Ⅴ-Ⅵ グリュドの砦
2019.4/20 更新分 1/1
夜が明けると、ゼラドの軍はまた粛々と進軍を開始した。
ゼラドの都オータムを出立してから、今日で九日目――この夜には、ついに最初の目的地であったグリュドの砦に到着する。話によれば、その砦にはすでに王都の大軍が待ち受けているはずであった。
「グリュドの砦を占拠できれば、ゼラドの軍は腰を据えて王都の侵攻に取りかかることができる。だから向こうも、その場に総力を結集させて、迎撃の準備を整えていることだろう」
かつてラギスは、そのように述べたてていたことがあった。
セルヴァの領地に足を踏み入れて、すでに数日が経過しているが、これまでは大した抵抗もなく進軍することができている。それもけっきょくは、セルヴァの側がグリュドの砦を決戦の地と定めているゆえである、という話であったのだ。
また、ゼラドがこれまでの領地を占拠せずに素通りしてきたのも、同じ理由である。グリュドより南方の領地には数万の兵士を駐屯させる設備もないので、占拠を持続させることが難しいのだ。一時的に占拠できたとしても、いずれはグリュドの砦から派遣された大軍に領地を奪い返されてしまう。グリュドの砦を占拠しない限り、ゼラドが領地を広げることはほぼ不可能な状態にあるのだった。
「言ってみれば、ゼラドとセルヴァの戦いというのは、このグリュドの砦の攻防戦に終始していたようなものだ。このたびこそ、グリュドの砦を陥落させて、俺たちはセルヴァの歴史を塗り替えてみせよう」
メナ=ファムは荷台の振動に身をまかせながら、そんなラギスの言葉を心の中で反芻していた。
(まあ、ゼラドの大公家ってやつには、何代か前のセルヴァ王家の血が流れてるって話なんだからね。どっちが王様になったって、あたしは別にかまいはしないさ)
自由開拓民たるメナ=ファムにとっては、それが偽らぬ本音であった。
顔も名前も知らないセルヴァの国王と、ゼラドの大公たるベアルズの、いったいどちらが正しいのか。そのようなことを知るすべはなかろうし、べつだん知りたいとも思わない。シャーリの川辺でつつましく生きてきたメナ=ファムにとって、国王などはおとぎ話の妖精よりも現実味のない存在であったのだった。
(だから、あたしにとって一番大事なのは、目の前の存在だけだ)
そんな風に考えながら、メナ=ファムは視線を巡らせる。
少し離れた場所ではエルヴィルが横たわっており、シルファとプルートゥはそのかたわらに座している。いまだ容態のよくならないエルヴィルは青ざめた顔で苦悶のうめきを噛み殺しており、シルファは憂いと悲哀に満ちた眼差しでその姿を見守っていた。
「俺は……」
と、エルヴィルが低い声でつぶやいた。
その声をきちんと聞くために、メナ=ファムも反対の側からエルヴィルににじり寄る。
まぶたを閉ざし、額に脂汗を浮かべながら、エルヴィルは振り絞るような声で言葉を重ねた。
「俺は……間違っていたのだろうか……俺は、妄執にとらわれて……たったひとりの家族に、凶運を押しつけてしまったのだろうか……」
とたんに、シルファの青灰色の瞳から涙が伝った。
「わたしのことなど、どうでもいいのです。わたしは、ただ……兄さんの力になりたかっただけなのですから……」
「しかし、お前は……このような運命を、望んではいなかったはずだ……俺は、お前を……許されざる叛逆者に仕立てあげてしまった……」
メナ=ファムはひとつ息をついてから、手もとの織布でエルヴィルの額をぬぐってやった。
「あえて厳しいことを言わせてもらうけどさ。いまは泣き言を言ってる場合じゃないだろう? これまでにやってきたことが間違いだって思ってるんなら、今度こそ正しい道を選びぬいて、シルファを幸せにしてやりなよ」
「しかし……いまさら何をどうやっても、シルファを救うことはできそうにない……俺はこの手で、妹が幸福に生きる道を断ち切ってしまったのだ……」
「そんなことはないさ。そのために、ドンティやギリル=ザザがやってきてくれたんじゃないか」
エルヴィルは弱々しく首を振ると、緩慢な動きでまぶたを開いた。
思いもよらぬほど絶望に曇った瞳が、メナ=ファムを見上げてくる。
「たとえあやつらに、この場を逃げ出す算段があったとしても……シルファを救うことはできん……」
「どうしてさ? あいつらは、シルファとゼラド軍を引き離すためにやってきたんだろう? だったら、シルファを置いていくはずがないじゃないか」
「それは、あくまでゼラドの軍から戦の大義を奪うためだ……ベアルズ大公は、第四王子カノンに正当な玉座を与えるという名目で、ここまで軍を進めてきたのだからな……」
そこで呼吸を整えてから、エルヴィルはさらに言った。
「しかし……シルファが王家の名を騙ったことに変わりはない……たとえゼラドとセルヴァの戦がそれで終わりを迎えたとしても……シルファの罪が許されることはないだろう……」
「何を言ってんだい。この計略がうまくいったら、あたしたちの罪は不問にするって話だったろう?」
「それは、お前とお前の弟の罪についてだ……そして、あの文書の中には、俺の罪をも不問にすると記されていたが……カノン王子の名を騙った人間については、一言も触れていなかった……」
メナ=ファムは、愕然と息を呑むことになった。
「ば、馬鹿なことを言うんじゃないよ。あたしやあんたの罪を許して、シルファだけは許さないなんて、そんな馬鹿な話はないだろう?」
「王族の名を騙って兵を募ることなど、許されるはずもない……たとえその首謀者が俺であったとしても、実際に名を騙ったのはシルファであるのだ……王家の威信を守るために、あいつらは決してシルファを許そうとはしないだろう……」
エルヴィルはのろのろと腕をあげると、自分の顔をわしづかみにした。
まるで自分の頭蓋を握り潰そうとしているかのように、その指先が顔の皮膚に食い込んでいく。
「たとえこの場を逃げ出そうとも、シルファに待っているのは破滅だけだ……しかし、この場に留まっても、本物のカノン王子などが発見されてしまったら……今度はゼラドの連中に首を刎ねられることになる……もはやどこにも、逃げる手立てなどは残されていないのだ……」
「何だい、そりゃ。そんな馬鹿げた話が、許せるもんかい。母なるシャーリにかけて、あたしがそんな真似を許しやしないよ」
胸中からたちのぼってきた激情のままに、メナ=ファムはそのように述べたててみせた。
「だったら、セルヴァからもゼラドからも逃げてやりゃあいい。あたしが、その道を切り開いてやるよ!」
すると、シルファがエルヴィルの身体ごしに手をのばして、メナ=ファムの腕をつかんできた。
「駄目です、メナ=ファム。そんな真似をしたら、メナ=ファムの弟が……」
「もちろん、ロアのやつだって置いていきはしないよ。あたしはね、あんたのことも弟のことも守ってみせるって、昨日の夜に誓ったのさ」
メナ=ファムは、歯を剥いて笑ってみせた。
さぞかし凶悪な面相になっていることだろうが、シルファは涙をたたえた目で真っ直ぐにメナ=ファムを見つめ返してくる。
「ロアのやつは身体を張って、こんな馬鹿な姉貴を救おうとしてくれたんだからね。今度は、あたしが身体を張る番だよ。まずはこの場所から逃げ出して、ロアのやつと合流できたら、また逃げる。それから、みんなで暮らせる場所を探せばいいのさ」
「みんなで、暮らせる場所……?」
「ああ。あたしとあんたと、ロアとエルヴィル。それに、ラムルエルとプルートゥもか。それだけの人間がつつましく暮らせりゃあ、あとのことはどうだっていいだろう?」
「で、ですが……ゼラドばかりでなくセルヴァを敵に回してしまったら、どこにも逃げる場所なんて……」
「セルヴァに居場所がなくなっちまうんなら、シムかジャガルにでも逃げりゃあいいじゃないか。そうすりゃあ、王都の連中だってそうそう追いかけてくることはできないさ」
メナ=ファムは、激情のままに笑ってみせた。
「まあ、シムとジャガルは敵対国だから、ラムルエルを連れてジャガルに逃げ込むことはできないか。だったら、ラムルエルに頼んでシムに向かえばいい。シムなんて、半分がたは山やら草原やらなんだろうからさ。五人と一頭が暮らせるぐらいの場所は、どこかに残されてるだろうさ。それで、つつましく生きていけばいいんだよ」
シルファの目に、新たな涙がふきこぼれる。
「そのように生きていくことができたら……わたしは、どれだけ幸福なことでしょう……でも……」
「でもはなしだよ。あんたにそれ以上、上等な考えがあるってんなら、話は別だけどさ。あんたには、何か考えでもあるのかい?」
「わたしに……それよりも幸福な生など、思いつくはずがありません……」
「だったら、決まりだ。エルヴィル、あんたも文句は――」
そのように言いかけたメナ=ファムの手が、今度はエルヴィルに握られた。
手負いの獣どころか、死にかけた獣を思わせる凄絶な目が、射るようにメナ=ファムを見据えている。
「メナ=ファムよ、お前は……お前は本当に、強い人間だ……お前であれば……シルファを託すこともできる……」
「託すってのは、どういう言い草だよ。あんた、あたしの話を聞いてたのかい? たったひとりの家族であるあんたがいなくっちゃ、シルファは幸福になれやしないんだからね!」
エルヴィルの口もとが、笑みの形に歪められた。
それはもしかしたら、メナ=ファムが初めて見るエルヴィルの笑顔であったかもしれない。しかしそれは、喜びや幸福とはまるきり縁のない笑みであるようにしか思えなかった。
「俺は、取り返しのつかない罪を犯した……西方神がこれまでの行いを見守ってきたのならば、断罪の炎で焼かれるのは、シルファでなく俺だろう……しかし俺は、そのようなものを恐れはしない……すべての罪を背負って、西方神に魂を返してみせよう……」
「そんな不吉なことを言うもんじゃないよ。あんた、怪我のせいで弱気になってるんだろうね」
エルヴィルの指先を握り返しながら、メナ=ファムはその顔を間近から覗き込んだ。
「あたしたちは、みんなで一緒に逃げるんだ。まずはドンティたちにお願いして、この場所から逃げる。それで、文句はないだろうね?」
「ああ……俺にもきっと、まだ果たすべき仕事が残されているのだろう……今度こそ、自分ではなく妹のために、この生命を使いたいと思っている……」
それだけ言って、エルヴィルはまぶたを閉ざしてしまった。
シルファがその胸に取りすがっても、何も応えようとはしない。その顔からは歪んだ笑みも消え、静かな覚悟ともいうべき表情が宿されていた。
それから数刻が過ぎて、中天である。
小休止の間、メナ=ファムたちが荷台の中で粗末な食事を取っていると、扉が外から叩かれた。
扉を開くと、旗本隊の兵士が苦笑を浮かべつつ敬礼している。メナ=ファムとは交流のない、まだ若い顔をした兵士であった。
「食事の最中に悪いな。あんたに伝言を持ってきたよ、メナ=ファム」
「あたしに、伝言かい?」
「ああ。ドンティのやつが、あんたと話をしたいんだってよ。なんでも、相棒のしでかした悪さについて、あらためて詫びがしたいんだそうだ」
メナ=ファムたちはラギスの疑いの目をかわすために、メナ=ファムがギリル=ザザに悪さをされたという虚言を吐くことになったのだ。ラギスはその真偽を確かめるために、旗本隊の兵士たちからも事情を聴取したようだから、それで話が広まることになったのだろう。
「あいつらはゼラドの連中に目をつけられちまったから、この荷車に近づくことができねえんだろ? だから、この小休止の間に、あんたのほうから出向いてきてほしいんだとさ」
「ふうん。そんな伝言を届けてやるなんて、あんたもずいぶん親切じゃないか」
「へん。昨日の夜、札遊びであいつに借りができちまってよ。こんなていどで借りが返せるなら、安いもんさ。……それじゃあ手が空いたら、あっちの俺たちの輪に入ってくれ。そうしたら、ドンティのやつがこっそり忍び寄るってよ」
そんな言葉を残して、兵士はさっさと立ち去っていった。
シルファたちに事情を伝えてから、メナ=ファムはかじりかけの干し肉を手に荷車を出る。ラギスの手下がどこかで見張っている恐れもあるので、人目を忍ぶような素振りは見せないほうが賢明であろう。メナ=ファムはことさらゆっくりと、目当ての兵士のもとまで歩を進めていった。
「よお、メナ=ファム、こっちだよ」
仲間と談笑していたさきほどの兵士が、すました顔で手を上げてくる。メナ=ファムは苦笑を噛み殺しつつ、そちらに近づいていった。
「よお、メナ=ファムが出てくるなんて珍しいな」
「ずっと荷台ってのも楽じゃねえだろう。少し手足をのばしていけよ」
顔見知りの兵士たちが、陽気に声をかけてくる。王都の軍との決戦を目前にして、彼らも意気があがっている様子であった。
(あたしたちが逃げ出したら、この連中はどうなるんだろう……ドンティのやつも、そこまで考えてくれてるといいんだけど……)
そんな思いを抱え込みながら、メナ=ファムは彼らのもとに腰を落ち着けた。
そうして益体もない話を楽しんでいると、背後から人の気配が近づいてくる。
「……こちらを見ないでくだせえ」
そんな言葉とともに、気配の主はメナ=ファムの背後に膝を折ったようだった。
「ゼラドの連中が、遠くのほうから目を光らせてるんでさあ。あのラギスって隊長さんは、ずいぶん俺らのことをあやしんでる様子でやすね。……ああ、何も言わないでくだせえ。他の人らに聞かれちまったら、厄介でやすからね」
メナ=ファムの左右には他の兵士たちも腰を据えているというのに、ドンティの声は聞こえていない様子であった。どうやってか、メナ=ファムの耳もとに言葉を吹き込んでいるのだろう。
「エルヴィルの旦那は、この場から逃げ出す覚悟が固まりやしたかね? 問題ないようだったら、咳払いをお願いしやす」
言われた通り、メナ=ファムは咳払いをしてみせた。
「けっこうでやす。この場に長くはいられやせんので、逃げ出す手段は書面にしたためてまいりやした。姐さんの手もとに差し込むんで、周りの連中に気づかれないように仕舞いこんでくだせえ」
その言葉が終わらぬうちに、敷物についたメナ=ファムの手の下に何かが差し込まれてくる。
メナ=ファムはそれを手の平で包み込み、握った拳でこめかみのあたりをひと掻きしてから、そっと胸もとの隠しに仕舞いこんだ。
「読み終わったら、そいつも燃やしてくだせえ。それじゃあ、また夜に」
人の気配が、すうっと遠ざかっていく。
念のために、メナ=ファムは小休止が終わるまで、その場で談笑を楽しむことにした。
やがて太鼓の音色で小休止の終了が告げられると、速足で荷車に舞い戻る。シルファはたいそう心配げな面持ちでメナ=ファムを迎えてくれた。
「大丈夫でしたか、メナ=ファム? ゼラドの方々に気づかれませんでしたか?」
「ああ、たぶんね。こんなもんを預かってきたよ」
メナ=ファムは、小さく丸められた書簡をエルヴィルに差し出してみせた。
壁にもたれていたエルヴィルは、荷車が走り始めてからそれを開く。
「どうだい? あいつらは、どんな方法であたしらを逃がそうとしてるんだい?」
「うむ、これは……なかなか突拍子もない方法であるようだな」
エルヴィルは、険しく眉を寄せていた。
「簡単に言うならば……ゼラドの兵士になりすまして、この場を逃げようという算段であるようだ」
「ゼラドの兵士に? あたしらが? でも、あいつらはみんな同じ甲冑を纏ってるじゃないか。そんなもん、どうやって準備しようってのさ?」
「そこまでは記されていないが、想像はつく……先日の妖魅の襲撃で、多くの兵士が魂を返すことになったからな。その者たちの装備は、どこかの荷車に積み込まれているはずだ。おそらくは、それを盗み出そうと考えているのだろう」
食事と一緒に痛み止めと熱さましの薬を服したためか、エルヴィルは朝方よりも力が戻っている様子であった。その目には、エルヴィルらしい鋭い眼光がたたえられている。
「次の小休止で、鋸を手渡すと記されている。それを使って、荷台の底に人間の通れる穴をこしらえておけ、と記されているな」
「鋸? 穴? 何だか、さっぱりわからないね」
「夜が深まり、大勢の人間が寝静まったところを見計らって、その穴から荷車を出る。そうしてゼラド軍の甲冑に着替えたら、荷車に火を放つ。……その騒ぎに乗じて、逃げ出すとのことだ」
この荷車は、もちろん夜間も当番の兵士たちによって見張られている。その目をくらますために、脱出用の穴を開けておくべし、ということであったのだ。
そうして荷車に火を放てば、当番の兵士はシルファたちを救出しようとするだろう。しかし、扉に閂を掛けておけば、しばらくの時間を稼ぐことができる。やがてその騒ぎはゼラドの陣にまで広まるであろうから、その騒ぎに乗じて逃走をする、という計略であるらしかった。
「なるほどね。確かに突拍子もない作戦だけど……でも、案外うまくいきそうじゃないか。兜をかぶってりゃあ、正体を見破られる心配もないだろうしねえ」
むしろ、もっとも難渋するのは、甲冑やら鋸やらを盗み出さなくてはならないドンティたちのほうであろう。そこで下手を打ってしまったら、この計略も土台から崩落してしまうのだ。
「だけどさ、今日のうちにはもうグリュドの砦ってやつに到着しちまうんだろう? そうしたら、戦がおっ始まって、夜も寝るどころじゃないんじゃないのかい?」
「どちらかが夜襲を仕掛けたとしても、夜が明けるまで戦い続けることはできまい。どこかで休息を取るはずであるから、その刻限に脱出を果たす、とあるな」
「なるほど。まあ、あたしあたりが頭をひねる必要はないか。エルヴィルとしては、どうだい?」
「うむ……ゼラド軍がどれだけの統制を取れているかにかかっているだろうな。所属不明の兵士数名が、誰にも見とがめられずに陣の外まで出ることができるかどうか……うまくいく公算は、せいぜい五分といったところだろう」
メナ=ファムは、にやりと笑ってみせた。
「五分だったら、それほど悪い賭けでもないだろうさ。シルファをセルヴァの王に仕立てあげようっていう、あんたやラギスの悪だくみよりは、よっぽど勝算がありそうじゃないか」
「…………」
「とにかくあたしらは、死力を尽くして道を切り開くだけさ。シルファも、覚悟は固まってるかい?」
シルファは静かな面持ちで、「はい」とうなずいた。
その肩や手の先はわずかに震えを帯びていたが、その表情に迷いは見られない。そして血の色を透かせた青灰色の瞳には、さまざまな感情が渦巻いている様子であった。
それから数刻が経ち、次の小休止が訪れると、荷台にやってきたラムルエルが外套の下から鋸を引っ張り出した。
「こちら、さきほど、手渡されました。理由、メナ=ファム、聞けとのことです」
メナ=ファムは、要点をかいつまんで説明してみせる。
何事にも動じないラムルエルは、そのときも無表情に「なるほど」とうなずいていた。
「承知しました。戦、避けられるなら、喜ばしい、思います」
「ああ。だけど、問題はここを出た後のことなんだよね。王都の連中は、シルファだけは大罪人として捕まえようとしてくるかもしれないんだよ」
そうしてメナ=ファムが言葉を重ねていくと、ラムルエルは再び「なるほど」とうなずいた。
「それでは、私、袂、分かつべきでしょう。シム、案内、できますが、隠れ潜んで生きる、難しい、思います」
「そうなのですか?」と、シルファが悲しげな面持ちになった。
ラムルエルはやはり無表情に、「はい」とうなずく。
「シム、言葉、違いますし、肌の色、違う、目立ちます。西の民、逃げるならば、ジャガル、向かうべきでしょう」
「まあ、ジャガルだったら言葉も通じるって話だけどさ……でも、そうなるとあんたは一緒に行けなくなるってことだね」
「はい。私、ジャガル、踏み込んだら、即時、大罪人です。問答無用、首、刎ねられるでしょう」
そうしてラムルエルは無表情のまま、優しげな眼差しでシルファを見やった。
「私、故郷、帰り、シルファたち、幸福、願います。問題、ありません」
シルファは涙をこぼしながら、ラムルエルの手をつかみ取った。
「ラムルエル……あなたのご厚意は、魂を返すその瞬間まで決して忘れません……わたしのように不出来な人間のせいで、数々のご苦労をかけさせてしまい……心から、申し訳なく思っています」
「道、選んだ、私自身です。詫びの言葉、不要です。……そして、別れの言葉、まだ早いです」
「そうだね。まずはこの場所を無事に脱出してからさ。……いざお別れのときとなったら、あんたの身体をぎゅうぎゅう締めあげてやるからね」
メナ=ファムが笑いかけると、ラムルエルは楽しそうに目を細めた。
黒豹のプルートゥは、まるで別れを惜しむかのように、シルファの膝に頭をこすりつけている。
そうしてすぐに小休止の時間は尽きてしまったので、ラムルエルは御者台に戻っていった。
走り始めた荷車の中で、メナ=ファムは荷台の敷物をまくりあげる。どの場所に穴を開けるべきかは、ラムルエルに確認を取っておいた。うっかり支えになる部分を切ってしまったら、床が抜けてしまう恐れがある、という話であったのだ。
鋸の尻についていた鑿を使って、まずは木の板に穴を穿つ。そこに鋸を差し入れて上下に引くと、案外に容易く板を断ち切ることができた。
荷車は派手な音を鳴らして疾走しているので、周囲を取り囲んで並走している兵士たちにも異常を悟られることはないだろう。地面にこぼれる木くずも、巻き上がる砂塵が隠してくれるはずだ。残された時間で作業を完了できるように、メナ=ファムは無心に鋸を振るい続けた。
やがて一刻も経過すると、足もとに大きな四角い穴ができあがる。
もっとも背の高いラムルエルでも、これならば楽にくぐることができるだろう。メナ=ファムは敷物を敷きなおして、穴の上にはそれよりも大きな木箱を詰んでおくことにした。
「さあ、あとはドンティたちのお手並み拝見だね。夜が来るのが待ち遠しいよ」
「だけどその前に、まずは戦が始まるのですよね。……もしも夜が来る前に、ゼラド軍が勝利を収めて砦を占拠してしまったら、逃げ出すことも難しくなってしまうのではないでしょうか?」
「そんな簡単に落とせる砦だったら、とっくの昔に落とされてるだろうさ。今夜ひと晩ふんばってくれたら、それで十分だよ」
確固たる目的が目の前に生れ出たことにより、メナ=ファムは気分が昂揚していた。シルファに相応しいのは偽りの玉座などではなく、自由な生活であるはずだ。この局面を乗り越えることができれば、その目的に一歩近づくことができる。そのように考えるだけで、身体の奥底から力がみなぎってくるかのようだった。
しかし――運命神は、そんなメナ=ファムに新たな試練を準備していた。
メナ=ファムがそれを知ったのは、窓から差し込む陽光が黄色みを帯びて、日没の気配を漂わせた頃であった。
すでに最後の小休止を終えているはずであるのに、荷車が動きをとめる。
それはすなわち、グリュドの砦に到着したという合図であった。
しかし、この荷車および旗本隊の陣は、数万から成るゼラド軍の中央に据えられている。戦端が開かれても、そうそう矢などが飛んでくることもないだろう。それでもメナ=ファムは十分に用心して、支給されていた銀色の兜をかぶっておくことにした。
「先頭の連中は、いまごろ刀を交えているのかねえ?」
「いや。こちらも朝から走り詰めであったので、疲弊している。砦の手前で陣を敷いて、しばらくは休息するはずだ」
エルヴィルがそのように答えたとき、御者台に通じている小窓が開けられた。
「メナ=ファム、様子、おかしいです」
「うん? いったい何だってのさ? グリュドの砦に到着したんじゃないのかい?」
「砦、まだ見えません。しかし、煙、見えています」
「煙? 何の煙だい?」
「わかりません。もしかしたら……砦、燃えているのでしょうか」
メナ=ファムは眉をひそめつつ、エルヴィルを振り返った。
エルヴィルも、うろんげに眉をひそめている。
「さきほどのドンティの文書には、ゼラド軍の別動隊についても記されていた。しかしそれはこの一軍を追う形で進軍しているはずなので、先に戦を仕掛けることなどはかなわないはずだ」
「それじゃあ、別の誰かが砦に襲いかかったとか?」
「セルヴァの敵は、ゼラドとマヒュドラだけだ。マヒュドラの領地は王都アルグラッドよりも北方であるのだから、このような場所にまで兵を進めることはできん」
「だったら、いったい何だってのさ」
メナ=ファムは、異様な感覚を覚えることになった。
茂みに潜んだ大鰐から、じっと見つめられているかのような心地である。メナ=ファムはしばし逡巡してから、刀を手に立ち上がった。
「ちょいと様子を見てくるよ。また妖魅か何かがわき出てきたかもしれないからね。あんたたちは、ここを動くんじゃないよ?」
そうしてメナ=ファムが扉を開けると、トトスにまたがった兵士たちが不審顔で空を見上げていた。
「ああ、メナ=ファム。あの煙は、いったい何なんだろうな?」
「そいつを確かめようと思って、出張ってきたんだよ。何が燃えてるのか、わからないのかい?」
「方向としては、グリュドの砦だとしか思えぬのだが……しかし、こちらが攻め込む前に砦が燃えるはずもないしなあ」
トトスにまたがった兵士たちにも見えないのならば、地面に降りても詮無きことだろう。
そこでメナ=ファムは、荷車の屋根によじのぼってみることにした。
「何をしている。危ないぞ、メナ=ファム」
「危なかないよ。何が起きてるのか、この目で確かめてやろうってのさ」
屋根に上がったメナ=ファムは、遥かな先までゼラドの兵士たちに埋め尽くされていることを確認してから、立ち上がった。
ここは左右が雑木林となっており、隊列は縦に長くなっている。ゼラド軍の先頭の部隊などは、豆粒ほどの大きさしかなかった。
しかしメナ=ファムは、シャーリの川辺で生まれ育った狩人である。町の人間よりも目の力は優れており、晴れていれば月の模様を見て取ることも可能である。
それだけの目を有しているメナ=ファムには、そこに待ちかまえていた異様な光景を見て取ることができた。
長くのびた隊列の先に、石造りの巨大な建造物が見える。あれが、グリュドの砦であるのだろう。
砦は城壁に囲まれていたので、メナ=ファムに確認できたのは高くのびあがった塔の姿のみである。その塔に穿たれた窓のあちこちから黒い煙があがって、それが黄昏刻の空にゆらゆらとたちのぼっているのだ。
しかし、そのようなものは、どうでもよかった。
メナ=ファムを驚愕させたのは、その石造りの塔にまとわりついた、異形の影であった。
(何だよ、ありゃ……)
メナ=ファムでなければ、それは黒い滲みにしか見えなかったかもしれない。
しかしメナ=ファムは、その姿を正確に見て取ることができていた。
黒い、毛むくじゃらの怪物である。
その目は、赤く燃え上がっている。
頭の上には三角形の耳が生えており、どことなく、プルートゥと似た姿であるようだ。しかし、プルートゥはきわめて美しい獣であったが、その怪物は醜悪で、おぞましかった。そんな怪物が、塔の中ほどにへばりついて、見る者を威嚇するように頭を巡らせているようだった。
そして――問題は、その大きさである。
城壁の手前まで進んだ兵士たちと比べても、途方もない大きさであるのだ。
人間が十人で肩車をしても、その大きさにはかなわないかもしれない。それほどまでの、巨大な怪物であるのだった。
四大神の誕生により、地の底の暗闇へと追いやられた、七つの邪神。その一神である、猫神アメルィア――メナ=ファムがその名前を知るのは、もっとずっと後になってからのことであった。