Ⅰ-Ⅴ セルヴァの軍
2019.9/28 更新分 1/1 ・10/5 誤字を修正
闇の中で、死闘が繰り広げられていた。
メフィラ=ネロが率いる氷雪の妖魅たちと、数千から成るセルヴァの軍勢による、凄絶な死闘である。
リヴェルたちはメフィラ=ネロの目を警戒しながらセルヴァ軍に近づこうとしているさなかであったので、それがどのような戦いであったのかをつぶさに見て取ることはできなかったが――それでも、闇に渦巻く青白い氷雪と、真紅の炎の凄まじさが、その戦いの激しさを如実にあらわしていた。
「氷雪の妖魅には炎と鋼の武器が有効だ、とセルヴァの軍には伝えてあるからね……グワラムに陣取ったマヒュドラ軍と同じぐらいには、氷雪の妖魅を相手取ることができるんじゃないかな……」
イフィウスに背負われたナーニャは、低い声でそのようにつぶやいていた。
二本の松明を携えたリヴェルは、自分とイフィウスの足もとを照らしながら、懸命に駆けている。ずっと走り通しなので、肺や心臓が破れてしまいそうなほど痛かったが、弱音を吐いているいとまはなかった。
「だけど、投石機か……さすがにそれは、気づかなかったな……まあ彼らにしてみれば、手持ちでもっとも強力な武器を運んできただけなのだろうけれど……これは運命神のはからいと思いたいところだね……」
「と、投石機が、どうかしたのですか?」
ぜいぜいと喘ぎながらリヴェルが尋ねると、ナーニャは「うん……」と無邪気に微笑んだ。
「四大精霊の理は、王国においても別の形で伝わっているはずだよね……? 水は火に強く、火は風に強く、風は土に強く、土は水に強い……氷雪は水に属する存在だから、もともと土の属性に弱いんだよ……新たな文明の利器であり、しかも土の属性である岩石を使った投石機というやつは、メフィラ=ネロに大きな痛手を与えたはずだ……だからメフィラ=ネロも、我を忘れてセルヴァ軍に襲いかかることになったんだろう……」
「それじゃあ……メフィラ=ネロに対して、炎の攻撃というのは……効果が薄い、ということなのですか?」
「うん、そうさ……でも、王国の文明に風や土に属する武器なんてないだろうと思っていたから、火が有効だと告げるしかなかったんだよね……火というのは戦いを司る存在でもあるから、たいていの妖魅には有効だしさ……」
そう言って、ナーニャはいっそうあどけなく口もとをほころばせた。
「ああ、リヴェルは僕のことを心配してくれていたんだね……火神の御子である僕が氷神の御子であるメフィラ=ネロに勝つのは難しいんじゃないかって……うん、相手が風神の御子だったら、僕ももうちょっと楽をできたんだと思うよ……でも、こればかりは誰に文句を言うこともできないさ……どんな不利な条件でも、僕は必ずメフィラ=ネロを倒してみせるよ……」
そのとき、イフィウスがいきなり左手でつかんでいた松明を振り回した。
つんのめるようにして立ち止まったリヴェルは慌ててイフィウスのほうを振り返り、息を呑む。イフィウスの手にした松明には、その中ほどに一本の矢が突き立てられていた。
「止まれ! 貴様たちも、妖魅の手先か!?」
遥かな遠方から、男の声が聞こえてくる。
気づけばリヴェルたちは、声が届くぐらいの距離にまでセルヴァ軍の陣に近づいていたのだった。
「さあ、頼んだよ、イフィウス……僕やリヴェルでは、彼らを説得することはできそうにない……こればかりは、君の力が頼りなんだ……」
イフィウスの肩に頬をうずめながら、ナーニャはくすくすと笑った。
イフィウスはその身体を地面に下ろしつつ、松明を頭上に振りかざす。ふらふらと倒れかかるナーニャの身体は、リヴェルが支えることになった。
「わだじはおうどのぐん、だいいぢえんぜいべいだんじょぞぐ、イブィウズである! おなじゼルヴァのどうぼうどじで、ばなじをぎいでいだだぎだい!」
「なに? なにをわめいているのだ、貴様は!」
ひゅんひゅんと、矢が空気を引き裂く音色が響いた。
抜刀したイフィウスは、それを難なく弾き返してから、ナーニャを振り返った。
「わだじは、ごどばがぶじゆうだ。ごれではぜっどぐもむずがじい」
「ふふ。なかなか、ままならないものだね。……リヴェル、イフィウスの力になってくれないか? 僕は大声を張り上げる力が残されていないのでね……」
「は、はい! ……で、でも、わたしにもさきほどの言葉は聞き取れなかったのですが……」
「王都の軍、第一遠征兵団所属、と言ったんじゃないのかな。あと、イフィウスの役職はなんだったっけ?」
「……わだじは、だんぢょうにじでじゅうにじじじょうであるルデンげんずいのぶぐがんをづどめでいた」
「十二獅子将であるルデン元帥の副官、ね。それで、これまではグワラムでマヒュドラ軍の捕虜となっていた、というところまで説明してあげておくれよ、リヴェル」
「は、はい! 承知しました!」
リヴェルは自分が語るべき言葉を頭の中で整理してから、おもいきり息を吸い込んだ。
「こ、この御方は王都の軍の第一遠征兵団所属、十二獅子将ルデン元帥の副官であられた、イフィウス様です! い、いままではグワラムでマヒュドラ軍の捕虜となっていましたが、氷雪の妖魅を退けるために解放されたのです!」
そこまで言い切ってから、リヴェルは激しく咳き込むことになってしまった。冷たい夜気が肺に入るだけで、ずきずきと胸が痛むような状態であったのだ。
しばらくの沈黙ののち、警戒心に満ちみちた男の声が返ってきた。
「貴様は、何者だ! どうして幼い娘などが、そのような御方と同行しているのだ!」
「わ、わたしはリヴェルと申します! わたしは……その、イフィウス様と同じように、マヒュドラ軍の虜囚となっていたのです! 決してセルヴァに仇なす存在ではありません!」
また重々しい静寂がたちこめる。
しかししばらくして、セルヴァ軍の陣からいくつかの松明がこちらに近づいてくるのが見えた。
「やったね、リヴェル……大活躍じゃないか……」
「い、いえ、そんな……わたしは言われた通りの言葉を伝えただけですし……」
「きっとリヴェルの声に誠実な人柄がにじみ出ていたから、彼らにも真意が伝わったんだよ……さあ、それじゃあ僕たちは、この目立つ髪や瞳を外套で隠すことにしようか……」
ナーニャに言われて、リヴェルは慌てて外套の頭巾をかぶりなおした。白膚症のナーニャはまだしも、北の民の特性を表すリヴェルの外見は、セルヴァの兵士たちにいらぬ懸念を与えてしまうはずだった。
「イフィウス殿……本当に、イフィウス殿であられるのか?」
五名ばかりの兵士がリヴェルたちの前に立ち並び、そのうちのひとりがそのように発言した。
イフィウスは長剣を鞘に収めながら、「うむ」とうなずく。
「いがにも、イブィウズである。ぎでんは……なはじづねんじでじまっだが、ダベズドのじょうだいぢょうであっだな……」
「ああ、そのお姿とお声は、まぎれもなくイフィウス殿だ! よもや、ご存命であったとは……このような場でイフィウス殿と再会できるなどとは、考えてもおりませんでした!」
兜の天辺に房飾りをつけたその男は、歓喜をあらわにして敬礼をした。
他の兵士たちは、うろんげな面持ちでナーニャとリヴェルの姿を見比べている。
「我々はグワラムからの通達を受け、この場に参じることになりました! 現在、氷雪の妖魅どもと交戦中であります!」
「それは見ればわかるけどね……でも、君たちが駆けつけてくれたことを、心からありがたく思っているよ……」
と、リヴェルに支えられたナーニャが、笑いを含んだ声をあげた。
小隊長であるという男は、眉をひそめてそちらを振り返る。
「この者たちは、何者でありましょうか? イフィウス殿のお連れにしては、不相応ないでたちをしているようですが……」
「あまり詳しい話をしている時間はないのだけれどね……僕はあの、氷雪の御子たるメフィラ=ネロと敵対する、ナーニャという者だよ……セルヴァの砦に援軍を要請するというのも、僕の考案であったのさ……」
「では、其方たちはマヒュドラ軍の手のものか?」
周りの兵士たちも、いっせいに気色ばんだ。
ナーニャは、「いや……」と首を振る。
「グワラムに駐屯しているマヒュドラ軍の人々も、それは強く否定することだろう……僕はね、禁忌の技を操る魔術師なんだよ……」
「……魔術師だと?」
「ああ、そうさ……だけど僕は、四大王国の安寧が続くことを祈っている……だから、あのメフィラ=ネロと敵対することに決めたんだよ……」
頭巾で人相を隠したナーニャは、その陰で赤い唇を妖しく吊り上げた。
「メフィラ=ネロを始めとする氷雪の妖魅に、鋼と炎が有効だと教えたのも、僕だ……僕には強大な魔術を駆使して、メフィラ=ネロを滅ぼす力がある……王国の民にとっては、魔術師なんていうのは不浄きわまりない存在だろうけれど……ここはいったん手を携えて、メフィラ=ネロの討伐に取り組んでもらえないものかな……?」
小隊長の男は、惑乱しきった様子でイフィウスに向きなおった。
「イ、イフィウス殿。この者の言うことは、真実であるのでしょうか?」
「おおむね、じんじづだ……わだじもあのおぞまじぎがいぶづをうぢだおずだめ、ナーニャとでをだずざえでいる……」
イフィウスは、冷たく光る瞳でナーニャを見下ろした。
「わだじもむじょうげんで、ごのナーニャのぞんざいをうげいれだわげではないが……このナーニャがいのぢをがげでようみどもをうぢだおぞうどじでいるごどは、まぎれもないじんじづである……まずは、あのゆるされざるばげものどもをうぢだおずごどをがんがえるべぎであろう……」
「……承知しました。では、上の者にはわたしからそのように報告いたしましょう」
すると、無言でたたずんでいた兵士のひとりが、いくぶん上ずった声をあげた。
「し、しかし、あのような怪物を討ち倒す手段など存在するのでしょうか? あのおぞましき巨人めには、火矢も何も通用しないのですよ?」
「僕の魔術なら、なんとかなるさ……ああ、上官殿には、このように伝えてもらおうかな……僕は、炎を操る魔術師だ……これからとんでもない騒ぎが巻き起こるだろうけれど、それはすべてメフィラ=ネロを討ち倒すための魔術なのだから……何も恐れる必要はない、と伝えておくれよ……」
小隊長はイフィウスがうなずくのを確認してから、きびすを返した。
「では、そのように伝えましょう。我々は、何を為せばよいのです?」
「僕たちを、メフィラ=ネロのもとまで導いてくれればいいよ……それで、万事は解決さ……」
そうしてリヴェルたちは、セルヴァ軍の陣中に招かれることになった。
その間も、メフィラ=ネロは闇の中で哄笑をあげている。そちらにはしきりに火矢が射かけられていたが、メフィラ=ネロに痛痒を与えているようには思えなかった。
「だ、大丈夫なのですか、ナーニャ? ナーニャはこれほどに力を失ってしまっているのに……」
兵士たちの案内で闇の中を歩きながら、リヴェルはそっと囁きかける。
リヴェルの腕に支えられつつ、ナーニャは不敵に微笑んでいた。
「大丈夫さ……五分であった勝ち筋が、八分に上がったと言ったろう……? 僕も多少は魂を削られてしまうかもしれないけれど……この場でメフィラ=ネロを灰にしてみせるよ……」
そうして同じ表情のまま、ナーニャはふっとやわらかい眼差しとなった。
「そして僕は、どれだけ魂を削られようとも、絶対に人間であることをあきらめない……そのための、リヴェルなんだからね……どうか僕を離さないでおくれよ、リヴェル……」
「はい。決して離しません」
なんの力も持たないリヴェルであるが、その呼びかけにだけは強い気持ちで答えることができた。
炎と氷雪の吹き荒れる夜の中で、いよいよ決着の刻は間近に迫っているようだった。