Ⅴ-Ⅰ 嗤う邪神
2019.6/8 更新分 1/1
メナ=ファムは、底知れない恐怖に魂をわしづかみにされながら、立ちすくんでいた。
黄昏刻を迎えた世界は、紫がかった薄闇に包まれつつある。そんな美しくも妖しい世界の中に、そのおぞましき怪物の存在がくっきりと浮き上がっていた。
巨大で、漆黒で、燃えるような赤い双眸をした、毛むくじゃらの怪物である。
怪物は、グリュドの砦に築かれた物見の塔にへばりついていた。まるで、樹木にへばりついた獣か何かのようだ。
しかし、物見の塔の巨大さを考えると、いっそうの恐怖が胸の奥底からたちのぼってくる。物見の塔が一本の樹木と思えてしまうぐらい、その怪物が巨大である、ということであるのだ。
塔のあちこちに空けられた窓からは、黒い煙がたなびいている。その向こうには、右往左往する人影もぼんやりと見えていた。
それらの人影と比べるに――この怪物は、人間の十倍ぐらいは巨大な体躯を有しているはずだった。
しかしあれは、本当にこの世のものであるのだろうか?
恐怖で痺れた頭の中で、メナ=ファムはぼんやりとそんな風に考えた。
これだけくっきり見えているのだから、幻か何かであるはずはない。
だけどそれでも、そいつはどことなく存在がおぼろげであり、いっそう悪夢の産物めいて感じられるのだった。
言ってみれば――夜の闇が凝り固まったかのような存在であるのだ。
確かにその場に存在しているのに、果たして手で触れることが可能であるのか、そんなことが疑わしく感じられてしまう。
もっとも、あの怪物に触れてみたいなどと考える人間は、ひとりとしていないことだろう。それどころか、あの怪物と真正面から相対しただけで、たいていの人間は正気を失ってしまうのではないかと思われた。
(あれは、駄目だ……あんなもんに、人間がかなうわけはない……母なるシャーリよ、大いなる西方神よ……あんたがたの忠実なる子に、慈悲の手を……)
西方神などには滅多に祈ることのないメナ=ファムが、半ば無意識のうちに、そんなことを念じてしまっていた。
そこに、激しい金属的な音色が響きわたってきたので、メナ=ファムは思わず飛び上がってしまう。足もとに視線をやると、鈴の鳴り物を振り回しながら、伝令役の兵士が旗本隊の陣に飛び込んできた。
「伝令、伝令――! 我が軍は、グリュドの砦を西の側から迂回して、北上する!」
「何だって!」と、メナ=ファムは再び飛び上がった。
御者台からは、手綱を握ったラムルエルが「どうしたのです?」と問うてくる。すっかり失念してしまっていたが、メナ=ファムは荷車の屋根の上で立ちすくんでいたのだ。
「どうもこうも……」とうめきながら、メナ=ファムは屋根から飛び降りた。トトスにまたがってその場を駆け抜けようとしていた伝令役の兵士が、慌てふためいた様子で手綱を引きしぼる。
「な、何だ、お前は! 踏み殺されたいのか!?」
「何だは、こっちの台詞だよ! 自分たちからあの化け物のほうに近づこうだなんて、あんたたち、正気なのかい!?」
黒光りする兜のひさしの下で、兵士は怒気に顔を歪ませた。
「最前列の部隊から、グリュドの砦が妖魅に急襲されているという報告は受けている! だからこそ、この間隙を突いて、さらなる進軍を決行することとなったのだ!」
「最前列の部隊から? つまりあんたは、あの怪物の姿を拝んじゃいないってこったね! ついでにきっと、あのぶくぶく肥えた公子様たちも、車の中で果実酒でもすすりながら命令を出してるんだろうさ! 自分たちの目であいつを確認してりゃあ、そんな馬鹿な命令を出せるはずがないからね!」
「貴様! ゼラドの貴き血筋たるお歴々を愚弄するか!」
「だったらあんたたちも、その目であの怪物の姿を見てみりゃあいいだろ! そうしたら、あたしの言ってることが心から納得できるはずさ!」
兵士はトトスにまたがったまま、腰の刀に手をのばした。
「これ以上の問答は無用である! いますぐに道を空けて、進軍に備えよ! この命令に従わなくば、叛逆罪を犯したと見なす!」
メナ=ファムは力ずくでもこの兵士を黙らせるべきか、本気で思案することになった。
しかし、馬鹿げた命令を下したのは総指揮官たる公子たちであるのだ。ここで伝令役の兵士を黙らせたところで、メナ=ファムがこの先の自由を失うだけの話であった。
(くそっ! 母なるシャーリにかけて……こいつらは、自分から大鰐の口に頭を突っ込もうとしてる、大馬鹿どもだ!)
心の中で罵倒しながら、メナ=ファムは荷車のほうに身を寄せた。
兵士は「ふん」と鼻を鳴らして、メナ=ファムのかたわらを通りすぎていく。最後尾の部隊にまで、同じ伝令を届けに出向くのだろう。
「メナ=ファム、前列の部隊、前進、始めました」
「ああ、そうかい!」と怒鳴り返してから、メナ=ファムは御者台に飛び上がった。ラムルエルは、沈着なる切れ長の目でメナ=ファムを見返してくる。
「メナ=ファム、荷台、戻らないのですか?」
「ああ。とうていそんな気にはなれないね」
メナ=ファムは、御者台の背後に設置された小窓を開いて、荷台の中に呼びかけた。
「王子殿下! 扉に閂を掛けておくれよ! それで、プルートゥにしっかりしがみついて、あたしが戻るのを待ってておくれ!」
「……どうしたのだ、メナ=ファムよ? 何か、騒いでいたようだが……」
余人の耳をはばかって、シルファがカノン王子としての言葉を返してくる。その間に、旗本隊も前進を始めていた。
「グリュドの砦ってやつが、とんでもない化け物に襲われてるんだよ! あたしはここで見張りの役をつとめるから、何があっても扉は開くんじゃないよ!」
それだけ言って、メナ=ファムは小窓を閉めてしまった。
シルファはさぞかし不安であろうが、メナ=ファムが言葉を重ねても、その不安は増していくばかりであろう。この荷車をふくむゼラドの軍は、これからあのありうべからざる化け物のかたわらを通りすぎようとしているのである。
「ラムルエル、あんたには状況を説明しておくよ」
振り落とされないように御者台の座席を片腕で抱え込みながら、メナ=ファムは自分の目にしたものについて説明をしてみせた。
トトスの手綱を巧みに操りつつ、ラムルエルは考え深げに目を細めている。
「妖魅、恐ろしいです。近づく、危険ではないですか?」
「ああ。まともな知恵を持つ人間だったら、後ろも見ずに逃げ出しているだろうね」
「では、どうして、前進なのでしょう?」
「最前列の連中しか、まだあの化け物を目にしてないんだろうさ。あたしだって、この屋根の上にのぼって目を凝らして、それでようやく目にすることができたんだからね。あんなもん、目にしたくもなかったけどさ!」
メナ=ファムは、強く握った拳を自分の額に押しつけた。
正面を向いているラムルエルが、そんなメナ=ファムを横目でちらりと見やってくる。
「メナ=ファム、恐怖しているのですか?」
「ああ、そうさ! だけど、そいつを恥じる気はないね! あんな化け物を目にして怯えないやつがいたら、そいつは生き物として間違ってるのさ!」
そんな言葉を交わしている間に、だんだんと進軍の速度が速まってきた。最前列の部隊は、そろそろ砦の横合いに出た頃合いであろうか。
正面に視線を戻しながら、ラムルエルは低くつぶやく。
「グリュドの砦、西の側から迂回、言っていました。セルヴァの軍、迎撃されたら、危険ではないでしょうか?」
「さてね。あの化け物が天から降ってくるよりは、そっちのほうがまだマシだろうよ」
グリュドの砦には、数万からのセルヴァの軍が駐屯しているという話であったのだ。しかし、どれだけの兵士をかき集めたとしても、あのような化け物にあらがうすべはないように思われた。
(セルヴァの軍もゼラドの軍も、あの化け物一匹に全滅させられちまうんじゃないのか……? くそっ! この手でぶった斬れる相手だったら、妖魅だろうと何だろうと怯んだりはしないけど……あんな化け物には、かないっこない。あれは、人間なんかの手に負える存在じゃないんだ!)
メナ=ファムは、半ば魂を返す覚悟を固めることになった。
いっそのこと、この場でゼラド軍を離脱するべきではないかとも考えたが、街道の左右は雑木林で、トトスを駆けさせるだけの隙間もない。あとはもう、あの怪物がゼラドの軍に関心を持たないことを祈る他なかった。
そうして思案している間に、波乱の気配が迫り寄ってくる。
人間のわめき声や、剣戟に似た硬質の音色、ものの焼ける臭い――そういったものが、少しずつ近づいてくる気配があった。
「あれは……」と、ラムルエルが息を呑む。
それと同時に、視界が開けた。
雑木林にはさまれた街道を抜けて、砦の正面に到着したのだ。
グリュドの砦は、高い城壁に囲まれている。その城壁からも、可能な限りは距離を取って、ゼラドの軍は西の側に回り込んでいた。
周囲の兵士たちが、驚愕のうめき声をあげている。
城壁よりも、さらに高くのびあがった物見の塔が、ついに彼らの目にも届いたのだ。
半月刀の柄を握りしめたまま、メナ=ファムは割れるぐらいに奥歯を噛みしめた。そうしなければ、悲鳴のひとつでもあげてしまいそうだった。
さきほどよりも近い位置から、怪物の姿を視認できる。
城壁によって足もとは隠されていたが、しかしそのおぞましい半身は、より克明に見て取ることができた。
怪物は、二本の巨大な腕――あるいは前肢によって、物見の塔を抱きすくめている。
頭に三角の耳が生えており、全身が漆黒の体毛に覆われているので、やはりどこか黒豹に似ているように思える。しかし、黒豹とは比較にならぬほど、おぞましくて禍々しい怪物だ。とりわけ深紅の双眸は、この世の邪念を結集させたかのように、凄まじいまでの憎悪の炎を噴きあげていた。
周囲の兵士たちは、一心不乱にトトスを駆けさせている。
一刻も早く、この怪物から遠ざからねばならない――誰もがそのように念じているのだろう。
しかし皮肉なことに、彼らが急げば急ぐほど、怪物の姿が肉迫してきた。グリュドの砦を迂回するということは、あの怪物に見下ろされながら、そのかたわらを通りすぎるということであるのだ。
右手に臨む城壁に沿って、兵士たちはトトスを駆けさせる。ラムルエルも、それに遅れじと革鞭をふるっていた。
そうして、物見の塔がほぼ真横の位置取りになったとき――怪物が、ぐるりとこちらに向きなおった気がした。
メナ=ファムは、たまらず刀を鞘から引き抜く。こんな刀でどうこうできる相手とは思えなかったが、そうせずにはいられなかったのだ。
遥かなる天空から、怪物がメナ=ファムたちを見下ろしている。
決死の覚悟でそれをにらみ返していたメナ=ファムは、ふいに凄まじい恐怖に見舞われて、「ああっ!」と叫んでいた。
身体がぐらりと傾いて、疾走する荷車から転落しそうになったところで、ラムルエルに腕をつかまれる。それでもメナ=ファムは、我を取り戻すことができなかった。
「どうしたのですか、メナ=ファム? どこか、つかんでください。危険です」
わずかにひび割れかけた声で、ラムルエルが呼びかけてくる。
メナ=ファムは全身の力を振り絞ってまぶたを閉ざし、さきほど自分が見たおぞましいものを、何とか脳裏から振り払おうとした。
「メナ=ファム、大丈夫ですか? 荷車、止めますか?」
「いや……大丈夫……大丈夫だよ……」
メナ=ファムは、感覚の消えかけていた指先で、何とか御者台の背もたれをひっつかんだ。
逆の手には、半月刀が握られたままである。しかしその指先は、メナ=ファムの意思に反して細かく震えてしまっていた。
「どうしたのです? 何か、攻撃、受けたのですか?」
その問いかけには、力なく首を横に振るしかなかった。
攻撃などは、受けていない。メナ=ファムは、ただ見てしまっただけだ。人間が、決して目にしてはならない、この世ならぬ存在をこの目で垣間見てしまっただけであった。
メナ=ファムが見たのは、怪物の顔貌である。
深紅の双眸をかがり火のように燃やす、あの怪物がどのような顔をしているのかを、メナ=ファムは狩人としての卓越した視力で見て取ってしまったのだった。
(どうしてあんな化け物が、この世に存在するんだよ……この世は、本当に狂っちまったのか……? あんなのは……絶対に、この世に存在するべきじゃない!)
メナ=ファムがどれほど振り払おうとしても、その恐ろしい姿は両目に焼きつけられてしまっていた。
メナ=ファムが見た、その顔貌は――とほうもなく巨大な、人間の赤子の顔だったのである。
全身が毛むくじゃらであるくせに、顔には一本の毛も生えていなかった。産まれたての赤子のように、額にも頬にも皺が寄っており、半開きになった分厚い唇からは、巨大な舌がでろりと垂れていた。それらのすべてが東の民よりも漆黒の色合いであったので、とうてい細かい部分までは見て取ることもできなかったが、そうでなければメナ=ファムは本当に正気を失っていたかもしれなかった。
人間よりも十倍ほどは大きくて、全身が漆黒の獣毛に覆われた、赤ん坊の顔をした怪物。
何より恐ろしかったのは、その深紅に燃える双眸であった。
その双眸には、はっきりと意志や知性が見て取れたのだ。
得体の知れない憎悪に猛り狂いながら、あの怪物は確かな知性を有していた。
それが証拠に――メナ=ファムたちのほうを見やるなり、あの怪物はにやりと唇を吊り上げたのである。
その禍々しい笑みを思い出しただけで、メナ=ファムは悲鳴をほとばしらせてしまいそうだった。
(だけど、あいつは……どうしてあたしたちに襲いかかってこなかったんだ? どうしてあんな、満足そうに……してやったりみたいな顔つきで笑いやがったんだ?)
わずかに頭が冷えてくると、そんな疑念がたちのぼってきた。
旗本隊の陣は、ゼラド軍の中央に据えられている。メナ=ファムたちが無事であるということは、すでに半数ぐらいの兵士たちが、何事もなくあの怪物のかたわらを通りすぎたということである。
(まさか、あいつは……ゼラド軍の味方なのか? いや、ゼラド軍の味方っていうよりは……セルヴァ軍の、敵なのか?)
メナ=ファムは粉々に打ち砕かれた気力をかき集めて、後方に過ぎ去りつつある物見の塔へと視線を飛ばした。
しかし、怪物のおぞましい姿は薄闇の帳に隠されてしまい、もはや輪郭も定かではなくなってしまっていた。