プロローグ ひとときの休息
2019.5/4 更新分 1/1
ヴァルダヌスは、悪夢の中でのたうち回っていた。
世界は、紅蓮の炎に包まれている。ヴァルダヌスの五体も炎に焼かれて、炭と化していくさなかであった。
渦巻く炎は、まるで伝説に聞く竜神のように、世界を焼き滅ぼしている。深紅と黄金の炎が乱舞して、何もかもを貪欲に喰らい尽くそうとしているのだ。ヴァルダヌスもまた、炎の祭壇に捧げられた生贄のひとりに過ぎなかった。
乱舞する炎の向こう側に、ときおり美しい娘の横顔が垣間見える。
それは、かつてヴァルダヌスの許嫁であった姫君の横顔であった。
炎の舌先が、姫君の白い頬や可憐な唇をも、無残に噛みちぎろうとしている。しかし、姫君はすでに魂を返しているため、何の苦痛も感じてはいないようだった。
さらに、別の場所で苦悶の絶叫をあげているのは、十二獅子将のアローンであった。
国王たるカイロスや、王太子とその弟たちも、炎の中で身をよじっている。その口が、自分たちにこのような凶運をもたらした忌み子の名を叫んでいた。
(違う……カノン王子は、何も悪くない……悪いのは、王子を外に連れ出した俺であるのだ!)
ヴァルダヌスも叫んだが、すでに咽喉も焼けただれてしまっているために、声は出なかった。
(そうだ、俺がすべて悪いのだ……俺がカノン王子の解放を願わなければ、アイリア姫が寝所の鍵を手に入れることもなかったし……このような凶運を王家にもたらすこともなかった)
それでは、カノン王子を放っておくべきであったのだろうか?
あのような忌み子とは縁を切り、美しい許嫁と婚儀をあげて、何事もなかったかのように幸福な家庭を築くべきだったのだろうか?
そうすれば――ヴァルダヌスも、このような苦しみに苛まれることもなかったのだろうか?
(いや……)
それは違う、とヴァルダヌスは心の中で絶叫をあげた。
カノン王子があのような悲運を享受しなくてはならない理由はない。
何の罪もないカノン王子が、あんな暗がりの中で、何の幸福も知らないまま、ちっぽけなギーズの鼠のように朽ち果てていくなどと――そのような運命を、受け入れていいわけがなかった。
(俺は、カノン王子に人間としての幸福を知ってほしかっただけなのだ……太陽の下で、愛する者と微笑みを交わし合う、そんなささやかな幸福を味わってほしかっただけなのだ……それがそんなに、許されざる罪であるのか!?)
炎の向こうに、新たな横顔が浮かびあがった。
アイリア姫よりも色の白い、この世のものとは思えぬほどに端麗な横顔――その瞳は炎と同じ色に燃えさかり、そして、血の涙を流している。自らが生み出した炎に焼かれる亡者たちの姿を見つめながら、カノン王子は頑是ない幼子のように泣いていた。
(あなたは、悪くない! 悪いのは、このような凶運をあなたにもたらした何者かだ! あなたは……あなたはこれまで苦しんできた分、誰よりも幸福になるべきであるのだ!)
ヴァルダヌスは、溶け崩れた指先を王子のほうに差し伸べる。
しかし、王子には届かない。白銀の長い髪を炎のように逆立てながら、王子は声もなく泣き続けていた。
そして――
ヴァルダヌスの魂は、ふいに現実へと引き戻された。
「ああ、目が覚めたのかい、ヴァルダヌス? ずいぶんうなされていたようだったけど……まだ傷が痛むのかな?」
美しい顔が、間近から自分を覗き込んでいる。
それを奇跡のように感じながら、ヴァルダヌスは「いえ……」と答えてみせた。
別人のように、しわがれた声である。
そして、それしきの声をあげただけで、ヴァルダヌスは顔の皮膚や咽喉の奥が焼けつくように痛むのを感じた。
苦痛にあえぐヴァルダヌスの姿を見つめながら、王子は悲しそうに眉をひそめる。
「ごめん。これほどの傷を負って、痛くないわけがないよね。無理に喋らなくていいよ、ヴァルダヌス。君は、顔にまで大きな火傷を負ってしまったから……喋るだけでも、苦痛だろう?」
確かにヴァルダヌスの身体は、悪夢の中と変わらぬ苦痛に苛まれていた。
まるで炎に包まれているかのように、身体が熱い。びくびくと脈打つような痛みが、全身を跳ね回っている。とりわけ右腕の痛みがひどく、肘から先を失ってしまったのではないかと思えるほどだった。
「ああ、ほら、動いたら駄目だってば。せっかく包帯を巻いたのに、台無しになってしまうじゃないか。もう何日かは、大人しくしていないと」
カノン王子は悲哀に満ちみちた眼差しで、それでも静かに微笑んでいた。
粗末な灰色の夜着を纏っただけの姿であるのに、精霊のように美しい。どこかから差し込む弱々しい陽光に照らされて、その白銀の髪も幻想的にきらめいていた。
あの悪夢のような災厄の日から、すでに数日が経過している。
しかし、どれだけの日数が経過しているのか、ヴァルダヌスには判然としなかった。
銀獅子宮が炎に包まれて、ふたりは魂を返すはずだった。それがこうして生き永らえているのは、宮殿が崩落した際に、ふたりの身体が地底の隠し通路に放り出されたためであった。
迫りくる炎にせきたてられるようにして、ふたりは懸命に逃げ惑った。やがてさらなる崩落が起きて、炎が瓦礫に塞がれてしまうと、通路は暗黒に閉ざされた。そののちは手探りで逃げ惑い、そしてこの場所に辿り着いたのだ。
ここは、隠し通路の出口である。
正確に言うならば、出口の少し手前に作られた、小部屋のような空間であった。
もともとは、鍾乳洞であったのだろう。壁や天井は黒いごつごつとした岩盤であり、足もとだけが平らにならされている。外界への出口には絡みあった蔓草が帳のように垂れさがっており、人目を避ける役に立っている。その外に広がるのは、何処とも知れない樹海であった。
そういったことを確認したのちに、ヴァルダヌスは力尽きてしまったのだ。
それからは、悪夢と現実の間を行き来しながら、ずっと全身の激痛に耐えている。ときおりカノン王子が口移しで水を飲ませてくれたような気もするが、それが現実であったのか夢であったのか、ヴァルダヌスに確かめるすべはなかった。
「早くものを食べられるようになるといいんだけど……これでは火傷が治る前に、身体のほうが参ってしまうよ」
カノン王子が、囁くような声でそのように述べていた。
微笑んでいるはずであるのに、泣いているように見えてしまう。カノン王子がこれほどに悲しげな表情を浮かべるのを、ヴァルダヌスはこれまでに見た覚えがなかった。
「君が魂を返してしまったら、僕もとうてい生きてはいられない……お願いだから、死なないでおくれよ、ヴァルダヌス……僕を助けたのは君なのだから、僕を置いて死んでしまうなんて、そんなことは許されないはずだよ」
カノン王子の指先が、ヴァルダヌスの左手をつかんできた。
どうやらそちらの手は火傷を負っていないらしく、痛みも感じない。ヴァルダヌスは力を振りしぼって、その指先を何とか握り返してみせた。
「おや……お目を覚まされたのでしょうかな……?」
と――聞き覚えのない声が、ふいにその場に響きわたった。
たちまち緊迫するヴァルダヌスの手を、カノン王子が優しく握りしめてくる。
「大丈夫だよ。どうやらこのお人は、僕たちの味方らしいからさ」
カノン王子のかたわらに、黒い人影がふわりと沈み込んだ。
漆黒の頭巾と外套で人相を隠した、奇怪な人物である。横たわっているヴァルダヌスからはその頭巾の中身を覗き見ることもかなったが、その人物は鼻から下に包帯を巻いて、入念に顔を隠していた。
あらわになっているのは、目もとだけだ。
瞳は東の民のように漆黒で、目の周りの皮膚は病人のように青黒い色合いをしている。それに、古びた老木のように皺が寄っているので、おそらくは老人であるのだろう。言っては悪いが、とうてい心安くできるような相手であるとは思えなかった。
「わたくしは、薬師のオロルと申します……王弟殿下の従者として、王都の宮殿にて過ごす身ではありますが……ヴァルダヌス将軍のお目を汚したことはないかと思われます……」
不吉な風体をした老人は、しわがれた声音でそのように述べたてた。
王弟のベイギルスは、宮廷における日陰者である。ベイギルスそのものとも親交の薄いヴァルダヌスは、この老人の姿にも名前にも憶えがなかった。
「ヴァルダヌスは、この地下通路の出口に到着するなり、力尽きてしまっただろう? それからしばらく、僕は途方に暮れていたんだけど……そこでこのお人が現れて、救いの手をのばしてくれたのさ」
カノン王子が、そのように説明してくれた。
「薬も、包帯も、水も、食べ物も、みんなこのお人が持ち込んでくれたものなんだ。このお人がいなかったら、ヴァルダヌスは半日ももたずに魂を返していたかもしれない。……あなたには心から感謝しているよ、薬師オロル」
「滅相もございません……わたくしとて、王国の民の端くれでありますれば……第四王子たるカノン殿下と十二獅子将たるヴァルダヌス将軍にお力添えするのは、当然の話であります……」
「でも、僕たちは王殺しの叛逆者と見なされているのだろう? そんな僕たちに親切をほどこすのは、王国の法にもとる行いであるはずだよ」
悲しげに微笑んでいたカノン王子の顔に、今度は皮肉っぽい微笑がたたえられる。
それこそが、ヴァルダヌスにとっては見慣れたカノン王子の表情であった。
薬師オロルは、うやうやしげな礼でそれに応じている。
「カノン王子がそのように恐ろしい行いに手を染めるなどとは、わたくしには決して信じられませぬ……それゆえに、忠義を尽くしているのでございます……とはいえ、わたくしていどでは、人目を忍んで薬や食べ物を運ぶぐらいのことしかできませぬが……」
「いまの僕たちにとっては、それが何よりもありがたい行いだよ。何のお礼もできないのが、心苦しいぐらいさ」
「お礼など、とんでもございませぬ……ただただ己の非力さを口惜しく思うばかりでございます……」
カノン王子は小さく肩をすくめてから、またヴァルダヌスの顔を覗き込んできた。
「あの災厄の夜から、すでに三日が過ぎているのだけれどね。僕たちは、銀獅子宮と一緒に燃え尽きたと思われているらしいよ。銀獅子宮では大勢の人間が魂を返しただろうから、きっと遺骸の見分けなんてつかない状態だったのだろうね」
「…………」
「それで、災厄の日の翌日には、王弟ベイギルスがすぐさま王位を継承して、各領地に布告を回したらしい。まあ……王も王太子も王子たちも、ついでに他の王家の人間たちも、のきなみ焼け死んでしまっただろうから、たまたま銀獅子宮を離れていたという王弟ぐらいしか、王位を継ぐ者も残されていなかったのだろうね」
カノン王子の深紅の瞳には、名をつけ難い激情の火がゆらめいていた。
自分の犯した罪の大きさに、おののいているのか――あるいは、自分にこのような凶運をもたらした何者かに敵愾心を燃やしているのか――ヴァルダヌスには、知るすべもない。
カノン王子は、すべてが自分の責任であるのだと言っていた。
銀獅子宮を包んだ炎は、カノン王子が生み出したものであると――そのように述べたてていたのである。
また実際、あの炎はカノン王子に刀を向けようとする人間を次々に焼き滅ぼしていた。
そして炎はカノン王子を避け、夜着に焦げ目のひとつもつけていない。炎に包まれたヴァルダヌスの身体をカノン王子が抱きすくめると、その炎さえもが消え失せてしまったのだ。
(この炎は、僕の魂に呼応してしまっているんだ)
(こんな世界は、滅んでしまえばいい……僕の魂が、そんな風に願ってしまっているんだろうね)
(すべて、あの魔道書に書かれていた通りだ。まさかとは思っていたのだけれど、僕は本当に神の器なんかに仕立てあげられてしまったんだね。こんなことなら、あの暗い部屋の中で舌を噛み切るべきだったよ)
あの惨劇の場で、カノン王子はそのように述べていた。
それは、真実であるのだろうか?
それが、真実であるならば――許せない、とヴァルダヌスは思っていた。
もちろん、カノン王子のことではない。カノン王子にこのような凶運を押しつけた、何者かについてだ。
(見も知らぬ連中のために世界を滅ぼすなんて、まっぴらだ。……カノン王子は、そのように言っておられた。つまりはカノン王子ご本人も知らぬうちに、そのような呪いをかけられてしまったということだ。そのようなことが……許せるわけもない)
ヴァルダヌスの胸の奥には、瞋恚の炎が燃えていた。
アイリア姫を失った悲しみが、いっそうその激情をかきたてているようだった。
「それで……王子殿下はこの先、どうされるおつもりであるのでしょう……?」
と、木枯らしのごとき老人の声が、またひゅうひゅうとヴァルダヌスの上を通りすぎていった。
「どうされるって? そんなの、僕が聞きたいぐらいだよ。もしも僕たちが生きていることが知れ渡ってしまったら、王殺しの大罪人として首を刎ねられてしまうのだろうからね」
「はい……王子殿下は、王都を離れるべきでありましょう……そうして、地方領主に救いを求めるか、あるいはいっそ余所の王国に出奔されてしまうか……それしか道はないように思いまするが……」
「地方領主なんて、あてにならないよ。逃げるとしたら、シムかジャガルかな。あるいは、人間の住んでいない未踏の辺境区域とかね」
そこでカノン王子は、ふっと息をもらした。
「でも、ヴァルダヌスがこの状態じゃあ、まだ数日は動けないだろう。それに、動けるようになったとしても、僕の姿は目立ちすぎるし……あっという間に、素性が割れてしまいそうだよね」
「どうでしょう……わたくしは王都に参るまで、カノン王子の存在は御名ぐらいしか存じあげませんでした……カノン王子がそのようなお姿をしていることを知る人間は、そう多くないように思いまする……」
「ああ、なるほど。でも、白膚症の人間がうろついていたら、その噂は王都にまで届いてしまうんじゃないのかな」
「そうであれば……巡礼服を準備いたしましょうか……? 巡礼者は、頭巾で顔を隠すのが普通でありますし……それで大きな町や街道を避ければ、人の目をはばかることも容易かと……」
すると、カノン王子はまた皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「君はこの上、逃亡の手助けまでしてくれようというのかい? 王弟の――いや、いまとなっては新王か。新王の従者にあるまじき振る舞いだとは思わないのかな?」
「わたくしは、新王陛下に忠誠を誓った身でありますが……同じ王家の血筋であられるカノン王子殿下に叛意はございません……いつの日か、御身の潔白が晴らされる日も参りましょう……」
カノン王子は白銀の髪をかきあげつつ、やわらかい表情でヴァルダヌスを見下ろしてきた。
「僕はあまり記憶にないのだけれどね、このお人は、幼き頃にも僕を救ってくれたことがあるらしいんだよ」
「…………?」
「幼き頃、僕は何度か病魔に見舞われている。それを治療してくれたのが、この薬師殿であったというわけさ。僕の記憶が薄いのは、このお人がこうして顔を隠しているからなのかもしれないね」
「わたくしも、若き頃に病魔を患ってしまい……顔の皮膚が、醜くただれてしまったのです……貴き方々のお目を汚さぬよう、こうしてはばかっている次第でございます……」
どこか昔を懐かしむような声音で言いながら、薬師オロルはじっとカノン王子の横顔を見つめていた。
感情の読み取りにくい漆黒の瞳に、まるで我が子を慈しむかのような光が灯されている。自分の他に、カノン王子のことをこのような眼差しで見やる人間がいようなどとは、ヴァルダヌスは想像もしていなかった。
そんな視線には気づいた様子もなく、カノン王子はまたヴァルダヌスの手を握りしめてくる。
「どのみち、こんな場所で一生を過ごすことはできないよね。僕は、ヴァルダヌスさえそばにいてくれたら、後のことはどうでもかまわないんだけど……君はまだ、僕と運命をともにしようという気持ちを持ってくれているのかな、ヴァルダヌス?」
ヴァルダヌスは、焼けた咽喉が痛むのをこらえながら、「はい……」と答えてみせた。
「俺の望みは……あなたとともにあることだけです、カノン王子……」
「ありがとう」と、カノン王子が微笑みかけてくる。
それは、無垢なる幼子のごとき笑顔であった。
いまは、これで十分だ。
憎き敵への復讐心は、心の奥底に仕舞い込んでおこう。戦うならば、この無垢なる笑顔を守るために、ヴァルダヌスは戦いたかった。
「それでは時が移りますので、わたくしは失礼いたします……明日また、薬と食べ物をお持ちしますので……」
「ありがとう。本当に感謝しているよ、薬師オロル」
蔓草の帳をかきわけて、老いし薬師は洞穴を出ていった。
後に残されたカノン王子は、ヴァルダヌスの左側に横たわって、そっと身を寄せてくる。
「まだ日は高いけど、しばらく休もうか。……こうしていても、傷が痛んだりはしない?」
「はい……大丈夫です……」
カノン王子は幸福そうに目を細めながら、ヴァルダヌスの左腕を抱きすくめてきた。
その温もりを心地好く感じつつ、ヴァルダヌスはふっと思う。
(そういえば……あの薬師は、どうしてこの場所を知っていたのだろう……王の寝所に作られた秘密の抜け道など、そうそう知る人間もいないはずなのだが……)
しかしそんな考えも、頭に渦巻くさまざまな想念の陰に追いやられてしまう。
すべてを失ってしまったヴァルダヌスは、ただひとつかたわらに残された存在にすべての情愛を傾けながら、まぶたを閉ざすことにした。