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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第七章 糾える運命
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Ⅱ-Ⅰ 隠者の森

2019.5/18 更新分 1/1

「おい! お前はいったい、我々をどこに連れ去ろうという気であるのだ!?」


 闇の中を進みながら、ジェイ=シンがこらえかねたようにわめいた。

 前方の足もとをちょろちょろと駆けていたギーズの鼠が、きょとんとした様子でこちらを振り返る。


『連れ去るとはまた、人聞きの悪い言い草じゃの。おぬしたちは、自分の意志でこの道を選んだのではないのかな?』


「そうだとしても、先導しているのはお前ではないか! いいかげんに、お前の目的と正体を白状しろ!」


『そうしてやりたいのは山々じゃが、それほどゆとりのある状況ではないのじゃよ。何せ、この結界のすぐ外では、眠りから目を覚ました蜘蛛神ダッバハが獲物を求めてうろつき回っているはずなのじゃからな』


 ギーズの鼠のその言葉で、クリスフィアはぞくりと背筋を震わせることになった。つい最前まで闇の向こうに蠢いていた異形の存在を思い出してしまったのである。


 ここは、どことも知れない暗闇の中であった。

 クリスフィアの手には灯篭が掲げられているというのに、その火が照らすのはクリスフィアとジェイ=シンの姿ばかりで、他には何も映し出してくれないのだ。


 上下左右、すべてが闇に包まれている。クリスフィアたちは固い地面を踏みしめているはずであるのに、灯篭を突きつけても、その漆黒の色合いは変じてくれなかった。ともすれば、自分が宙に浮いているような感覚に陥って、気分が悪くなってくる。絶対的な暗黒というのは、かくも人間の心を蝕むものであるのかと、クリスフィアは我知らず唇を噛むことになっていた。


 しかしこの場に、妖魅の姿はない。

 ふたりがギーズの姿を追って、この深淵の闇の中に足を踏み入れるなり、妖魅の姿や気配がかき消えてしまったのだ。

 背後を振り返っても、追ってくるものの気配はない。あの不気味な金色の眼光を見出すこともない。この場所はひたすらに暗く、そして静謐に閉ざされていた。


『ここは空間と空間を繋ぐ、かりそめの回廊であるからな。このような場所で腰を落ち着けていたら、おぬしたちは永遠に帰るべき場所を見失ってしまうやもしれん。それが嫌なら、黙ってついてくることじゃ』


「ふん。こんなことなら、あの場に留まったほうがマシであったかもしれんな。俺たちは化け物から逃げようとして、新たな化け物の口の中に飛び込んでしまったのやもしれんぞ」


 ジェイ=シンが小声で言い捨てると、ギーズは『ほほほ』と陽気に笑った。


『おぬしらが儂をあやしむのは当然じゃが、もうしばらくの辛抱じゃ。せめて儂の正体を見極めるまでは、迂闊に暴れんほうが得策じゃよ、若き狩人よ』


「どうだかな。それも俺たちを罠に嵌めるための言葉であるのかもしれん」


『疑り深い若衆じゃな。……血気盛んなのは、母親に似たか。おぬしの父親は、沈着を美徳とする立派な狩人であったはずじゃろうに』


 闇の中で、ジェイ=シンが青い瞳に猜疑の炎を宿した。


「お前は……俺の親を知っていると抜かすつもりか?」


『いやいや、おぬしの星図を辿ったに過ぎんよ。……おぬしの母親は、大獅子の子。おぬしの父親は、大獅子の弟の子。星は巡って、おぬしという若獅子をこの世に産み落とした。西の王国において、獅子は聖なる獣であるのじゃから、こたびの災厄に立ち向かうにはうってつけの人間であったのじゃろう』


「……お前の言うことは、さっぱりわからん。もしやお前の正体は、シムの占星師か何かか?」


『シムに伝わる占星の技は、前時代の遺物。儂は……禁忌を犯して、その遺物を隅々まで掘り尽くしてしまった不届きものといったところかの』


「ならば」と、クリスフィアは足を止めた。


「やはり、お前こそが《まつろわぬ民》なのではないのか? 禁忌を犯して前時代の創造主たる大神アムスホルンを蘇らせる、それが《まつろわぬ民》の大願なのであろうが?」


『やれやれ……おぬしの明敏さは感服に価するが、このたびばかりは大外れじゃ。まあ、そのように疑われてもしかたのない身の上であるのじゃろうがな』


 闇の中でぼんやりと青白く輝くギーズの鼠が、まるで溜め息でもついているかのように小さな頭を震わせた。


『確かに儂も、禁忌を犯した。大神が目覚めるまで、魔術に手を染めるのは大いなる禁忌であったのじゃからな。しかしそれゆえに、儂は現世で生きることを捨てた。すべてを知りたいと願った代償に、人の世と決別することになったのじゃ』


「しかしお前は、こうして俺たちと語らっている。しっかり人の世と関わっているではないか」


 ジェイ=シンの言葉に、ギーズはまた頭を震わせた。


『儂が再び禁忌に足を踏み入れていることは自覚しておるわい。しかしそれでも、大神の眠りを脅かそうとする不埒者どもを放ってはおけなかったのじゃ。儂はおぬしたちと同じ目的で危ない橋を渡っているのだということを、どうか信じてはもらえんかのう?』


「だったらまずは己の名を名乗り、正体を明かすべきであろうが?」


『儂の住処に着いたら、そうするつもりじゃったわい。なんやかんやと文句をつけて、足を止めているのはおぬしたちではないか。そら、儂の住処はもう目の前に迫っているのじゃぞ?』


 ギーズがそのように言い捨てるなり、闇の向こう側に四角い光が灯った。


『儂を信じて付いてくるか、蜘蛛神ダッバハの待ち受ける鍾乳洞に取って返すか、自分たちで選ぶがよい。望むほうに、儂が案内してくれよう』


 ジェイ=シンは青い瞳を鋭く光らせながら、口をつぐんだ。

 しばし考え込んでから、クリスフィアはその耳もとに口を寄せる。


「ジェイ=シンよ。妖魅どもの待つ場所に引き返しても、我らに待つのは避けようのない死のみだ。ならば、このギーズめに付いていくべきではなかろうか。……こやつが《まつろわぬ民》であったなら、なおさら放ってはおけぬところであるしな」


「……わかった。あのギーズめを信じるのではなく、お前の言葉に従おう」


 ジェイ=シンは抜き身の長剣を握りなおしてから、闇の中に足を踏み出した。

 ギーズは細長い尻尾をひとふりしてから、四角く浮かびあがった白い光を目指していく。


 どうやらそれは、開け放たれた扉から漏れる光であるようだった。

 しかしどれだけ近づいても、光がまぶしくて中の様子はわからない。

 光の前で足を止めたギーズは、黒いつぶらな瞳でクリスフィアたちを見上げてきた。


『ここを通る際は、まぶたを閉ざすのじゃぞ。さもなくば、悪酔いしてしまうじゃろうからな』


 言われずとも、このまま光の中に飛び込んでは、目玉を焼かれてしまいそうなところであった。

 意を決してクリスフィアが足を踏み出そうとすると、ジェイ=シンが腕をつかんでくる。


「……伴侶ならぬ女衆の身に触れるのは禁忌であるが、この際は仕方あるまい。油断するなよ、クリスフィアよ」


「ああ、そちらもな」


 ふたりは同時に、足を踏み出した。

 まぶたを通して、強い光が瞳を圧してくる。

 それと同時に、足もとがぐにゃりと歪むのが感じられた。


(やはり、罠か――!)


 反射的に、クリスフィアはまぶたを開いていた。

 すると――信じ難い光景が、そこには待ち受けていた。


「何だ、これは……?」


 ジェイ=シンも、呆然とした様子で周囲を見回している。その指先がクリスフィアの腕から離れて、両手で長剣の柄を握りしめた。


 薄暗い、森の中である。

 見たこともないような大樹が左右に立ち並び、クリスフィアたちの視界をふさいでいる。頭上にも分厚く枝葉が折り重なって、わずかな木漏れ日がふたりのもとまで届けられていた。


 ふたりが立ち尽くしているのは、森の中に切り開かれた道の半ばだ。

 奇怪なことに、背後を振り返っても、そこには延々と道がのびているばかりであった。道はなだらかに曲線を描いており、やがては樹木の陰に消えてしまっている。


 梢の向こうでは鳥が鳴き、心地好い涼風がクリスフィアの頬をなぶっていた。

 つい先刻まで、妖魅の群れに脅かされていたというのに――ふたりは突如として、深い深い森の中に放り出されてしまったのだった。


『どうしたのじゃ? 森辺の民ならば森を好むかと思い、この場所を選んだのじゃが。いらぬ世話であったかの?』


 大樹の陰から、ギーズの鼠がひょこりと顔を覗かせた。もはや青白い光も纏ってはおらず、野を駆ける鼠そのままの姿である。


「これは……これは、どういうまやかしだ? 俺たちは、地の底をさまよっていたはずだぞ!」


『じゃから、かりそめの道を繋いで、儂の領土に案内したのじゃよ。家の中のほうがお気に召したかの?』


 ギーズは大樹を駆けのぼり、クリスフィアたちの目の高さの枝に腰を落ち着けてから、さらに述べたてた。


『まあ、場所などどこでもかまわんじゃろ。さしあたって、いまの問題はただひとつ。眠りから覚めてしまった蜘蛛神ダッバハを地の底に追い返すことじゃろうな』


「それよりも、説明をしろ! お前の正体を明かす約束だぞ!」


『そのような約束を交わした覚えはないのじゃが……まあよい。名乗りを交わすのは、人の世の習わしじゃからな。禁忌を犯して人の子と交わったからには、それに従う他あるまい』


 そうしてギーズの鼠は、枝の上でぴょこりと身を起こした。


『儂の名は、トゥリハラ。禁忌を犯して前時代の魔術に触れてしまったために人の世を捨てることになった、世捨て人の老いぼれじゃ。おぬしたちと語らうのはこれ限りじゃろうが、どうかよしなにな、森辺の狩人に北の地の姫君よ』


「魔術に触れたというのは、どういうことだ。それこそが、《まつろわぬ民》であるという証なのではないのか?」


『否。儂はただ、この世のすべてを知り尽くしたいという欲求に溺れてしまっただけなのじゃ。しかし、現世の運行を歪めてはならんと思い、人の世との交わりを絶った。しかし《まつろわぬ民》というものは、大神の眠りを妨げて、四大王国を滅ぼさんと目論んでいる。同じ禁忌を犯しながら、まったく逆の方向を向いたもの同士であると思ってもらいたいものじゃの』


「では、お前も《まつろわぬ民》と敵対する立場であるのか?」


 クリスフィアが問い質すと、ギーズは可愛らしく小首を傾げた。


『そうしたいのは山々じゃが、儂が人の世と交わると、それはそれで世界の運行を歪めてしまうのじゃ。前時代の魔術は大神の眠りとともにすべて封じられたというのに、すべてをわきまえた儂が現世にしゃしゃり出たならば、《まつろわぬ民》と同じ愚を犯すことになる。じゃからこうして、陰ながら人の子に助力しようと考えたのじゃよ』


「助力……我々に手を貸そうというのか?」


『うむ。そもそもおぬしたちが苦境に追いやられたのも、儂が星図の運行に干渉してしまったゆえなのじゃからな』


 とたんにジェイ=シンが、両目を光らせた。


「どういうことだ。あの妖魅どもは、お前のけしかけたものであったのか?」


『そういうことではない。……では問うが、どうしておぬしたちは、あの場所を訪れたのじゃ? さしたる信仰心も備えていないおぬしたちが、異郷の聖堂を訪れる理由はなかろう?』


「それは……大聖堂が妖魅どもに穢されれば、西方神の加護が失われると聞いたためだ」


『では、その話をおぬしたちにもたらしたのは、誰なのじゃ?』


 ジェイ=シンは、用心深く口をつぐんだ。

 トゥリハラと名乗ったギーズの鼠は、声もなく苦笑した様子である。


『隠さずとも、儂は答えを知っている。その危機をおぬしたちに伝えたのは、獅子の星を持つ騎士――ダリアスであろう? あの者が、伝書鴉なる愉快なものを使って、おぬしたちに危機を知らせたのじゃ』


「ふん。知っているなら、聞く必要はあるまい」


『それも必要な手順であるのじゃ。……ともあれ、おぬしたちに危機を知らせたのは、ダリアスじゃった。そして儂は、あの者を破滅の運命から救った身の上であるのじゃ』


「なに? お前はダリアス殿とも、こうして顔をあわせているのか?」


 クリスフィアが問いかけると、トゥリハラは『うむ』と応じた。


『《まつろわぬ民》の野望を打ち砕くために、あの者の力が必要じゃった。もちろんあの者はきわめて強き星を持っているがゆえに、放っておいても魂を返すことにはならなかったじゃろうが……あのままでは、どこかで破滅する運命じゃった。《まつろわぬ民》が星図を乱したために、あやつの有していた栄光の相が破滅の相に転じてしまったのじゃ。じゃから儂は、星図を乱さぬていどにちょちょいと手を加えて、それを栄光の相に戻すべく画策することになったのじゃよ』


「それで……俺たちが苦境に追いやられたのはお前のせいだ、というのはどういうことなのだ?」


『じゃから、儂がダリアスの星図に干渉していなければ、あやつは破滅しているはずじゃった。儂が助力をしたがために、あやつは凶運を打ち払い、今日という日を生き抜いて、王都に伝書鴉を飛ばすことになった。……まったく、余計なことをしてくれたものじゃの。あやつが伝書などを送っていなければ、今日という日に蜘蛛神ダッバハが目覚めることにもならなかったのじゃ』


「馬鹿を言うな。危急を告げてくれたダリアス殿は、功労者ではないか。あの妖魅どもが大聖堂を巣窟にしていたのは、まぎれもない真実であったのだからな」


『しかし、おぬしたちがあの場所を訪れていなければ、蜘蛛神ダッバハが目覚めることはなかった。また、おぬしたちがそれほどまでに強き星を持っていなければ、最初の妖魅どもに喰らい尽くされて、やはり蜘蛛神ダッバハが目覚めるには至らなかったはずじゃ』


「……しかし、放っておいてもいつかは目覚めていたのであろうが? ならばそれは、どうあっても退治するしかあるまい」


『その役割を果たすべきは、ダリアスであったのじゃ。儂がそのための力を授けたのじゃからの』


 そのように述べたててから、トゥリハラはまた溜め息をついたようだった。


『しかし運命は違う方向に流れゆき、ダリアスよりも早くおぬしたちが聖堂を訪れることとなった。ダリアスによって邪神を滅ぼそうとした儂の行いが、別なる凶運を招き寄せてしまったのじゃ。これも、人の世に交わってはならぬ儂が、現世に手をのばしてしまった報いなのかのう。因果応報とは、よく言ったものじゃ』


「……よくわからんが、それでお前はどうしようというのだ?」


『歪んでしまった運行を、正しい方向に戻す。……とはいえ、儂がしゃしゃり出てしまっては、また別なる方向に運命がねじ曲がってしまうかもしれんがの。しかし、儂の行いによって、死ぬべきではない人間が魂を返してしまうのは、どうにも我慢がならなかったのじゃ』


「死ぬべきではない人間というのは、もしかして……」


『おぬしたちのことじゃよ。当たり前じゃろうが』


 トゥリハラはあっさりと、そのように言ってのけた。


『おぬしたちはその強き星の輝きで、世界を照らす運命にあった。しかし、儂がダリアスに干渉してしまったがために、今日、あの場所で、魂を返すことになってしまったのじゃ。しかも、蜘蛛神ダッバハの眠りを妨げるという、とんでもない置き土産を残してな。……儂がさきほど姿を現していなければ、おぬしたちはあの暗がりで魂を返しており、蜘蛛神ダッバハは西方神の加護を粉々に打ち砕いていたであろう。王都には邪神と妖魅が跋扈して、幼き賢人もその牙に魂を奪われていた。そんな破滅の相が星図に浮かんでしまったため、儂は慌ててあの場所におもむくことになったのじゃよ』


 確かにトゥリハラが現れていなければ、クリスフィアとジェイ=シンの生命もあの場限りであっただろう。クリスフィアに確信できたのは、その一点のみであった。


「それで……我々はどうするべきであるのだ? 蜘蛛神ダッバハなる邪神めは、もう目覚めてしまったのであろう? ダリアス殿が駆けつけるまで、何も為せることはないのか?」


『いや、ダリアスを待っていては、もう間に合わん。夜が訪れる前に蜘蛛神ダッバハを退治せねば、西方神の加護は完全に失われることになる。そうなったら、少なくとも王都は邪神の領土と成り果ててしまうであろうよ』


「では、どうせよというのだ?」


 ジェイ=シンが、厳しい表情でギーズに詰め寄った。

 ジェイ=シンの青く燃える双眸を見返しながら、ギーズはぱちぱちとまばたきをする。


『こうなったら、おぬしにも力を授ける他あるまいな。幸いなことに、おぬしも獅子の星を持つ狩人じゃ。それだけ強き星を受け継いでおれば、四大神の刀となる資格はあろう』


「ふん。俺を魔法使いにでも仕立てあげようという心づもりか?」


『おぬしたちに許されるのは、四大神の力を行使することのみじゃ。これまた幸いなことに、おぬしも立派な鋼を携えておるからのう』


 ジェイ=シンは、その手の長剣にちらりと目を落とした。


「……これは父から授かった、大事な刀剣だ。おかしな真似をすることは許さんぞ」


『うむ。実に立派な刀じゃな。それだけの業物であれば、四大神の祝福に耐えかねることはあるまい』


 トゥリハラがそのように応じると同時に、異様な物音がした。森の奥から、何か巨大なものが近づいてくるようだ。

 ジェイ=シンはすかさず身を引いて、長剣をかまえなおす。クリスフィアもずっと手に掲げていた灯篭をようやく足もとに下ろして、それにならうことにした。


『何も用心する必要はない。新たな使い魔を、そちらに差し向けただけのことじゃ』


 森の枝葉が揺さぶられて、たくさんの野鳥が空に逃げていく。

 そうして大樹の隙間をぬうようにして現れたのは――無数の根を足のように動かして前進する、樹怪とでもいうべき怪物であった。


『驚かせてしまい、申し訳ないの。何も悪さはさせんから、安心するがよい』


 そのように言われても、なかなか剣を収める気持ちになれるはずはなかった。このようなものは、さきほどまで相対していた妖魅どもと、なんら変わるところはないように思われたのだ。


 ひとかかえもある図太い幹に、ふたつのうろが空いており、そこにぼんやりと白い光が灯されている。その光を双眸と見なすのであれば、ゆらゆらと蠢く二本の枝が、腕であるのだろうか。何にせよ、それは自分の意思で動くことのできる、おぞましい樹怪であった。


『おぬしが望むのであれば、邪神をも退けられる力を授けよう。選ぶのは、おぬしじゃ』


 トゥリハラは、そのように述べたてていた。

 それと同時に、巨大な枝の一本が、ジェイ=シンのほうに差しのべられてくる。その手の刀をよこせと催促しているかのようである。


「……俺がそれを断れば、どうする?」


『どうもせん。獅子の騎士たるダリアスが、王都にやってくるのを待つしかあるまい。……しかしダリアスがやってくる頃には、西方神の加護も破られて、多くの人間が邪神とその眷族に喰らい尽くされることとなろうな』


 樹怪の双眸が、白く穏やかに明滅していた。


『そして、おぬしたち二名と幼き賢人は、その凶運に呑み込まれることとなる。その凶運を回避するには、すぐさま王都を出る他ないが……おぬしたちの存在が失われたとき、王都は破滅の道を辿ることになろう』


 ジェイ=シンは長剣をかまえたまま、深々と息をついた。


「俺は虚言を罪とする、森辺の民だ。他者が虚言を吐いているか、真実を語っているか、それを聞き分けるぐらいの耳は持ち合わせているつもりであるのだが……お前の言葉がすべて真実であるように聞こえてしまうのは、いったいどういうことなのであろうな」


『ほほほ。どういうことなのかのう』


 ジェイ=シンは苦虫を噛み潰したかのような面持ちで、クリスフィアを振り返ってきた。


「……俺の行いを笑うか、クリスフィアよ?」


「いや。奇遇にも、わたしもお前と同じ心持ちであるのだ、ジェイ=シンよ」


 これだけ異様な環境に放り込まれて、これだけ異様な話を聞かされているというのに、クリスフィアはトゥリハラから悪念を感じることがいっさいなかった。

 ならば――運を天に任せるのも、ひとつの道であろう。


 クリスフィアは長剣をかまえたまま、ジェイ=シンに薄く笑いかけてみせた。

 ジェイ=シンはひとつうなずくと、その手の長剣を樹怪に差し出した。


『重畳重畳。……これでまたもや運命がねじ曲がるとしたら、それは儂の責任じゃ。大神にこの老いぼれた魂を捧げてでも、正しき運命を回帰させてみせよう』


 たくさんの葉を生やした枝の腕が、わさわさと音をたてながら、ジェイ=シンの長剣を受け取った。

 幹のうろに白い光が宿っているだけであるのに、樹怪はまるで皺深い老人が優しく微笑んでいるように見えてしまった。

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