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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
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Ⅳ-Ⅰ 這い寄りしもの

2019.6/1 更新分 1/1

「ダリアス殿、この辺りでそろそろ休憩を入れるべきではないでしょうか?」


 闇の中、松明の明かりを頼りにトトスを駆けさせるダリアスに、横合いからそんな声が投げかけられてくる。声の主は、ダリアスたちの新しい旅の道連れとなった、ルブスなる若者であった。


 ここは、ダームと王都を繋ぐ街道の途上である。すでにとっぷりと夜は更けているので、松明の炎と月明かりの他に、目の頼りとなるものはない。そんな中、彼らは懸命にトトスを走らせていたのだった。


 ダリアスの鞍にはラナが、ブルスの鞍にはリッサが、それぞれ乗せられている。レィミアの計略で無事にダームを脱出したダリアスたちは、街道の途中で荷車を打ち捨てて、二頭のトトスにまたがり、ここまでこうして駆け通してきたのだ。

 ダリアスは、トトスの歩調を少しだけゆるめつつ、ルブスのほうを振り返った。


「休憩などしているゆとりはあるまい。ダームからはいつ追っ手をかけられるかもわからんし、そうでなくとも、俺たちは一刻も早く王都を目指さなくてはならんのだ」


「しかし、かれこれもう一刻ばかりはトトスを走らせておりますからね。こんな調子では、王都に辿り着く前にトトスがへたばってしまうのではないでしょうか?」


 ダリアスと同じように松明を掲げたブルスは、あまり緊迫感のない顔でへらへらと笑っていた。


「それに、トトスよりも先に、こちらのご婦人がへたばってしまいそうなご様子なのですよ。そうですよね、リッサ殿?」


「……トトスの背中で揺られ続けて、臀部の骨が砕けてしまいそうです。まだこの強行軍を続けるおつもりなら、いっそ僕のことは放り出していってくれませんかね?」


 目もとに皿のような器具をつけたリッサが、松明の明かりの下で子供のように口をとがらせていた。

 思案するダリアスに、ルブスはさらに言葉を重ねてくる。


「それにですね、追っ手をかけられるとしたら、夜が明けてからのことでしょう。何せダームでは、恐ろしい妖魅どもが跳梁跋扈していたのですからね。妖魅というものは、もともと闇の中に棲息する存在でありましょう? このような折、夜の中をうろつくのは誰にとっても忌避すべきことですし、領主様もそこまで無慈悲な命令は下さないものと思われますよ」


「うむ、しかしだな……」


「ともあれ、王都まではトトスでも丸一日はかかるのです。どこかで休みを入れる必要はあるのですから、夜の間に休むのがもっとも賢明なのではないでしょうかね。それに、こんなに暗くては転倒の危険も生じますし、トトスが足でも折ってしまったら、いよいよ面倒なことになってしまうことでしょう」


 ダリアスは、溜め息まじりに「わかった」と答えてみせた。


「そうまで言うなら、しばし休憩としよう。……お前はずいぶん口が回るのだな、ルブスとやら」


「ええ、まあ、自分は口先三寸でダーム騎士団にもぐりこんだような人間でありますからね。そうして手に入れた肩書きも、この夜ですべて失ってしまったわけですが」


 彼はレィミアの命令で虚偽の報告をして、ダリアスたちの脱出に手を貸してくれたのである。領主たるトライアスの名を騙ってトトスを持ち出したのだから、ダームにおいては大罪人の烙印をおされてしまうはずだった。


(……そのわりには、ずいぶん飄々としているものだ)


 ダリアスの心情も知らぬげに、ルブスは陽気な声をあげていた。


「やあやあ、あれは水車小屋か何かでしょうかね。どうやら近在に村落でもあるようです。人目を忍んで夜露をしのぐには、うってつけです」


 そんな風に述べながら、トトスを街道の右側に寄せていく。確かにそこには小さな建物の影があり、小川の流れる清涼な音色も聞こえていた。

 石造りの街道から、土が剥き出しの脇道へと乗り入れる。そこに待ち受けていたのは、まさしく木造りの水車小屋であった。


「うんうん、中には誰もいないようです。夜が明ける前に出立すれば、誰とも出くわさずに済むでしょう。ここを仮の宿とすることで、ご異存はありませんでしょうか?」


「ああ、勝手にしろ」と答えてから、ダリアスは無言のラナへと呼びかけた。


「ラナも、疲れたか? いつも俺の無茶につきあわせてしまって、悪いな」


「とんでもありません。ダリアス様は、王国の行く末を守るために尽力されているのですから」


 ラナが振りむき、にこりと微笑んだ。ダームを出立する際には少し機嫌を損ねていたように思えたのが、すっかりいつも通りの清楚でひそやかなラナだ。ダリアスはこっそり安堵の息をついてから、「うむ」とうなずいてみせた。


「しかし、いまとなってはお前も力を尽くしている人間のひとりだ。王都には、さらなる危険が待ち受けているやもしれんが……俺が必ず、守ってみせるからな」


「……恐れ多きお言葉です」と、ラナは恥じらうように目を伏せた。

 その間に、ルブスはすでにトトスを降りて、手近な木の枝に手綱を結んでいる。


「これでよし、と。リッサ殿も、トトスをお降りくださいな」


「……こんな高い場所から飛び降りたら、足をくじいてしまいますよ。そもそも僕は、こんな風にトトスにまたがるのも初めてなのですからね」


「それはそれは。気が回らずに失礼いたしました」


 ルブスはおどけた調子で敬礼をすると、手綱を引いてトトスを座らせた。リッサはそれでもおっかなびっくりの様子で、ようよう地面に着地する。

 ダリアスとラナも、それにならって地に降りた。二頭のトトスたちは、さっそく枝の葉をついばみ始めている。


「さあさあ、それでは俺たちも休みましょう」


 ルブスが先頭を切って、水車小屋の扉を引き開けた。

 べつだん盗まれるようなものもないので、鍵も掛けられていなかったようだ。小屋の中には格子つきの窓からわずかに月明かりが差し込んでおり、饐えたような匂いが充満していた。


「お、燭台がありますよ。蝋燭はわずかですが、ひと晩ぐらいはもつでしょう」


 ルブスが松明の火を燭台に移すと、獣脂蝋燭の燃える匂いがそこに重なった。

 屋内は、いくつかの木箱が放り出されているだけで、あとはがらんとしている。木箱を壁のほうに寄せれば、四人の人間が横たわるぐらいの空間は確保できそうだった。


「では、俺が最初に見張りをつとめよう。お前たちは、ゆっくり身体を休めるといい」


 ダリアスがそのように告げると、ルブスは「とんでもない」と声をあげた。


「いかに騎士団を追放される身であっても、十二獅子将たるダリアス殿にそのような真似はさせられません。見張りは俺が受け持ちますので、ダリアス殿こそお休みください」


「俺とて、王都ではとっくに十二獅子将としての身分を剥奪されているはずだ。これでもう、ふた月ばかりは行方をくらましていた身であるのだからな」


「でも、ジョルアンという将軍が暗殺されたのなら、十二獅子将の席もひとつ空いたのでしょう? それならきっと、ダリアス殿もすぐに返り咲けることでしょう」


 ラナのかたわらに腰を落ち着けながら、ダリアスはルブスの顔をじろりとねめつけてみせた。


「ルブスよ、最初に問うておこう。お前は現在の状況を、どこまで把握しているのだ?」


「さて、俺が知るのは上官およびレィミア様から伝え聞いた話のみです。王都にて、審問のさなかにジョルアンなる将軍が暗殺されたのでしょう? ダームもひどい災厄に見舞われたものですが、王都のほうも大変なご様子でありますね」


「今日の昼間の港町の騒ぎでは、お前も救援に従事したのか?」


「いえ、俺は居残り組でした。でも、騎士団の宿舎が蝙蝠の妖魅どもに襲撃された際は、皆と一緒に剣や槍を振り回しておりましたよ」


 ルブスはあくまで、軽妙な態度を崩そうとしなかった。

 外見は、それなりに騎士らしい風貌をした若者である。年齢はダリアスより少し若いぐらいで、褐色のくるくるとした巻き毛をしており、顔立ちはけっこう整っている。ただ、目もとや口もとがいささかゆるみ気味であるので、威厳や風格といったものとは無縁な様相であった。


「……お前はダーム騎士団において、どのような身分であったのだ?」


「はあ。俺は第二大隊所属の、第四小隊長でありましたが」


「なに? 小隊長の身分にあった男が、色香に惑わされて騎士団を裏切ることになったのか?」


「レィミア様にしてみても、小隊長ぐらいの身分でなければ誑かす価値もなかったのでしょう。レィミア様という魂の主君と巡りあうことができたのですから、これまでの身分などに未練はありません」


 そんな風に述べながら、ルブスはにやにやと脂下がった。さきほどの痴態を思い出してしまったのか、ラナはもじもじと身をゆすっている。


「しかしお前は、騎士団の人間として許されざる大罪を働いてしまった。二度とダームの地を踏むことはかなうまい。それでは、レィミアと相まみえることもかなわなくなってしまうではないか?」


「それは、しかたがありません。レィミア様に尽くすことこそが、俺にとっての存在理由になってしまったのですからね。下僕とは、そういうものなのです。ここから先は余生と思って、レィミア様と過ごした日々の追憶を生きるよすがにする他ありません」


 本気で言っているのか冗談で言っているのか、ダリアスには何とも判別がつかなかった。

 そんな中、だらしない体勢で壁にもたれかかっていたリッサが、不平の声をあげる。


「で、僕たちはこんな敷物のひとつもない場所で一夜を明かさなくてはならないのですか? こんな固い木の板の上で眠ったら、明日はいっさい身体が動かないかもしれませんね」


「ああ、それなら俺の外套をお使いください。何も敷かないよりは、数段ましでしょう」


 ルブスが自分の外套を床に広げると、リッサは何の遠慮もなくその上に横たわった。


「あーあ、こんなことなら書物の一冊でも隠し持っておくべきでした。僕は書物を読みながらでないと、なかなか寝付くことができないのですよ」


「だったら、俺が子守唄でも歌ってしんぜましょうか?」


「願い下げです。会話を続けるおつもりなら、小声でお願いしますよ」


 不機嫌の極みといった様子で、リッサはダリアスたちに背を向けた。

 その姿を眺めながら、ルブスがダリアスの耳もとに口を寄せてくる。


「ダリアス殿、このリッサ殿というのは、なかなかに好いたらしいご婦人でありますね」


「なに? それは、どういう意味であるのだ?」


「どういう意味って、そういう意味です。この少年のごときご婦人が、しとねではどのような声をあげるものか、想像するだけで心が躍りませんか?」


 ダリアスは、心の底から呆れ果てることになった。


「ルブスよ、お前は……レィミアに媚薬でも盛られたのではないか?」


「レィミア様は、存在そのものが媚薬のようなものです。まあ、俺はレィミア様と出会う前から、こういう人間でありましたけれどもね」


 そう言って、ルブスは咽喉を鳴らして笑った。

 ダリアスは、ただ溜め息をついてみせる。


「もういい。俺たちも、身体を休めることにしよう。見張りは、お前が受け持ってくれるのだな?」


「ええ、もちろん。夜明けもそれほど遠くはないでしょうから、なんなら交代も不要でありますよ」


「……ならば、先に休ませてもらう。睡魔に見舞われたら、声をかけよ」


 ダリアスはラナをうながして、その場に横たわることにした。こちらは着の身着のまま部屋から抜け出した身であるので、床に敷くべき外套も有してはいない。

 ラナは壁のほうを向いて横たわり、ダリアスはその背中を守る格好で横たわった。

 もちろん、このまま寝入る気はない。ダリアスはまだルブスのことを信用しきってはいなかったので、このまま眠らずに朝を迎える心づもりであった。


(まあ、レィミアを信用しないわけではないが……《まつろわぬ民》がレィミアのもとにこのルブスを送り込んだという可能性もなくはないだろうからな)


 ダリアスは、四大神の祝福を受けた長剣を胸もとにかき抱きつつ、まぶたを閉ざした。

 背後からは、リッサの寝息が聞こえてくる。なんやかんやと文句をつけていたのに、あっさりと寝入ってしまったらしい。ルブスが壁にもたれかかったのか、みしりと木の板の軋む音色がした。


 ダリアスは昂揚のさなかにあったので、うっかり寝入ってしまう恐れもなかった。

 ようやくダームを出て、王都に向かうことがかなったのだ。それも、ダームの領土さえ突破できれば、身を隠す必要もなく堂々と凱旋することができる。ダリアスは、この日が訪れることを心から待ちわびていたのだった。


(クリスフィア姫やレイフォンたちは、うまくやっているだろうか……王都の大聖堂が無事であればいいのだが)


 大聖堂に妖魅が潜んでいないものか、至急確認してほしい。ダリアスは伝書でそのように伝えたのであるが、それから返事はなかったのだ。

 ダリアスは、それをいぶかしく思っている。大聖堂が無事であったにせよ、なかったにせよ、何も返事がないというのはおかしな話である。ダリアスは晩餐を終えるまで公爵邸で大人しくしていたのだから、時間的な猶予は十分なはずだった。


(おそらくは、トライアス殿が返事を受け取って、それを俺に知らせようとしなかったのだろうな。ということは……大聖堂で異変が生じた、ということか)


 大聖堂が無事であったのなら、トライアスがそれを隠す必要はないように思える。ダリアスをダームに引き留めるために、意気揚々とその内容を伝えてくるはずだ。


(やはり大聖堂までもが、妖魅に穢されてしまったのか……あちらでは、妖魅にあらがうすべはあるのだろうか? 俺は何も告げぬまま、王都に向かうべきだったのだろうか?)


 ダリアスは、そんな懸念を抱いていた。

 クリスフィアは立派な剣士であるが、妖魅が相手では分が悪い。シーズを殺めた使い魔ぐらいならばともかく、もしも邪神そのものが現出してしまったら――生身の人間にあらがうすべはないだろう。レイフォンの知略だって、それは同様のはずだった。


(王都までは、丸一日の道行き……しかし、トトスに車を引かせていないのだから、もう少しは早く到着することができるだろう。それでも、明日の日が沈まぬうちに辿り着けるかどうか……それまで無事でいてくれよ、クリスフィア姫)


 ダリアスがそのように願ったとき、何か異様な気配がした。

 いや、ダリアス自身は何も感じていない。ただ、胸もとにかき抱いた長剣が、わずかに震えを帯びたように感じたのだ。


 ダリアスは、そっとまぶたを開いてみた。

 遠からぬ場所に、ラナのほっそりとした背中が見える。こんな風にラナと並んで眠るのは、ダームの神殿で夫婦の真似事をしていたとき以来であった。


(王都に戻れば、ギムやデンもいる。もうしばらくの辛抱だぞ、ラナ)


 そのとき、ラナの細い肩がぴくりと震えた。

 ラナの身体が、虫が這うような緩慢さで起き上がっていく。


「どうしたのだ、ラナ?」


 ダリアスが呼びかけると、ラナはのろのろとこちらを振り返ってきた。

 その面には、何かとろんとした表情が浮かべられている。


「ダリアス様……ラナは、寒うございます……」


「寒い? そうか、せめてもう少し厚手の服を着込んでくるべきであったな」


「はい……このように寒くては、とうてい眠ることもかないません……」


 ラナが、ダリアスの胸もとにしなだれかかってきた。

 仰天するダリアスの身体を、ラナが冷たい指先で抱きすくめてくる。


「ど、どうしたのだ? もしかしたら、寝ぼけているのか?」


「いえ……わたしはただ、ダリアス様に温めていただきたいのです……」


 そんな言葉が、熱い吐息とともに耳の中へと吹き込まれてきた。

 背後で寝ずの番をしているはずのルブスを気にしながら、ダリアスは身を引こうとする。しかし、ラナの身体をじゃけんにはねのけることもできなかった。


「は、伴侶ならぬ男女が、みだりに触れ合うものではない。寒いのであれば、リッサに添い寝を頼むがいい」


「わたしは、ダリアス様の温もりを求めているのです……ダリアス様は、わたしをお拒みになるのですか……?」


 ラナの瞳が、切なげにダリアスを見つめてくる。

 我知らず、ダリアスは生唾を飲み込むことになった。


「や、やはりラナは寝ぼけているようだな。身体を起こして、いったん目を覚ますがいい。さあ、この手を離すのだ」


「まあ……どうしてそのように、冷たいことを仰るのです……?」


 彼女らしからぬ陶然とした面持ちで、ラナはいっそう身をすりよせてきた。

 トライアスにあやしまれないように、ダリアスも平服のままであったので、衣服ごしにラナの肢体のやわらかさが伝わってくる。


 ダリアスの中にも、常ならぬ情動が生まれ始めてしまっていた。

 ダリアスとて、ラナのことは憎からず思っているのだ。夫婦のふりをして、同じ寝台で眠りながら、決して一線をこえることはなかったものの、それは理性を振り絞っての結果であった。許されるなら――ダリアスは、ラナを伴侶として迎えたいと願っていた。


(しかし……何かがおかしい)


 ラナがこのように寝ぼける姿など、ダリアスはこれまでに見た覚えがなかった。

 それに、ルブスはどうして黙りこくっているのだろう。あの軽妙なる若者であれば、遠慮なく冷やかしの言葉をぶつけてきそうなものであった。


「ダリアス様……ラナは、ダリアス様をお慕い申しあげております……」


 ラナの指先が、ダリアスの胸や背中をまさぐっていた。

 その唇が、ダリアスの唇を求めるように近づいてくる。


 ダリアスは、それこそ媚薬でも嗅がされたかのように、頭の中身が鈍ってしまっていた。

 現在のこの状況が、夢であるのか現実であるのかも判然としなくなってくる。そして、ラナの熱い吐息や肢体の感触からもたらされる情動が、耐え難いまでにダリアスの理性を翻弄していた。


「待て、ラナ。正気に戻るのだ。このような真似は、まったくお前らしくないぞ」


 ダリアスが必死に言いつのると、ラナは「まあ」と悲しげに微笑んだ。


「どうしてです……やっぱりダリアス様は、あの御方のことがお忘れになれないのでしょうか……?」


「あ、あの御方? あの御方とは、誰のことだ?」


「あの御方は、あの御方です……そら、王都に残してきた、あの可憐な姫君……」


「そ、それは、ルベック男爵家の末娘のことか? あれは向こうが、戯れで近づいてきたにすぎん」


「では、灰色の瞳をした、あの美しき騎士様のことが……?」


「ク、クリスフィア姫のことか。クリスフィア姫は敬愛すべき相手であるが、それは色恋とは異なる思いだ」


「では、あの妖艶なる侍女のことが……?」


「レィミアなどに、そのような気持ちを抱いてなるものか! あのようにつつしみのない女人は、好かん!」


「では……この素晴らしい剣を授けてくださった、あの御方のことが……?」


「それは、トゥリ――」とダリアスが言いかけたとき、ふたりの間にはさまれていた長剣が炎のような熱を帯びた。

 ラナは獣のごとき悲鳴をあげて、背後の闇に飛びすさる。それでダリアスは正気を取り戻すことができた。


「お前……お前は、ラナではないな! 正体を現わせ、不埒者め!」


 ダリアスは身を起こし、長剣を鞘から引き抜いた。

 長剣の刀身が、めらめらと七色の光をたちのぼらせている。その光に照らされて、ラナの姿をした何者かはまたおぞましい絶叫をほとばしらせた。


『おのれ……その忌々しき剣は、我の術式をも打ち砕くか……いま少しで、その正体を暴いてやれたものを……』


 ラナの姿をした何者かが、しわがれた声でつぶやいた。

 その不吉な木枯らしのごとき老人の声には、聞き覚えがあった。


「お前は、ダームの聖堂で出くわした《まつろわぬ民》だな! 王都で待つなどとほざきながら、夜襲をかけてきたというわけか!」


『ふん……貴様を王都に迎えては、いっそう星図を乱されてしまいそうであったのでな……《神の器》が降臨するまで、我が地ならしをする必要が生じてしまったのだ……』


 ラナの姿をした何者かは、顔を覆っていた手をだらりと下げて、ダリアスをねめつけてきた。

 顔そのものは、ラナのそれである。しかし、そこに浮かぶのは邪悪に歪んだ笑みであり、その目は黒い穴のように虚無だけをたたえていた。


『我らの大望を邪魔立てする者は、誰であろうと捨ておけぬ……貴様もその魂を、大いなる神に捧げるがいい……』


「俺の魂は俺のものであり、役目を終えれば西方神に返される! お前こそ、大神アムスホルンの眠りをさまたげた罪で、魂を打ち砕かれるがいい!」


『……大いなる神の御名を、軽々しく口にするな、背信者めが!』


《まつろわぬ民》が、怒号をあげた。

 ラナの姿をしたその肉体に、禍々しい瘴気が纏わりついている。

 ダリアスは、四大神の祝福を受けた長剣を手に、この思いも寄らぬ脅威と相対することになった。

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