Ⅰ-Ⅳ 大神の力
2019.8/24 更新分 1/1
「薄汚い、石の都の住人どもめ……手前ら、ひとり残らず氷漬けにしてやるよ!」
巨人の頭部で、メフィラ=ネロはおぞましい雄叫びをあげていた。
巨人の巨体が青白い閃光に包まれると、投石機に砕かれた右腕と胸もとが修復されていく。投石機の破壊力は凄まじかったが、やはりそれだけでメフィラ=ネロを滅ぼすことは難しいようだった。
「手前らみたいな雑魚が何千人集まったって、あたしに太刀打ちできるもんかい! こんな場所までのこのこ現れたことを後悔しな!」
そんな風にわめきたててから、メフィラ=ネロはナーニャとリヴェルを見下ろしてきた。
遥かな高みにあるその顔の表情を見て取ることはできなかったが、紫色の三つの瞳が爛々と燃えているのははっきりとわかった。
「あんたたちは、しばらくそいつらと遊んでな! あたしは、前菜をたいらげてくるよ!」
ナーニャとリヴェルの周囲には、青い矮躯をした大神の民たちが群れ集っているのである。
メフィラ=ネロは哄笑をあげながら、闇の向こうに陣を敷いたセルヴァ軍のほうに近づいていく。
「ナ、ナーニャ、メフィラ=ネロが行ってしまいます……」
「うん。だけど僕たちはその前に、彼らをなんとかしなければならないからね」
原始的な石の槍や斧を携えた大神の民たちが、じりじりと包囲をせばめてくる。
いったいどれだけの人数が潜んでいるのか、闇の中には妖魅のごとき青い瞳がいくつも燃えさかっていた。
「リヴェル、ひとつお願いがあるんだけど……僕の身体を、ぎゅうっと抱きしめてくれないかな?」
こちらは真紅に燃える瞳で周囲を油断なく見回しながら、ナーニャが低い声でつぶやく。
リヴェルがその言葉を理解するより早く、手から松明がもぎ取られた。
「さあ、頼むよ。僕の魂が現世に留まれるように、君の力を貸しておくれ」
松明を握った両手を頭上に掲げながら、ナーニャがやわらかく微笑みかけてくる。
リヴェルはわけもわからぬまま、そのほっそりとした身体を抱きすくめることになった。
外套と装束を纏っているのに、ナーニャの火のような体温が伝わってくる。
それでもリヴェルはかまわずに、精一杯の気持ちでナーニャの身体を抱きすくめた。
「ありがとう」とつぶやいてから、ナーニャが声を張り上げる。
「聞け、大神の民たちよ! 僕もまた、大いなる神を目覚めさせるための依り代である!」
その瞬間――ナーニャの身体が本物の炎に包まれたかのような感覚が、リヴェルの全身に走り抜けた。
見上げると、ナーニャの白皙に浮かんだ刻印が、目も眩むばかりの輝きを発している。それはまるで、ナーニャの美貌に炎が躍っているかのような様相であった。
「大神の目覚めは近い! そのときこそ、君たちは数百年ぶりに大神と相まみえて、この世の支配者に返り咲くことができるだろう! 四大神の御世は終焉を迎え、再び魔術が世界の摂理を司るのだ!」
リヴェルの視界が、真紅に染まった。
ふたりの周囲に、本物の炎が噴きあがったのだ。
しかし、ナーニャの振りかざした松明の火は、その中で頼りなげに揺れているばかりである。
松明とは別の場所から――無から、炎が生まれ出たのだ。
それは、ナーニャの魂を犠牲にしない限り為すことのできない、大神アムスホルンの力であるはずだった。
紅蓮の炎の中で、ナーニャは凛然と立ちはだかっている。
その美貌に浮かぶのは、真なる王のごとき威厳であった。
そして――リヴェルは自分の腕の中で、凄まじいまでの力が脈動しているのを感じた。
(駄目です、ナーニャ! そんなことをしたら――)
リヴェルは皮膚が焼けただれそうになるほどの熱気を感じながら、ナーニャの身体を抱きすくめた。
いまにもナーニャの肉体が崩壊して、炎の塊になってしまうのではないか――メフィラ=ネロと同じように、この世ならざる存在へと変じてしまうのではないか――そんな恐怖が、リヴェルの心をわしづかみにしてしまった。
「しかし、聞け、大神の民たちよ……いまはまだ、その時ではない! 大神の目覚めは近いが、いまはその時ではないのだ! こんなちっぽけな僕を依り代にした復活は、まがいものの復活である! 大いなる神の力を人間ごときの内に封じ込めようという、許されざる行いである! これは、君たちの同胞ならぬ邪悪な背信者が目論んだ、神を穢す行いであるのだ!」
ナーニャは別人のような力強さで、言葉を発している。
その言葉さえもが、炎そのものであるかのようだ。
「神の目覚めは近い! あと数年か、数十年か――おそらく、百年とはかからないだろう! 六百年を過ぎる眠りを経て、この大地にはそれだけの力が蓄えられたのだ! 間近に迫った大神の目覚めを邪魔立てすることなど、決して許されない! 君たちは故郷たる聖域に戻り、大神の目覚めを待つがいい! 愛する家族、子や孫や伴侶たちとともに、大神の目覚めを待つのだ!」
炎の中で、何かが身じろぐ気配がした。
瞬間、ナーニャは「よせ!」と怒号をあげる。
「君たちが聖域の外で罪を犯せば、大神の子としての資格を失う! 家族とともに大神の目覚めを迎える幸福を、こんな場所で捨て去る気か!? 君たちは、幸福にならなければならないんだ! 六百年もの眠りに耐えた君たちは、希望にあふれた行く末を迎えるべきであるんだ!」
リヴェルは何も考えられぬまま、ナーニャの身体を抱き続けた。
その耳に、何か奇妙な音色が聞こえてくる。
それは、大神の民たちのあげる慟哭であった。
周囲に群がった大神の民たちが、嘆きの声をほとばしらせているのだ。
炎の向こうで、大神の民たちがへたり込んでいる姿が見えた。
ある者は頭を抱え、ある者は大地に爪を立て――そうして、その顔を涙に濡らしていた。
彼らは、大神の目覚めを信じたのだ。
ついに自分たちの時代がやってきたのだと、喜び勇んで聖域の外にやってきたのだ。
それがどれほどの喜びであり、希望であったのか、大神の民ならぬリヴェルにはわからない。
だけどこれが、メフィラ=ネロのもたらした絶望なのだということは理解できた。
彼らは自分たちの得た喜びや希望が嘘っぱちであるということを、この場で知ってしまったのだった。
「君たちを欺いたメフィラ=ネロは、僕が始末する。そして、このような企みで君たちの真情を弄んだ《まつろわぬ民》たちも、誓って僕が根絶してみせる。だから、すべてを僕に託してほしい。僕は偽りの力に溺れることなく、ひとりの人間としてそれを成し遂げることを誓おう」
ナーニャの声が、ふっと慈愛の気配をはらんだ。
ふたりを包んだ真紅の炎が、じょじょに存在を薄めていく。
そして、その向こうに群がっていた青い眼光も、ひとつずつ闇の向こうに消え始めたようだった。
どれだけの時間が過ぎたのか、魔なる炎が完全に消滅したところで、ナーニャはがっくりと膝をつく。
その身体を抱きすくめていたリヴェルも一緒に膝をつくことになり、ナーニャの手から離れた二本の松明が、地面の上でぶすぶすと燻った。
「なんとか……なったみたいだね。僕の魂は、ごっそり削られてしまったけれど……」
ナーニャが力を失った声でつぶやいた。
その頬や手の甲からは、炎の刻印が消えている。深紅の瞳もかつてないほどに光を弱めて、いまにもまぶたの向こうに隠されてしまいそうだった。
「ナーニャ、どうしてあんな真似を……」
ナーニャの身体を支えながら、リヴェルは涙をこぼすことになった。
ナーニャは弱々しく面を上げて、幼子のようにあどけなく微笑む。
「彼らを下がらせるには、これしかなかったんだよ……メフィラ=ネロと同じように、大神の力を行使するしかなかったんだ……」
「だけど、こんな……これでは、ナーニャの魂が……」
「大丈夫だよ。そのための、君じゃないか」
ナーニャは傷ついた小鳥のように、リヴェルにもたれかかってきた。
「リヴェルがいなかったら、僕の魂は完全に握り潰されていただろう……でも、僕は君を失いたくなかったから……なんとかこの世に留まることができたんだ……」
「ナーニャ……」
リヴェルは涙をこぼしながら、ナーニャの頭を胸もとに抱え込んだ。
ナーニャはうっとりと目を細めながら、静かにつぶやく。
「まあ、そういうわけで……かろうじて、僕はまだ人間のままでいられたよ……どうかその刀を引っ込めてもらえないかな、イフィウス……?」
リヴェルは驚いて、周囲を見回すことになった。
背後の闇に、長身の人影が立っている。彼は右手に長剣を、左手に松明を携えており、その火が奇妙な仮面をかぶった騎士の顔を照らし出していた。
「あなだはごのようなばじょで、いっだいなにをやっでいだのだ……? ながまをみずでで、にげるづもりであっだのが……?」
「まさか。僕の目的はただひとつ、メフィラ=ネロを討伐することだよ。なんとか勝ちの目が見えてきたところであったからね」
ナーニャが身を起こそうとしたので、リヴェルはそれに手を貸すことになった。
リヴェルの小さな身体にぐったりともたれかかりながら、ナーニャは小さく笑い声をあげる。
「ほら、あれが見えるだろう? 西の王国のどこかの砦が、援軍を差し向けてくれたんだよ。ざっと数千は下らないだろうね」
「じがじ……ぞれいじょうのぜんりょぐをもづマビュドラのぐんでも、メフィラ=ネロにがないはじながっだ」
「うん。彼らだけでは、無理だろう。だけどここには、僕もいるからね」
震える指先でリヴェルの肩をぎゅっとつかみながら、ナーニャはそう言った。
「君が来てくれたのは僥倖だ、イフィウス。五分であった勝ち筋が、これで八分に上がったよ。……いますぐに、セルヴァの軍と合流しよう」
「ごうりゅう? ながまは、みずでるづもりが?」
「僕がゼッドたちを見捨てるわけがないだろう? そもそも君こそ、どうして単独行動が許されたんだい?」
「……じょうべぎがぐずれおぢぞうであっだので、ぜんいんがじめんにおりだのだ。ぞのぞうらんのずぎをづいで、わだじはあなだをざがじもどめだ」
「なるほど。もちろんゼッドたちも、無事なんだろうね?」
「うむ。ずぐなぐども、じだにおりるまではげんざいであっだ。マビュドラのべいじがなんめいが、でぎずをおっだぐらいのもだ」
「それなら、安心だ。いまのメフィラ=ネロは、すっかりセルヴァ軍に夢中だからね。城壁の中のほうが安全なぐらいなんじゃないかな」
そう言って、ナーニャは自分を奮い立たせるように背筋をのばした。
「それじゃあ、行こう。セルヴァ軍と合流できれば、メフィラ=ネロを討伐できるかもしれないからね」
イフィウスはしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて長剣を鞘に戻した。
そうしてこちらに近づいてくると、背を向けて屈み込む。
「のるがいい。いまのあなだには、じぶんのあじであるぐぢがらものござれでいないはずだ」
「ありがとう。リヴェルは、松明をお願いできるかな?」
「は、はい……」
ナーニャを背負ったイフィウスは、右腕一本でその身体を支えながら、自分の松明を左手でかざした。
リヴェルは地面に落ちていた二本の松明を拾い上げ、ナーニャの姿を見上げやる。
「ふふ。いよいよ最終決戦だというのに、格好がつかないね」
「いえ、そんな……ナーニャを背負うことのできない非力さを口惜しく思います」
「いいんだよ。君を抱きあげるのは僕の役割で、僕を背負うのはイフィウスの役割だったってことさ。いつもだったら、ゼッドにこの役をお願いするところだけど……この際は、彼ほど頼りになる相手もいないからね」
イフィウスの肩にぐったりともたれながら、ナーニャは微笑んだ。
「それじゃあ、お願いするよ。妖魅が近づいてきても、イフィウスが刀を抜く必要はないからね。メフィラ=ネロに気づかれないように、こっそりセルヴァ軍のほうに向かってくれ」
無言でうなずいたイフィウスが、闇の中に足を踏み出す。
その闇の向こうでは、メフィラ=ネロの率いる氷雪の妖魅どもとセルヴァの兵士たちが、死闘を繰り広げている様子であった。