ることもなかったわけだね……」
そんな風に言ってから、ナーニャは赤い唇を吊り上げた。
「だけど僕は、自分の行いを後悔したりはしないよ……この場に援軍を呼ばなかったら、それこそ四大王国の瓦解に一歩近づいていたはずなのだからね……悪いけれど、これは王国を守るために必要な犠牲だったんだ……」
案内役の兵士は薄気味悪そうにナーニャを見やってから、前方に向きなおった。
確かにナーニャは、悪い精霊のように妖しい微笑をたたえている。しかしリヴェルは、ナーニャが本心からそのように言いたてているとは思えなかった。
(ナーニャはきっと、そうやって自分を奮い立たせているんだ。二百名もの人間が、自分のせいで魂を返してしまったなんて考えていたら、絶望で胸をふさがれてしまうから……)
兵士をかきわけて前進しながら、リヴェルはナーニャの手をぎゅっと握りしめた。
ナーニャの指先は、火のように熱い。この夜だけでさまざまな魔術を発動させたナーニャの肉体は、もうとっくに限界を迎えているはずだった。
「下がれ! これ以上進むのは、危険だ!」
と、兵士の壁がリヴェルたちの前に立ちはだかった。
小隊長の房飾りをつけた見知らぬ男が、真っ青な顔でわめきたてている。
「あのような化け物を、火矢や刀などで退治できるはずがない! いったん砦まで撤退するのだ!」
「小隊長殿! 撤退の命令は、出されておりません!」
案内役を果たしていた兵士がそのように応じると、小隊長の男は死にかけた獣のようにそちらをにらみすえた。
「だったら、死にたいやつだけこの場に残ればいい! 我々は……あのような怪物に踏み潰されるために、王国に刀を捧げたのではない!」
「やれやれ……セルヴァの兵士たちの勇敢さには感服していたのだけれど、そろそろ限界が近いようだね……」
低くつぶやきながら、ナーニャは小隊長の前まで進み出た。
「でも、ここで撤退されては意味がないんだ……君たちがあの氷雪の巨人を相手取る必要はないけれど、なんとかこの場に踏みとどまっていただきたいものだね……」
「な、何だ、貴様は! そこをどけ! 我が隊は撤退する!」
「うるさいなあ……君ひとりが逃げる分にはかまわないけれど、他の人々に弱気を伝染されては迷惑だよ……」
深くかぶった頭巾の陰で、ナーニャの瞳が真紅に燃えていた。
それに気づいた小隊長が、鋼の刀を握りなおす。
「き、貴様は、まさか……妖魅の仲間か!?」
「小隊長殿! こちらは妖魅を退治するために参じた、魔術師です!」
案内役の兵士が、懸命な形相で言いつのった。
彼自身がナーニャをどう思っているかは不明であったが、兵士として上官の命令を遂行しなければならないと覚悟を固めているのだろう。
しかし、彼が放った「魔術師」の一言によって、いっそうの混乱が周囲に広がってしまっていた。
それに気づいたナーニャは、「ちぇっ」と悪戯小僧のように舌を鳴らす。
「こそこそと隠れるのも、ここが限界なようだね……まあいいや。メフィラ=ネロは、もう目の前だ……」
ナーニャの言う通り、氷雪の巨人の姿はもう目の前に迫っていた。
その足もとでは、別の妖魅を相手取った死闘が繰り広げられているのだろう。剣戟らしき硬い音色や、怒号のような鬨の声が大気を震わせている。
「だけど、僕の魔力をぶつけるには、まだ距離がありすぎる……イフィウス、メフィラ=ネロの足もとに到着するまで、援護をお願いできるかな……?」
イフィウスは答えず、ただ長剣を握りなおすことで了承の返事をしていた。
ナーニャは妖しい微笑とともにうなずき、案内役の兵士に向きなおる。
「案内役は、ここまででけっこうだよ……あとは、他の兵士たちが敗走を始めないように、なんとか取り計らってもらえるかな……なんだったら、炎を操る魔術師が氷雪の妖魅を退治しに出向いてきた、と吹聴してもいいからさ……」
「は……我々の援護は、必要ないのでしょうか?」
「君たちは、この場に留まってくれるだけで僕の魔術の助けになってくれるんだよ……だからくれぐれも、逃げ出したりはしないようにね……」
それだけ言い置いて、ナーニャは兵士たちの隙間をするりとかいくぐった。
ナーニャと手を繋いだリヴェルもそれに引っ張られ、イフィウスは後から追いかけてくる。
人垣の向こうでは、兵士たちが妖魅を相手に刀を振るっていた。
ナーニャたちの前にも何度か立ちはだかった、あの奇怪な四つ足の妖魅である。大きさは小柄な人間ていどで、枯れ木のように貧弱な体躯をしているが、牙や爪は刃物のように鋭く、敏捷性に秀でている。その細長い顔には、青い隻眼が爛々と燃えていた。
ナーニャがその真ん中を突っ切っていこうとすると、たちまち何体かの妖魅がこちらに向きなおってくる。
しかし、それらの妖魅が地を蹴ると、たちまちナーニャの掲げた松明から炎の竜が生まれいで、妖魅の肉体を一瞬で浄化させた。
その光景を目の当たりにした兵士たちが、おののきの声をあげる。
その声は、ナーニャを中心にして波紋のように広がっていき――そして、メフィラ=ネロがそれに気づいた。
「火神の御子! あんた……どうしてあんたが、こんな場所にいやがるんだよ!」
遥かなる頭上で、メフィラ=ネロが怨嗟の声をあげた。
「大神の民は、どうしたのさ! あんたはあの猿どもを、みんな焼き尽くしちまったってのかい!?」
「僕がそんな真似をするわけがないだろう。彼らこそが、大いなる神アムスホルンの正統な子供たちなのだからね」
ナーニャはこれまでの弱々しい姿が嘘のように、凛とした声をあげた。
それからナーニャが革の頭巾をはねのけると、周囲に散っていた兵士たちが驚きの声をあげる。ナーニャの妖しくも美しい姿は、なんの事情を知らない人間にとっても驚嘆に値するのだった。
「僕は、彼らを説得したんだよ。大神アムスホルンの目覚めは、まだ訪れていない。君たちは、偽りの御子に騙されてしまったんだ、とね。……そうしたら、それは悲しげな様子で立ち去っていったよ」
「ふざけんじゃないよ! あいつらが、あんたなんざの言うことを聞くもんか!」
「いいや。彼らはびっくりするぐらい、簡単に引き下がってくれたよ。僕やリヴェルがこうして無事な姿をさらしていることが、その証拠さ」
ナーニャのかたわらでその言葉を聞きながら、リヴェルは内心で首をひねることになった。
大神の民たちは、そんな簡単に引き下がったわけではない。ナーニャが自分の魂を糧として、炎の魔術を体現してみせたからこそ、彼らはようやく聞く耳を持ってくれたのだ。それほどの時間がかかったわけではないものの、代償はナーニャの魂であったのだから、決して簡単なはずがなかった。
(でもきっと、ナーニャには何か考えがあるんだろう)
リヴェルはそのように思い、唇を引き結んでいた。
その答えは、すぐにナーニャの口から語られた。
「きっと彼らも、君の言葉を疑っていたのだろう。君は神聖なる大神の御子なんかじゃない。忌まわしい外道の魔術で作られた、偽りの御子だ。本当に大神が蘇ったのなら、この世は希望と喜びに包まれるはずなのに、君は絶望と憎しみしかもたらさなかった。僕の言葉を聞くことによって、彼らの疑問は確信に変わったのだろうさ。だから、あれほどまでにあっさりと引き下がることになったんだ」
「やかましいよ! あんたなんざ、その『神の器』としても不完全な低能野郎じゃないか! あんたなんざに、偉そうな口を叩かれる覚えはないね!」
氷雪の巨人が大きく振り上げた足を大地に踏み下ろし、地震いのような衝撃をもたらした。
兵士たちは悲鳴をあげてうずくまりそうな様子であったが、ナーニャは冷たく笑っている。
「動揺しているね、メフィラ=ネロ。君は石の都の武器によって、大きく傷ついた。そして、大神の民を操ることもままならなくなった。それが『神の器』としての完全体だというのなら、ずいぶんお粗末なものじゃないか」
「やかましいって言ってるのが聞こえないのかい!? あたしはこの力で、王国のくそったれどもを滅ぼしてやるんだ!」
「いいや、無理だね。君はたったこれだけの軍勢すら、滅ぼせずにいるじゃないか。四大王国の全土には何十万という兵士がいるのに、数千ていどの軍勢に手こずるなんてお笑い種さ」
遥かな高みに存在するメフィラ=ネロの姿を見上げながら、ナーニャは酷薄に笑っていた。
地上の明かりも届かない闇の中で、メフィラ=ネロの三つの瞳が火のように燃えていることだけが見て取れる。
「僕もこれで、ようやく確信することができたよ。君だって、『神の器』としてはまだまだ不完全なんだ、メフィラ=ネロ」
「ふざけるんじゃないよ! あたしはあんたみたいに、甘っちょろくない! 魂の奥底から、この世界をぶっ潰してやろうと決めているんだからね!」
「そうじゃないよ。足りていないのは、君の覚悟じゃない。この大地に眠る魔力だよ」
そう言って、ナーニャは白い指先で大地を指し示した。
「大神アムスホルンは失った力を取り戻すために、長きの眠りについた。それを途中で起こそうとしたって、やっぱり意味なんかないんだ。君は大いなる神の一部なんかじゃない。神の名を騙る邪神そのものだ」
「知ったことかい! 大神なんざをありがたがってるのは、あの《まつろわぬ民》とかいう陰気臭い連中だろ! あたしはこの世界をぶっ潰すことさえできたら、それで十分なのさ!」
「だから、無理だよ。君は石の都の文明と、火神の怒りによって滅ぶんだ。闇に堕ちた邪神には相応しい末路だね」
そうしてナーニャは、リヴェルから受け取った松明を高々と掲げた。
「兵士たちよ、僕の前から下がるがいい! そして、僕がこの邪神と妖魅どもを滅ぼすさまを見届けるんだ!」
兵士たちはしばし呆然としていたが、やがて逃げるように後退していった。
その代わりに、氷雪の妖魅たちがナーニャとリヴェルに迫り寄ってくる。ナーニャは薄く笑いながら、さらに言った。
「イフィウスも、下がっていていいからね。僕の魔術の巻き添えにはなりたくないだろう?」
「……いいのだな?」
「うん。ここまで来れば、僕の勝利は揺るがないよ」
氷雪の何体かが、左右から飛びかかってきた。
松明から炎の濁流が生まれ、その忌まわしき存在を浄化する。
リヴェルにしてみれば決して見慣れることのできない恐ろしい光景であったが、それを見下ろすメフィラ=ネロは嘲りきった笑い声を響かせた。
「ちっぽけな炎だねえ! そんなもんで、本当にあたしとやりあおうってのかい!?」
「ああ。君を滅ぼすには、これで十分さ」
ナーニャに手を引かれて、リヴェルはその胸もとに取りすがることになった。
ナーニャの火のように熱い指先が、リヴェルの肩をそっと抱いてくる。
「さあ、決着をつけようじゃないか。この夜に滅ぶのは、僕か君か。こんな茶番は、さっさと終わらせてしまおう」
「ああ、そうだね……あんたを氷漬けにしちまったら、あのくそったれどもはたいそう残念がるだろうけど……あたしも、そろそろ我慢の限界だよ」
氷雪の巨人が、青白い輝きに包まれ始めた。
後方に下がった兵士たちが、恐怖の声をあげている。
「たとえあんたがくたばっちまっても、あたしはひとりでこのくそったれな世界をぶっ潰してやるよ! あんたは地の底で、指をくわえて眺めてるがいいさ!」
氷雪の巨人が、くわっと口を開いた。
その向こう側には、青白い輝きが渦を巻いている。それはまるで、大量の金属が煮えたぎっているかのような輝きであった。
「そう、それでいいんだよ、メフィラ=ネロ」
低い声で、ナーニャがつぶやいた。
リヴェルの肩を抱いた手にも、端麗な顔にも、赤い紋様が浮かびあがっている。そして、ナーニャの全身が火のように熱くなっていた。
「くたばれっ!」という雄叫びとともに、巨人の口から氷雪の魔力が放出される。
世界が、青と白に染まった。
しかしそれは次の瞬間、真紅と黄金のきらめきによってかき消された。
氷雪の魔力に倍する勢いで、紅蓮の炎が世界を染めあげている。
そしてそこに、数多くの人間の悲鳴が響きわたった。
半ば無意識に視線を巡らせたリヴェルは、愕然と息を呑む。
リヴェルたちの周囲には、数千から成るセルヴァの軍勢が控えており――その兵士たちの携えた松明から生まれ出た炎の濁流が、天でひとつに結合し、そしてメフィラ=ネロに襲いかかろうとしていたのである。
氷雪の巨人が吐き出した魔力は、瞬く間に呑み込まれていた。
そして氷雪の巨人そのものも、真紅の炎に包み込まれていく。
それはまるで、氷雪の巨人が炎の巨竜に巻きつかれているかのような姿であった。
炎の向こうから、メフィラ=ネロの絶叫が聞こえてくる。
その紫色の眼光も、いつしか炎の真紅に塗り潰されていた。
炎の向こうで、巨大な影が踊っている。
リヴェルたちの周囲を取り囲んでいた妖魅たちなどは、頭上を飛来した炎の余波で溶け崩れてしまっていた。
炎に包まれた黒い影は、やがてぐしゃりと地面に倒れ込む。
それでもなお、炎は竜巻のように渦を巻いている。
メフィラ=ネロの絶叫は、いつしか聞こえなくなっていた。
「……ここまでかな」というナーニャの声とともに、ふいに炎がかき消えた。
あれだけの炎が、一瞬で消え失せてしまったのだ。それもまた、この世ならざる光景であった。
ナーニャがぐらりと倒れかかったので、リヴェルは慌ててその身を支える。
ナーニャの頬に浮かんでいた紋様は消失し、その赤い瞳もいまにも光を消してしまいそうだった。
「大丈夫だよ……僕はまだ、人間だ……リヴェルが、僕を繋ぎ止めてくれたからね……」
「し、しっかりしてください、ナーニャ!」
「大丈夫だってば……それよりも、早く行かないと……」
「い、行くって、どこにですか? もう……すべては、終わったのでしょう?」
炎が消えた後に、氷雪の巨人の異形はなかった。
妖魅も、すべてが消え去っている。後に残されたのは、呆然とたたずむ兵士たちの姿ばかりであった。
しかしナーニャは、幼子のような顔でにこりと微笑む。
「もちろん、メフィラ=ネロのもとにだよ……彼女も魔力が尽きたみたいだけど……まだ魂は返していない。生命の残り火を、あの場所に感じるんだ」
そうしてナーニャは、力なく背後を振り返った。
思いも寄らぬほど近い場所に、イフィウスが立ちはだかっている。
「もう、後ろに下がってって言ったのに……君が炎に巻き込まれなかったのは、ただの幸運だよ、イフィウス……」
「……メヴィラ=ネロは、まだいぎでいるのが?」
「うん。魂を返す寸前だろうけれど、まだ生きているよ……やはり、炎で氷神の御子を仕留めるのは、なかなかに難しいみたいだね……」
リヴェルに肩を支えられたまま、ナーニャは弱々しく足を踏み出した。
「さあ、行こう……僕も力が尽きてしまったから、最後の始末はイフィウスにお願いするよ……」