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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
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Ⅱ-Ⅳ 騒乱の狭間

2019.8/31 更新分 1/1

 クリスフィアは、ぼんやりと無為なる時間を過ごしていた。

 審問のさなかにジョルアンが暗殺され、大聖堂にて蜘蛛神ダッバハと遭遇した日の、翌日のことである。


 蜘蛛神ダッバハとの対決が、やはり精神にこたえてしまったのだろうか。『裁きの塔』にてゼラとの面会を果たしたのち、赤蛇宮の寝所に帰りついたクリスフィアは、泥のように眠りこけることになった。そうしてかつてないほどに長々と寝坊をしてしまったのだが、その安眠を脅かす異常事態も勃発しなかったのだった。


 フラウの手を借りて沐浴を済まし、ほとんど昼食に近い朝食をたいらげるまでに至っても、それは同様であった。昨日はあれほどの騒ぎであったのに、これはいったいどういうことであるのか。まさか、赤蛇宮の外では大変な騒乱が巻き起こり、すべての同志が死に絶えてしまったのではないか――などという不吉な想像にとらわれながら、いざ白牛宮に出向いてみると、そこでは囚人として捕縛されていたはずのゼラが、卓をはさんでティムトと向かい合っていた。


「おはようございます。どうかされましたか、クリスフィア姫?」


「いや……待てど暮らせど音沙汰がないので、こうして様子を見にやってきたのだが……」


「いまはゼラ殿に、これまでに僕が得た知識を伝達しているさなかです。さしあたって、クリスフィア姫のお力を借りる事態には至っておりません」


 ふたりの間に置かれた卓には、『禁忌の歴史書』が広げられていた。カノン王子に施されたという《神の器》なる呪いや、邪神や妖魅などについて、ゼラに説明していたのだろう。背中を丸めて長椅子に座していたゼラは、その瞳に恒星のごとき強い輝きを宿していた。


「知れば知るほどに、恐ろしい話でございます……そしてわたくしの怯懦からカノン王子をお救いできなかったことを、心より口惜しく思っております……」


 ゼラが纏っているのは昨晩と同じく灰色の長衣のみであり、その手は鉄鎖で縛められていた。新王ベイギルスに嘆願して、なんとか『裁きの塔』より連れ出すことはかなったが、審問を終えぬ限り、無罪放免とはいかないのだ。


 そうして明るい光の下で見ると、ゼラはますます別人のように見えた。

 声や口調は変わらぬままであるのに、陰気な印象はずいぶんと払拭されている。それはやはり、頭巾で隠されていた顔貌が、意外に雄々しい印象であったためなのだろう。


 岩に削り出された彫刻のように、厳つい顔立ちである。ただ、知的な眼差しや物腰のおかげで、粗野な感じはまったくしない。それはなんだか、立派な狩人でありながら賢人めいた雰囲気を持つ、ホドゥレイル=スドラにも通じるたたずまいであった。


(王国の民と大神の民の間に生まれた子、か……ゼラ殿がそれほどまでに稀有なる出自であったなどとは、想像できるわけもないな)


 ともあれ、ティムトが取り仕切っているその場に、クリスフィアの出番はないようだった。


「そういえば、レイフォン殿はどうされたのだ? ティムトと別行動とは、ずいぶん珍しいではないか」


「レイフォン様は、そちらの寝所ですよ。腰の痛みがひかないご様子であったので、薬を飲んで眠っていただきました」


 納得し、クリスフィアは金狼宮に出向くことになった。

 しかしそちらではディラーム老やイリテウスが軍の再編成について協議しているさなかであり、やはりクリスフィアの出る幕はなかった。


 ついでにギムやデンの様子をうかがってみたが、そちらにも異常は見られない。

 ただ、ふたりはともに期待と不安の虜となっていた。


「ダリアス様とラナのやつは、いったいどうなったんでしょう? 無事にダームを出発できたんでしょうか?」


 ラナの幼馴染であるというデンは、すがるような眼差しでクリスフィアに問いかけてくる。いかにも純朴そうな面立ちをした、城下町の革細工屋の息子である。彼らはいまだ城下町に戻ることもできず、こうしてディラーム老に庇護されているのだ。


「それはわたしもずっと気にかけている話であるのだが、まだダームの者たちと連絡がつかなくてな。しかしきっと、近日中に王都へとやってくることだろう」


 ゼラの手を借りて、朝一番に伝書鴉を飛ばしたという話であったが、その返事はまだ届いていなかったのだ。

「そうですか……」とデンが肩を落とすと、ラナの父親であるギムがうっすらと笑いながら、その背中をどやしつけた。


「辛気臭い顔をするんじゃねえよ、デン。ふたりが無事で、しかもダリアス様の潔白が明かされたってだけで、十分じゃねえか。ダリアス様とご一緒させていただければ、ラナのやつにも心配はいらねえよ」


「うん……それはわかってるんだけどさあ……」


 このふたりは、ダリアスを庇ったがために、このたびの陰謀に巻き込まれてしまったのだ。

 彼らがなんの心配もなく家に帰るには、《まつろわぬ民》を始末して、すべての陰謀を集結させるしかない。そんな思いを胸に、クリスフィアは金狼宮を辞去することになった。


 そうして、現在である。

 クリスフィアは、紫猿宮なる宮殿の中庭にて、メルセウスとともに茶などをすすっていた。

 クリスフィアのかたわらにはフラウが、メルセウスのかたわらにはホドゥレイル=スドラが控えている。空は青々と晴れており、なんとも和やかな風情であった。


「なんというか……昨日までの騒ぎが嘘であったかのような静けさだな」


 クリスフィアがつぶやくと、メルセウスは「はい」と笑顔でうなずいた。


「昨日は本当に、朝から夜まで悪夢のような騒ぎでしたからね。でも、そうだからこそ、こういった休息のひとときが得難いのではないでしょうか」


「しかし、このように呑気にしていてよいのだろうかな。こうしている間にも、《まつろわぬ民》どもはまた陰で悪さをしているのやもしれんのだぞ?」


「ですが、こちらから手を出せるような話ではありませんしね。ましてや、僕やクリスフィア姫などは、王都の外からやってきた客分の身であるわけですし」


 そう言って、メルセウスは熱い茶をひと口すすった。


「それに、この紫猿宮ではなかなかの騒ぎが起きているようですよ。僕たちと同じ客分の方々が、いつになったら故郷に戻れるのかと不安を覚えておられるようです」


「ああ……我々は、戴冠式に参席するために出向いてきたのだったな。そのようなことは、すっかり失念してしまっていた」


 しかし現在は戴冠式どころの騒ぎではないし、銀獅子宮の再建工事もすっかり停滞してしまっている。セルヴァ中からかき集められた要人たちも、不安になって然るべきであろう。


「僕などはもっとも遅く到着した身ですので、まだ十日にもならぬていどの逗留ですが、クリスフィア姫などはもっと早くに参じておられたのでしょう?」


「うむ。今日は、黄の月の八日か。ならば、あと数日ていどでひと月の逗留となるな」


「ひと月ですか! アブーフから王都までの道程を考えると、故郷を離れてずいぶんな時間が過ぎたことになりますね」


「しかし我々は、トトスにまたがって駆けつけたからな。ここまで来るのに、半月はかかっていないはずだ」


「ああ、そうでしたね。トトスにまたがっての旅が許されるだなんて、羨ましい限りです」


「べつだん、許されてはおらんぞ。アブーフに戻れば、父上にこっぴどく叱られることであろう」


 フラウが、くすりと笑い声をたてる。

 クリスフィアは、荒っぽく髪をかき回すことになった。


「ああもう、あまりに平穏なので、余計なことまで思い出してしまったではないか。《まつろわぬ民》どもは、どこで何をやっておるのだ?」


「おやおや。それではまるで、騒ぎが起きることを望んでおられるかのようですね」


「そういうわけではないのだが……しかし、敵を殲滅せぬことには戦も終わらぬのだ。ならば、早々に決着をつけたいと願うのが当然ではないか?」


「さすが騎士たるクリスフィア姫は勇ましいですね。文弱の徒たる僕は、この休養を心から嬉しく思っていたのですが」


 その言葉で、クリスフィアは大事なことを思い出すことになった。


「そういえば、ジェイ=シンの姿が見えぬな。まだ聖剣に削られた力が戻らないのであろうか?」


「いえいえ。伴侶とともにひと晩ぐっすり休んだら、すっかり回復したようですよ。ただ、ジェイ=シンはこれから大きな任務を負うことになるだろうというお話であったので、それまでは休養するように言いつけておいたのです」


「ふむ。それでは伴侶と睦まじく過ごしているのだろうか?」


「そのはずです。ひさかたぶりにジェイ=シンと過ごすことができて、伴侶も嬉しく思っていることでしょう。ここ数日は、ずいぶんジェイ=シンに苦労をかけてしまいましたからね」


「平和だな!」と、クリスフィアは天を仰いだ。


「むろん、世界は平和であるべきなのだ。そのためにこそ、わたしはこのたびの陰謀を一刻も早く終結させたいと願っている」


「同感です。平和にまさる喜びはありません」


 そんな風に言ってから、メルセウスはいくぶん憂いげに微笑んだ。


「ですがこの先は、グワラムかゼラドのどちらかに王都の軍を差し向けることになるのかもしれないのですよね。それを思うと、胸が痛みます」


「ふむ。メルセウス殿のご領地であるジェノスは、戦と無縁であるという話であったな」


「はい。ゼラドからもマヒュドラからも遠く、シムやジャガルとは友好的な関係を保持しているため、戦など起きようはずもありません。せいぜいが、盗賊団の討伐ぐらいです」


「では、噂に名高い森辺の狩人も、宝の持ち腐れだな」


 クリスフィアが目をやると、ホドゥレイル=スドラは不思議そうに首を傾げた。


「俺たちの本分は、森辺でギバを狩ることだ。人間を斬る機会など、少ないに越したことはなかろう」


「……そうだな。わたしも森辺の狩人が軍に加わることは、あまり正しくないことであるように思えてきた」


 クリスフィアは、心に浮かんだ気持ちをそのまま口にした。

 森辺の狩人は、凄まじい力を持っている。ひとりで兵士十名分に匹敵する力量というのは、決して大仰ではないのだろう。

 しかし、ホドゥレイル=スドラやジェイ=シンやギリル=ザザが、その類い稀なる剣技と膂力で、マヒュドラやゼラドの兵士たちを斬り伏せる姿を想像すると――なんだか、胸が苦しくなってしまうのだ。

 それはもしかしたら、彼らがあまりに純真で、澱みのない眼差しを持っているためなのかもしれなかった。


(だが、妖魅が相手なら、話は別だ。蜘蛛神ダッバハと相対したジェイ=シンは、まるで神話の勇者のように神々しく見えた。そういう役割こそ、森辺の狩人には相応しいのであろう)


 クリスフィアがそのように考えたとき、ホドゥレイル=スドラが鋭く目を光らせた。


「こちらに近づいてくる者がある。……おかしな気配はしないが、いちおう用心するべきであろう」


 クリスフィアは気を引き締めつつ、ホドゥレイル=スドラの視線を追った。

 が、回廊から庭園に出てきた人物の姿を確認し、「ああ」と力を抜く。


「あれは、レイフォン殿の従者のひとりだ。わたしも世話になった相手であるので、案ずる必要はない」


 それはクリスフィアがダームに出向いた際、トトスの車の御者をつとめた人間であった。ティムトと同様に、レイフォンが故郷から同行させてきた腹心のひとりである。


「おひさしぶりです、クリスフィア姫。おくつろぎの最中に失礼いたします」


 その人物が膝を折ろうとしたので、クリスフィアは「よい」と止めた。


「こちらはジェノス侯爵家の第一子息たるメルセウス殿だが、わたしと同様に格式や儀礼に頓着しない性分であるのだ。……それともメルセウス殿は、貴族に対する然るべき礼をご所望であろうか?」


「いえ。クリスフィア姫にご用事でしたら、どうぞおかまいなく」


 メルセウスの鷹揚な言葉に、従者の男は「ありがとうございます」と微笑んだ。


「実は、ダームから書簡が届いたのです。ティムトは手を離せないという話であったので、わたしが伝令役をおおせつかりました」


「おお、ようやくダームからの返事が届いたのか。それで、どういう内容であったのだ?」


「はい。……ダームにおいては昨日に見舞われた災厄の始末がありますため、王都を訪れる予定であったトライアス殿は、日程を見直すとのことでした」


「やはりそうか。では、ダリアス殿は?」


「ダリアス将軍については……いささか事情が込み入っているようです」


 そう言って、男はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。


「なんでも日程の見直しについて、トライアス殿とダリアス将軍で意見が分かれてしまったらしく……その末に、ダリアス将軍はダームを出奔されてしまったそうです」


「なに? 出奔だと?」


「はい。トライアス殿の命令書を偽造して、二頭のトトスと車を持ち出し、昨晩の遅くにダームを出奔した、とのことです」


「馬鹿な……それではダリアス殿は兵も連れずに、単身で王都を目指したというのか?」


「いえ。書簡に名を記されていたのは、ダリアス将軍と、ラナなる娘と、リッサなる学士、そしてダーム騎士団の小隊長ルブスなる男の四名となります。トライアス殿の弁としては、このようなやり口で我を通そうとするダリアス将軍の行いに遺憾の意を示したいと――」


「トライアス殿の心情など、どうでもよい! そのような少人数で夜の街道に繰り出すなど、あまりに無謀ではないか!」


 クリスフィアは、自分の膝に拳を打ち込んだ。


「……とはいえ、お前を怒鳴りつける理由はないな。伝令役、ご苦労であった。レイフォン殿にもよろしくお伝え願いたい」


「はい。それではわたしは、これにて」


 男は一礼して、回廊のほうに戻っていった。

 心配そうなフラウに見守られながら、クリスフィアは深々と溜め息をつく。


「これはいったい、どういうことであるのだ。ダリアス殿らしからぬ、軽率な振る舞いだ」


「そうですか。僕はそのダリアス殿ともトライアス殿とも面識はないので、確たることは言えないのですが……意見が分かれた、という話であったので、やむにやまれずダームを出奔することになってしまったのではないでしょうか?」


「うむ……トライアス殿の許しがなければ、ダームの騎士団を動かすことはできなかったのであろうな。それにしても、無茶な話だ」


 クリスフィアは、腕を組んで考え込んだ。


「ダームから王都までは、車を引かせたトトスで丸一日の道程となる。途中で車を捨てれば、もう少しは短縮できようが……やはりここは、こちらからも出迎えの人間を送るべきではないだろうか?」


「出迎えですか。しかし、用心すべき相手が妖魅となると、どれだけの兵士を出しても安心できないのではないでしょうか?」


 メルセウスも思案深げな面持ちで、そう言った。


「かといって、ジェイ=シンにそれを頼んだら、こちらが手薄になってしまいます。ティムト殿いわく、邪神を相手取ることができるのはジェイ=シンとダリアス殿のみで、それが僕たちの最後の頼みの綱であるそうですからね」


「それは、そうかもしれんが……」


「もしもダリアス殿が邪神を滅ぼすほどのお力をお持ちなら、ご心配は無用でしょう。それは、ジェイ=シンの身を案ずるのと同じことなのでしょうからね」


 そう言って、メルセウスはにこりと微笑んだ。


「まあ、ご判断はみなさんにおまかせします。何にせよ、そのダリアス殿というのがどのような御方であるのか、とても楽しみです」


「わたしだって、ダリアス殿との再会は心待ちにしている」


 クリスフィアは溜め息を呑み下しつつ、また青々と晴れわたった空を見上げた。


(この判断は、ティムトに任せるべきか……それにしても、無茶が過ぎるぞ、ダリアス殿! 無事な姿を見せなかったら、わたしがただではおかぬからな!)


 青い空には、鳥が待っている。

 この空の下で、ダリアスはどこで何をやっているのか。クリスフィアには知るすべもなかった。

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