Ⅴ-Ⅱ 七邪神
2019.7/13 更新分 1/1 ・8/11 誤字を修正
ゼラドの軍は、セルヴァの領土をひたすら北上していた。
世界はすでに、夜の闇に包まれている。あの、おぞましい巨大な妖魅に襲撃されたグリュドの砦を迂回してから、すでに長きの時間が過ぎ去っていたのだった。
あれからは一度も小休止を取っていないので、トトスも人間もくたびれ果てている。
しかし、この強行軍に文句の声をあげる人間はいなかった。
それはもちろん、上官の命令であれば文句をつけることなど許されるはずもない。しかしそれ以上に、彼らはあのおぞましい妖魅からもたらされた恐怖に魂を縛られているのではないか――と、メナ=ファムにはそのように思えてならなかった。
この闇の向こう側からは、あの妖魅が追いかけてきているかもしれない。立ち止まったら、たちまちあの妖魅に追いつかれてしまうかもしれない。あの妖魅の姿を目にした人間であれば、そういった恐怖に取り憑かれていたとしても、まったく不思議なことはなかった。
(まったく、なんて日だい。あたしたちがこうして生き永らえていることこそが、奇跡みたいなもんじゃないか)
トトスに革鞭を振るうラムルエルのかたわらで、じっと息をひそめていたメナ=ファムは、そんな風に考えていた。
メナ=ファムたちは、死した獣の姿をした妖魅どもに襲撃されたことがある。しかし、そんな妖魅とも比較にならぬぐらい、あのグリュドの砦に居座っていた妖魅は脅威そのものであった。
あんな化け物を相手にしたら、人間に勝てるはずはない。メナ=ファムは、本能でそれを思い知らされていた。
どんなにちっぽけな虫であっても、数千や数万も集まれば、人間を討ち倒すこともかなうだろう。しかし、数千や数万の人間が集まっても、あの妖魅を討ち倒せるとは思えない。それ以前に、あの妖魅を眼前に迎えただけで、たいていの人間は狂い死んでしまうのではないかと思われた。
「……東の王国、さまざまな伝承、残されています」
御者台のラムルエルが、ふいに低い声でつぶやいた。
メナ=ファムは、無言のままそちらを振り返る。
「この世界、かつて、十四の神、ありました。しかし、大神アムスホルン、眠り、落ちたとき、半分の神、捨てられたのです。捨てられた神、暗黒に堕ち、邪神と化した……そのような伝承、残されています」
「ずいぶんと辛気臭い話だね。こんな最悪な夜には相応しいのかもしれないけどさ」
メナ=ファムが気力をかき集めて軽口を叩いてみせると、ラムルエルが横目で視線を送ってきた。
いつも沈着な黒瞳が、その奥底にさまざまな感情を渦巻かせながら、メナ=ファムを見つめる。
「大神アムスホルン、目覚めるとき、この世界、魔術、蘇ります。そのとき、七つの邪神、同時に蘇る、言われています。蛇神ケットゥア、蛙神グーズゥ、疫神ムスィクヮ、蜘蛛神ダッバハ、蟲神ケルヘル、屍神ギリ・ラァ……そして、猫神アメルィアです」
「邪神とかいうわけのわからないもんを崇める馬鹿な連中がいるらしいってことは、あたしも小耳にはさんだことがあるよ。だけど、それが何だってんだい?」
「猫神アメルィア、猫のごとき姿、言われています。……猫とは、東の王国、棲息する獣です。姿、豹、似ています」
メナ=ファムは、言葉を失うことになった。
「ちょっと待ちなよ。それじゃあ、まさかあんたは……」
「馬鹿げた話であること、わきまえています。ですが、さきほどの妖魅、猫、姿、似ている、思いました」
メナ=ファムは、おもいきり奥歯を噛みしめた。
そうしないと、いまにも全身が震えてしまいそうだったのだ。
「……あんたはつまり、さっきのあれが邪神そのものなんじゃないかって言いたててるわけだね、ラムルエル」
「もちろん、確証、ありません。ただ、さきほどの妖魅……神のごとき、恐ろしさ、感じました」
メナ=ファムは乱れそうになる息を整えてから、なんとか言葉を返してみせた。
「で? どうしていきなり邪神なんてもんが、この世に姿を現したってのさ? そもそもそいつらは、大神アムスホルンが目覚めるまでは蘇らないって話なんだろう?」
「はい。不可解、思います。大神、目覚めれば、邪神、浄化され、再び、神となる、はずであるのです」
視線を前方に戻しつつ、ラムルエルは囁くような声でそのようにつぶやいた。
「ですが、大神、目覚めていません。現在、四大神の御世です。邪神、浄化を待たず、現世、現れる、理由、わかりません」
「うっかりひとりだけ目を覚まして、のこのこ現世に現れちまったってのかね。まったく、笑えない冗談さ」
「はい。残りの邪神、目覚めていないこと、祈りたい、思います。ですが……」
「ですが、何だってんだい? また聞きたくもない話を聞かされそうだね」
「はい。屍、従者とする、疫神ムスィクヮ、あるいは、屍神ギリ・ラァ、であるのです。屍の妖魅、その主人、どちらかであるはずです」
メナ=ファムは不吉な想念を吐き出すために、おもいきり溜め息をついてみせた。
「まったく、愉快な話を聞かせてくれるねえ。この前、あたしらに襲いかかってきた屍骸の妖魅まで、邪神とやらの手下だって言いたいのかい?」
「はい。そう考えると、ひとつ、道筋、見えてくる、思うのです」
「道筋?」
「はい。屍の妖魅、本来の標的、ギリル=ザザたちでした。ギリル=ザザたち、ゼラドとの戦い、止めるべく、王都から派遣された、人々です」
メナ=ファムは、再び言葉を失った。
ラムルエルの言わんとすることが、うっすらと察せてしまったのである。
「そして、猫神アメルィアと思しき妖魅、グリュドの砦、襲いました。グリュドの砦、王都の兵団、駐屯していたはずです」
「……邪神どもは、王都の連中をつけ狙ってるって言いたいんだね?」
「はい。ですから、我々、見逃されたのではないでしょうか?」
それは、メナ=ファムの胸にも宿されていた疑念であった。
あのおぞましい怪物は、どうしてゼラドの軍を素通りさせたのか――そして、どうしてあのような喜悦の表情を浮かべていたのか。それがメナ=ファムには、いぶかしく思えてならなかったのだ。
「でも、ちょっと待っておくれよ。邪神っていっても、神は神なんだろ? どうしてそれが、王都の連中をつけ狙わなきゃならないのさ?」
「わかりません。ただ、四大神の御世、終わらぬ限り、七邪神、神に戻ること、できません。四大王国、滅ぼしたい、願っているのでしょうか」
「物騒な話だね。それに、ゼラドだって王国の民であることに変わりはないだろう? たとえゼラドが王都を叩き潰したって、今度は自分たちがセルヴァの王に成り代わろうって魂胆なんだしさ」
「はい。私にも、真実、わかりません。ただ、尋常でない、思うばかりです」
ラムルエルがそのように答えたとき、前方から重々しい音色が聞こえてきた。
メナ=ファムはハッと身構えかけたが、それは全軍停止を命じる太鼓の音色であった。
「ふん。ようやく小休止かい。このままじゃあトトスが潰れちまうってことにようやく気づいたのかね」
ラムルエルも、手綱を絞って荷車を停止させた。
その間に、周囲の旗本隊の兵士たちは、憔悴した面持ちで言葉を交わし合っている。きっとさきほどの妖魅、猫神アメルィアについて取り沙汰しているのだろう。恐怖を宿した眼差しで周囲の闇を見回している人間も、少なくはなかった。
「あたしはちょいと、エルヴィルたちに状況を説明してくるよ」
そのように告げてから、メナ=ファムは地面に降り立った。
周囲の兵士たちが松明を掲げているので、視界には困らない。荷車の後部まで移動したメナ=ファムは、手の甲で強めに扉を叩いた。
「あたしだよ。開けてもらえるかい?」
しばらくののち、ゴトリと閂の外される音が響いた。
扉を細く開いて、素早く内側に潜り込んでから、すぐさま閂をもとに戻す。
シルファとエルヴィルとプルートゥが、それぞれの感情をひそめた目でメナ=ファムを見返してきた。
「やあ、エルヴィルも起きてたんだね」
「このような状況では、とうてい眠ってはおられまい。……いったい何がどうなっているのだ?」
エルヴィルたちには、グリュドの砦が妖魅に襲われていたので、それを迂回して進軍するように命令が下された、としか伝えていなかったのだ。
エルヴィルは壁にもたれて座り込んでおり、シルファはそのかたわらでプルートゥのしなやかな首を抱きすくめている。それらの姿に変わりがないことを確認してから、メナ=ファムは口を開いた。
「あたしにも、さっぱりわけがわからないよ。だけどまあ、とりあえずグリュドの砦の連中は、あたしらを追ってくる余力もないみたいだね」
「信じられんな……グリュドの砦には、もともとの駐屯兵団に王都からの増援を加えて、数万の兵士が待機していたはずだ。たとえ妖魅に襲われていたとしても、ゼラドの進軍をみすみす見過ごすなどとは……」
「それだけ、とんでもない妖魅が砦にへばりついてたってことさ。あたしはべつだん、不思議だとは思わないね」
メナ=ファムは革の水筒の中身で咽喉を潤してから、さらに言った。
「とにかく、得体の知れない妖魅なんざに頭を悩ませたって、どうにもならないからね。あたしらが一番に考えなきゃいけないのは、自分たちの行く末についてさ」
メナ=ファムたちは、この夜にゼラドの陣から脱出する計画を立てていたのだ。
周囲の兵士たちが寝静まったら、荷車の床に空けた穴から外に忍び出る。あとは、ギリル=ザザたちの準備するゼラド軍の甲冑に着替えて、陣の外に脱出――というのが、おおまかな段取りであった。
「しかし、これまでとは状況が変わってしまった。グリュドの砦からここまで離れてしまったとなると……まずいことになるかもしれん」
「まずいことって、どういう意味さ?」
「ここはもう、セルヴァの領土のど真ん中である、ということだ。王都アルグラッドまでは数日の距離であるし、周囲には主要な砦が点在している。いかにゼラドの公子どもが低能であろうとも、このような場所で夜を明かそうとは考えまい」
「それじゃあ、どこで夜を明かそうってんだい?」
「手近な砦を襲撃して、占拠する。それ以外に、道はあるまい。このような場所で野営をしたら、朝にはセルヴァ軍に包囲されてしまうのだからな」
メナ=ファムは、おもいきり顔をしかめてみせた。
「それじゃあ、この夜の間に戦が始まっちまうってのかい? あたしらの計画が、台無しじゃないか」
「うむ。砦を占拠したならば、シルファの身柄はそちらに移されてしまうだろう。そうなったら、もう手詰まりだ」
エルヴィルも、その双眸に激情の炎を燃やしていた。
「こうなったら……戦乱の騒ぎに乗じて、陣を突破する他ないやもしれん」
「ちょいと待ちなよ。いくらなんでも、そいつはあまりに――」
メナ=ファムがそのように言いかけたとき、扉が外から叩かれた。
メナ=ファムは扉にぴったりと背をつけて、「誰だい?」と問い質す。
「俺です。ドンティでやすよ」
メナ=ファムは眉をひそめつつ、閂を引っこ抜いた。
「どうしたんだい? あんたはここに近づけないはずだろ?」
「へい。さっきの騒ぎのおかげで、監視の目が緩んだようです。いまのうちに、算段をつけちまいやしょう」
荷台の内にすべり込んできたドンティは、閉めた扉に背中をつけたまま、にんまりと笑った。
「ギリル=ザザが見張りに立ってくれてますんで、ゼラドの兵士でも近づいてきたら、合図を送ってくれる手はずです。……いやあ、さっきの妖魅には魂消ちまいやしたねえ」
「ああ。まるで悪夢みたいだったよ」
「俺なんざはもう、目をつぶってトトスを走らせることになりやしたよ。あんなもん、まともに見ちまったら本当に魂を飛ばされちまいやす」
そんな風に言ってから、ドンティは真面目くさった顔をこしらえた。
「それにしても、こいつは厄介なことになりやした。いよいよレイフォン様の警戒していた通りになっちまいやしたね」
「うん? レイフォンってのは、あんたのご主人だよね。そのお人が、何を警戒してたってんだい?」
「だから、妖魅でございやすよ。王都でも、妖魅があれこれ騒ぎを起こしてたって話なんでさあ。天下に名高い十二獅子将のおひとりも、妖魅に襲われたのだとか何だとか――」
「なんだと」と、エルヴィルが身を起こした。
「そんな話は聞いておらんぞ。どうしていままで黙っておったのだ?」
「それ以外に、語るべき話が山積みでしたからねえ。いまは王都での騒ぎよりも、俺たちの身の振り方を一番に考えるべきでやしょう?」
「では、妖魅に襲われた十二獅子将というのは、誰であるのだ? その名だけでも聞かせてもらいたい」
「襲われたのは、ジョルアンとかいうお人だそうですよ。ただし、そのお人を襲った妖魅はギリル=ザザが始末したって話ですがね」
「そうか。では、ジョルアンのやつめは生き永らえているのだな」
底ごもる声でエルヴィルがつぶやくと、ドンティは「どうでしょう?」と首を傾げた。
「その際に、ジョルアンってお人は大罪人として捕縛されたって話でやすよ。それからもう、半月ぐらいが経ってるはずでやすから……もしかしたら、すでに首を刎ねられた後かもしれやせんね」
「なんだと! ジョルアンが捕縛されたとは、どういうことだ!」
「エルヴィル、声が大きいよ」と、メナ=ファムがたしなめることになった。
ドンティは、ちょっと困ったように眉を下げている。
「余計な話をしちまいましたかね。俺は今後のことを話しておきたいんですが……」
「しかし、そのような話は聞き捨てならん。十二獅子将の中でも元帥にまでのぼりつめたというジョルアンが、如何なる罪で捕縛されることになったのだ?」
エルヴィルは、飢えた獣のような目つきになっていた。
ドンティは、溜め息まじりに説明をする。
「俺もギリル=ザザから聞いた話なんで、こまかい部分はわかりませんが……そのジョルアンってお人が、神官長とかいうお人の命令で、あれこれ悪事を働いていたそうでやすよ。本物の第四王子と将軍様をそそのかして、前王を暗殺させたのも、その神官長とやらの企みだったのだとか何だとか……」
「なんだと……」と、エルヴィルはいっそう険しい目つきになった。
復讐心に燃える、凄まじい目つきである。
「いやいや、それはジョルアンってお人が言っているだけの話ですので、真偽のほどはわかりやせん。ギリル=ザザが王都を出立した日から、その真偽をはかるための審問が開かれたって話で……」
エルヴィルは、ひたすら憤怒に両目を燃やしていた。
それをなだめるように、ドンティが笑いかける。
「そっちのほうは、レイフォン様がうまく取り計らってくれるはずでやすよ。とりあえず、俺たちの話をさせてもらえやすか?」
「かまわないよ。続けておくれ」と、メナ=ファムがうながしてみせた。
ドンティはほっとした様子で、居住まいを正す。
「今日の計画は、グリュドの砦を襲った妖魅のせいで、台無しにされちまいやした。このままじゃあ、ゼラドの軍もどこかの砦を占拠しない限り、夜を明かすこともできないでしょう。こうなっちまったら、エルヴィル殿が最後の頼みです」
「最後の頼み? 怪我人のエルヴィルに何をさせようってんだい?」
「エルヴィル殿は、この辺りの砦にも詳しいんでしょう? そちらの王子殿下が砦に身柄を移されるようだったら、そこでどうにか逃げ出すのに都合のいい部屋をあてがわれるように、ゼラドの連中を言いくるめていただけませんかね?」
エルヴィルはしばらく黙りこくっていたが、やがて感情を押し殺した声音を振り絞った。
「逃げ出すのに都合のいい部屋などそうそうありはしないし、ゼラドの連中が俺の進言を聞き入れるかどうかも定かではないが……お前はどういった部屋を望んでいるのだ?」
ドンティがあれこれ説明すると、エルヴィルは「承知した」とゆっくりうなずいた。
「そのような条件に見合う部屋があるかどうかはわからんが、一考してみよう。まずはゼラド軍がどの砦に向かうのかが判明しなければ、考えることもできないがな」
「ええ。どうぞお願いいたしやす。それじゃあ、俺は失礼いたしやすよ」
ドンティはそそくさと荷台を出ていった。
扉に閂を掛けながら、メナ=ファムは息をつく。
「よくわからなかったけど、要するにシルファがどこかの部屋に閉じ込められたら、そこで火事を起こして騒ぎにしようって企みみたいだね。ずいぶんと行き当たりばったりの計画になりそうだ」
エルヴィルもシルファも、メナ=ファムの言葉に答えようとはしなかった。
エルヴィルは暗く両目を燃やしており、シルファはその横顔を不安げに見やっている。そんなふたりの前に腰を下ろしながら、メナ=ファムは「おい」と呼びかけた。
「ずいぶんと頭に血がのぼってるみたいだけど、いまやるべきことを見失っちゃいないだろうね、エルヴィル?」
「わかっている。俺がどれだけいきりたったところで、何も為すことはできんのだからな」
エルヴィルはいくぶんうつむくと、復讐心に燃える双眸をまぶたに隠した。
「ヴァルダヌス将軍を陥れた犯人が正体を現したのなら、とっくに首を刎ねられているだろう。つくづく俺は、何の役にも立たない道化者であったということだ」
シルファはいっそう不安げな顔になり、エルヴィルの腕に取りすがった。
エルヴィルは顔を上げて、シルファのほうに向きなおる。その瞳には、これまでと異なる激情が渦を巻いていた。
「そんな俺にたぶらかされて、お前は大きく道を踏み外すことになってしまった。俺の生命にかえても、決してお前を死なせはしないから、案ずるな」
「エルヴィル兄さん……」と、シルファは涙ぐむ。
そのとき、前方の小窓からラムルエルが呼びかけてきた。
「進軍、再開です。メナ=ファム、そちらでよろしいですか?」
「ああ。次に止まるまでは、こっちに腰を落ち着けておくよ」
「承知しました」
しばらくののち、荷車は動き始めた。
エルヴィルは、重ねた敷物の上に傷ついた身体を横たえる。
「次の砦に到着するまで、俺は休ませてもらう。この夜こそが、正念場となるのだろうからな」
「ああ、そうしておきな。あたしらは、みんなで一緒にこの場所からおさらばするんだからね」
メナ=ファムは、シルファのかたわらに移動した。
まぶたを閉ざしたエルヴィルの顔を見下ろしつつ、シルファはどこか満ち足りたような眼差しになっている。
「色々と計画は狂っちまったけどさ。でも、やっぱりこれで正しかったんだよ」
「はい。……わたしもそのように思っていました」
エルヴィルの眠りをさまたげぬように、シルファは囁くような声で答えていた。
「兄さんも、自分の手で仇を討てないことは無念でしょうが……でも、もしもヴァルダヌスというお人が生きておられるなら、仇を討つ必要もないのですものね」
「ああ。何か悪巧みをした人間がいるんなら、王都の連中がきっちり裁いてくれるはずさ」
シルファはうっすらと微笑みながら、「はい」とうなずいた。
その血の色を透かした青灰色の瞳が、ふっと奇妙な光をたたえる。
「ところで……メナ=ファムは、砦に取りついていたという妖魅を目にしたのですよね?」
「何だい、いきなり。あんな気色の悪いもののことを思い出させないでおくれよ」
「申し訳ありません。……それはどのような妖魅であったのですか?」
「思い出させるなって言ってるのが聞こえないのかい? ……そのプルートゥみたいに真っ黒で毛むくじゃらで、信じられないぐらい馬鹿でかい化け物だよ。あんなもん、目にしなくて幸いさ」
「だけどわたしは、ひと目だけでも見てみたかったです」
シルファの瞳が、いよいよ奇妙な光をたたえていく。
それは、この世ではないどこかを遠くに見据えているような眼差しであった。
「この世界には、それほどまでに不思議な存在が現れることもあるのですね……あの、獣の屍骸に憑依した妖魅だけでも、わたしは心から驚かされてしまいましたが……それよりも不思議な存在が現出するなんて……」
「だから、その目つきはやめなってのに」
メナ=ファムは荒っぽくシルファの肩をつかむと、無理やり自分のほうを向かせた。
「あんたがあんな妖魅を目にしたら、それだけで頭がおかしくなっちまうよ。あんなもんは、人間に害を為すだけの存在でしかないんだからね」
「……申し訳ありません。つい……」
夢から覚めたように、シルファは微笑んだ。
その美しい顔立ちに相応しい、可憐な微笑みである。
「メナ=ファムがご無事であったことを、わたしは心から嬉しく思っています。どうか……この先も、わたしと兄さんを見捨てないでください、メナ=ファム」
「当たり前だろ。いまさら、何を言ってんのさ」
メナ=ファムは乱暴に言い捨てながら、シルファの頭を小突いてみせた。
このような際であるというのに、シルファはいつまでも幸福そうに微笑んでいた。