Ⅳ-Ⅳ 剣士の魂
2016.12/30 更新分 1/1
その日、ダリアスは一階の広間でギムやラナとともに晩餐をとっていた。
ギムの仕事が早くに片付いて、職人たちが日没前に姿を消した日は、こうして家族のように食卓を囲むのが通例になっていたのだ。
卓の上に並べられているのは、砂糖と魚醤で味付けをされた汁物料理と、焼きたてのポイタンである。
魚醤にはふんだんに塩が使われているので、茶色い煮汁は甘辛くて滋養に富んでいる。トトスで一日の距離である西方のダーム公爵領は西竜海と面しているため、このアルグラッドでも干した海魚や魚醤などは一般的に食べられているのだった。
その魚醤と砂糖で煮込まれているのは、キミュスの肉とさまざまな野菜だ。キミュスの肉にはきちんと皮がついていたので、そこからもしっかりと出汁が取れている。
キミュスの鳥の皮は革細工の材料として重宝されているので、貧しい家では皮なしの肉が食べられることが多い。城下町の民としてはそれほど裕福に思えないギムの家でも、そこまで生活が逼迫しているわけではない、という証左であろう。
そして、ポイタンも焼きたてであるので、とてもやわらかく美味である。生地を練るのにカロンの乳でも使っているのだろうか、かじるとほのかに甘い風味が鼻に抜けていく。また、大食らいのダリアスを満足させるために、木皿には乳白色の焼きポイタンが何枚となく重ねられていた。
「毎日粗末な食事ばかりで申し訳ないこってすね、ダリアス様」
と、その焼きポイタンを煮汁にひたして食していたギムが、目もとに笑いじわを寄せながらそのように述べてきた。
「そんなことはない。肉とポイタンをこれだけ腹いっぱい食べさせてもらっているのだから、何の文句もつけようはないさ。それに味だって、申し分ないぞ?」
「ああ、ラナも料理は苦手なほうじゃないんでね。……しかし、お城やルアドラのお屋敷で過ごしていたダリアス様にご満足をいただけるような出来ではないでしょう?」
「お前もラナと一緒で、俺を貴族あつかいしなくては気が済まないのだな、ギムよ。王都を離れて戦地におもむけば、かちかちに固くなったフワノをかじるか生のポイタンを溶かした煮汁でもすするしかないのだから、こんな立派な食事に文句をつけることなどできるはずもないさ」
普段通りの、気安い会話である。
ダリアスがこのギムに助けられて、すでに半月以上が経過しているのだ。
これだけの時間を重ねれば、嫌でも気心は知れてくる。ギムは最初に抱いた印象の通り、とても親切で性根の真っ直ぐな人間であった。
刀鍛冶の職人ということで、いささか頑固な一面もあるのやもしれないが、少なくともそれが悪い形で発露されたところをダリアスはまだ見たことがない。こうと決めたら道を変えないギムの頑なさは、己の意志や信念を曲げまいとする美点に感じられるぐらいであったのだった。
そんなに多弁なほうではないが、ときどき口にする言葉には温かさや善良さがにじんでおり、謙虚ではあっても卑屈ではない。それほど裕福ではなくとも自分の仕事に誇りをもって、正しく生きている。それが、ダリアスから見たギムという人間の印象であった。
「……ところで、今日は何日だったっけかな、ラナ?」
養父に問われて、煮汁をすすっていたラナが「五日よ」と答える。
「朱の月の五日か。もう二十日ぐらいもこの家で過ごしてるんですな、ダリアス様は。……だいぶ怪我の程度もよくなってきた頃合いでありましょう」
ギムの言葉に、ラナの肩がぴくりと震えた。
その心情を思いやりながら、ダリアスは「ああ」とうなずいてみせる。
「お前たちが親切にしてくれたおかげで、何とか八割がたは力を取り戻すことができたようだ。まだいくぶん背中の肉が引きつっているが、もう血が噴き出すこともないだろう」
「そいつは何よりのことです。やはり、鍛え方が違うんですな。あれだけたくさんの血が流れていたのに、医術師を呼びつけることもなく粗末な薬で済ましちまって、俺も内心でひやひやしていたんでさあ」
新しい焼きポイタンに手をのばしながら、ギムはいっそう笑いじわを深くする。
「それで……お城のほうは、どうなんです?」
「ああ。今日もデンが、王宮から布告されたお触れを届けてくれた。新王ベイギルス二世陛下の名において、新たな十二獅子将の名が告げられたらしい」
内心の煮えたぎるような思いを押し殺しつつ、ダリアスはそのように答えた。
「災厄の日に負傷したディラーム老もまた十二獅子将として復帰されたが、新たな元帥はジョルアンとロネックの両名に定められ、失われた六名の代わりには――十二獅子将の副官と、二名の千獅子長が選ばれたようだ」
「ふむ。十二獅子将が退かれた場合は、たいてい副官が後を継がせられるもんでしたな?」
「ああ。しかし、グワラムの戦いではルデン元帥とディザット将軍の副官も魂を返してしまっていたので、その穴に千獅子長をあてがった格好だ。……ただし、両将軍の旗下ではなく、ロネックやジョルアンの隊の千獅子長をな」
焼きポイタンを頬張っていたギムは言葉を発することができなかったので、ただけげんそうに太い首を傾げていた。
ラナも目を伏せて食事を進めながら、無言である。
「さらに、副官から昇格した人間の内、二名はやはりロネックとジョルアンの副官である者たちだった。脱走扱いの俺や罪人扱いのヴァルダヌスの副官が選ばれなかったのは当然のことなのだろうが、五大公爵領にはまだトラウズ、シーズ、グレクスという十二獅子将が副官ともども健在でいる。それらの副官にはお呼びがかけられず、ロネックとジョルアンの配下ばかりが十二獅子将の勲を与えられるというのは――まったく道理の通った話ではない」
「……つまりは、それらの将軍様が、ダリアス様をこんな目にあわせた連中の裏にいる、と――?」
「まだ断言はできんがな。単にその両名が新王におもねっているというだけの話かもしれんのだ」
しかし、疑わしいということに変わりはないだろう。
なおかつ、防衛兵団の片翼の将であるジョルアンが敵であるならば、城下町の衛兵を使ってダリアスを陥れることも容易いのだ。
(ディラーム老は、絶対にそのような陰謀に加担するような御方ではない。そうなると、疑わしきはジョルアンとロネックしか残らんのだ)
ダリアスは残っていた煮汁をすすり込み、空になった木皿を卓に置いた。
すでに鉄鍋もポイタンの皿も空になっている。ギムとラナのおかげで、またいくばくかの力を取り戻せた心地であった。
「ダリアス様、ちっとばっかりこの部屋でお待ちいただけますかな?」
と、席を立とうとしたところでギムに押し留められる。
そうしてギムは広間を出ていき、その間にラナは食器をかまどの間に片付けた。
それほど待たされることなく、ギムが戻ってくる。
その手には、大きくて細長い木箱が抱えられていた。
「それは――?」
「ダリアス様も目にされたことはあるんでしょう? 俺が打った、刀です」
木箱がごとりと卓の上に置かれる。
それはまさしく、ダリアスがデンと初めて出会った日に見つけた、あの長剣の木箱であった。
ギムの手によって箱の蓋が取り払われ、見覚えのある革鞘があらわになる。革紐の刺繍で装飾のされた、立派な鞘だ。
「こいつはとある騎士様の注文で打った品なんですがね、どうやらその御方はグワラムの戦いで魂を返しちまったらしい。赤の月の内には取りに来られるはずだったんですが、今日になってようやくお屋敷の方々と渡りをつけられたんでさあ」
「そうか。あの戦いでは四千もの兵が魂を返したらしいからな」
そして、ルデン元帥もディザット将軍もその副官らも魂を返し――ロネックだけが、唯一の将として帰還を果たしたのである。
そんな大敗を喫した隊の生き残りが、新たな元帥としての勲を賜り、副官のほうは十二獅子将として昇格されるに至った。それもまた、アルグラッドの軍紀にはそぐわぬ話であった。
「それでお屋敷の方々は、当主の嫡男を失っちまって、てんやわんやの騒ぎだったわけですな。……で、他には剣を必要とする男児もいらっしゃらないということで、あっしは前金をお返ししてきたんでさあ」
「前金を返したのか? むしろそういう場合に備えて、前金というものを預かるものなのだと思っていたのだが」
「ええ、本来はそうなんですがね。あまりにそのお人らが気の毒だったもんで。騎士のお家で嫡男を亡くしちまったら、もうお先も真っ暗なのでしょうし」
そんな情に流されてしまうから、これほど腕がいいのに裕福になれないのではないか、とダリアスは内心で苦笑することになった。
しかしもちろん、それはギムの行いに敬愛の念を抱きながらの思いであった。
「だからこの剣は、主人を失って宙ぶらりんになっちまったわけで……ダリアス様に、こいつを預かっていただくわけにはいきませんかね?」
「なに?」とダリアスは目を見開く。
ギムは無造作に藁の中から長剣をすくいあげ、それをダリアスに差し出してきた。
「うちはそうそう騎士様から注文を受けることもありゃしないんで、しばらくはこいつにも買い手がつかないでしょう。だから、ダリアス様に預かっていただきたいんでさあ」
「いや、しかし……俺はろくに銅貨も持っていない身だ」
「売りつけるんじゃなく、預けたいんです。ダリアス様みたいに立派な騎士に使われたら、こいつだって本望でしょう」
いつのまにか、ギムのかたわらにラナも立っていた。
その茶色い瞳が、とても切なげにダリアスとギムを見比べている。
「騎士様からのご注文ってことで、俺はこいつを一から十まで自分だけで仕上げたんですよ。それに見合うだけの銅貨をいただけるってぇお話だったんでね。革屋の親父も、気合を入れて鞘をこしらえてくれました。……ああ、鞘の代金だけはきっちり前金から引かせてもらったんで、こいつは丸ごとダリアス様にお預けすることができますよ」
「いや、だから――」
「立派な剣ってえのは立派なお人に使われなきゃあ意味がない。こいつは誰に扱っていただいても恥ずかしくないように仕上げているつもりですよ。これでも餓鬼の頃から三十年は打ち込んできた仕事ですからね」
そのように言って、ギムは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「どうか預かってやってください。十二獅子将のダリアス様に使われるだけで、そいつは俺の誉れってえもんです。それでこいつがダリアス様のお役に立てば、死んだ妹にも面目が立つってえもんですよ」
「……お前の親切には必ず報いると、ここで改めてセルヴァに誓わせてもらう」
そうしてダリアスは、その剣をつかみ取った。
心地好い重みが、ずしりと腕に伝わってくる。
「俺の父とお前の妹がもたらしてくれたこの縁にも、セルヴァの祝福を――俺が生きて帰ったときは、必ず対価も支払うからな」
「お代なんて、果実酒で十分ですよ」
「では、裏庭に置ききれないぐらいの酒樽を運ばせよう」
ダリアスは、自然と笑みを浮かべることができた。
ギムも目を細めて笑っている。
そんな中、ラナはひとり憂いげに顔を伏せていた。
◆
そして、二階の寝所である。
ダリアスは寝台に腰を下ろし、銀色の刀身に映る自分自身と相対していた。
磨き抜かれた刀の輝きが、自分にさらなる力と覚悟を与えてくれる。ダリアスは失われた半身を取り戻せたような心地であった。
決着の日は、もう目前まで迫っている。それはデンから今日のお触れを伝え聞いたときから、ダリアス自身が定めたことであった。
やはりこのたびの陰謀には、ジョルアンかロネックの手が及んでいたのだ。
前王を鏖殺したのは第四王子とヴァルダヌスなのか、その真実はいまだ闇の中であるが、ダリアスにまで叛逆者の汚名をかぶせようとした人間は他に存在する。そしてその何者かはいまだに王宮で権勢をふるっているはずなのである。
(第四王子と共謀していたのか、あるいは第四王子に罪を着せようとしているのか――いずれにせよ、その何者かが前王の鏖殺に加担をして、俺を陥れようとしているのだ)
下手をしたら、その首魁は他ならぬ新王であるのかもしれない。
神殿に閉じ込められていたという廃王子のことなどはまったくわからないが、王弟であったベイギルスが兄王カイロスと不仲であったことは宮廷中に知れ渡っていた。そして、カイロスに強い忠誠心を抱いていた十二獅子将がことごとく奇禍に見舞われ、ベイギルスとともに疎まれていたロネックとジョルアンが功もないまま新しい元帥として任命されたのだ。
(もはや俺などでは太刀打ちできないぐらい、敵は地盤を固めてしまったのかもしれないが……決してこのままで済ませるものか)
革帯の巻かれた柄を、ぎゅっと握り込む。
かなうことなら、このまま城門に駆けつけたいぐらいの気持ちであった。
しかし、たった一人で王宮に斬り込んで、この無念を晴らせるはずがない。だいたい、このように日が暮れてから城門に駆けつけたところで、跳ね橋を下ろさせるすべもないのだ。一時の激情にまかせて無駄死にすることなど、ダリアスの本意ではなかった。
(王宮に潜り込む手立てはある。焦らず、入念に策を練るのだ。明日、もう一度デンと打ち合わせをしよう)
ダリアスがそのように考えたとき、寝所の扉が叩かれた。
姿を現したのは、ラナだ。
「ダリアス様、少々お時間をよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。どうにも目が冴えて眠れそうにないのでな」
そのように答えてから、ダリアスは慌てて長剣を鞘に収めた。
その姿を、ラナはやはり切なげな目で見つめている。
「どうしたのだ? 食事の最中から、ずいぶん元気がないようだが」
「……それを、何故だと問われるのですか?」
「うん、まあ、俺の身を案じてくれているのはありがたいと思っている。……ラナにもずいぶん世話になってしまったな」
ラナはぷるぷると首を振りながら、ダリアスの前に立った。
そうして椅子に座ろうとはしないまま、じっとダリアスの顔を見下ろしてくる。
「ダリアス様は、王宮に向かわれるのですね? デンとそのような話をしていたでしょう?」
「ああ、やっぱり聞かれていたのか。うむ、デンが妙案をひねり出してくれたのでな。……もちろんあやつには迷惑がからないように取り計らう。デンだけではなく、お前にもギムにもな」
「わたしたちのことなどはどうでもよいのです。たったお一人で王宮に出向いて、危険ではないのですか? 王宮にはたくさんの兵が待ちかまえているのでしょう?」
「ああ。そのための近衛兵であり防衛兵であるからな。しかし、俺とて無駄死にをするつもりはない」
「……無駄でない死など、この世に存在するのでしょうか?」
ラナはいつになく思い詰めている様子であった。
茶色い瞳には涙こそ浮かべていなかったが、それを堪えるようにきつく眉をひそめている。
「そのように問われると答えに困るが、死を恐れては成し遂げられないこともある。たとえば戦場で生命を惜しめば、敵軍に侵略を許していっそう多くの生命が失われることになるだろう?」
「ですが、ここは戦場ではありません。平和な城下町です」
「その平和な城下町で、俺は背中を斬られたのだ。……いや、このようにお前と言い争うつもりはない。とにかく俺は身の潔白を示すために、すべてをつまびらかにしなくてはならないのだ」
「…………」
「いつまでもこの家に留まっていたら、お前たちの迷惑になる。それに、一生を家の中だけで過ごすわけにもいかぬだろう。何にせよ、俺は自分の身に降りかかった災厄に立ち向かわなくてはならないのだ」
「そんなことはわかっています。でも……わたしはダリアス様が心配なのです」
ラナはその場にひざまずき、ダリアスの手に取りすがってきた。
その意想外の行動に、ダリアスはまた慌ててしまう。
「ど、どうしたのだ? お前とて、俺はいずれ自分の運命に立ち向かうことになるのだと言っていたではないか?」
「頭ではわかっていても、心がついてこないことはあります。たった一人で王宮に乗り込もうというダリアス様を、平然とした顔で見送るなんて……わたしはそこまで強い女ではありません」
「そうか。お前はとても強い人間に思える。俺はそれを心から尊敬していた」
ラナの常にない行いに心をかき乱されつつ、ダリアスはそのように答えてみせる。
「その強さが、弱った俺をたいそう励ましてもくれたのだ。決して無駄死にはしないと誓うから、どうか俺を信じて待っていてくれ」
「待っていたら、ダリアス様は必ずお戻りになってくださるのですか?」
ついにラナの瞳から涙が噴きこぼれる。
ダリアスは両手を握られたまま、自分も寝台から下りて木の床に膝をついた。
「誓いの言葉で虚言を述べることはできん。だが、戻るために死力を尽くしてみせるとは誓ってみせよう。あとはセルヴァの御心と、俺の力次第だ」
「……必ず戻るとは約束してくれないのですね?」
「だから、確かでないことを誓約するわけには――」
そこでいきなりラナは身を起こし、ダリアスの身体を抱きすくめてきた。
華奢な腕がダリアスの胴体に回されて、干した藁のように心地好い感触をした髪が頬のあたりをくすぐってくる。
そして、熱いしずくがダリアスの胸を濡らしていった。
「セルヴァに祈ります……どうかご無事にお戻りを……」
「ラ、ラナ、頼むから泣かないでくれ」
そのような言葉しか返すことのできないダリアスの身体を、ラナはいっそう強い力で抱きすくめてくる。
しかしその身体はやわらかく、どんなに力をこめてもダリアスの治りかけの傷を痛めることすらできなかった。
「ダリアス様に万一のことがあったら、わたしの涙は永遠に止まらないでしょう……すべてはダリアス様の行い次第です」
「……わかった。どうか武運を祈っていてくれ」
ダリアスはラナの肩をそっとつかんだ。
力を込めたら壊してしまいそうなほど、細い肩だ。宮廷の貴婦人などとは違って毎日しっかりと働き、若い娘としては力のあるほうだとも思えるが、ダリアスのように武骨な大男と比べてしまったら、それこそラナの花のようにひそやかで可憐な存在なのである。
そうしてその身体を引き剥がすことも抱きしめることもできないまま、ダリアスはただ少女の体温を感じ続けた。
ダリアスとラナの別れの時は、もう目前に差し迫っているのだった。