Ⅰ-Ⅴ 火神の呪い
2016.12/31 更新分 1/1
幸いなことに、リヴェルは宿屋を出てすぐにナーニャをつかまえることができた。
どうやらナーニャは宿を出る前に受付台の主人と言葉を交わしていたらしく、それで何とか追いつくことがかなったのだ。
ナーニャもどちらかといえば小柄なほうであるので、人混みにまぎれてしまったらなかなか見つけることもできなかっただろう。大急ぎでナーニャを追いかけてきたリヴェルはいくぶん荒い息をつきながら、そのほっそりとした背中に取りすがった。
「何の用だい、リヴェル? 言っておくけど、僕は絶対に薬を手に入れるまで部屋には戻らないからね?」
リヴェルのほうを見ようともしないまま、ナーニャは冷たい声音で言い捨てる。
リヴェルはくじけそうになる心を奮いたたせながら、「はい」と応じてみせた。
「わたしはナーニャを引き止めるためにやってきたわけではありません。ナーニャのそばにいてほしいとゼッドに願われたので追いかけてきたのです」
「ゼッドが口を開いたのかい? そいつは珍しいことだね」
「ええ、それだけナーニャの身が心配であったのでしょう」
まだまだ大勢の人間が行き交っている通りを速足で歩きながら、ナーニャはちらりとリヴェルを見下ろしてきた。
その目が優しげに細められていることに、リヴェルはほっと安堵の息をつく。
「ゼッドは心配性だなあ。あんなひどい状態なのに、自分ではなく僕の心配をしてしまうんだから。……それじゃあリヴェル、一刻も早くゼッドのもとに戻れるように、僕を手伝ってくれるかな?」
「はい!」
「ありがとう。それじゃあ僕は薬屋を見逃さないように一件ずつ見て回るから、リヴェルは通りにシムの民が歩いていないか目を凝らしておいておくれよ」
「はい、シムの民ですか?」
「うん。薬草の扱いに長けているのはシムの民だろう? 彼らがこの町で薬屋を開いていれば話は早かったんだけどねぇ」
ひょっとしたら、ナーニャはそれを尋ねるために宿屋の主人と話していたのかもしれなかった。
ナーニャが道の端に寄ったので、それからはぐれないよう気をつけつつ、リヴェルは視線を巡らせる。
辺りはずいぶん薄暗くなってきているが、人の多さにはまだ変わりがない。その大半は革の外套を纏った旅人たちであったが、そこに東の民の黒い姿を見出すことはできなかった。
「……ここもいちおう薬屋かな?」
ナーニャが足を止め、店の軒先を覗き込む。
しかしそこに並べられているのは料理で使うための香草がほとんどで、薬草の類いは申し訳ていどにしか置かれていなかった。
「薬草をお求めかい? だったら、医術師のところに行ったほうが早いよ。もうちょっと北側にのぼれば、看板が見えるはずだ」
「ありがとうございます。……このレイノスには、あまり東の民は立ち寄らないのでしょうか?」
「シムの連中かい? そうだねえ、時おりひょっこりと姿を現すこともあるけど、たいていはすぐに出ていっちまうよ。ここ何日かは見かけてないかな」
「ありがとうございます。あなたの親切にセルヴァの祝福を」
巡礼者の杖を掲げてもっともらしく礼をしてから、ナーニャはまた速足で歩き始めた。
それから後はめぼしい店もなく、しばらく進むと町の端まで行きついてしまったので、道を折り返し、通りの逆側を物色する。
「あ、ナーニャ、あれが医術師の住まいではないですか?」
看板を見つけてリヴェルが報告すると、ナーニャは「うん……」と覇気のない声で応じてきた。
「どうしたのです? 薬を買うだけならば、医術師の世話になってまずいことはないでしょう?」
「そうだけどさ。できれば僕は、シムの民を先に見つけたいんだよ。申し訳ないけど、リヴェルはここで待っていてもらえるかな? それでシムの民を見つけたら、逃がさないように引き止めておいておくれ」
よくわからないことを言いながら、ナーニャはひとりで医術師の家に入っていってしまった。
雑然とした通りに取り残されて、不安に押し潰されそうになりながら、それでもリヴェルは懸命に目を凝らす。
しかしやっぱり、望む相手をそこに見出すことはできなかった。
だいたいこのように西寄りの町でシムの民を見かけることは少ないし、シムの民の全員が薬草を売っているわけでもない。大陸中を放浪するシムの行商人たちは、行く先々で商品を買い付けて、それをまた別の町で売りさばくことによって商いを成しているのである。たとえシムを出立したときには大量の薬草を携えていたとしても、こんな西の果てにまで到着する頃にはのきなみ売り尽くした後なのではないかと思われた。
なおかつリヴェルは、シムの民を苦手としていた。
彼らはひと昔前まで、あやしい魔術師として恐れられていた存在なのである。
もともとの魔術師というものは、すでに数百年の昔に消え去っている。四大王国の建立とともに、精霊魔法の技は失われているのだ。そんな中、シムの民は星読みなどのあやしい力をふるい、大陸中の人間を脅かしたのだった。
(最近のシムの民は、善良な商人ばかりだと父さんなんかは言っていたけれど……見た目からして、シムの民はこわいしなあ……)
しかしゼッドとナーニャのためならば、そんな怯懦の気持ちもねじ伏せるしかなかった。
そんなリヴェルの覚悟を冷笑するかのように、道を歩くのは黄色い肌をした西の民ばかりであった。
「お待たせ。やっぱりこっちは駄目だったよ」
と、やがて医術師の住まいから戻ってきたナーニャがそのように告げてきた。
「こちらもシムの民は見あたらないようです。……望む薬は売っていなかったのですか?」
「売っていたけど、銅貨が足りなかったよ。ゼッドの傷をきちんと癒すには、かなり高価な薬が必要になってしまうからさ」
「え? それではシムの民を見つけても同じことではないですか?」
「いや、シムの民が相手なら、たぶん買うことができるんだ。薬屋じゃなくてもかまわないから、とにかくシムの民を見つけたら逃がさないようにね」
ますますわからない話であった。
しかし、まさか異国の民が相手でも力ずくで奪うような真似はしないだろうし、そもそもシムの民というのはセルヴァの民よりも危険な相手なのである。彼らは薬草ばかりでなく毒草の扱いにも長けているため、野盗ですらシムの民に手を出そうとはしないはずであったのだった。
しかし、頭巾の陰から覗くナーニャの目もとは真剣そのものであり、リヴェルがおいそれと口答えをできる雰囲気ではなかった。また、それはナーニャが初めてリヴェルに見せる表情――焦燥のあらわれなのではないかとも思われた。
(そんなにゼッドの身を案じているのに、それでも医術師に見せることはできないのかな……)
リヴェルが家を放逐されたのは十日ほど前のことであるが、ナーニャたちはその前から旅を続けていたはずだ。彼らがどこを起点として旅を始めたかは知らないものの、ずいぶんな距離を歩いてきたことに間違いはないだろう。それでもなお、ナーニャたちは人目をはばからなくてはならないのだろうか?
「とにかく、すべての店を見回ってみよう。この場に留まっていても、ゼッドの傷は治らないからね」
そうしてナーニャに急きたてられて、また街道を歩き始める。
が、町の入り口まで到達し、そこから折り返して最初の宿屋の前までたどり着いても、立派な薬屋やシムの旅人を見つけることはできなかった。
《烏のくちばし亭》の前で足を止め、細く窓の開かれた二階の部屋を見上げながら、ナーニャは口惜しそうに息をつく。
「しかたない。今度は別の通りを探そう。これだけ大きな町だったら、裏通りにも多少の店はあるだろうからね」
「裏通りですか? でも、普通の旅人ならそのような場所に足を運ぶことは少ないでしょうし……それに、危険ではないでしょうか?」
「怖いなら、リヴェルはゼッドのところに戻ってあげておくれよ」
そのように言いながら、ナーニャは建物の間の路地へと足を踏み込んだ。
リヴェルは一瞬だけ迷ってから、その後を追いかける。リヴェルがゼッドのもとに留まっても力にはなれそうになかったし、それに、彼の必死な目つきを思い出すと、ナーニャのそばを離れる気持ちにもなれなかった。
しかし、見知らぬ町の裏通りというのは、不気味なものである。
リヴェルは故郷の町でさえ、なるべく裏通りには足を踏み入れないように心がけていた。人の目の届きにくい裏通りには、その薄闇に相応しい輩が潜んでいるものなのだ。いちおうは平和な伯爵領であったリヴェルの故郷でさえそうなのだから、多くの余所者が出入りをする宿場町では、いっそうの危険がつきまとうのではないかと思われてならなかった。
そんな薄暗い路地を、ナーニャはしなやかな足取りで通り抜けていく。
日没がせまっているので、建物の詰め込まれたこの辺りは余計に闇も濃くなっていた。
やはり旅人たちはこのような場所まで足を踏み入れることはなく、人間の気配も希薄である。ときおり建物の入り口や窓に人影がよぎるぐらいで、しばらくは誰ともすれ違うことはなかった。
「こ、このような場所で薬が売られているものでしょうか?」
「そうだね。闇雲に歩き回っても時間を無駄にするだけかな」
低い声で応じてから、ナーニャは建物のひとつに寄っていった。
表通りの商店よりも見窄らしい、木造りの家屋である。その入り口のところで干したアリアの皮を剥いていた老婆が、生気のない目でリヴェルたちを見返してきた。
「巡礼者なんぞが何の用だね? 神のご加護だったら間に合ってるよ」
「いえ、ちょっとお尋ねしたいのですが、この辺りで薬を扱っておられる御方はおりませんか?」
よそゆきの声でナーニャが尋ねると、老婆は「薬?」と眉間にしわを寄せた。
「薬だったら、表通りの医術師なんかがいくらでも売ってるだろうさ。あたしはそんなたいそうなもんを買いに出向いたことはいっぺんもないけれどね」
「薬は、高価ですからね。わたしも銅貨が足りなくて困っていたのです。ですから、それよりも安く買いつけることはできないかと思って、色々と探し回っているのですが」
「はん。安物の薬なんざを買うぐらいなら、そこらに生えてる草でもむしって煎じても変わりゃしないんじゃないのかね。まともな薬が欲しいんなら、銅貨を準備するしかないんだよ」
「それでも、医術師の店より安く買えればありがたいのですが」
ナーニャは背負っていた荷袋から山菜の束をひとつかみ差し出してみせた。
驚くような素早さでそれを奪い取ってから、老婆はにたりと不気味に笑う。
「そこの間の通りを抜けると、若い連中が自分たちで仕入れた品を売りに出してるよ。その中で、デイラってごろつきが色々な薬を扱ってるって噂だね」
「ありがとうございます。あなたの親切にセルヴァの祝福を」
「ふん。祝福なんざで腹がふくれれば世話はないね」
ナーニャは一礼して、老婆に示された路地に足を踏み入れた。
辺りはいよいよ暗くなりまさり、リヴェルをいっそう不安な心地にさせる。
「だ、大丈夫なのでしょうか? ごろつきというのは、無法者のことでしょう? 無法者が医術師よりも上等な薬を扱っているとは思えないのですが……」
「どうだろうね。たとえば人から奪った品だったら、まともな店よりも安く売ることもできるんじゃない?」
「…………」
「盗品だろうが何だろうが、手持ちの銅貨で買えるならそれが一番さ。セルヴァの祝福でゼッドの傷は治らないんだからね」
このような場所で神を貶めるような言葉を口にできるナーニャが、リヴェルには恐ろしかった。
しかしナーニャがそういう危うい存在であるからこそ、ゼッドはあのような言葉を口にしたのかもしれない。
リヴェルなどがナーニャの助けになるとは思えなかったが、それでもそのそばに控えることぐらいはできる。そんな思いを胸に、リヴェルはナーニャの背に追いすがった。
そうして暗い小路を抜けると、中途半端に開けた場所に出た。
不規則に立ち並んだ建物の狭間にぽっかりと空いた、広場とも呼べぬような空き地である。そこで二人の若者が地べたに座り、果実酒の土瓶を傾けながら大声で笑っている。
「失礼いたします。デイラという御方がこの辺りで商いをしていると聞いてきたのですが」
若者の一人がいぶかしそうにこちらを見た。
「何だ、巡礼者かよ。デイラの野郎が何だって?」
「薬を買い求めにやってきたのです。デイラという御方はいらっしゃいますか?」
「……お前、女なのか?」
若者が下から覗き込んできたが、ナーニャは口もとも隠していたのでその答えを知ることはできなかっただろう。
というか、素顔を知るリヴェルですら、いまだにその答えは得られぬままであるのだ。
「神にこの身を捧げたからには、男女の別も意味は為しません。……デイラという御方はいらっしゃいますか?」
「そっちのちっこいのは女だよな。……デイラだったら、そこの店で居眠りでもしてるはずだぜ」
そこの店というのは、看板も何も掛かっていない平屋の建物であった。
他の家屋も空き家なのではないのだろうか。これまで以上に人間の気配というものが感じられない。
「ありがとうございます。あなたの親切にセルヴァの祝福を」
にやにやと笑う若者たちに見送られながら、ナーニャはその建物に近づいていった。
扉は開いており、暗い室内の奥には燭台の火が灯っている。
ナーニャは何のためらいもなく、半ば外れかけた戸板を手の甲で叩いた。
「失礼します。あなたがデイラという御方でしょうか? こちらで薬をお売りになっていると聞いてきたのですが」
「ううん……何だって? 用事があるなら入ってこいよ」
若い男の声が闇の向こうから響いてくる。
ナーニャとリヴェルは、そのあやしげな建物の中に足を踏み入れることになった。
「いらっしゃい。巡礼者の客とは珍しいな」
部屋の奥には小さな卓があり、その上に古びた燭台が載せられていた。
その頼りない光に照らし出されているのは、あくびを噛み殺している小柄な若者の姿である。
年齢はまだ二十にも達していないぐらいだろう。ずんぐりとした体格で、褐色の髪をもしゃもしゃにのばしている。男前とは言い難いがなかなか愛嬌のある顔立ちで、表にいた若者たちに比べればずいぶん善良そうにも見えたので、リヴェルは内心で安堵することができた。
「ああ、眠り足りねえな。……で、薬がどうとか言ってたか? 何の薬を探してるんだよ?」
「火傷と鎮痛の薬です。ベアナの樹液とロロムの葉があればありがたいのですが」
「おいおい、ロロムの葉はともかく、ベアナの樹液ってのはたいそう立派な薬だぜ? まともに買おうと思ったら、小瓶でも白銅貨十枚は下らないだろうな」
「……ベアナの樹液を買い求めることは可能でしょうか?」
デイラなる若者は眠たげな目つきでナーニャの姿を見返してから、足もとに転がっていた物入れの箱をまさぐり始めた。
蓋が目隠しになり、リヴェルたちの側からその中身をうかがうことはできない。やがて若者は、そこから小さな布の袋を引っ張り出した。
「そら、こいつがロロムの葉だ。大の大人で十回分。お代は白銅貨五枚だな」
宿屋の料金が白銅貨一枚であったのだから、白銅貨五枚というのはかなり高額だ。リヴェルでも、それほど高額な薬を買い求めたことはなかった。
ナーニャはうなずき、腰に下げていた小さな袋から銅貨を取り出す。
退治した野盗から奪った銅貨である。白銅貨は三枚しかなかったので、あとは二十枚の赤銅貨を重ねることで、ようやく必要な額に達した。
「毎度あり。カラカラに干してあるから、あとは煎じるだけで口にできるはずだ。どんなに苦しくても、一日に一回以上は口にしないこったな」
「ありがとうございます。……ベアナの樹液も売っていただけたらありがたいのですが」
「でも、白銅貨はこれっきりなんだろ? 赤銅貨をかき集めたって、小瓶ひとつも買えないだろうさ」
「……できれば小瓶と言わず、壺で売っていただきたいぐらいなのですが」
若者は、片目を細めることで不審の念をあらわにした。
そうしてナーニャの姿をもう一度じろじろと見回してから、また物入れの箱をまさぐり始める。
「そんな立派な薬を山ほど売ってるわけはねえけどよ。これだけありゃあ、小瓶の十本分にはなるだろうな」
そうして卓の上に置かれたのは、手の平ぐらいの大きさをした木箱であった。
何の装飾もない木箱であるが、あまり見たことのない質感でつやつやと輝いており、蓋の造りなどもしっかりしているようである。
「……中身を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「どうぞご随意に。ただし、薬には手を触れないようにな」
ナーニャはうなずき、慎重な手つきでその蓋を取り外した。
中に詰め込まれていたのは、蜜のようにとろりとした黄金色の液体だ。
煮詰めてあるのか、もともと粘り気が強いのか、箱を傾けても簡単にはこぼれる様子もない。ナーニャは襟巻きをずらして形のよい鼻だけを出し、その液体の香りを嗅いだ。
「間違いないようですね。この中に見える黒い粒は、ギアの実を煎じたものでしょうか?」
「よく知らねえけど、そうなんじゃねえの? とにかく火傷を治すにはこいつが一番って話だな」
ナーニャは同じ手つきでそっと蓋をしめ、あらためて若者に向き直った。
「是非ともこれをお売りいただきたく思います。お代は如何ほどでしょう?」
「小瓶で十本分なんだから、白銅貨百枚だろ? ま、銀貨だったら一枚で済むけどな」
「……あいにく、銀貨の持ち合わせはありません」
そのように述べながら、ナーニャは別の小袋を手に載せた。
「ですので、こちらでお支払いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
その小袋から抜き取ったものを、ナーニャはかちりと卓の上に置いた。
それを見下ろしたデイラの目が、これ以上ないぐらい大きく見開かれる。
「お、おい、お前、こいつはまさか……」
「アルグラッドの金貨です。これ一枚で、銀貨十枚の価値があるはずですね」
リヴェルもまた、デイラに負けないぐらい驚愕することになった。
銀貨十枚の価値を持つ金貨――ということは、それは白銅貨千枚、赤銅貨一万枚の価値を持つ貨幣であり――平民などには一生お目にかかる機会も理由もない存在であるはずだった。
ラマムの実などは赤銅貨一枚で二個を買えるのだから、金貨一枚なら二万個だ。大きな鉄鍋でも四十個、ジャガルの立派な肉切り刀なら八十本、牡のトトスなら二十頭――とにかく貴族か、貴族を相手にする豪商でもない限り、金貨などは使い道もない。そこいらの店で金貨などを差し出しても、釣り銭を出すことさえかなわないのだ。
デイラは震える指先でその金貨をつかみ取り、燭台の明かりでその輝きを確認してから、おそるおそる歯でかじる。
「ほ、本物なのかよ……? どうして巡礼者が金貨なんぞを持ち歩いているんだ?」
「驚かせてしまって申し訳ありません。ですからシムの商人を捜していたのですが、あいにくこの町では見あたらなかったようなので……」
確かに感情をあらわすことを恥と考えている東の民ならば、こんな際でも平然としていられるのだろう。
そして、異国の民ならば、金貨の出処を詮索したりもしないに違いない。
だからこそ、ナーニャはシムの民を捜し求めていたのだ。
「釣りは、あるだけでけっこうです。それでどうにかこの薬を売っていただけませんか?」
「……銀貨九枚分の釣りを、銅貨で済まそうってのか? 俺の持ち金をかき集めたって、銀貨二枚分にもなりゃしねえぞ?」
「はい、それでかまいません」
ナーニャは必死な眼差しでデイラを見つめていた。
「なるほどな……」と、デイラは大きく息をつく。
「確かにこれじゃあ、表通りの薬屋なんかの世話にはなれなかっただろうよ。釣り銭がどうとかってしみったれた話じゃなく、貴族か商団を襲った盗賊団だと勘違いされかねねえからな。こんな場末の宿場町で金貨なんぞを見せびらかせば、そいつが当然だ」
「はい。ですがわたしは、盗賊団などではありません」
「そうかい。ま、あんたの素性が何であれ、俺には関係ねえこった。まさか生きてる内にこんなごたいそうなもんを拝めることになるとは思わなかったぜ」
デイラは気を取りなおしたように、愛嬌たっぷりの顔で微笑んだ。
そうしてその手が懐にのばされて――鈍色に輝く短剣が抜き放たれる。
「で、そっちの袋にはまだ金貨が残ってるのか? そうなら、そいつも拝ませてくれよ」
リヴェルは愕然と立ちすくむことになった。
ナーニャは悲しげに眉をひそめている。
「これ以上の代価は不要のはずでしょう? それとも、あなたはまだベアナの樹液を隠し持っておられるのでしょうか?」
「そっちこそ、薬なんざはもう不要だろ? どこのどいつのためにこんなもんを探していたのかは知らねえけど、もうそいつのもとに帰ることはできねえんだからよ」
デイラは立ち上がり、短剣の切っ先をナーニャの胸もとに突きつけてきた。
「おおい! もう入ってきてもかまわねえぞ! 分け前をやるから、こいつらをとっ捕まえてくれ!」
「待ちくたびれたぜ、まったくよ。俺らを差し置いていいことを始めちまったのかと思ったじゃねえか」
背後から、悪意に満ちみちた声が返ってくる。
ナーニャの腕に取りすがりながらリヴェルがそちらを振り返ると、家屋の入り口にいくつもの人影が浮かんでいた。
聞こえてきたのはさきほどの若者の声であるが、人数は四人に増えている。目の前のデイラを合わせれば、五人の無法者だ。
「……最初からわたしたちを襲うつもりだったのですか?」
「当たり前だろ。若い女がこんな場所にまで足を踏み入れて、無事に帰れるとでも思ってたのかよ? 巡礼者ってのは、やっぱりおめでたい頭をしてるんだな」
短剣の切っ先を揺らしつつ、デイラはにこにこと笑っている。
まるで世間話でもしているような表情と口調である。
「だけど、お前は男だか女だかわかんねえな。ま、ずいぶん綺麗な顔をしてるみたいだから、どっちでもかまいはしねえよ。そっちのちっこいのとおんなじように可愛がってやるさ」
「そうか。とても残念だよ。ま、表通りで騒ぎになるよりは、まだいくらかマシなんだろうけどね」
と――ナーニャが巡礼者の外面をかなぐり捨てて、普段通りの口調で答えた。
その瞳は、燭台の火を映して赤く燃えている。
「お? ずいぶん小生意気な口を叩くじゃねえか。やっぱりお前らもまともな生まれじゃないみたいだな」
「そうだね。僕ほどまともじゃない生まれの人間なんて、そうそういないんだろうと思うよ」
口もとを隠した襟巻きの下で、ナーニャが笑う。
「それで、考えを改める気持ちにはなれないかな? このまま僕たちを返してくれれば、金貨は君のものだ。薬の代価を踏み倒す気はないからね」
「おいおい、五人を相手に何ができるってんだ? シム人みたいに毒でも使う気かよ? 下手に暴れると、余計に痛い目を見ることになるぜ?」
背後の若者たちも、手に手に短剣を携えながら、じりじりと近づいてくる。
ナーニャはリヴェルの腕をつかみ、いささか荒っぽく胸もとに引き寄せた。
「気の毒にね。君たちは自ら凶運の渦の中に足を踏み入れた。もう僕にもそいつを止めることはできないよ」
感情のない声で、ナーニャがそのようにつぶやいた。
その瞬間、えもいわれぬ感覚がリヴェルの背筋を走り抜けていった。
空気が、びりびりと震えている。
いや、どくどくと心臓のように脈打っている、といったほうが正確であっただろうか。とにかくリヴェルは、目に見えぬ波動のようなものが辺りに広がっているのを強く感じていた。
まったく理由はわからない。突如として、透明の怪物にでも呑み込まれてしまったかのようである。
恐怖心で、全身の毛が逆だっていく。あの、腐肉と化した魔物たちに襲われたときよりも強い違和感と戦慄が、リヴェルの五体を包み込もうとしていた。
しかし、そんな異様な気配を感じているのはリヴェルだけなのか、無法者たちは変わらぬ様子でへらへらと笑っている。
「世迷いごとはおしまいにしろって。一緒に楽しもうぜ?」
デイラの指先が、毒虫のようにリヴェルの肩へとのびてくる。
それと同時に、ナーニャは「リヴェルにさわるな!」と叫び――
そして、デイラの身体が突如として炎に包まれた。
「ぎゃああああっ!!」
絶叫をあげ、デイラが床に崩れ落ちる。
暗い室内が、一瞬で明るくなっていた。
デイラの全身が、真っ赤な豪炎に包まれているのだ。
その信じ難い光景に、背後の若者たちは愕然と立ちすくんでいた。
「な、何だよ、今のは……?」
「て、手前がやったのか!? この化け物め!」
若者のひとりが上ずった声でがなりながら、短剣を振り上げる。
すると、同じ悪夢が繰り返された。
燭台の上でちろちろと燃えていた火が、炎の濁流を生み出して、その若者の身体を呑み込んでしまったのである。
室内は、まばゆいばかりの光と熱と絶叫に包まれた。
さらに火炎はうなりをあげて、残った若者たちにも襲いかかる。
それはまるで、炎の竜が獲物を喰らい尽くそうとしているかのようだった。
世界は真紅に包まれて、黒い人影がその中で踊っている。やがてその火は床や壁にも燃え移り、新たな怪物のごとく黒煙を生み出した。
「ナ……ナーニャ……」
そんな中、リヴェルはナーニャの身体に取りすがっていた。
革の外套や衣服ごしに、その体温が伝わってくる。ナーニャ自身も炎であるかのように、その身体は熱かった。
「……本当に馬鹿な男たちだ」
ぞっとするほど冷たい声で言い、ナーニャは卓上に手をのばした。
今にも木箱へと燃え移らんとしていた炎が、不自然な形で左右に分かれる。
ナーニャは驚きもせずに薬の木箱をわしづかみにして、それを背中の荷袋にねじ込んだ。
それから金貨も取り上げて、ぽいっと足もとの炎に投げ入れる。
「でも、薬を持ち逃げするつもりはないからね。金貨を抱いてセルヴァの御許に旅立つといい」
信じ難い悪夢の中で、ナーニャだけはナーニャのままであった。
その声は、鎮魂の鐘のように不吉に響いている。
「……ついにリヴェルにも見られちゃったね。これが僕の持つ凶運の正体だよ。こうなったらもう、僕自身にも止めることはできないんだ」
感情のない声で、ナーニャはそのように語り始めた。
その間にも、炎は渦を巻いて室内に荒れ狂っている。男たちは、すでに全員がその中で倒れ伏してしまったようだ。
そのとき、ごおっと熱風が吹いて、ナーニャのかぶっていた頭巾を背中の側にはねあげた。
その下から現れたナーニャの顔を見て、リヴェルは悲鳴を呑み込む。
ナーニャの美しい面は、炎と同じ色をした奇怪な紋様でびっしりと埋め尽くされてしまっていた。
さらにその瞳は、炎そのものであるかのように熾烈に燃えさかっている。
「僕はエイラの神殿で、いにしえの魔術について書かれた魔導書を読みふけっていた。それで火神か何かに呪われてしまったようなんだ。断罪の炎は、僕の敵を滅ぼすまで、決して消えることがないんだよ」
「いにしえの……魔術……?」
「王国の建立とともに葬り去られた、禁忌の呪法だよ。どうしてそんなものの記された魔道書がエイラの神殿なんかに隠されていたのかな……ひょっとしたら、セルヴァを滅ぼしたいと考えた何者かが、僕を利用しようと考えたのかもね」
悪夢のような世界の中で、ナーニャはくすくすと笑い声をたてる。
「いま思えば、僕の幽閉されていたあの小部屋こそが、火神に生贄を捧げるための祭壇のようなものだったのかもね。魔道書を読みふけったぐらいでこんな凄まじい力が身につくわけもないし……きっと僕の魂は、僕の知らない内にいにしえの火神へと捧げられてしまっていたんだよ」
ナーニャの腕が、強くリヴェルを抱きすくめてくる。
その腕もまた、焼けた鉄のように熱かった。
「なるべく僕のそばにいて。リヴェルぐらい小さかったら、あまり巻き添えをくわずに済むだろう。ゼッドは身体が大きいから、あんなひどい傷を負うことになってしまったんだ。……断罪の炎は、僕しか避けてくれないんだよ」
「ナーニャ……あなたはいったい……」
「僕の炎は、すべてを燃やし尽くしてしまった。父様や兄様も、みんな灰にしてしまったんだ。だけど僕だって、そんな結末を望んでいたわけじゃなかった」
赤い瞳が、リヴェルを覗き込んできた。
その瞳には、無限の怒りと悲しみが炎となって渦巻いているようだった。
「リヴェルのことも巻き込んでしまったね。もう君のことを離すわけにはいかなくなった。君の運命は、僕の運命に呑み込まれてしまったんだ」
真紅の豪炎を背景に、ナーニャは笑っていた。
「僕の真の名はカノン、ゼッドの名はヴァルダヌス。リヴェルの住んでいた町にもお触れは回ってきただろう? アルグラッドの王宮を燃やしたのは僕の炎だ。僕は僕が生き抜くために、父たる国王ごと宮殿を燃やしてしまったんだよ」
リヴェルは何を考えることもできないまま、ナーニャの熱い身体に取りすがっていた。
ナーニャの腕は強くリヴェルを抱きしめていたが、それがなくても離れることはできなかった。
それは周囲を取りまく炎のせいではない。ナーニャは悪神のように笑っているのに、その瞳からはいまにも涙がこぼれ落ちそうで、とうてい身をもぎ離す気持ちになれなかったのだ。
そんな二人を取り巻いた断罪の炎は、いつまでも果てしなく燃えさかっていた。