Ⅰ-Ⅰ 希望と絶望
2019.5/11 更新分 1/1
果てしもなく続いていた石造りの階段をのぼりきると、冷気をはらんだ夜風がリヴェルたちの髪や頬を容赦なく嬲っていった。
グワラムの城塞の、もっとも外側に位置する城壁である。その向こうには城内の糧を育てるための荘園が広がっているはずであったが、もちろん現在は深い闇に包まれている。
城壁の内側に目をやれば、そこに広がるのはあちこちに点在するかがり火の明かりだ。
丸く大きく切り取られた空間に、ぽつぽつと赤い火が灯っている。おそらくは、ヤハウ=フェムを筆頭とするマヒュドラの兵士たちが、その火を頼りにして妖魅どもと死闘を繰り広げているのであろう。
その空間の中心には、この外壁よりも高くそびえる物見の塔の影がぼんやりと浮かびあがっていた。
つい先刻まで、リヴェルたちはあの場所にいたのだ。
そして、青い髪と肌をした矮躯の人獣――聖域の民に襲撃されて、それを返り討ちにした。リヴェルの耳の奥には、まだ彼らの野獣じみた雄叫びがくっきりと残されていた。
「さあ、姿を現しなよ、メフィラ=ネロ! 君は僕に用事があるんだろう!?」
ふいに、ナーニャの鋭い声が響きわたった。
ナーニャは胸壁に手をかけて、外側の暗闇をにらみ据えている。その深紅の瞳は、早くも炎のように爛々と燃えさかっていた。
ナーニャと行動をともにしているのは、九名――リヴェル、ゼッド、チチア、タウロ=ヨシュ、イフィウス、そして四名のマヒュドラの兵士たちである。
ここは城壁の上であるので、それほど空間にゆとりはない。大柄な北の民が何とかすれ違えるていどの通路が、なだらかな曲線を描きながら左右に広がっている格好だ。自然、リヴェルたちは横並びで妖魅のひそむ暗闇と相対する形になっていた。
ナーニャのかたわらには、台座の上でかがり火が燃えている。さらに、マヒュドラの兵士たちの抱えてきた油の樽にも灯心が差し込まれて、火が灯されていた。
あとは、兵士たちがそれぞれ松明を掲げている。
この場における火種は、それがすべてだ。
ナーニャはこれだけの火を武器として、恐ろしい魔力を有するメフィラ=ネロを討ち倒さなければならなかったのだった。
「どうしたんだい? うかうかしていると、夜が明けてしまうよ? いまだこの世の支配者ならぬ君にとって、太陽の光はありがたくないはずだ。僕に用事があるのなら、さっさと姿を現すべきじゃないのかな?」
挑むように、ナーニャは言葉を重ね続けた。
ナーニャの声には、普段にはない怒気がわずかに滲んでいる。ナーニャは聖域の民をも巻き込んだメフィラ=ネロの悪辣さに、怒りを燃やしているのである。思えば、ナーニャが怒りの感情を垣間見せるのは、実に珍しいことであった。
しかし、ナーニャの声に答えようとする者はいない。
ひゅうひゅうと、北の地の冷たい夜風だけが、ナーニャを嘲笑うようにその白銀の髪をかき乱していた。
そして――どれだけの時間が過ぎたのちのことであろうか。
闇の向こうに、青い鬼火が浮かびあがった。
この外壁の天辺よりも、わずかに低い位置である。虚無的な憎悪をはらんだその眼光が、重々しい地響きとともに、こちらに近づいてくる。
それは、氷雪の巨人であった。
近づくにつれ、その小山のごとき巨体があらわになってくる。ただかがり火の火に照らされているだけでなく、巨人の身体そのものがぼんやりとした光を発し始めているようだった。
その光もまた、燐光のように青白い。
まるで、氷でできた肉体の内側に、冷たい炎が燃えあがったかのようだ。
腕が長く、足が短い、不気味な姿をした巨人である。
巨大な頭は岩塊のように角張っており、そこに鬼火のごとき双眸が光っている。
そして――その頭頂部に、人間の上半身が生えていた。
「待たせたね、火神の御子! ……というか、次にあんたと顔をあわせるのは、この世を滅ぼして祝杯をあげるときだと思ってたんだけどねえ」
凶気に満ちみちた少女の声が、闇の中に響きわたる。
氷神の御子、メフィラ=ネロである。
「十日の間に消え失せろと言ったのに、どうしてあんたがそんな場所で、あたしを見下ろしてるのさ? あんたは何がどうあろうとも、大神の意志に逆らおうってのかい?」
「大神の意志が、聞いて呆れるね。僕も君も、大神の意志をねじ曲げようとする《まつろわぬ民》に生み出された、狂気の産物じゃないか」
「……このあたしを見下しながら、小賢しい能書きを垂れるんじゃないよ!」
メフィラ=ネロが言い捨てると同時に、めりめりという異様な音色が轟いた。
獣のように前かがみであった巨人が、全身の氷雪を軋ませながら、身を起こし始めたのである。
そうして巨人が直立すると、メフィラ=ネロの姿が目の前にまで持ち上げられてきた。
メフィラ=ネロとこれほどまでに間近で向かい合うのは、初めてのことである。リヴェルは恐怖に心臓をつかまれながら、それでも懸命にその姿を検分した。
やはり、リヴェルとそれほど年齢も変わらなそうな、ごく幼い少女である。
しかしその姿は、どのような妖魅よりも恐ろしい。
それこそ氷雪でできているかのように、皮膚が白い。一糸まとわぬ裸身であり、ただ金褐色の渦巻く髪だけが、そのほっそりとした身体を彩っている。
ナーニャに劣らぬほど美しい、精霊じみた美貌である。
しかし、その紫色の瞳は、この世に対する憎悪で火のように燃えており――しかも、秀でた額には第三の瞳が瞬いていた。
腰から下は巨人の頭にうずまっているので、本当に存在するのかどうかも見て取れない。そして、あらわになった上半身には、うっすらと氷雪がこびりついている。それはまるで、氷で作られた美神の彫像のようでもあったが、その美しい面には目もあてられないような邪悪なる笑みが浮かべられていた。
「言ったろう? 同じ大神の御子が相争うのは、大いなる禁忌なのさ。そんな真似をしたら、あたしもあんたも滅ぶしかない。あたしたちは手を取り合って、このくそったれな世界をぶっ潰すべきなんだよ!」
「……僕がこの世界を滅ぼしたいと願ったなら、それは自分の力で成し遂げたいものだね。こんなおぞましい、借り物の力じゃなくってさ」
ナーニャは激情をひそめた声を返した。
メフィラ=ネロは、小馬鹿にしきった様子で唇をねじ曲げる。
「ちっぽけな人間に、この世を滅ぼすことなんてできっこないだろう? だからこそ、あたしらはこんなにありがたい力を授かったんじゃないか! あんただって、心からこの世を憎んでいるからこそ、《神の器》に仕立てあげられたんだろう?」
「違うね。僕は《神の器》に仕立てあげられるために、この世への憎悪を植えつけられたのさ。僕の中に渦巻く憎悪や怒りや破壊衝動は、みんな《まつろわぬ民》から与えられたものだ。もしも彼らが僕の生にちょっかいを出していなかったら……僕はいまごろ、誰よりも呑気な心地で、この世の幸福を追いかけていたのじゃないのかな」
「だったら、《まつろわぬ民》に感謝するこったね! この世にあふれた幸福や悦楽なんて、みんな嘘っぱちさ! こいつらは、大神から世界をかすめ取った、四邪神の子供たちなんだよ? こんな連中はさっさと駆逐して、あたしたちは本当の楽園を築きあげるべきなんだ!」
「そんなのは、みんな『禁忌の歴史書』の受け売りじゃないか。……君もどこかで、あの書を目にしたのだろう? そうじゃなきゃ、《神の器》として覚醒できるわけがないものね。誰が書いたのかもわからない書物なんかに自分の運命を捧げてしまうなんて、あまりに馬鹿げているとは思わないのかな?」
メフィラ=ネロは、歯を剥き出しにして、邪悪に笑った。
否――そこにはぽっかりと黒い空間が空いており、ただ青紫色をした歯茎だけが剥き出しにされている。見る限り、メフィラ=ネロの口には歯というものが存在しないようだった。
「確かにね! あたしは神なんて、信じちゃいなかった! だけど、この世を憎んでいたのは本当だし、神に魂を捧げたからこそ、こんな力を授かることができたんだよ! だったら後は、何がどうでもかまわないだろう? あたしはあたしの意志で、この世を滅ぼす! それがたまたま、大神の意志と合致したってだけの話さ!」
「それじゃあ……それじゃああなただって、《まつろわぬ民》というものに悲運を背負わされただけなんじゃないですか!?」
知らず内、リヴェルはそのように叫んでしまっていた。
狂気をはらんだ三つの瞳が、のろのろとリヴェルに差し向けられてくる。
「口をはさむんじゃないよ、虫けらめ! あんたなんざ、そのあたりを飛び交う羽虫も同然なんだよ!」
「そうだとしても、黙ってはいられません! あなたに悲運をもたらしたのが《まつろわぬ民》であるのなら、あなたは《まつろわぬ民》こそを憎むべきなんじゃないですか?」
身体は恐怖で痺れてしまっているのに、口だけが勝手に言葉を紡いでいく。
しかしリヴェルは、それを止めようという気持ちにはなれなかった。
「ナーニャを不幸にしたのは、《まつろわぬ民》であると聞きます! それと同じように、あなたも《まつろわぬ民》に非業の運命を押しつけられてしまったのではないですか? そうだとしたら……自分の運命をねじ曲げた相手のために、その力を利用されてしまうなんて、あまりに馬鹿げています! あなたは……あなただって、もとはわたしたちと、同じ人間であったはずなのですから……」
「はあん。もしかしたら、あんたは《まつろわぬ民》に盾突こうとしてるのかい、火神の御子? そうだとしたら、ほとほと呆れたやつだねえ!」
メフィラ=ネロは何の感銘を受けた様子もなく、哄笑した。
リヴェルは「何故ですか!?」と叫ぶ。
「もしもあなたをひどい目にあわせたのが《まつろわぬ民》であるのなら、憎むべきは《まつろわぬ民》でしょう? わたしは何か、間違ったことを言っていますか?」
「ああ、大いに間違ってるねえ。あたしがそれぐらいのことを思いつかない低能だとでも思っているのかい、小娘?」
メフィラ=ネロの薄い唇が、半月形に吊り上がった。
その狭間に空いた黒い隙間から、憎悪にまみれた声が放たれる。
「あたしは腐肉に蠢く蛆虫よりも惨めな人生を送っていた! どうして自分がこんな目にあわなくちゃならないんだって、それを考えない日はなかったよ! それで最後にこんな愉快な運命が待ち受けていたら、どんな低能でも理解できるさ! ああ、自分はこのために人生を無茶苦茶にされたんだなってね!」
「だ、だったらどうして……」
「それでも! あたしを嬲ってくれたのは、この世界の人間たちだった! お膳立てをしたのは《まつろわぬ民》でも、それに乗っかったのは、この世界の薄汚い人間たちなんだよ! あいつらに少しでもまともな心が備わっていたら、あたしだってこの世を呪うことにはならなかっただろうさ! あたしを踏みつけて、ぐちゃぐちゃにして、いいように弄んでくれたのは、この世にはびこる低能どもだ! だからあたしは、こいつらを皆殺しにしてやろうと決めたんだよ!」
まるでそれは、悪念を凝り固めたかのような声音であった。
紫色の炎と化した三つの瞳が、またナーニャへと差し向けられる。
「あんただってそうなんじゃないのかい、火神の御子? あんたがこの世を憎むのは、みんな《まつろわぬ民》のせいなのかい? あんたを虐げてきた連中は、《まつろわぬ民》の命令で鞭をふるっていたのかい? いいや、そうじゃないはずだね! あんたを絶望させたのは、この世界で我が物顔をしている低能どもだ! 《まつろわぬ民》は、あんたを皿にのせただけなんだろう? よだれを撒き散らしながらそいつを喰らい尽くしたのは、この世の人間たちなんだろう? この世の人間たちが、もっと純真で、もっと善良で、もっと慈愛に満ちあふれていたら、あんたはこの世に絶望したりはしなかった! そうじゃない、とでも言うのかい!?」
「そうじゃない……とは、言えないだろうね」
ナーニャは感情の欠落した声で、そのように応じていた。
「僕を忌み子に仕立てあげたのは、シムの占星師だった。でも、父様がそんな占星師の言葉を信じてしまったのは……僕のお産で、母様が魂を返してしまったからなのだろう。おそらくは、その占星師こそが《まつろわぬ民》で、母様が魂を返してしまったのも、そいつがこっそり毒を仕込んだせいなのだろうけれど……父様が僕を憎んだのは、僕のせいで母様が死んだと信じたためなのだろうと思う。お膳立てをしたのは《まつろわぬ民》で、それに従ったのは父様自身……おそらくは、君の言う通りなのだろうね、メフィラ=ネロ」
「ああ、そうさ! あんたの父親にまともな心が備わっていたら、あんたが凶運を背負うことにもならなかったんだろうさ!」
「うん。その後も僕に、救いの手をのばしてくれる人間はいなかった。あのままであれば、僕も君と同じように、この世を憎みぬいていたと思うよ」
そうして、ナーニャは――ふわりと、透明な笑みを浮かべた。
「だけど僕は、ゼッドと出会うことができたんだ。すべての人間が僕を見放しても、ゼッドだけは救いの手を差しのべてくれた。その一点が、僕と君の運命を分けてしまったのだろうね」
「ふうん。たったひとりの人間が、すべての絶望をくつがえすことなんてできるのかねえ?」
醜悪に笑いながら、メフィラ=ネロは言い捨てた。
ナーニャは澄みわたった眼差しで、それを見返している。
「僕の運命は、そこからまったく異なる方向を向くことになった。絶望ではなく希望を胸に生きていたら、次から次へとさらなる幸運が舞い込んできたんだよ。そうして僕は、リヴェルやチチアやタウロ=ヨシュと出会うことになり……人間として生きる喜びを、本当の意味で知ることができたのさ」
「ちゃんちゃらおかしいね! あんたはもう人間じゃない! 《神の器》なんだ! あんたはいつまで、人間のふりをしているつもりなんだい?」
「この魂を天に返す、その瞬間までだよ。たとえまともな人間に戻ることはできないとしても、僕は人間のふりをし続ける。愛する者たちの存在にかけて、僕はそんな風に誓ったのさ」
邪悪な笑みを浮かべたまま、メフィラ=ネロは押し黙った。
リヴェルは胸壁に手をかけて、暗闇に浮かぶメフィラ=ネロへと語りかける。
「あなただって、そうすることはできるはずです。いまからでも、何とか思い留まっていただけませんか? あなたが……あなたがそんな、いわれもない憎しみに魂を捧げる必要なんて、ないはずです!」
メフィラ=ネロの三つの瞳が、またのろのろとリヴェルに差し向けられてくる。
青紫色をした舌が、自分の唇をねっとりと舐めた。
「だったら……あんたがあたしを愛してくれるってのかい? こんな化け物に成り果てちまった、あたしをさ」
「情愛とは、頭ではなく心から生み出されるものです。愛そうと思って、愛せるものではありません」
答えながら、リヴェルは頬に涙が伝っていくのを感じた。
これほど恐ろしい相手でありながら、メフィラ=ネロを憐れまずにはいられなかったのだ。
「でも……あなたが人間として生きようと願ってくれるなら……決して力は惜しみません。そうしてあなたのかたわらにあれば、いずれおたがいに人間としての情愛が芽生えるのではないでしょうか?」
「ふうん。そいつは、面白い提案だねえ」
メフィラ=ネロは、愉快でならぬように顔を歪ませた。
「いいよ。あんたが本気でそんなことを言いたててるんなら、あたしも努力してみようじゃないか」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、本当さ。ただし、あんたがその覚悟を示してくれるならね」
メフィラ=ネロの白い指先が、真っ直ぐにナーニャを指し示した。
「火神の御子を、その城壁から突き落としな。そうしたら、あんたの情愛ってやつを受け入れてやるよ」
「な、何を言っているのですか! どうしてわたしが、ナーニャにそんな真似を……」
「あんただって、そいつの心を救ったひとりなんだろう? そんなあんたが懸命に情愛を注いでくれたら、あたしの心も人間らしさを取り戻すかもしれない。でも、二股をかけられるのは御免だからね。あんたがそいつを殺すことができたら、あたしもあんたを受け入れてやるよ」
リヴェルは石造りの胸壁を握りしめながら、おもいきり頭を振ってみせた。
「言っていることが、無茶苦茶です! わたしがナーニャを殺めるなんて、そんな真似ができるわけありません!」
「ああ、そうさ。あんたは火神の御子を虜にするっていう奇跡を起こした人間なんだからねえ。同じ奇跡をもう一回望もうだなんて、そいつはあまりに虫がよすぎるってもんさ」
ぴしぴしと音をたてながら、氷雪の巨人が動き始めた。
その巨体を包んだ青白い光が、陽炎のように周囲の空間を歪ませている。
「あたしの人生に、あんたのような人間はいなかった。きっとそれが、答えなんだよ。……それじゃあ、始末をつけることにしようかねえ」
「僕と、争うつもりなのかい? 御子と御子が争えば、おたがいに滅ぶしかないのだろう?」
ナーニャの瞳も、炎のように光を強めていく。
それを見返しながら、メフィラ=ネロはせせら笑った。
「くだらない無駄話に興じたおかげで、光明が見えたのさ! あんたがこの世に絶望していないってんなら、希望の源を全部ぶっ潰しちまえばいいってことだろう? そうしたら、あんたも心置きなく、大神に魂を捧げる気持ちになれるだろうさ!」
「やっぱり、そうなるか。まあ、言葉で君をやりこめることができるなんて、僕はこれっぽっちも思ってはいなかったからね」
そんな風に言い捨てながら、ナーニャはちらりとリヴェルのほうを見やってきた。
紅蓮の光の渦巻く瞳に、ほんの一瞬だけ人間らしい優しさが閃く。
「メフィラ=ネロには悪いけれど、君を渡すことはできない。……リヴェルと出会えた幸運が、僕の魂を救ってくれたんだ」
そうして――ついにナーニャとメフィラ=ネロは、おたがいの存在を懸けた死闘に身を投じることになってしまったのだった。