Ⅱ-Ⅱ 四大神の祝福
2019.6/22 更新分 1/1
昼なお暗き森の中、クリスフィアとジェイ=シンは得体の知れない樹怪と向かいあっていた。
樹怪は、そのふたつのうろに灯った白い光で、クリスフィアたちを見つめ返している。その太やかな幹から生えのびた枝は、先端の葉を指のように動かして、ジェイ=シンから受け取った長剣を握りしめていた。
「いま一度、言っておく。それは、俺が父から授かった大事な刀剣だ。おかしな真似をしたら、たとえお前が何者であろうとも容赦はせんぞ」
ジェイ=シンが感情を押し殺した声で念を押すと、トゥリハラは『ほほほ』と陽気に笑った。
『案ずるでない。これだけの業物であれば、万が一にも折れ砕けることはあるまいよ。儂が為すのは、ただこの刀剣の内に眠る本来の力を呼び覚ますだけのことじゃからな』
「ところで、さきほどから気になっていたのだが――」
と、クリスフィアも声をあげることにした。
「こちらの鼠と、そちらの樹怪と、どちらが本当のお前であるのだ? お前の声は、頭の中に直接響いているかのようで、出どころがさっぱりわからんのだ」
『そちらの鼠もこちらの老樹も、儂の使い魔に過ぎんよ。儂自身は、この老樹の内で老いさらばえた肉体を休めておるのじゃ』
トゥリハラは、笑いを含んだ声でそのように述べたてた。
『では、こちらの刀剣に四大神の祝福を授けようかと思うが……特にジェイ=シンは、あまり驚かぬようにな』
みしみしと、樹怪の幹に亀裂が走り始めた。
やがてはその亀裂が大きく広がって、幹が真っ二つに分かれていく。そうして左右に分かたれた幹の内側には、幼子のように小さな身体をした老人が鎮座していた。
「これは……!」と、ジェイ=シンが息を呑む。
それは、異様な風体をした老人であった。
いったいどれだけ齢を重ねているのか、想像もつかないほどに干からびてしまっている。ただ、まぶたに半分隠されたその瞳は、澄みわたった空のように青く炯々と光り輝いていた。
髪や髭は真っ白で、そこから覗く肌は黄褐色をしている。そして、深い年輪の刻まれたその頬には、何やら奇怪な渦巻模様が描かれていた。
小さく干からびた身体には白い長衣を纏っており、その上から何本もの蔓草がからみついている。蔓草で支えていなければ、体勢を保持することも難しい様子だ。樹怪の内側は鮮やかな緑色をした蔓草で埋め尽くされており、それがやわらかくこの老人の肉体を抱きすくめているかのようだった。
「その姿……お前はまさか、大神の民であるのか?」
ジェイ=シンの言葉に、クリスフィアは心から驚かされることになった。
トゥリハラは『ほほほ』と笑ったが、樹怪の内に鎮座した老人の面はぴくりとも動かない。
『おぬしは大神の民を見知っておったか。まあ、おぬしの故郷たるモルガの森は、大神の聖域たる御山の麓にあるのじゃから、相まみえる機会もあったのじゃろうな』
「俺自身が大神の民と相まみえたことはない。しかし、俺の両親や多くの同胞たちは、森辺に迷い込んできた大神の民と、長きの時間を過ごしたのだと聞いている」
内心の動揺を隠しきれぬ様子で、ジェイ=シンはそのように言葉を重ねた。
「髪や肌の色は、違っている。しかし、その小さき身体と、頬に刻まれた紋様……それに、手の甲にも同じような紋様が刻まれているな? それは、俺が父たちから聞いた通りの、大神の民の姿だ」
『うむ。この身を染めた一族の色彩は、とっくに抜け落ちてしもうたよ。儂が故郷たる聖域を捨てたのは、もう遥かな昔のことじゃからな』
「何故……何故お前は、最初からその素性を明かそうとしなかったのだ? 俺たち森辺の民と大神の民の関係を知らなかったのか?」
『いや、むしろ知っておったからこそ、素性を明かすことができなかったのじゃ。少なくとも、こちらの刀剣を預かるまではな』
トゥリハラは、とても静かな口調でそのように述べたてた。
『おぬしたちが大神の民に憎からぬ心情を抱いていることは、知っておる。しかし、それを理由にあぬしからの信頼を得てしまうと、それもまた現世の運行に影響を与えてしまうのじゃ。儂はおぬしの情けにすがらずに、あくまでも得体の知れない世捨て人として関わらなければならなかった。面倒な手順じゃが、星図を乱さぬための必要な措置であったのじゃよ』
「うむ……よくはわからんが、お前にとっては必要な行いであったのだな」
『ああ、そうじゃ。それにな、儂は故郷を捨てた身であるのじゃから、もはや大神の民、聖域の民を名乗ることは許されん。儂は如何なる神とも如何なる土地とも絆を持たない、正真正銘の根無し草であるのじゃ。じゃから、おぬしも気にかける必要はないのじゃよ』
「そうか。わかった。大神の民は、父なる大神が目覚めるその日まで、決して聖域を離れてはならないという掟を持っているはずだからな。こうして俺たちの前に姿を現しているからには、確かにお前は故郷を捨てた身であるのだろう」
そんな風に言ってから、ジェイ=シンはぎゅっとまぶたをつぶった。
そうして次にまぶたが開かれたとき、その瞳に灯るのは力強い理解と信頼の光であった。
「これで俺は、ようやくお前のことを信じられるようだ。《まつろわぬ民》が大神の眠りを妨げようとしているのならば、その行いにもっとも強い怒りを覚えるのは、大神の民に他ならないのだろうからな」
『じゃから、儂はもう大神の民ではないというのに。……まあ、いいわい。この刀剣を手にしたからには、おぬしにどのように思われようとも関わりなきことじゃ』
樹怪の枝葉が蠢いて、そこに携えた刀剣をトゥリハラの眼前にまで移動させた。
『それでは、こちらの刀剣に四大神の祝福を与えよう。目を痛めてしまわぬように気をつけてな』
そんな言葉が響くと同時に、刀剣の刀身がまばゆい光に包まれ始めた。
赤と、青と、金と、銀の、目も眩むような光の奔流である。クリスフィアは目もとに手をかざし、指の隙間からそのさまを見守ることになった。
四種の光は渦を巻いて、刀身の周囲を駆け巡っている。
その輝きはどんどんと激しさを増していき、ついにはクリスフィアもまぶたを閉ざすことになった。
凄まじい突風が、クリスフィアの髪をなぶっていく。
まぶたを閉ざしているというのに、それを透かして、光が乱舞しているのが感じられた。
そうしてしばらくすると、嘘のように世界は静まった。
おそるおそるまぶたを開くと、樹怪がジェイ=シンのほうに刀剣を差し出していた。
『これでよい。おぬしの刀剣は、然るべき力を取り戻した。おぬしは四大神の叡智の結晶たる鋼の剣で、この世ならぬ妖魅と邪神を退けるのじゃ』
ジェイ=シンは、無言で刀剣を受け取った。
そうして刀剣の柄を握りなおすなり、「これは……」と低くつぶやく。
『おぬしならば、ダリアス以上にその力の脈動を感じることができるじゃろう。まったくもって森辺の狩人というのは、おそるべき力にあふれた一族じゃな』
「うむ、これは……この刀剣さえあれば、どのような妖魅でも、たとえ邪神そのものでも、退けることがかなうのであろうな」
クリスフィアは驚いて、横合いからその刀身を覗き込んだ。
白銀の刀身が、ぬめるように輝いている。ずいぶん古びた刀剣であるように思っていたのに、まるで研ぎたての新品であるかのようだ。その美しさは、クリスフィアを魅了してやまなかった。
『悪いな、北の地の姫君よ。おぬしもダリアスに負けぬ剣士であるようじゃが、おぬしの星は獅子ならぬ狼。敵を食い破る牙の強さに変わりはなけれども、聖剣の主となる巡りあわせにはないのじゃ。どうかその猛き力でもって、獅子の星の剣士たちを助けてやってもらいたい』
「それがジェイ=シンやダリアス殿のことを指しているのなら、もとよりそのつもりだ。しかし……たった一本の長剣で、あのおぞましい邪神めを退けることがかなうのであろうか?」
「ああ。俺の生命を代償に捧げればな」
ジェイ=シンの言葉に、クリスフィアは眉を寄せることになった。
「生命を代償にとは、どういう意味だ? もしやそれは、人間の魂を蝕む魔剣であるのか?」
「魔剣だかどうだかはわからぬが、この刀剣は俺の生命に呼応している。この刀剣をふるうごとに、俺の生命は削られていくのだろう」
クリスフィアは、トゥリハラのしなびた顔をにらみつけたみせた。
トゥリハラは愉快そうに『ほほほ』と笑い声をあげる。
『本当に、森辺の狩人というのは大したものじゃのう。その身ひとつで、世界の真理をつかみ取っているかのようじゃ』
「どういうことだ。お前はジェイ=シンの生命を代償として、邪神を退けようという心づもりであったのか、トゥリハラよ?」
『滅多なことを言うものではない。人間とは、それほどひ弱な存在ではないのじゃよ』
笑いを含んでいたトゥリハラの声が、そこで厳粛なる響きを帯びた。
『おぬしは、四大神の剣となったのじゃ。その身の力で魔なる存在を退けることが、おぬしのこれからの使命となる。その使命を果たすには、おぬし自身の生命を糧とするしかないのじゃが……剣は鞘に収まることによって、再び力を取り戻すのじゃよ』
「鞘? 鞘とは、何のことだ?」
『剣たる存在の帰るべき場所じゃ。おぬしにとっての帰るべき場所は、最愛なる人間のもとじゃろう?』
と、そこでトゥリハラの声がまた悪戯っぽく笑いを帯びる。
『このたびの長旅に伴侶を連れて参ったのは、僥倖じゃったな。もしも故郷に置き去りにしていたならば、確かにおぬしは鞘に収まる前に生命を散らしていたかもしれん。これもまた、四大神のはからいなのかのう』
「なに? お前は王都に伴侶を同行させていたのか、ジェイ=シンよ?」
クリスフィアが問いかけると、ジェイ=シンは浅黒い頬に血をのぼらせた。
「俺が同行させたわけではない。あいつが勝手についてくると言い張って、主人がそれを許してしまったのだ」
「そうなのか。お前とホドゥレイル=スドラが伴侶を娶っているという話は聞いていたが……まさか、王都に連れてきていたとはな。普段はどこで何をしているのだ?」
「知らん。おおかた厨にでも潜り込んで、王都のかまど番たちに迷惑をかけているのだろう。どれほどきつく言いきかせても、四半刻とはじっとしていられないやつだからな」
クリスフィアはこのような際であるというのに、ついつい笑ってしまった。
「機会があれば、わたしもぜひ挨拶をさせてもらいたいところだな。……それで、ジェイ=シンの伴侶が何だというのだ?」
『鞘がかたわらにある限り、剣が力を失うことはない。こたびの災厄を退けるまでは、決して伴侶と仲違いなどをせぬように心がけることじゃな』
ジェイ=シンはいっそう頬を赤くしながら、トゥリハラの人形めいた顔をにらみすえた。
ただその瞳だけを明るく輝かせながら、トゥリハラは『ほほほ』と笑う。
『さて、よもやま話もここまでじゃな。うかうかしておると、獲物を見失った蜘蛛神ダッバハが地上に目をやってしまうやもしれん。星図に示されていた通り、幼き賢人もこちらに向かってきてしまっているようじゃし……おぬしが新たな運命を切り開かぬ限り、幼き賢人の生命もここまでであろうな』
「幼き賢人とは、ティムトのことか。そうか、ホドゥレイル=スドラがディラーム老のもとに危急を告げたのなら、そちらからレイフォン殿たちのもとまで伝わるはずだな」
クリスフィアは気を引き締めなおしつつ、ジェイ=シンとトゥリハラの姿を見比べた。
「では、行くか。わたしなどは、群がる妖魅どもを蹴散らすぐらいのことしかできそうにないが」
「十分だ。邪神めは、俺がこの手で斬り伏せてやる」
『それでは、邪神のもとまで案内をしよう。……おぬしたちは、自らの信じた道を進むがよいぞ。そのとき、世界は正しき行く末を迎えるであろう』
そう言って、トゥリハラはまた声だけで陽気に笑った。
いつしかその笑い声は、クリスフィアにとってもたいそう心地好く聞こえるようになっていたのだった。