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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
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Ⅲ-Ⅳ 吉報

2019.9/7 更新分 1/1

 窓の外からうっすらと聞こえてくる鐘の音色で、レイフォンは長い微睡みから目覚めることになった。

 鐘の音は四回であったので、下りの四の刻ということであろう。痛み止めの薬を飲んで、しばし身を休めようと思っただけなのに、ずいぶんと長い時間を怠惰に過ごしてしまったようだった。


 おそるおそる身体を動かすと、腰と左膝がじくりと痛む。しかし、朝方に比べればずいぶんと痛みもやわらいできたようだ。

 薬の効果でまだ少しぼんやりとしている頭を振りつつ、レイフォンは寝所を出た。


「やあ、ティムトはまだゼラ殿と語らっていたのか。ずいぶん熱心なことだね」


 寝所の外は、執務室である。大きな卓をはさんでゼラと向かい合っていたティムトは、振り向きざまに冷ややかな視線を送ってきた。


「僕たちは、王国の存亡を左右する騒動の只中に放り込まれています。いま熱心にならなければ、いつ熱心になればよいのでしょう?」


「私の軽口にいちいち噛みつくことはないじゃないか。……まだ昨日のことで、私に腹を立てているのかい?」


「レイフォン様の軽率な振る舞いにいちいち腹を立てていたら、身がもちません」


 ティムトはぷいっと、そっぽを向いてしまう。そういうティムトらしからぬ幼子めいた仕草が、その内心を如実に表していた。

 レイフォンが身を呈してティムトを庇ったことを、この意固地な少年はまだ根に持っているのだ。しかし、その年齢には不相応なぐらい聡明であるティムトが子供っぽい一面を見せるのは、レイフォンにとって心地好くなくもなかった。


「ぐっすり休ませてもらったおかげで、私もずいぶん回復することができたよ。さて、目覚めの茶でもいれようかな」


「足を引きずりながら、何を言っているのです。レイフォン様は、大人しくしていてください」


「茶をいれるぐらいは運動にもならないさ。おふたりも、ラマムの茶でいいかな?」


 ティムトはいまにも頬のひとつでも膨らませそうな様子で、黙りこくっている。その代わりに、ゼラが「恐縮でございます……」とうなずいてくれた。


 その声の響きに、レイフォンは「おや?」と思う。

 昨晩から、ゼラはずいぶん人間がましい落ち着きを取り戻していたのに、また少し陰気な雰囲気が戻ってきたように感じられたのである。


 レイフォンが茶の準備を始めても、ふたりは口を開こうとしない。

 細かく刻んで乾燥させられたラマムの皮を茶漉しに投じつつ、レイフォンは探りを入れてみることにした。


「私が眠りこけている間に、下りの四の刻を過ぎてしまったようだね。もうひと通りの説明は終えたのかな?」


「ええ。半日では、必要最低限のお話しかお伝えすることはできませんでしたが」


「そうか。ゼラ殿も、色々と驚かされたことだろうね」


 ゼラは「はい……」としか答えなかった。

 とうてい心の弾むような話ではなかったろうが、それにしてもずいぶん打ち沈んでいるようである。レイフォンは小首を傾げつつ、陶磁の杯に三名分の茶を注いだ。


「それで、ゼラ殿は――」


 と、レイフォンが杯をのせた盆を持ち上げようとすると、それを横からかっさらわれた。いつの間にか、ティムトが死角に潜んでいたのだ。


「ああ、ありがとう。ティムトは、気がきくね」


「……茶をこぼしてしまったら、苦労するのは掃除をする小姓たちですからね」


 とげのある声で言いながら、ティムトはさっさと長椅子に戻ってしまった。

 レイフォンは苦笑を噛み殺しつつそれを追いかけて、ティムトの隣に腰を下ろす。


「それで、ゼラ殿はどのように思われたのかな?」


「はい……実に驚くべき話でございました……まさか、これほどまでに根の深い陰謀が張り巡らされていたなどとは……俗人たるわたくしには想像もつかぬことです……」


「でも、カノン王子の無実が晴らされるなら、それは何よりのことだよね」


 カノン王子も、陰謀の犠牲者である。そしてティムトの見込みが正しければ、カノン王子は生存している。そうであるからこそ、ゼラも昨晩は安堵の涙をこぼすことになったのだ。

 しかしゼラは、暗く陰った眼差しで、卓の上に広げられた『禁忌の歴史書』をじっと見つめていた。


「どうしたんだい? まだ確証が得られたわけではないけれど、カノン王子は生存している可能性が高いという話であるのだよ。それは寿ぐべき話だろう?」


「そう……なのでしょうか……」と、ゼラは言葉を詰まらせた。

 困惑しながらティムトを振り返ると、そこには実に冷ややかなる視線が待ち受けていた。


「カノン王子はおそらく、四大王国を滅ぼすために編み出された《神の器》という呪いをかけられています。カノン王子の身を思いやる方々にしてみれば、とうていそれを寿ぐ気にはなれないでしょうね」


「ああ、うん。だけど、カノン王子はその呪いにあらがうために、王都を出奔したのだろう? グワラムにおいて、同じ呪いをかけられた人間を撃退したというのなら、王子が正しい心を持っているという証になるじゃないか」


「王子がどれだけ善良な人間であったとしても、呪いが解けるわけではありません。むしろ、王子が善良であればあるほど、我が身の呪いに苦しめられることになるでしょう。ゼラ殿は、それを懸念しておられるのです」


 レイフォンには、いまひとつ理解し難い話であった。

 ティムトは同じ目つきのまま、淡々と言葉を重ねていく。


「《神の器》に成り果ててしまったカノン王子は、凄まじい力を持つことになってしまいました。銀獅子宮を燃やし尽くすほどの、それは恐ろしい力です。レイフォン様は、それを羨ましいとお思いですか?」


「もちろん、そのようなものを羨ましいと思えるわけがないけれど……どれだけ恐ろしい力を持っていても、使わなければ害にはならないだろう?」


「では、どうして銀獅子宮は燃えることになったのです? 銀獅子宮には前王や王太子のみならず、数多くの貴き方々が眠っておられたのですよ? カノン王子が、ご自分の意思でそれを燃やし尽くしたとお思いなのですか?」


 今度は、レイフォンが黙る番であった。

 ティムトの瞳には、冷ややかさばかりでなく鋭さまでもが浮かべられていく。


「もともと魔術師でもなかったカノン王子が、そのような力を容易く制御できるとは思えません。そして、カノン王子が王国に対して強い怒りを持っていたことも事実です。そうでなければ、銀獅子宮が燃えることにはならなかったはずなのですからね」


「ああ、うん。それはそうなのかもしれないけれど……」


「そして、たとえ自分の意思でなかろうとも、銀獅子宮を焼き尽くしたのはカノン王子の魔術です。大勢の人間が魂を返すことになったあの災厄の罪から免れることはできません」


 ティムトの言葉に、ゼラは無言で頭を抱え込んでしまった。

 このために、ゼラはまた激しい後悔を抱え込むことになってしまったのだ。

 そして、ティムトも然りである。


(そうか。ティムトはティムトで、カノン王子に強く同情しているのだな。ティムトは前々からカノン王子の境遇に心を痛めていたのだから、それも当然だ)


 つまり、ティムトがこのように怖い目つきをしているのは、カノン王子にそのような運命をもたらした《まつろわぬ民》への怒りゆえであったのだ。

 レイフォンは、ことさらゆっくりとラマムの茶をすすりながら、考えをまとめることにした。


「ひとつ、言わせてもらおうかな。カノン王子は、王国に強い怒りを抱いていたのだろうか?」


 レイフォンの言葉に、ティムトは「はい?」と眉をひそめた。


「いきなり何を言っておられるのですか? そうでなければ、カノン王子が《神の器》として覚醒することはなかったはずです」


「そうだっけ? 私もいちおうその呪いについては説明してもらった覚えがあるけれども、『怒り』という言葉ではなかったように思うのだよね」


 ティムトはいささか荒っぽい手つきで『禁忌の歴史書』の頁を繰ると、そこに記されていた文章の一部を指し示した。


「正確な文言をお知りになりたいのでしたら、こちらをご覧ください。《神の器》の覚醒に必要であるのは、この世界に対する憎悪と絶望です」


「なるほど。ティムトは憎悪を怒りに言い換えたわけか。それはそれで間違った解釈ではないのだろうけれども……より重要なのは、後者のほうなのではないかな」


「絶望ですか。憎悪と絶望に、なんの違いがあるというのです?」


「全然違うよ。憎悪というのはティムトも持ち出した通り、怒りに属する感情であるのだろう。でも、絶望というのは、むしろ嘆きや悲しみに属する感情なのではないかな」


 考え考え、レイフォンはそのように語ってみせた。


「カノン王子はあの夜に、銀獅子宮で《神の器》として覚醒することになった。それは、何故だろう?」


「それを正しく知る人間は存在しませんが、推測することは容易です。十六年ぶりに幽閉から解かれたカノン王子は、その瞬間に父殺しの汚名をかぶせられることになったのです。深い憎悪と絶望にとらわれて当然でしょう」


「うん。おそらくカノン王子はヴァルダヌスとともに、意気揚々と前王の寝所に向かったのだろうね。前王が和解を望んでいるだとか何だとか、そんな言葉に誑かされることになったのかな。それでもって、いざ寝所に到着してみると、前王は何者かによって殺められており、カノン王子にその罪がかぶせられることになった――と、ティムトはそんな風に推測しているのだよね?」


「ええ。生き残った衛兵の証言から推測すると、それが妥当だと思われます」


「なるほど。カノン王子はようやく自由になれるかもしれないという希望と喜びを、無残に打ち砕かれることになったわけだ。そのときに芽生える感情は、憎悪よりも絶望のほうが相応しいんじゃないだろうか?」


 ティムトはいくぶん困惑した様子で身を引いた。


「そのようなことは、本人にしかわかりません。……レイフォン様は、いったい何を仰りたいのですか?」


「うん。カノン王子が憎悪にとらわれていたのなら、銀獅子宮を脱出した後にもそれが解消される機会はなかったように思うのだよね。だって、カノン王子を誑かした何者かは、のうのうと生きのびているんだからさ。そいつを始末するまで、怒りが収まることはないんじゃないのかな」


 気づくと、ゼラも面をあげて、レイフォンの姿を一心に見つめていた。

 レイフォンは、そちらにゆったりと笑いかけてみせる。


「だけど、カノン王子が絶望にとらわれていたのなら、それが解消される機会はあったのかもしれない。たとえば……ヴァルダヌスも生き残ることができて、その喜びを分かち合うことができた、とかさ。それで、帰る故郷はなくしてしまったけれど、ヴァルダヌスとふたりでひっそりと生きていくことができれば、それで幸せだ――とでも思い直したのなら、絶望から解放されることもありえるのではないかなあ」


「ですが、カノン王子はグワラムに身を寄せているかと思われます。西の王国を憎悪していないのなら、どうしてマヒュドラに占拠されたグワラムに身を寄せることになるのです?」


「それはわからないけれど、カノン王子は同じ《神の器》である相手――ええと、《氷神の御子》だっけ? その《氷神の御子》というやつを撃退したという話なのだろう? それなら少なくとも、四大王国の滅亡は願っていないということになるじゃないか」


 レイフォンは笑顔のまま、ティムトとゼラの姿を見比べた。


「カノン王子が北方神に神を移してしまったのなら、それは残念な話だけれども……でも、どのみち西の王国では、カノン王子も大罪人だ。銀獅子宮を燃やし尽くしてしまった罪は、なかなか晴れないだろうからね。だったら、カノン王子がマヒュドラで健やかに生きていくことを願うべきなんじゃないだろうか」


「しかしマヒュドラは、セルヴァの仇敵なのですよ?」


「でも、同じ四大王国の民じゃないか。カノン王子が《まつろわぬ民》を敵と考えているなら、大きいくくりでは同志と言えるのじゃないかな」


「なるほど……」とうめいたのは、ゼラであった。


「確かに、カノン王子が《氷神の御子》を撃退したというのなら……王子のお心は、人間のままであるのでしょう……人間としてのお心を備えたまま、《神の器》として存在するのは、たとえようもない苦しみであるのでしょうが……」


「うん。それでも王子は人間として、《氷神の御子》を撃退した。私たちはカノン王子の境遇を嘆き悲しむのではなく、その強靭さと清廉さを讃えるべきなんじゃないかな」


 ゼラは再び、うつむいた。

 また感涙したのかと思ったが、そのようなことはなかった。ただ、その小さな手が長衣の裾をぎゅっとつかんでいる。


「わたくしは、愚かでありました……それほどの苦渋にまみれた生であったのなら、いっそのこと魂を返していたほうが楽だったのではないかと……そのように考えてしまっていたのです……」


「うん。それを決めるのは、カノン王子だろうね。この世が生きるに値しないと考えたのなら、カノン王子は潔く自害されていたのじゃないかな」


「……わたくしのように卑小な人間が、カノン王子のお心をはかることなどはかなわないのでしょう……」


 くぐもった声で言いながら、ゼラは顔を上げた。

 その瞳には、わずかに涙がためられている。しかし、その厳つい岩のような顔にたたえられているのは、思いがけないほど、あどけない表情であった。


「そもそもゼラ殿が、そこまで深く責任を感じる必要はないと思うよ。悪いのは、謀略を仕掛けた《まつろわぬ民》なのだからさ。ティムトも、そう思うだろう?」


「はい。《まつろわぬ民》は、長きの時間をかけてこの陰謀を張り巡らせていたのです。カノン王子も、ヴァルダヌス将軍も、アイリア姫も、ゼラ殿も、バウファ神官長も、ロネック将軍も……前王や王太子たちまでもが、その陰謀の糸から免れることはかないませんでした。誑かされてしまった人間の全員に責任があり、そして、全員が被害者であるのでしょう」


 あえて感情を殺しているような声で、ティムトはそう言った。


「そもそもこの陰謀は、カノン王子がお生まれになる前から張り巡らされていたはずです。カノン王子がエイラの神殿に幽閉されたのも、王子の心に憎悪と絶望を植えつけるための策謀だったのでしょうからね」


「十六年前から続く陰謀だなんて、気が遠くなってしまうね。ええと、たしか前王は、占星師か何かの託宣に従って、カノン王子を幽閉することになったのだったっけ?」


「ええ。その件に関しては、ゼラ殿が詳しい話をお知りでした」


 ティムトに目を向けられて、ゼラは「はい……」とうなずいた。


「わたくしも、風聞を耳にしたばかりでございますが……そのシムから訪れた占星師は、これから生まれる第四王子が王国を滅ぼすという託宣を下したそうです……その災厄を退けるには、第四王子を神殿の地下に封印する他ない、と……」


「ふむ。いにしえの術や習わしを忌避されていた前王が、どうしてそのような託宣に誑かされてしまったのだろうね」


「それには、ふたつの理由があると聞いております……ひとつは、王子がお生まれになる前から、その特異なお姿を予見していたということ……それがどういう特異なお姿であったのかは、わたくしもこれまで聞き及んでいなかったのですが……」


「ああ、カノン王子は白膚症である上に半陰陽であるという話であったからね。それを言い当てられたら、誑かされてしまうのもしかたないか。……でも、どうしてその占星師は、そんな話を言い当てることができたのだろう?」


 レイフォンの疑問に答えたのは、ゼラではなくティムトであった。


「本当に力を持つ占星師であれば、それぐらいのことを予見するのは難しくないのでしょう。シムの占星というのも、もとを質せば魔術なのですからね」


「なるほど。では、ふたつ目の理由というのは?」


「はい……災厄の権化たる第四王子は、まず最初に母親の魂を奪ってしまうだろうと託宣が下され……それもまた、的中してしまったのだと聞きます……」


「ああ、王妃殿下はカノン王子を産み落としてすぐに身罷られてしまったのだよね。そんな不吉な行く末まで言い当てられてしまったのか」


「そちらに関しては、現実を託宣に寄せたという可能性もありますけれどね」


 ティムトの素っ気ない言葉に、レイフォンはぎょっとしてしまった。


「おいおい。まさかその占星師が、王妃殿下を殺めたとでもいうつもりかい?」


「シムの人間なら、毒草の扱いもお手のものでしょう。産後で弱った御方を病死に見せかけて毒殺することも難しくはないかと思います。……いずれにせよ、前王は占星師の託宣を信じざるを得ない状況に追い込まれてしまったわけです」


 そしてティムトは、ゼラのほうに鋭い視線を差し向けた。


「ところで、さきほどは聞きそびれてしまいましたが、その占星師というのは何者であり、いつから宮廷に居座っていたのでしょう? 前王はいにしえの術や習わしを忌避していたので、占星師などの出入りは許されていなかったはずです」


「さ……たしか、エイラの神殿長の縁故で、『賢者の塔』への出入りを許された占星師であったかと思いますが……わたくしも、詳しくは存じません」


「エイラの神殿長ですか。カノン王子が幽閉されたのはエイラの神殿ですし、その人物は数年前に流行り病で魂を返されています。十中八九、その人物も《まつろわぬ民》に誑かされていたのでしょうね」


 ティムトは、いっそう鋭く瞳を光らせる。


「それで、カノン王子がお生まれになられた後、その占星師はどうなったのでしょう?」


「さ……逆上した前王に処断されたのか、あるいは王都を追放されたのか……どちらにせよ、すみやかに宮廷から姿を消したのだと聞いております……」


「ゼラ殿は、その占星師と顔をあわせたことはないのですよね?」


「はい……ひどく年老いた、シムの占星師であったと聞いておりますが……」


「そうですか」と、ティムトは長椅子に座りなおした。


「もしかしたら、その人物こそが《まつろわぬ民》なのではないかと思ったのですが、十六年も前に姿を消しているのでは、詮索する甲斐もありませんね」


「え? 《まつろわぬ民》というのは、シムの民なのかい?」


「そうとは限りませんよ。シムの民に化けるというのは、それほど難しくありません。顔や手の先を黒く塗って、頭巾を深々とかぶってしまえば、そうそう見抜かれることもないでしょう」


「いやあ、だけどシムの民というのはみんな痩せていて、背が高いじゃないか。普通の西の民が肌を黒くしただけじゃあ、すぐに見抜かれてしまいそうなところだね」


「老人というのはたいてい痩身ですし、老人らしく腰でも屈めれば背丈も気になりません。……どのみち、ひとつの推測に過ぎないのですから、論じるには値しませんよ。《まつろわぬ民》が本当にシムの民であるという可能性だってあるのですからね」


 そのとき、ゼラが「あ……」と声をあげた。


「ひとつ……思い出したことがございます……このようなことを言いたてても、さして意味はないのでしょうが……」


「何でしょう? よければ、お聞かせください。《まつろわぬ民》に関わる話であれば、無駄になることはないでしょう」


「はい……ティムト殿のお言葉で思い出したのですが……その御方は、確かにいつも深く腰を曲げて、杖をついていたのだと聞きます……バウファ様が、そのように仰っていました……」


「ああ、バウファ神官長はその占星師とお会いしていたのですね」


「ええ……それで、もう一点……その占星師は、口もとに大きな特徴があったのだという話でした……」


「口もと?」と、レイフォンとティムトは同時に反問した。

 ゼラは「はい……」と、記憶をまさぐるように視線をさまよわせる。


「その占星師は頭巾を深くかぶっており、腰を深く曲げているために、ほとんど顔を見る機会もなかったそうですが……ただひとたび、何かの弾みで顔を拝見したとき……その口から、牙のごとき鋭い歯が垣間見えた、と……」


「牙のごとき鋭い歯、ですか。いわゆる、鮫歯というやつでしょうかね」


「おそらく、そうなのでしょう……今さら取り沙汰しても、詮無きことでしょうが……」


「わかりませんよ。その占星師が《まつろわぬ民》であるとしたら、現在も生き永らえている公算が高いです。そうそう僕たちが相まみえる機会はないでしょうが、ひとつの手がかりには成り得ます」


「では、クリスフィア姫たちにも周知しないとね。鮫歯の老人を見かけたら要注意、だ」


 そんな風に言ってから、レイフォンは大きくのびをした。


「そういえば、そろそろ日が傾く頃合いであるというのに、今日はティムトとゼラ殿の顔しか拝見していないな。クリスフィア姫たちはどのように過ごしているのだろう?」


「さあ。昼前にひとたびいらっしゃいましたが、レイフォン様が眠りこけていたので早々にお帰りになられましたよ」


「そうだったのか。それじゃあ、晩餐にでも誘うとしようかな。もちろん、メルセウス殿やジェイ=シンたちもね」


 レイフォンは腰が痛まぬように気をつけつつ、長椅子から立ち上がった。


「その前に、もう一杯ぐらいは茶を楽しんでおこう。ティムト、悪いけれどまた盆を運んでくれるかな?」


「ええ」と言葉少なく応じて、ティムトは空になった杯を盆にのせた。

 そうしてレイフォンとともにゼラから遠ざかると、すかさず小声で囁きかけてくる。


「レイフォン様は、ずっとそのように考えておられたのですか?」


「え? 何の話だい?」


「カノン王子についてです。カノン王子は絶望を乗り越えて、人間らしく生きようとしていると……レイフォン様は、そのように考えておられたのですか?」


 レイフォンは「いや」と笑ってみせた。


「それは、さっきあの場で考えて行きついた結論さ。ティムトもゼラ殿もカノン王子の境遇にずいぶん心を痛めている様子だったから、なんとか前向きな意見を述べたくなってしまってね」


「そうですか」と、ティムトは口をとがらせた。

 まごうことなき、幼子のような仕草である。


「そんな思いつきの弁で僕を言いくるめることができて、さぞかしご満足でしょうね」


「ええ? どうしてそういう話になるのさ? 私はただ、ティムトたちの気持ちを和ませたかっただけなのに」


 ティムトはぶすっとした顔で、何も答えようとしなかった。

 レイフォンとしては、不本意でないこともなかったが――しかし、ティムトがこういう姿を見せるのは貴重なことであったので、さしあたっては前向きにとらえることにした。


(こんな陰謀劇にはとっとと決着をつけて、またティムトとどこかに旅行にでも行きたいものだな。バルドの内海にでも出向いて、のんびりと船に揺られるとか……まあ、それでもティムトは読書ざんまいなんだろうけど)


 レイフォンがそのように考えたとき、執務室の扉が荒っぽく叩かれた。

 そしてこちらが返事をするより早く、不作法に扉が開かれる。そこから姿を現したのは、白い顔を興奮に火照らせたクリスフィアであった。


「おお、レイフォン殿も目覚めておられたか! 取り急ぎ、謁見の間にお越しいただきたい!」


「おやおや、いったいどうしたのかな? ずいぶん興奮しているようじゃないか、クリスフィア姫」


「あなただって、いつまでも取りすました顔をしてはおられまい! ダリアス殿が、ついに王都までやってこられたのだ!」


「ええ? ダリアスたちとはまだ連絡がついていないのではなかったっけ?」


 レイフォンがティムトを振り返ると、そこには相変わらずの仏頂面が待ちかまえていた。


「ゼラ殿のお力を借りて、朝一番で伝書鴉を飛ばしていたのですよ。その返答で、ダリアス将軍は昨晩遅くにダームを出立したとの報が届けられていました」


「なんだ、そうなのか。私はまったく知らなかったよ」


「それはレイフォン様は、ずっと寝所でお休みでしたからね。目を覚まされた後は、僕をやりこめるのに一生懸命でしたし」


「だから、誰もティムトをやりこめたりはしていないっていうのに。……まあいいや。ともかくこれは、ひさかたぶりの吉報なのだろうからね」


 赤の月の災厄の夜から行方知れずとなっていた十二獅子将のダリアスが、およそふた月ぶりに姿を現したのである。

 どうやら今日という日も、最後まで平穏には終わらないようだった。

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