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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
173/244

Ⅰ-Ⅲ 勝算

2019.7/20 更新分 1/1

「君、ひとつ頼まれてくれないかな?」


 メフィラ=ネロのもとへと向かおうとしていたナーニャが、ふいに背後へと呼びかけた。

 ナーニャとリヴェルの背後に陣取っているのは、四名のマヒュドラの兵士たちである。彼らは城壁を這いのぼってくる妖魅を相手に、長剣や戦斧を振るっており、とうていナーニャに答えられるような状況ではないようだった。


「そこの樽を、この通路のなるべく先のほうまで投げ飛ばしてくれないかな。妖魅どもを撃退するのに、ここじゃあ火種が遠すぎるんだ」


 妖魅の頭を戦斧で割り砕き、城壁の下に叩き落とした兵士のひとりが、野獣のような形相でナーニャを振り返る。


「たわごとをぬかすな! そのようなことに、かまけているゆうよはない!」


「猶予だったら、僕が作ってあげるよ。これは、必要なことなんだ」


 リヴェルの肩を抱いたナーニャが、マヒュドラ兵のもとにぴったりと身を寄せる。

 マヒュドラ兵は紫色の瞳に困惑の光を浮かべながら、後ずさろうとする。


「よせ! じゃまだ! これでは、ぶきをふるうことができん!」


「だから、僕がそばにいる間は、武器を振るう必要もないんだよ」


 胸壁の向こうから、新たな妖魅がぬっと顔を出した。

 その妖魅がくわっと口を開いて透明の牙を剥き出しにした瞬間、後方のかがり火から炎の濁流が生まれいで、横合いからその顔面にからみつく。

 首から上を失った妖魅は、そのままずるずると壁の下に落ちていった。


「わかったろう? さあ、樽のほうをお願いするよ。間違っても、壁の下に落としてしまわないようにね」


 マヒュドラ兵はしばらく青い顔で立ちすくんでいたが、やがて戦斧を腰に戻すと、足もとに置かれていた樽を両腕で抱きかかえた。

 その中にぎっしりと油の詰め込まれた、重い樽である。

 マヒュドラ兵は獣のようなうなり声とともに、それをおもいきり投げ飛ばした。


 樽はなだらかな曲線を描き、城壁の上の通路を埋め尽くした妖魅どもの頭上に落下する。

 次の瞬間、その場所に火柱がたちのぼった。

 樽が破裂し、火口の火が内部の油に移ったのだろう。遠目にも、それだけで数多くの妖魅が溶け崩れていくのが見て取れた。


「ありがとう。それじゃあ僕たちはこの場を離れるから、くれぐれも気をつけてね」


 ナーニャはマヒュドラ兵ににこりと笑いかけてから、リヴェルを見下ろしてきた。


「さあ、それじゃあ行くよ、リヴェル」


「は、はい!」


 ナーニャの左腕を抱きすくめながら、リヴェルは懸命にうなずいてみせた。

 行く手には、まだまだ数多くの妖魅どもが蠢いている。

 そしてその先に待ち受けるのは、恐ろしいメフィラ=ネロだ。

 通路の途上ではさきほどの炎が轟々と燃えており、どうやってあの場所を突破するのかもわからない。


 しかし、リヴェルの足がすくむことはなかった。

 恐ろしいことは、恐ろしい。この状況で恐怖を感じない人間など、いるわけがなかった。

 だけどリヴェルは、ナーニャとともにある。

 その火のように熱い左腕を、リヴェルは両手でしっかりと抱きすくめている。


 たとえこの夜に魂を返すことになったとしても、ナーニャとともにあれるのならば、後悔はなかった。

 どうせナーニャと出会っていなければ、故郷を放逐されたその日に、野盗に襲われて失っていた生命であるのだ。


 それよりもリヴェルは、ナーニャの安否こそが気がかりであった。

 ナーニャがリヴェルたちを救うために、人間としてい生きることをあきらめてしまったりはしないか――いまのリヴェルにとっては、それこそが一番の懸念であるのだった。


「ナーニャ……ひとつだけ約束してください」


 リヴェルが震える声で呼びかけると、ナーニャはきょとんとした面持ちで振り返った。

 その白い面には深紅の禍々しい刻印に覆われているというのに、いつもの美しくてあどけないナーニャの表情である。

 それがうっすらと涙でかすむのを感じながら、リヴェルは言葉を重ねてみせた。


「どうか、人間として生きることをあきらめないでください。わたしは……ナーニャが人間としての幸福を失う姿を見るぐらいだったら、ナーニャとともに魂を返したいと思います」


 ナーニャはしばらくびっくりしたように目を見開いていたが、やがて慈愛に満ちた微笑を浮かべた。


「リヴェルもけっこう、強欲なんだね。僕が大人しく魂を返してしまったら、きっとゼッドたちも道連れになってしまうんだよ?」


 リヴェルは、何も答えることができなかった。

 きっとゼッドであれば、リヴェルと同じ道を選ぶだろうと思うのだが――チチアやタウロ=ヨシュにそこまでの覚悟を望むことなど、できるはずもなかった。


 それに、この世でメフィラ=ネロに対抗できるのは、きっとナーニャただひとりであるのだ。

 ナーニャがあらがうことをやめてしまったら、この世は本当に滅んでしまうのかもしれない。

 しかしそれでも、リヴェルは前言をひるがえす気にはなれなかった。


「だけどわたしは、ナーニャのいない世界に意味を見出すことができないのです。こんなことを口にしたら、西方神に魂を砕かれてしまうかもしれませんけれど……わたしは王国の平和などよりも、ナーニャにほうが大事であるのです」


「うん、強欲だ」と、ナーニャは愉快そうに笑った。


「すごいね。リヴェルも僕と同じぐらい、強欲になってしまったみたいだ。僕なんかのそばにいたせいで、魂が穢れてしまったのかな」


「ナーニャ、わたしは……」


「うん。僕も強欲に、自分の望むものを手にしようと考えているよ」


 火のように赤い瞳に、強い、真っ直ぐな光をたたえながら、ナーニャはそう言った。


「僕がこの魂を大神に捧げて、《神の器》としての力を完全に覚醒させれば、メフィラ=ネロを道連れにすることも簡単だろう。僕たちは《神の器》として、同等の力を持っているはずなんだからね」


「ナーニャ……」


「だけど僕は、その道を選ばない。魂の九割を失ったとしても、最後の一割で人間としての生にしがみついてみせるよ。そうしてリヴェルやゼッドたちと、幸せな生活を築くんだ」


 ナーニャの右手が、リヴェルの髪をそっと撫でてくれた。

 深紅の刻印が浮かびあがる、火のように熱い手だ。

 だけどリヴェルには、そのすべてが愛おしく感じられてならなかった。


「この強欲な願いをかなえるために、メフィラ=ネロを討ち倒そう。……それじゃあ、行くよ」


 ナーニャの目が、これから向かう先に突きつけられた。

 妖魅どものひしめく、通路である。


 もちろん妖魅どもは、ふたりが語らっている間も絶えまなく、こちらに牙を剥こうとしていた。しかしそれらは、ナーニャに近づこうとした瞬間に、すべて炎の濁流に呑み込まれていたのだった。


「僕たちは、ただ進むだけでいい。こんなに簡単な話はないだろう?」


 笑いを含んだ声で言いながら、ナーニャは足を踏み出した。

 妖魅を焼き滅ぼす炎は、ふたりの背後に燃えるかがり火から生まれたものである。そうしてナーニャとリヴェルが前進するにつれ、背後のかがり火が遠ざかると、今度は行く手に燃えさかる炎が渦を巻いて妖魅たちを滅ぼしていった。


 闇の向こうに立ちはだかるメフィラ=ネロは、さきほどからぴくりとも動かない。

 きっとまた、ナーニャのことを観察しているのだろう。その静かさが、不気味であった。


 そうして前進するうちに、ふたりはとうとう通路に燃えあがる炎のもとまで到着した。

 ぶちまけられた油と破裂した樽の木片を糧として、赤い炎が燃えあがっている。

 この向こうにもまだ無数の妖魅どもが待ち受けているはずであったが、炎の勢いが凄まじく、何も見て取ることができなかった。


「さて、問題はここからだな。リヴェル、ちょっと僕の腕から手を離してもらえるかい?」


「え? ……はい、わかりました」


 リヴェルは非常な心細さを感じつつ、言われた通りにナーニャの腕を解放した。

 それと同時に、ナーニャの腕がリヴェルの背中と膝の裏に回される。リヴェルはわけもわからぬうちに、その身体をナーニャに抱きかかえられてしまっていた。


「ふふ。リヴェルぐらい小さな女の子じゃなかったら、こんな風に抱きあげることも難しかっただろうね」


 間近に迫ったナーニャの顔が、悪戯っぽく笑っていた。


「さあ、僕にしっかりつかまって。じゃないと、ゼッドみたいにひどい火傷を負ってしまうからね」


「は、はい……」


 リヴェルはおそるおそる、ナーニャの首に腕を回した。

 ナーニャの肉体は、触れる場所すべてが火のように熱い。こんなにぴったりと身を寄せ合っていたら、それだけで炎に包まれているような心地であった。


 しかしリヴェルは、自分の心が温かく満たされていくのを感じた。

 ナーニャの存在を、こんなに間近に感じられるだけで、リヴェルは幸福でたまらなかったのだ。


「それじゃあ、行くよ。まぶたは閉ざしておいたほうがいいかもね」


 ナーニャの言う通り、リヴェルは固くまぶたをつぶった。

 それでも全身に、ナーニャの存在を感じることができる。リヴェルはなんだか、炎の精霊に優しく抱きあげられているような心地であった。


 やがてそこに、新たな熱が加えられてくる。

 きっとナーニャが、燃えさかる炎の中に足を踏み入れたのだろう。

 リヴェルは無心に、ナーニャの身体を抱きすくめた。


「……さあ、もう大丈夫だよ」


 ナーニャの優しい声とともに、石造りの通路に下ろされる。

 それでもなおナーニャの首を抱きすくめたまま、リヴェルはまぶたを開いた。

 とたんに妖魅が眼前に迫ってきて、「きゃあ!」と悲鳴をあげてしまう。

 しかしそれは、背後から繰り出された炎の槍によって胴体を貫かれ、城壁の下に落ちていった。


「問題は、ここからだ。リヴェル、そのまましっかりつかまっていてね」


 ナーニャがそのように囁くと同時に、再び城壁が頼りなく揺らいだ。

 城内に侵入していた巨人どもが、ついに城壁まで辿り着いてしまったのだ。

 あの巨大な拳で、石造りの城壁を殴打しているのだろう。炎の向こうからは、マヒュドラ兵たちの悲鳴が聞こえていた。


「そうそう簡単に、この立派な城壁が崩されるとは思わないけど……でも巨人どもは、きっとこうやって城壁に穴を穿って侵入を果たしたんだろうからね。いくつも大穴を開けられたら、さすがに危ういかもしれない」


 そんな風につぶやきながら、ナーニャは右手の側に視線を向けた。

 闇の中に、メフィラ=ネロの裸身を頭部に生やした氷雪の巨人がたたずんでいる。また城壁からはいくぶん距離を取って、こちらの様子をうかがっているようだ。


「メフィラ=ネロのほうから近づいてきてくれないと、攻撃のしようがない。彼女がこんなに用心深いっていうのは、ちょっと計算外だったな」


「ど、どうしましょう? この城壁を崩されてしまったら、ゼッドたちも危険です」


「うん。ここはやっぱり、城内の巨人どもから、先に始末を――」


 と、そこまで言いかけて口をつぐんだナーニャは、何かの匂いでも嗅ぐように鼻をひくつかせた。


「あれ? これは……?」


「ど、どうしたのです、ナーニャ?」


 ナーニャは答えず、闇の中に目を凝らす。

 リヴェルも同じ方向に目をやったが、そこに見えるのは燐光のように青白い輝きを纏ったメフィラ=ネロと巨人の異形ばかりであった。


「ふうん。よくわからないけど……もしかしたら、これが勝機になるかもしれない」


「しょ、勝機? いったい何を見つけたのですか?」


「いや。とにかくいまは、巨人どもをなんとかしないとね」


 ナーニャは、逆側に目をやった。

 城壁の、内側である。そこでは氷雪の巨人どもが、狂ったように城壁を殴打している。


 こうしてみると、他の巨人どもはメフィラ=ネロの巨人に比べると、ひと回りは小さいようだ。その背筋を真っ直ぐにのばしても、頭が城壁の上にまで届くことはないだろう。


 しかしそれでも、二階建ての家屋ぐらいの背丈をした巨人である。眼下では、数多くのマヒュドラ兵たちが火矢を放っているようであったが、まったく痛痒を感じる様子もなく、巨大な拳を振り回している。


「一番近いのは、あいつか。リヴェル、もう少しだけ前進するよ」


「は、はい」


 ふたりが歩を進めると、とたんに妖魅どもが襲いかかってきた。

 しかしそれは、背後の炎から生み出される炎の魔術によって退けられていく。


 その間も、城壁は頼りなく揺れていた。

 しかもだんだん、真っ直ぐ歩くことさえ覚束ないほどに、振動が強まっていく。ナーニャはあえて、城壁を殴打している巨人のそばに近づいていっているのだ。


 巨人の数は五体であり、一定の距離を置いて、それぞれが城壁を殴打している。

 そのうちの一体のちょうど真上にまで到着したところで、ナーニャはぴたりと足を止めた。


「リヴェル、さっきよりもしっかりと、僕につかまっているんだよ?」


 言いざまに、ナーニャが再びリヴェルの身体をすくいあげてきた。

 リヴェルは大いに驚きつつ、ナーニャの首にしがみつく。


「ど、どうしようというのですか、ナーニャ? まさか……」


「うん。たぶんその、まさかだね」


 ナーニャはにこりと微笑みと、胸壁の低くなっているところに足をかけた。

 その真下では、氷雪の巨人が拳を振り回している。

 ナーニャは何を躊躇うでもなく、その頭上へと身を躍らせた。


 リヴェルは恐怖に凍りつきながら、ナーニャの首を抱きすくめる。

 巨人の鬼火のごとき目が、うろんげにナーニャとリヴェルを見上げてきた。


 そのおぞましい顔貌が、見る見る間近に迫ってくる。

 そうして、巨人が拳を振り上げようとしたとき――四方八方から、炎の濁流が飛来してきた。


 城壁の下で焚かれていたかがり火や、兵士たちが掲げていた松明から、炎の濁流が生まれ出たのだ。兵士たちは、誰もが驚愕の声をあげたようだった。


 巨人の巨体は、それらの炎に全身を包まれる。

 そしてナーニャは、燃えあがる巨人の頭の上に着地した。


「ふふん。なんとかなったみたいだね」


 リヴェルはぼんやりと、炎の中で笑うナーニャの顔を見つめていた。

 巨人はぐしゃりと、前かがみに崩れ落ちる。その動きに合わせて、ナーニャは地面に降り立った。


「ナーニャ……いきながらえていたか」


 と、そこにマヒュドラの兵士たちが駆け寄ってきた。

 そのうちのひとり、ひときわ大きな身体をした人物が、傲然とナーニャを見下ろしてくる。それはこの城塞の司令官たるヤハウ=フェム将軍であった。


「やあ、ヤハウ=フェム。あなたもこんな前線までおもむいていたのだね」


「しきかんであるわれが、あんぜんなばしょでにげかくれするわけがない。……メフィラ=ネロなるかいぶつは、しとめたのか?」


「いや、これからだよ。その前に城内の巨人どもを片付けないと、こちらが危うかったものでね」


 ナーニャは凛然とした声で答えながら、リヴェルを地面に下ろしてくれた。


「まずは、巨人を掃討する。かがり火がそばにあれば十分だけど、足りないところは松明で補ってほしい。協力、してもらるよね?」


 ヤハウ=フェムは憎々しげに鼻を鳴らしてから、北の言葉で何かをがなりたてた。

 その声に応じて、松明を掲げた兵士たちが進み出てくる。

 ナーニャは満足そうに微笑みつつ、もっとも手近な場所にいる巨人のもとに向かった。その手はしっかりと、リヴェルの手を握りしめてくれていた。


 炎の糧さえあれば、氷雪の巨人はナーニャの敵ではない。ナーニャは城壁に沿って駆け巡り、巨人どもを一体ずつ確実に仕留めていった。

 そのたびに、周囲の兵士たちから声があがる。恐怖と困惑と賞賛の入り混じったわめき声である。この氷雪の巨人がどれだけ恐ろしい存在であるかは、彼らも身をもって思い知らされていたのだ。


 そうして氷雪の巨人どもは、最後の一体まで焼き滅ぼされることになった。

 しかし、城壁はまだ鳴動している。それに気づいたナーニャは、子供っぽく「ふん」と鼻を鳴らした。


「メフィラ=ネロが、しびれを切らしたようだね。ヤハウ=フェム、僕はここで失礼するよ」


「どこにいく。じょうへきにのぼるかいだんは、むこうだ」


「そんな猶予はないようだから、僕はここから失礼させてもらう」


 そう言って、ナーニャは城壁のほうを指し示した。

 最後まで暴れていた一体が、そこに大きな穴を穿っていたのだ。確かに瓦礫を乗り越えれば、そこから城壁の外に出ることは可能であろうが、もちろんヤハウ=フェムはうろんげに眉をひそめていた。


「こおりのまほうをつかうばけものをあいてに、じべたでたちむかうつもりか?」


「うん。ちょっと考えがあるんでね。よければ、松明を一本――いや、リヴェルの分もあわせて、二本いただけるかな?」


 ヤハウ=フェムが顎をしゃくると、兵士たちが松明を差し出してきた。


「それでは、ひがたりまい。なんめいかのへいしをどうこうさせよう」


「いや。メフィラ=ネロを油断させたいから、助力は不要だよ。……それに、氷雪の魔術を発動されたら、リヴェル以外の人たちまで守りきれる自信がないからね」


 そう言って、ナーニャは不敵に微笑んだ。


「巨人は一掃できたけど、他の妖魅はまだ城内で悪さをしてるんだろう? ヤハウ=フェムには、そっちの始末をお願いするよ。メフィラ=ネロを仕留めるのに、どれだけの時間がかかるかもわからないからね」


「まさか、おまえは……そのままにげるきではあるまいな?」


「嫌だなあ。城壁の上にはまだ大事な仲間たちが居残ってるんだよ? 僕が彼らを見捨てるわけないじゃないか」


 ナーニャの瞳が、ゆらりと妖しい輝きを帯びた。


「それに、メフィラ=ネロを放置しておいたら、いずれ四大王国が滅ぼされることになる。どこにも逃げ場なんて、ありはしないんだよ。……それじゃあご武運を、ヤハウ=フェム」


 それだけ言って、ナーニャはうず高く積もった瓦礫の上に踏み込んだ。

 ナーニャの言葉に納得したのかどうか、ヤハウ=フェムは北の言葉で兵士たちに命令を下している。その者たちが、ナーニャの後を追ってくることはなかった。


「さあ、ここからが正念場だ。絶対に僕から離れちゃ駄目だよ、リヴェル?」


「は、はい。だけど、本当に大丈夫なのですか?」


「勝算は、五分五分だね。でも、そんなに悪い賭けではないだろう?」


 リヴェルの手を引きながら、ナーニャは瓦礫の上を突き進んだ。

 そうして最後は、滑り落ちるようにして外界に出てみると――ナーニャが言っていた通り、メフィラ=ネロが城壁を殴打していた。


「やあ、精が出るね、メフィラ=ネロ!」


 ナーニャが声を張り上げると、メフィラ=ネロは巨人ごとこちらに向きなおってきた。

 遥かな頭上で、紫色の三つの目が、炎のように燃えている。


「ようやくお出ましかい、火神の御子! あんたの大事なお仲間は、みんな氷漬けにしてやったよ!」


「ふん。ゼッドやイフィウスがそう簡単に魂を返すとは思えないね。君の苛立った声を聞く限り、それは確実だ」


 こちらを向いた氷雪の巨人は、左の拳でおもいきり城壁を殴りつけた。

 石造りの城壁が、がらがらと崩れ落ちていく。これではグワラムの城塞も、しばらくは城塞としての役目を果たせなそうなところであった。


「なんでもいいさ! あんたの大事な火の糧は、みんな瓦礫の下に埋まっちまったよ! そんなちっぽけな火種だけを頼りに、あたしとやりあおうってのかい?」


「ああ。これでも、十分すぎるぐらいだろう?」


 ナーニャはどうも、意図的にメフィラ=ネロを挑発しているようだった。

 ナーニャの手をしっかり握り返しながら、リヴェルは固唾を飲むばかりである。


「それじゃあ、決着をつけようか。僕と君、魂を返すのは、どちらかな?」


「ふん……舐めた口を叩いて、あたしが近づくのを待ってるんだろう? 誰がそんな手に乗るもんかい!」


 メフィラ=ネロが、何か金属的な咆哮をあげた。

 それに応えるように、周囲の暗がりから同じような声が響く。それを耳にした瞬間、ナーニャの双眸が熾烈な炎をたたえた。


「……君はまだ、罪もない大神の民を巻き添えにするつもりなのか、メフィラ=ネロ」


 闇の中に、青い眼光がいくつも灯っていた。

 髪も肌も瞳も青い、矮躯だが恐るべき力を持つ、人獣――大神の民たちが、ふたりを取り囲んでいるのだ。


「君の犯した罪の中で、もっとも許せないのが、これだ。彼らは大神の目覚めを夢見ながら、聖域の中でつつましく、何百年という生を過ごしてきたのに……君たちは、偽りの目覚めを与えてしまった」


「何が偽りだい! 忌々しい石の都をのきなみ踏み潰してやれば、こいつらの待ち焦がれていた大神の時代がやってくるんだよ!」


「だけどこの地には、まだ十分な魔力が蘇っていない。大神アムスホルンは、まだしばらく眠っているべきなんだ。眠りを欲する大神を無理やり覚醒させてしまったら、この世界がどうなってしまうのか……君は、そんなことさえ想像できないのか?」


「はん! それで潰れるってんなら、こんな世界は潰れちまえばいいのさ! そのほうが、いっそ清々しいぐらいじゃないか!」


「話にならないな。君たちは、大いなる神を邪神に仕立てあげようとしてしまっているんだ」


 ナーニャはその手に握りしめた松明を、メフィラ=ネロの立ちはだかっている方向に突きつけた。


「僕は心から、《まつろわぬ民》の非道な行いを憎む! それに加担するなら、君も同罪だ!」


 メフィラ=ネロは、青白く輝く裸身をのけぞらして、嘲笑をあげた。

 そして――

 次の瞬間、彼女の従えた巨人の右腕が、木っ端微塵に砕け散った。


 巨人はぐらりと倒れかかり、崩落しかけた城壁にもたれかかる。

 メフィラ=ネロは長い髪を逆立てながら、怒りの雄叫びをほとばしらせた。


「な、何をしやがった! いまのは、いったい――!」


「さあ、いったい何だろうねえ?」


 ナーニャは赤い唇を吊り上げて、嗜虐的な笑みをたたえた。

 すると今度は、巨人のもたれかかった城壁の一部が、轟音とともに砕け散る。

 弾け散った切片が、リヴェルたちの頭上にもパラパラと降り注いできた。


「何だよ、これは……あんたが使えるのは、火の魔術のだけのはずだ!」


「うん。もちろん僕に、あんな大きな岩石を飛ばす力はないよ」


 ナーニャは悪い精霊のように、咽喉を鳴らして笑った。


「言ってみれば、これは四大神の怒りだろうね。父たるアムスホルンの眠りをさまたげようとする邪教徒に、四大神が粛清の刃を向けてきたのさ」


「四大神の怒り……?」


 怒りに震える声でうめきながら、メフィラ=ネロは城壁と反対の側に目をやった。

 同じ方向に目をやったリヴェルは、息を呑む。


 さきほどまでは暗黒に包まれていた世界に、いくつもの炎が浮かびあがっていた。

 それに照らし出されるのは、白銀の甲冑を纏った兵士たち――西の王国セルヴァの軍勢である。


 おそらくは、数千にも及ぶ数であるのだろう。

 それはまるで、漆黒の世界に赤と銀の絨毯が敷きつめられているかのような様相であった。

 そしてその先頭には、得体の知れない巨大な器具が設置されていた。


「書物で目にしたことがある。あれは、攻城戦で使用する、投石機という兵器だよ。まぎれもなく、四大神の民の力だね」


 低くひそめた声で、ナーニャがつぶやいた。

 それと同時に、ぶんっと空気を薙ぐ音色が響く。

 次の瞬間、人間の頭よりも巨大な岩石がうなりをあげて、巨人の胸のど真ん中にめり込んだ。


「どこの砦の部隊かわからないけれど、こちらの援軍要請に応じてくれたんだね。これで勝算は、五分五分だ」


 真紅の瞳を燃やしながら、ナーニャは妖艶に笑っていた。

 その顔は、リヴェルが息を詰めるぐらい、恐ろしくも美しかった。

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