Ⅰ-Ⅱ 死闘の始まり
2019.6/15 更新分 1/1
「まずは、あんたがどれだけ神の力を行使できるのか、試させてもらおうか……」
メフィラ=ネロがそのように宣言するなり、彼女と融合した氷雪の巨人があんぐりと口を開けた。
そうして生まれた深淵の闇の向こうから、氷雪の嵐が吐き出される。
城壁に立ち並んだマヒュドラの兵士たちは、口々に悲鳴をあげることになった。
しかし、その氷雪が人間たちの魂を凍てつかせる寸前に、かがり火から炎の竜が生まれいで、世界を深紅に染めあげる。
炎の竜が消滅すると、氷雪の嵐も消滅していた。
「ふふん。さすがにこんな吐息のひとつじゃあ、髪の毛の一本も凍らせられないか」
みしみしとその巨体を軋ませながら、巨人が右腕を振り上げる。
破城槌のごとき、巨大な腕である。
その、人間の頭部よりも巨大な拳が、城壁に向かって振り下ろされると、再び炎の濁流が渦を巻いた。
凄まじい熱風が人々の髪や衣服をはためかせ、また悲鳴をあげさせる。
そうして炎が消え去ると、今度は巨人の右腕の肘から先が消滅していた。
「なるほど……大神に魂を捧げていなくとも、それぐらいの炎は操ることができるんだねえ、炎の御子?」
「これぐらい、鉄鍋に火をかけるのと同じことさ。君にしてみても、そうだろう?」
「ハッ! ごもっともだね! こんなものは、ほんの小手調べさ」
メフィラ=ネロが咽喉をのけぞらせて哄笑をあげている間に、巨人の右腕に氷雪が結集した。欠損した腕は、それで瞬くうちに再生してしまう。
「それじゃあ今度は、ちょいと本気を出させてもらおうか。希望の種を失いたくなかったら、あんたもその魂を大神に捧げな!」
一糸まとわぬメフィラ=ネロの裸身に、青白い閃光が走り抜けた。
その閃光が、そのまま妖しい紋様となって、メフィラ=ネロの肢体に刻みつけられる。その美しい面にも、かすかにふくらんだ胸もとにも、しなやかに引き締まった胴体にも、すらりとした肩や腕にも、奇怪な渦巻模様がびっしりと刻みつけられたのだった。
その下で、巨人の巨体も青白く発光している。
おぞましい、腐った沼の上に浮かぶ燐光のごとき輝きである。
そうして巨人が再び口を開くと、さきほどとは比べ物にならぬ勢いで氷雪の嵐が放出された。
きっとその氷雪に呑み込まれたら、骨まで凍らされてしまうことだろう。
リヴェルは半ば無意識にナーニャの背中に取りすがりながら、それでもまぶたを閉ざそうとはしなかった。
左右のかがり火と、それに油で満たされた樽の火口から、炎の竜が出現する。
炎の竜は深紅と黄金の輝きを撒き散らしながら、縦横に闇を引き裂いて、氷雪の嵐に喰らいついた。
重い鳴動が、大気を震わせる。
まるで、世界そのものが軋んでいるかのようだ。
氷雪の嵐と炎の濁流が中空でぶつかりあい、おたがいの存在を喰らい合っている。
それを見つめるナーニャの面にも、禍々しい深紅の紋様が浮かびあがっていた。
ナーニャの瞳と同じぐらい、その紋様も赤く輝いている。
まるで炎そのものが、ナーニャの顔を駆け巡っているかのようだ。
そうして、数瞬ののち――空中の炎と氷雪は、鋼鉄の刃がへし折れるような硬質の音色とともに、霧散した。
赤と青の魔力の飛沫が、ぱらぱらと雪のように降ってくる。それはまるで天空の星々が落ちてきたかのように、恐ろしくも美しい光景であった。
「ふん……人間としての魂を残したまま、そこまでの魔力を振るえるのかい」
三つの瞳を紫色に燃やしながら、メフィラ=ネロは忌々しげに言い捨てた。
蜂蜜色をしたその髪は、強風にあおられているかのように、逆立っている。
「真正面からぶつかってたんじゃあ、そのうち朝になっちまいそうだ。ここはやっぱり、露払いが必要だね」
メフィラ=ネロを頭部に生やした巨人が、地響きをたてながら後ずさった。
それと同時に、マヒュドラ兵の悲鳴が響く。
振り返ると、遥かな先まで続いている城壁の上に、青白い鬼火がいくつも灯っていた。
(まさか……大神の民?)
青い髪と青い肌をして、粗末な石槍をかまえた人獣たちの姿を思い出して、リヴェルは息を呑む。
しかし、こちらに肉迫していたのは、氷雪の妖魅の群れであった。骨のように細い胴体と四肢を持ち、青い単眼と透明の牙を光らせる、かつてナーニャとイフィウスが手を携えて退けた、あのおぞましい妖魅どもである。
「その妖魅は、鋼の武器で対応できるはずだ! 可能な限り、自分の身は自分で守ってもらいたい!」
ナーニャが鋭く声をあげると同時に、妖魅どもが左右から襲いかかってきた。
右の側では四名のマヒュドラ兵たちが、左の側ではゼッドとイフィウスが刀剣を振り上げる。頭に包帯を巻いたタウロ=ヨシュは、大きな背中にチチアをかばいながら、じっと戦斧をかまえていた。
ゼッドたちはもちろん、マヒュドラの兵士たちも果敢に戦っていた。
さすがは勇猛なる北の民といったところであろうか。その手の刀が振るわれるたびに、妖魅の首や胴体は折り砕かれて、城壁の下に落ちていく。やたらと動きは素早いが、それほどの頑丈さは持ち合わせていない妖魅であるのだ。
しかし、どれほどの数を退けても、妖魅どもは次から次へと押し寄せてくる。細く長くのびた城壁上の通路は、はるか彼方まで妖魅どもの鬼火の眼光で埋め尽くされていた。
そこに、「きゃあっ!」とチチアの悲鳴が響く。
振り返ると、胸壁の向こうから一体の妖魅が顔を覗かせていた。
やはりこの妖魅どもも、足がかりのない城壁を伝って、ここまでよじのぼってきたのである。
タウロ=ヨシュがすかさず戦斧を振りかざしたが、それを制するように、ナーニャが進み出た。
妖魅は氷の牙が生え並んだ口を大きく開けて、ナーニャに飛びかかる。
すると、横合いのかがり火から炎の渦が生まれいで、妖魅の骨格じみた肉体を一瞬で消滅させた。
「こいつらは、大して強力な妖魅じゃない。だけど、この数は厄介だな」
ナーニャが低くつぶやくと、メフィラ=ネロの高笑いがそこに重なった。
「どうしたんだい、火神の御子? そんなちっぽけな精霊たちは、あんたの炎で焼き払っちまえばいいじゃないか? そうすれば、可愛いお仲間たちに苦労をかけることもないだろう?」
ナーニャはその白皙に妖しい紋様を浮かびあがらせたまま、無表情にメフィラ=ネロのほうを振り返った。
闇の向こうで、メフィラ=ネロはさも愉しげに笑っているようである。
「それに、どうしてあんたはぼーっと立ったまんま、あたしのことを放っておいているんだい? やることがないんなら、あたしに炎の魔術をけしかけてくればいいじゃないか?」
「……その言葉は、そっくりそのままお返しするよ」
「ふふん。あたしは、観察させてもらっていたのさ。《神の器》のでき損ないであるあんたには、きっと何かしらの弱みがあるはずだからねえ」
巨人の口から、氷雪の嵐が吐き出された。
しかし、さきほどよりも距離が遠いため、ナーニャの炎は十分なゆとりをもって、その氷雪を消滅させる。
「魔力はまだまだたっぷり残されてるみたいじゃないか。それでもあんたは、そうやって動こうとしない。そこに何かの弱みが潜んでいそうだねえ」
ナーニャは、自分の身を危うくしようとする対象にしか、魔術を発動させることができないのだ。
それをメフィラ=ネロに知られてしまったら、大変な窮地を招いてしまいそうなところであった。
「それじゃあ、もうちょっと試させてもらおうか」
巨人が横を向き、のろのろと移動し始めた。
そうしてしばらく進んでから、あらためて城壁に近づいてくる。ここからでは矢を射かけても届かなそうなぐらいの距離である。
「まずいな……」と、ナーニャが小声でつぶやく。
その瞬間、氷雪の巨人が横合いから城壁に拳を叩きつけた。
城壁そのものが大きく揺れて、妖魅どもの何体かが地面に落ちていく。チチアは「うひゃあ!」と悲鳴をあげながら、タウロ=ヨシュの腰にしがみついていた。
「さあ、このままあたしを放っておくのかい? だったら、城壁に穴でも空けてやろうかねえ」
嬉々とした声で叫びながら、メフィラ=ネロは巨人に何度となく拳を振るわせた。そのたびに城壁は大きく揺れて、マヒュドラの兵士の何名かは床にへたり込んでしまう。
「くそっ」とつぶやき、ナーニャはマヒュドラ兵たちのもとに駆け寄った。
その背中の外套を握りしめたリヴェルも、自然、そちらに足を向けることになる。
倒れ込んだマヒュドラ兵に躍りかかろうとしていた妖魅が、ナーニャのほうに頭を巡らせる。その足が床を蹴った瞬間、手近なかがり火から炎がたちのぼって、妖魅を焼き滅ぼした。
「君たちは、ゼッドたちのほうまで下がるんだ! ここは僕が受け持つから、城壁をよじのぼってくる妖魅だけ対処してほしい!」
マヒュドラ兵たちは、ほうほうの体で後退していった。
通路に立ちはだかるナーニャの眼前には、無数の妖魅どもが蠢いている。そして、さらにその先にはメフィラ=ネロと巨人の姿があった。
「ふうん。もしかしたら、あんたは……よっぽど間近に迫った相手にしか、魔術を使うことができないのかねえ?」
巨人に城壁を殴らせながら、メフィラ=ネロがまた哄笑をあげた。
「こいつは、お笑い種だ! それじゃああたしはこうやって、あんたのお仲間たちがひとりずつ倒れていく姿を、安全な場所から眺めていればいいってこったね!」
「僕の仲間がこのていどの妖魅に後れを取ると思っているなら、それこそお笑い種だね」
「うふふ……足もとに迫った連中を目にしても、まだそんなこまっしゃくれたことを抜かす余裕があるのかねえ?」
ナーニャはわずかに眉を寄せると、メフィラ=ネロとは反対の側に目をやった。
反対側、つまりは城壁の内側である。
同じ方向に目をやったリヴェルは、驚愕に息を呑むことになった。
闇の中に薄ぼんやりと光る巨大なものが、あちらこちらから近づいてきている。敷地内のマヒュドラ兵たちと死闘を繰り広げていた、おそらくは氷雪の巨人たちだ。
「何体かは人間どもにやられちまったみたいだけど、まだ五体ぐらいは残ってるはずさ。そいつらが、てんでばらばらにこの城壁を殴りつけ始めたら、面白いことになりそうじゃないか?」
「……見かけによらず、小賢しいことを考えるんだね、君は」
ナーニャの赤い唇が、半月のように吊り上げられた。
恐ろしい、魔性の笑みである。
「だったらその前に、君の魂を打ち砕くしかないだろう。君さえいなくなってしまえば、氷神の眷族たちも現世に居座ることはできなくなるのだからね」
「ははん。やれるもんなら、やってみなあ!」
メフィラ=ネロの邪悪な笑い声が、世界を穢していく。
ナーニャは魔性の笑みを消し去ると、今度は慈愛に満ちた微笑をリヴェルに向けてきた。
「リヴェルをゼッドたちに預けている猶予はない。このまま妖魅どもを蹴散らして、メフィラ=ネロのもとに向かうけど……決して僕から離れては駄目だよ、リヴェル?」
震える声で「はい」と応じながら、リヴェルはナーニャの外套をきつく握りしめた。