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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
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Ⅲ-Ⅱ 鳴動

2019.6/29 更新分 1/1

「おお、ようやく参ったか、レイフォンよ」


 レイフォンとティムトとメルセウスが大聖堂に駆けつけると、そこにはディラーム老と彼の率いる第三遠征兵団の兵士たちが待ち受けていた。

 動員されたのは数百名ていどであるのだろうが、大聖堂の周囲は白銀の甲冑を纏った兵士たちに包囲されており、戦時さながらの様相である。そんな中、ディラーム老は聖堂の入り口で数名の部下とともに立ち尽くしていた。


「ご無事で何よりです、ディラーム老。大聖堂にて妖魅の存在が確認されたため、ディラーム老はすでにその内部へと踏み込まれたのだと聞きましたが……すでに討伐は完了したということでしょうか?」


 レイフォンがそのように問いかけると、ディラーム老は仏頂面で「いや」と首を振った。


「それがどうにも、妙な話でな。クリスフィア姫と狩人のひとりが、妖魅の巣食う地下回廊に身を投じたとの連絡を受けたのだが……どこにも、そのような痕跡はなかったのだ」


「痕跡がない? それは、どういう意味でしょう?」


「どうもこうも、そのままの意味でしかない。まずこの大聖堂には、地下回廊というもの自体が存在しなかったのだ」


 レイフォンは困惑しながら、ティムトのほうに視線を巡らせた。

 ティムトは厳しい面持ちで、ディラーム老の言葉をじっと聞いている。


「狩人の片割れ、たしかホドゥレイル=スドラといったか。その者が、姫たちは祈りの間の壁に生じた亀裂から、地下回廊に引きずり込まれたという話であったのだがな。どれほど入念に調べても、その場所に人間の通れるような亀裂は存在しなかった」


「はあ……しかし、その場所は崩落の危険があったため、人が遠ざけられていたという話ではありませんでしたか? その報告自体が、虚言であったのでしょうか?」


「いや、その場所は天井が傷んでおったので、確かに崩落の危険はあったであろう。しかしそれは、わずかな亀裂が天井に走っていただけのことで、とうてい人間の通れるようなものではなかった。……それにあの狩人は、天井ではなく壁の亀裂から妖魅が現れて、クリスフィア姫を引きずり込んだと言い張っておるのだ」


 そこでディラーム老は、メルセウスの顔をじろりとにらみつけていた。


「そこでひとつ、確認させてもらいたいのだが……あのホドゥレイル=スドラという狩人は、たやすく我を失うような人間ではあるまいな?」


「もちろんです。ホドゥレイル=スドラもジェイ=シンも、若年ながら稀有なる力を持つ人間です」


 メルセウスは気分を害した様子もなく、柔和な面持ちでそのように答えていた。

 ディラーム老は難しい面持ちで、「うむ」と首肯する。


「儂とて、あの者が途方もない力量を有する剣士であるということに疑いを持っているわけではない。そうであれば、たとえ妖魅に遭遇したところで、そうそう我を失うこともなかろう。……しかしそうすると、これはどういうことなのであろうな」


「はい。ジェイ=シンはクリスフィア姫とともに、姿を隠してしまったのですよね? ホドゥレイル=スドラは、今どこに?」


「大聖堂の内で、探索を続けておる。儂の部下も、半数はそれを手伝わせておる」


 すると、ティムトが毅然とした様子で発言した。


「では、僕たちも参りましょう」


「参るとは? 大聖堂にか?」


「はい。僕はいちおう《禁忌の歴史書》に目を通して、魔術や妖魅の何たるかを学ぶことがかないました。何かその場に幻惑の術でも施されているのでしたら、それを見破る手立てを見つけだせるかもしれません」


「そうか。本当に妖魅が潜んでおるのならば、危険やもしれんが……これでは埒が明かぬしな」


 ディラーム老はひとつうなずくと、かたわらに控えていた副官に目をやった。


「周囲を見張らせている部隊から、二個小隊をこちらによこせ。こちらの三名の警護をさせるのだ」


「了解いたしました!」


 ディラーム老はひとたび十二獅子将の座から退いていたので、これは新たに再編成された部隊であるはずだが、そうとは思えない速やかさで命令が遂行された。

 白銀の甲冑を纏った兵士たちが、粛然とした足取りで集結する。それらの兵士に周囲を固められつつ、レイフォンたちはいざ大聖堂に踏み込んだ。


 大聖堂の内部は、薄明るかった。窓の帳はいずれも開けられていたが、それだけではこの広大なる空間を光で満たすことはかなわないようだ。

 一団は、その広大なる空間を足早に突き進んでいく。向かうは、突き当たりにある両開きの扉のようだ。その扉も大きく開け放たれており、左右には一名ずつ兵士が立ち並んでいた。


「何も異常はないか?」


「はっ! 妖魅はおろか、人間のひとりも潜んでいる様子はないとのことです!」


 二名の兵士に見守られながら、レイフォンたちは扉をくぐった。

 そこはさらに薄暗くて、いかにも陰鬱な様相であった。しかし、あちこちから人間の声と動く気配が伝わってきている。こうまで大勢の神官ならぬ人間が大聖堂に足を踏み入れることなど、建立以来の椿事であるのだろう。


「……さきほどまでは、こちらもすべての帳が下ろされており、燭台がなければ身動きも取れぬほどであったのだがな。これでは探索の作業もままならぬから、片っ端から帳を開けさせることになったのだ」


「なるほど。まだまだ薄暗いものの、これならば探索の作業に支障はないでしょうね」


「うむ。しかし、ホドゥレイル=スドラの言うような異変は確認できていない。……だがやはり、これは尋常な事態ではないはずであるのだ」


「と、言いますと?」


「さきほどの報告を聞いたであろう。我々は大聖堂の内部を隈なく探索したが、どこにもクリスフィア姫らの姿がないのだ。姫たちが大聖堂に踏み込んだすぐ後には、我々が建物の包囲を完了させていたのだから、別の出口から姿を消したということもありえん。クリスフィア姫に、ジェイ=シンに、案内役のウォッツなる者の三名もが、いったいどこに消えてしまったのか……まこと、尋常な話ではあるまい?」


 それは確かに、道理の通らない話である。

 唯一考えられるのは、隠し部屋や隠し通路の存在であるが――それでは、ホドゥレイル=スドラの言い分と合致しないのだろう。


 しばらく進むと、あちこちで探索の作業を続ける兵士たちの姿が見えてきた。

 回廊の左右の扉はすべて開け放たれており、その向こうにも兵士たちの姿が見える。しかし、ディラーム老に何か報告を届けようとする人間はいっこうに現れなかった。


「この先が、祈りの間だ」


 ディラーム老がそのように述べたてたが、扉の類いは見当たらなかった。回廊の突き当たりが、そのまま広間になっている様子である。

 その場所には六名もの兵士たちがおり、そして、ホドゥレイル=スドラとイリテウスの姿もあった。


「ホドゥレイル=スドラ、ずいぶん奇妙な事態になってしまったようだね」


 メルセウスが呼びかけると、室の奥にいたホドゥレイル=スドラがゆらりと振り返った。

 それと同時に、レイフォンの心臓が跳ねあがる。何か、凶暴な獣にでも出くわしたかのような感覚が、全身に走り抜けたのだ。


「ああ、あなたまで来てしまったのか。……自分の仕事を全うすることができず、心から申し訳なく思っている」


 そんな風に述べながら、ホドゥレイル=スドラはひたひたとこちらに近づいてきた。

 普段と変わるところのない、ホドゥレイル=スドラの姿である。かなりの長身であることを除けば、むしろ荒事とは縁のなさそうな、老成した沈着さを持つ若者であるのだ。

 しかし、その瞳には、レイフォンの知らぬ眼光が宿っていた。

 手負いの獣を思わせる、火のごとき眼光である。その面は沈着なままに、彼は瞋恚に双眸を燃やしていた。


「ホドゥレイル=スドラが自分を責める必要はないよ。ジェイ=シンが一緒であれば、クリスフィア姫も無事なはずさ」


「しかし、俺の役割はクリスフィア姫の警護だった。それがこうして姫の存在を見失ったばかりでなく、どこに行ってしまったのかも探り当てられないでいる。己の無力さをこれほどまでに痛感させられたのは、初めてのことだ」


 やはり彼も、森辺の狩人なのである。ジェイ=シンやギリル=ザザに比べれば、ずいぶん穏やかで知的な雰囲気すら漂わせている若者であるが、その内には荒ぶる狩人の魂が隠されているのだった。


「僕たちにも、詳しい話を聞かせてもらおう。クリスフィア姫とジェイ=シンは、この場で姿を消してしまったというんだね? 案内人のウォッツという御方も、一緒に消えてしまったのかな?」


「いや。ウォッツなる者はこの場に足を踏み入れるなり、妖魅の餌食となってしまったのだ。妖魅は、あの場所から現れた」


 ホドゥレイル=スドラの指先が、天井の隅を指し示した。

 石造りの天井に、黒い亀裂が走り抜けている。しかしそれはごく細長い亀裂であり、人間の指が通るかどうかというていどの幅しかないように思われた。


「白い糸のようなもので胴体をからめ取られたウォッツなる者は、それで天井まで吊り上げられてしまったのだ。その後に、首筋かどこかを噛まれてしまったらしく、老人のように干からびて魂を返すことになってしまった。すると今度はあちらから別の妖魅が現れて、クリスフィア姫の足に糸を放ったのだ」


 次に指し示られたのは、左手側の壁であった。

 その場所には、亀裂すらも存在しない。


「床に倒れたクリスフィア姫は、そのまま壁の向こうまで引きずられていってしまった。俺とジェイ=シンが駆けつけて、壁に生じた黒い空洞を覗き込むと――地下に鍾乳洞のごとき通路があり、無数の妖魅どもが蠢いていた」


「しかし、ご覧の通り、あちらの壁には傷ひとつありません」


 イリテウスがしかめっ面で言葉をはさむと、ディラーム老が視線でそれを掣肘した。

 ホドゥレイル=スドラはあくまで表情を動かさず、ただその双眸だけを爛々と燃やしたまま、説明を再開する。


「あのまま放っておけば、クリスフィア姫の生命はなかったろう。だから、ジェイ=シンが加勢をするべく空洞の向こうに身を躍らせて、俺は助力を求めるためにこの場所を後にした。俺たち三人ではどうにもならぬほどの妖魅が、そこには潜んでいたのだ」


「なるほど。空洞が空いていたというのは、あちらの壁で間違いないのだね?」


「うむ。森辺の狩人の誇りと両親の名にかけて、それは絶対だ」


「ではやはり、隠し扉というのが、もっとも妥当な答えであるのかな」


 メルセウスが独り言ちると、イリテウスがすかさず「それはありえません」と言いたてた。


「お望みであれば、あちらの壁を打ち砕いてみせてもよろしいですが、そのような真似をしても意味はないでしょう。あの場所に、隠し扉などは存在しません」


「どうしてです? 何か確証をお持ちのようですね」


「ええ、何も難しい話ではありません。あの壁の向こう側には、別の部屋が存在するのですよ」


 イリテウスは、面白くもなさそうな面持ちでそのように述べたてた。


「そちらの回廊の左手側に、扉があったでしょう? それが、隣室への入り口です。そちらは控えの間となっており、入念に探索してみましたが、何も異常はありませんでした」


「なるほど。では、そこの壁に隠し扉が存在したとしても、その向こうに待ち受けているのは控えの間であるということですか」


 メルセウスはゆったりと微笑みながら、ホドゥレイル=スドラに視線を戻した。


「それじゃあもしかしたら、ホドゥレイル=スドラたちが覗き込んだのは、壁ではなく床だったのではないかな? あの壁のすぐ手前の床に、隠し扉が開いていたとか――」


「いや。俺たちが覗き込んだのは、まぎれもなく壁の空洞であった。壁の一部が崩落して、人間が通れるほどの空洞になっていたのだ」


「そうか」と言って、メルセウスはティムトのほうを振り返った。


「どうやらこれは、この世の摂理では読み解けない現象であるようです。僕には魔術の知識などありませんので、あとはティムト殿におまかせいたします」


「僕とて、聞きかじりの知識しか持ち合わせておりません。ただ……ひとつ、想像していることがあります」


 感情を殺したティムトの声に、ディラーム老やイリテウスが愕然と目を見開いた。


「想像とは? いったいどのような手管を使えば、人間ふたりを消し去ることができるのだ?」


「魔術の世界には、結界というものが存在するそうです。魔術師は、現世ならぬ空間を生み出して、そこに潜むことができるのだと……《禁忌の歴史書》には、そのように記されていました。これも、それに類する現象なのではないでしょうか?」


「結界? 意味がわからんな。だいたい、クリスフィア姫らを襲ったのは妖魅であり、魔術師ではあるまい」


「魔術師も妖魅も、魔なる力の根源は同一です。そもそも妖魅というのはこの世ならぬ存在であるのですから、この世ならぬ空間にこそ潜むものなのではないでしょうか」


 そんな風に述べてから、ティムトはぐるりと祈りの間を見回した。

 回廊と繋がった面を除く三方に燭台が灯されており、足もとには兵士たちが持ち込んだらしい灯篭も置かれている。ここがもっとも重要な場所であると判じられて、これまでに通ってきたどの場所よりも、そこは明るかった。


「ただし、妖魅が人間風情を恐れて結界の内に隠れるとは思えません。むしろこれは、人間の側が妖魅の存在をこの世から遠ざけてしまったのではないでしょうか」


「いや、やはり意味がわからんぞ。もしや、《まつろわぬ民》なる魔術師が現れて、何か細工を施したということか?」


「違います。結界を閉ざしてしまったのは、たぶん我々であるのです」


 そう言って、ティムトはホドゥレイル=スドラを振り返った。


「ホドゥレイル=スドラ。あなたがたが最初にこの場に踏み入れたとき、回廊の帳はどうなっていましたか?」


「回廊の帳? それはすべて閉じられており、夜のような闇に包まれていた」


「やはり、そうでしたか。では、帳はいつ開けられたのです?」


「それは、この兵士たちとともに、再び足を踏み入れたときだ。俺は灯篭の光だけでも十分であったのだが、妖魅を相手にするのにこれでは不用心だと言って、兵士たちが道すがらで帳を開けていった」


 ティムトは引き締まった面持ちで、うなずいた。


「それではやはり、その行いが結界を閉ざしてしまったのでしょう。そろそろ日が傾きかけてきた頃合いですが、日没を迎えるにはまだまだ時間が残されています。この王都は西方神の加護に守られているのですから、妖魅が日の下に現れることはかなわないはずであるのです」


「ふむ? しかし……ジョルアンめが使い魔というものに襲われたのは、日が出ている頃合いだったはずであるぞ?」


 ディラーム老が言葉をはさむと、ティムトは「いえ」と首を振った。


「僕はその使い魔というものを目にしていませんので、確たることは言えないのですが、それはきっと何らかの獣に妖魅が憑依した存在であったのでしょう。生身の肉体に憑依した妖魅は、日の下でも活動できるという話であるのです」


「うむ……聞けば聞くほどに、わけがわからなくなりそうなのだが……つまり、どういうことであるのだ?」


「はい。クリスフィア姫たちが足を踏み入れたとき、この場所は闇に閉ざされていたため、妖魅の潜む空間への入り口も開かれていたのです。しかし、回廊の帳を開くことで太陽の光が差し込んで、その空間への入り口は閉ざされてしまった……ということなのではないでしょうか?」


「では……すべての帳を閉めてしまえば、その空間とやらの入り口が現れる、というのか? それはあまりに……ありえない話に聞こえてしまうな」


「ええ。ですが、本来は妖魅そのものがありえない存在であるはずです。このまま妖魅を打ち捨てておけば、クリスフィア姫たちの身が危うくなるばかりでなく、西方神の加護を打ち破られてしまうやもしれません」


 ティムトの断固とした口調に、ディラーム老は「そうか」と面を引きしめた。


「何にせよ、この際はすべての可能性を探る他あるまい。すべての帳を、閉めればよいのだな?」


「はい。この回廊だけではなく、大聖堂そのものに日が差し込まないようにする必要があるかと思います」


「承知した。まずはこの場に可能な限りの兵士を集めて、それから帳を閉めることにする。それに、さらなる明かりの準備も必要であろうな」


 ひとたび決断すると、ディラーム老の行動は早かった。まだうろんげな顔をしていたイリテウスにも命令を飛ばして、最後にレイフォンらを振り返る。


「では、おぬしたちは大聖堂の外で待つがいい。二個小隊はこのまま警護につけておくので、そこで報告を待て」


「了解いたしました。ディラーム老も、くれぐれもお気をつけて」


 すると、ホドゥレイル=スドラがメルセウスを呼び止めた。


「メルセウスよ、俺が一番に考えなければならないのは、あなたの警護であるのだが……この場に留まることを許してもらえるだろうか?」


「うん、もちろん。僕のもとにはこうして頼もしい兵士の方々が控えてくださるのだから、何も危ういことにはならないよ」


 メルセウスはにこりと微笑んで、ホドゥレイル=スドラの逞しい腕にそっと手を触れた。


「きっとジェイ=シンは、妖魅を相手取って奮闘しているはずだ。どうかその力になってあげておくれ、ホドゥレイル=スドラ」


「承知した」と、ホドゥレイル=スドラはさらなる炎を双眸に燃やした。

 そうしてレイフォンとティムトとメルセウスの三名は、二個小隊の兵士たちとともに大聖堂の外を目指す。薄暗い回廊では他の兵士たちが慌ただしく行き来しており、いっそう戦場じみた雰囲気になっていた。


「クリスフィア姫たちが姿を隠してから、もうけっこうな時間が経っているはずだよね。ジェイ=シンがついていれば、大丈夫だとは思うんだけど……早くふたりの無事な姿を見たいものだね」


 レイフォンが溜め息まじりにつぶやくと、メルセウスが「大丈夫です」と笑顔で応じてきた。


「ジェイ=シンは、必ず無事に戻ってきます。彼が僕との約束を破ったことは、一度もないのです。どのような苦難に見舞われようとも、ジェイ=シンはクリスフィア姫を守り抜いて、僕のもとに帰ってきます」


「うん。私もそのように信じているよ」


 そうして大きな扉をくぐると、広大なる礼拝堂でも大勢の兵士たちが行き交っていた。壁に設置された階段をのぼって、高い位置に空けられた窓に帳を下げていく。レイフォンたちが一歩進むごとに、闇は濃くなりまさっていった。


「確かにすべての帳を閉めたら、夜のように暗くなってしまいそうだ。しかし、これだけのことで、壁に空いた穴が閉じたり開いたりするなんて――」


 と、レイフォンがつぶやきかけたとき、ふいに足もとがぐらりと揺れた。

 重々しい鳴動が、石造りの床の下から伝わってくる。階上に上がっていた兵士たちは、わめき声をあげて帳にしがみついていた。


「ど、どうしたんだろう? まだ帳は閉めきっていないのに、妖魅が現れてしまうのかな?」


「そんなはずはありません。しかし、これは――」


 ティムトが何か答えかけたとき、いきなり世界が傾いた。

 石造りの床がめきめきと音をたてて、崩落し始めたのだ。


「ティムト! つかまるんだ!」


 レイフォンはほとんど反射的に、ティムトの小柄な身体を抱きすくめていた。

 広大なる礼拝堂の中心部が、ずぶずぶと下降していっている。頑丈な石畳が陶磁の皿みたいに砕けて、その中心になだれこんでいっているのだ。ティムトを抱きすくめたレイフォンの身体も、頭上から降り注ぐ瓦礫とともに、地の底へと滑落することになった。


(なんてことだ! 西方神よ、どうか敬虔なる貴方の子を守りたまえ!)


 レイフォンはほとんど力まかせにティムトを抱きすくめたまま、まぶたを閉ざした。

 鈍い痛みが、全身を走り抜けていく。砕けた石畳が頭や肩を殴打し、斜めになった地面をすべる背中は、火がついたように熱かった。


 大地のもたらす鳴動に、兵士たちの悲鳴が重なっている。

 まるで、世界そのものが寝返りを打ったかのような騒ぎであった。


 やがてレイフォンたちの身体は、硬い岩盤に放り出されて、ごろごろと何度か転がったのち、動きを停止させることになった。

 大地の鳴動は遠ざかっていき、世界に静寂が訪れる。

 そうしてレイフォンが、おそるおそるまぶたを開けてみると――その声が、響きわたった。


「レイフォン殿ではないか。このような場所で、何をしておられるのだ?」


 地面に倒れたレイフォンの鼻先に、二本の足が立ちはだかっている。

 ゆっくりと視線を持ち上げてみると、そこにはクリスフィアの呆れかえったような顔が待ち受けていた。


「……やあ、クリスフィア姫。息災なようで何よりだよ」


「うむ。軽口を叩く元気があるならば何よりだ。無事に再会することができて、わたしも心から嬉しく思っている」


 クリスフィアは、武人の顔で不敵に微笑んだ。

 その向こうには、ジェイ=シンの姿も覗いている。ふたりはその手に長剣を握りしめて、力強く立ちはだかっていた。


「ああ、ジェイ=シン。やっぱり君は、きちんと仕事を果たしてくれたようだね」


 遠からぬ場所から、メルセウスの声が聞こえてくる。

 そちらを振り返ったジェイ=シンは、臭いものでも嗅いだように顔をしかめた。


「何だ、どうしてお前がこのような場所で、砂塵にまみれているのだ。お前の身に何かあったら、俺たちの立場がないのだぞ?」


「うんうん。こうしてジェイ=シンに叱られるのも、おたがいに生命があってのことだからね」


 メルセウスがよろよろと身を起こす姿が、目の端に映った。他にも大勢の兵士たちが、レイフォンの周囲に転がっているようだ。


「……あの、そろそろ離してくれませんか?」


 と、レイフォンの胸もとから不機嫌そうな声が響いた。

 レイフォンは、ティムトの身体を力まかせに抱きすくめたままであったのだ。

 レイフォンが解放すると、ティムトは額のあたりを押さえながら、身を起こした。髪や衣服は砂塵まみれであるが、どこにも手傷は負っていない様子だ。


「まったく、無茶な真似をしてくださいますね。とっとと起きあがったら如何ですか?」


「うん、そうしたいのは山々だけれど、少し腰を打ってしまったようでね。身体に力が入らないのだよ」


 レイフォンがそのように答えると、ティムトはたちまち眉を吊り上げた。


「あのですね、僕は従者で、あなたが主人であるのですよ? 主人が身を挺して従者を守るなんて、そんなのは道理が通らないでしょう」


「私はいつも、ティムトに守られてばかりだからね。こういうときぐらい役に立たないと、吊り合いが取れないよ」


 硬い岩盤に横たわったまま、レイフォンは気安く笑ってみせた。

 仏頂面で頭をかき回すティムトの背後から、ジェイ=シンとメルセウスが近づいてくる。


「そちらも散々な目にあってしまったようだな。しかし、さしあたっての窮地は切り抜けられたと、報告をさせてもらいたい」


「うん? それは、どういう意味だろう?」


「……大聖堂に巣食っていた蜘蛛神ダッバハなる邪神めは、何とか討ち倒すことができた」


 ジェイ=シンは、いつも通りの不愛想な面持ちでそのように述べたてた。

 その手に握られた刀剣は、まるで己の武勲を誇るかのように燦然と輝いていた。

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