Ⅲ-Ⅳ 第四王子の影
2016.12/29 更新分 1/1
シャーリの大鰐を狩るグレン族の集落を出て、三日ほどの日が経過した。
もう七日か八日もトトスを走らせれば、いよいよ王都に到着することになる。南西に進むにつれてどんどん気温は高くなってきており、もう日中などは革の外套の下に布の装束を一枚着ているだけで十分なぐらいであった。
「王都の周辺というのは、これほどまでに温かいものだったのですね。さきほどから汗が止まりません」
「そりゃあまあ、外套を纏ってトトスを走らせていれば、熱はこもるし体力も使うからな」
しかし、外套を纏っていなければ急な雨をしのぐこともできないし、また、だんだん日差しも強くなってきているので、あまり肌をさらしすぎると火ぶくれになってしまうだろう。アブーフ生まれのクリスフィアたちには、これほどの強い日差しで炙られることも常にはないことであったのだ。
周囲の光景も、いよいよ南方らしい様相を見せ始めている。樹木の葉は瑞々しく、濃密ながらもやわらかい色合いとなり、色とりどりの花がそこかしこから覗いている。ときたま目の端を通りすぎていくのも、白い毛をしたランドルの兎やギャマの山羊ではなく、七色に光る蛇や真っ赤な色をした鳥などだ。
空気もしっとりとした湿り気を帯びており、そこに草や花の香りがまじっている。せいぜい半月ほどトトスを走らせただけで、世界はこんなにも様変わりしてしまうのだった。
「同じセルヴァでこれほどまでに様子が違ってくるのですから、シムやジャガルなどにはどのような世界が広がっているのでしょうね?」
同じような感慨を抱いたらしいフラウが、そのように呼びかけてきた。
強い日差しから肌を守る樹液というものを宿場町で買い求めていたが、それでもその鼻の頭は少し赤くなってしまっている。
「さて、どうだろうな。シムなどは縦長の国なのだから、北方はアブーフと大差のない感じで、南方はこのような感じなのではないだろうか? ……それよりも南方にあるというジャガルなどは、まったく想像することさえできないよ」
「ああ、アブーフからでは王都よりもシムのほうが近いぐらいですものね。それより近いのは、他ならぬマヒュドラですけれど」
「ふん。それでマヒュドラがシムではなくセルヴァばかりを狙うというのは、やはりこれほど肥沃な土地はセルヴァにしか存在しない、ということなのかな。なおかつ、シムのほうはジャガルの領土を狙うがために、争いが絶えないのかもしれない」
「不思議なものですね。シムとジャガルも数百年来の仇敵であるのに、セルヴァはそのどちらとも友好国の絆を結んでいて、いっぽうシムなどは、セルヴァとマヒュドラの両方と友好国なのでしょう?」
「ああ。それでもセルヴァはシムとジャガルの争いには加担しないし、シムはセルヴァとマヒュドラの戦いに加担しない。それもまた、数百年に渡って守られてきた絆だからな」
だから、セルヴァの領土においてはシムとジャガルの民が出くわしても、争うことは禁じられている。そうそうありえない話ではあるが、セルヴァとマヒュドラの民がシムの領土で出くわしても、やはり争うことは許されないのだろう。
「まあ、そうやってシムの商人がセルヴァとマヒュドラの間を行き来してくれているから、わたしたちもムフルの大熊の毛皮を必要なだけ買いつけることができるのだ。大熊どもはなかなかマヒュドラの領土であるターレスの山から下りてくることもないからな」
「本当に奇妙な話ですね。シムの商人など頼らずとも、わたしたちはマヒュドラの民と手をたずさえて生きていくことはできないのでしょうか?」
「それは難しい話だな。この数百年で流された血の量を考えれば、おたがいに憎しみを捨てることなど、なかなかできはしないだろうさ」
平和を好むフラウがそのような言葉を発するのは初めてのことではなかったので、クリスフィアも今さら驚きはしなかった。
それにフラウは、マヒュドラの民を実際に目にしたこともないのだ。
金色の髪と紫色の瞳を持ち、大熊のように巨大で凶暴な北の王国の蛮族たち――あの魁偉なる姿を見れば、手をたずさえることなどできはしない、と西の民ならば誰でもそのように思うだろう。あれに比べれば、真っ黒な姿をしたシムの民など、彼らが好むギャマの山羊ぐらい無害で愛すべき存在であった。
「それに、今でもグワラムの民たちは奴隷としてマヒュドラの連中に使役されているのだ。一刻も早くグワラムを解放しなければ、今度はそこを拠点としてタンティの砦を落とされかねない。そうなったら、次に狙われるのはいよいよアブーフなのだぞ?」
「はい……」
「フラウは優しいからな。戦などというものはわたしたちに任せて、心すこやかに生きていればいい。そんなフラウたちが故郷で待ってくれているからこそ、わたしたちは戦地で勇敢にふるまうことができるのだ」
この旅の間では珍しく、話が堅苦しい方向に傾いてしまった。
何とかフラウの気持ちを和やかにはできないものかな、と視線を巡らせたクリスフィアは、ちょうどいいものを発見して「おお」と声をあげることになった。
「あんなところに集落があるぞ。あれはたしか、自治領区の農村だ。何か物珍しい食べ物でもないか聞いてみることにしよう」
宿場町を出て二刻ほどが経っていたので、小休止をするには頃合いだ。クリスフィアはトトスの脇腹を蹴り、その集落へと足を急がせることにした。
が、いざ到着してみると、何やら剣呑な雰囲気である。
このように日の高い内から、男たちが畑の面倒も見ずに材木を運んだり、それを手斧で切り分けたりしている。しかも彼らの大半は頭や胴体に灰色の布を巻きつけており、そこから赤い血をにじませていた。
見れば、それとは別に焼け焦げた瓦礫を外に持ち出そうとしている者たちもいる。
アブーフの周囲でもときたま見ることのある、それは野盗に襲われた農村の痛ましい姿であった。
「失礼する。ずいぶんひどい目にあわれたようだな」
トトスの上からクリスフィアが呼びかけると、手斧をふるっていた男たちがぎくりと振り返った。
しかし、女の二人連れと見て安心したのか、すぐにほっと息をつく。
「あんたがたは何だね? こんな辺鄙な集落に何のご用事だぁ?」
「いや、このまま西に抜けていく途上であったのだ。石の街道を使うよりも早道であるようだったのでな」
クリスフィアたちはなるべく華美でない装いをしているつもりであったが、それでもやっぱり立ち居振る舞いやちょっとした装備の感じで、あるていどの生まれは察せられてしまうものらしい。男たちはうろんげに眉をひそめながら、クリスフィアたちの姿をじろじろと見回してきた。
「あいにくと、旅のお人を歓迎するようなゆとりはなくってね。宿や食事を求めているなら、もう半日ばかりも西へ進むといいよ」
「そうか。大鰐の肉ならば余っているので、何か他の食料と交換してもらえればと思ったのだが」
「大鰐だって? そんな恐ろしい獣の肉なんて、ここいらじゃ喜んで食べるやつもいないよ」
それでも大鰐の存在が知れるぐらいには、ここにも旅人や行商人が通りかかることもある、ということなのだろう。普通に村落で一生を終える者は、外の世界のことなど知るすべがないことも多いのだ。
「野盗にでも襲われたのか? 家を焼くとは、ひどいやり口だ」
「ああ、だけどそいつらは王子様の御一行がやっつけてくれたんでね。幸い、二軒ばかりの家が焼かれただけで、村の人間を減らされることはなかったよ」
「……王子様の御一行だと?」
「おうよ。悪い王様にお城を追放された、気の毒な王子様って話だ。ま、嘘か本当かはわからないがね。俺たちにとっちゃ、生命の恩人さ」
クリスフィアはフラウに目配せをして、トトスを降りることにした。
そうして荷袋をまさぐって、干し肉の包みを引っ張り出す。
「大鰐の肉が気にいらないなら、キミュスの肉を少し譲ろう。これでその王子の一行という者たちの話を聞かせてはくれまいか?」
「話をするだけで、干し肉を分けてくれるってのかい?」
「ああ。大した量ではないが、晩餐までのつなぎぐらいにはなるだろう」
ロア=ファムからたくさんの干し肉を買ったので、それまでに残しておいた干し肉は無用になったのだ。どの道、宿場町に立ち寄れば干し肉などはいくらでも買い足せたので、このていどは惜しむものではなかった。
「おかしなお人だね。でも、俺らの恩人であるあの御一行をどうにかしようって気持ちなら、なんにも喋らないよ?」
「村を襲う野盗を討ち倒すような者たちなら、きっと正しき心を持っているのだろう。そのような者たちに向ける刀はない」
しかつめらしくうなずきながら、クリスフィアは包みを差し出してみせた。
その中で頭株であるらしい男がしばらくクリスフィアの顔をにらみつけてから、やがてひったくるような勢いで包みを奪い去る。
「聞きたいって、何を聞きたいんだね? 俺たちだって、くわしい話はなんにも知らないよ?」
「ここに至るまでにも、わたしは二度ほどその者たちの噂を聞くことになった。それは、セルヴァの第四王子カノンを名乗る一行であったのだろうか?」
「名前なんかは覚えちゃいないが、確かに第四王子とは名乗っていたね」
「ふむ。そこにヴァルダヌスという騎士は含まれていただろうか?」
「騎士ってえのは、兵隊を率いる貴族様かい? いやあ、そんなたいそうなお人は見当たらなかったねえ。どっちかっていうと、あのお人らも身なりは野盗そのものだったよ」
「おいおい、野盗は言いすぎだろうよ。あのお人らは、きっと傭兵の集まりなんだよ。それでお国を再建するんだとか言ってたじゃねえか?」
と、別の男が手斧を揺らしながら、そのように口をはさんできた。
「傭兵か。人数はどれほどのものなのだろう?」
「さてね。少なく見積もっても、百人ぐらいはいそうだったが」
「百人か。確かにそれほど大規模な野盗の集団というのは、なかなか存在しないだろうな」
「ああ、それにその王子様ってのは、野盗なんかじゃありえなかったよ。そりゃあもう、貴族の姫君なんじゃないかっていうぐらいのお美しい王子様だったんだ」
そのように言って、男はうっとりと目を細めた。
「貴族の姫君」とクリスフィアは首を傾げてみせる。
「しかし、王子ということは男なのだろう? それなのに、そこまで美しい姿をしているのか?」
「おう、あの美しさはなかなか口じゃあ説明できないね。あれだけ美しかったら、男か女かなんてどうでもよくなっちまうさ」
王都の神殿に閉じ込められていたという第四王子の風貌など、クリスフィアには知るすべもなかった。
しかし、王都まで出向けば誰かに問いただすことはできるだろう。
「その王子はどのような姿をしているのだ? 髪や瞳の色だとか、あとは背の高さだとか――」
「うーん? 銀ぴかの兜をかぶっていたから、そんなこまかいことは覚えちゃいねえな。王子様が姿を見せたのはほんのちょっとで、あとは荷車の中に引っ込んでたんだよ」
「その者たちは、トトスの荷車で移動しているのか」
「ああ、トトスに乗っているのは半分ぐらいで、あとはてくてく歩いていたがね」
人数は百名ほどで、その半数はトトスに乗っており、傭兵のようななりをしていて、農村を襲う野盗どもを退けた。そしてそれを率いるのは、姫君のように美しい姿をした、第四王子を名乗る謎の人物。
今のところ、有益と思えた情報はそれぐらいのものであった。
「それで、その者たちは悪い王に王都を追放され、王国を再建するなどとのたまわっていたのか?」
「ああ。よければ力を貸してほしいなんて言われたけどさ、畑を放りだして、そんなもんについていくことはできねえだろう? だから、ちょいとばっかりの食料を差し出して、ご勘弁を願ったのさ。あのお人らがいなければ、野盗に奪われていた食料だしな」
「ふうむ。聞けば聞くほど、奇怪な話だな。王都には数万を数える軍勢があるのだから、たった百人では抗いようもないはずだが」
「だからこそ、そうやって仲間を集めているんじゃないのかね。実際、そいつらの何人かはそうやってこの辺りの町や村からかき集めた人間らしいぜ?」
それでクリスフィアは、大事なことを思い出した。
「その中に、グレン族の女狩人というものは含まれていただろうか? グレン族は、こういう大鰐の革を使った装束を纏っていると思うのだが」
そうしてクリスフィアがロア=ファムから買いつけた短剣の鞘を示してみせると、後ろのほうにいた男の一人が「ああ」と声をあげた。
「確かにそういう薄気味悪い獣の革をかぶっているやつはいたな。でも、あれは女だったか?」
「女だよ。おもいきり乳が張ってたじゃねえか」
「そうだったかな。男みたいにでかかったことしか覚えちゃいねえや」
ロア=ファムは小柄で細身であったが、その姉は男のように大柄であるのだろうか。
ともあれ、彼の姉が身を投じたのは、その一団であることに間違いはないようだった。
「ふうむ……それで、その者たちはいずれの方角に向かったのだ?」
「あんたは本当に、あのお人らに悪心を抱いちゃいないんだろうね?」
「もちろんだ。それに、女二人でどうこうできる相手でもないだろう」
「そいつは違えねえ。……あのお人らは、まっすぐ南に向かっていったよ」
南――
この地は広大なるセルヴァの版図の、中央からやや西に寄った場所だ。王都はここから南西の位置にあり、南には小さめの宿場町や村落が散っているはずである。
(貴族の治める領土は少なく、自治領区ばかりが集まっている区域か。貴族たちが新王に従うと考えるなら、確かに叛逆者には安全そうな場所ではあるな)
その反面、有力貴族でも味方につけなければ、現在の王に叛乱することなど無益であろう。傭兵を集めるのにだって、それ相応の資金というものが必要になるのだ。
(いや……しかしそのまま南方に下れば、いずれはゼラド大公国の領土となる。現王家に弓引くゼラド大公国が第四王子などを手中にしたら、いっそう勢いを増してしまうのではないのか?)
それはもっとも忌避するべき事態であるように思えた。
王都が南方のゼラド大公国と争えば、それだけ北方のマヒュドラに対する備えが薄くなってしまうのだ。
「俺たちに話せるのはそれぐらいだよ。まさか、干し肉を返せだなどと言わないだろうな?」
「ああ、みんなで分けて腹を満たしてくれ。それでは、村を抜けさせていただくぞ」
クリスフィアはトトスにまたがり、男たちの間をすり抜けて集落を西へと進んでいった。
男たちとの間に十分な距離ができてから、フラウがまたこっそり呼びかけてくる。
「姫様、まさか進路を南に取ったりはしませんよね?」
「当たり前だ。南といっても、あちこちに町や村はあるのだから、捜しようがない。それに、その一団を見つけたところで、さすがにわたし一人では何もできないよ」
「それを聞いてほっとしました。……でも、その一行はいったい何者なのでしょうね?」
「わからんな。本当に第四王子が王都を出奔したのか、あるいは王都での一幕を知った何者かが王子の名を騙っているのか……しかし、大罪人たる王子の名を騙っても、何の得にもなりはしないように思えるのだが」
「そうでしょうか? 本来であれば、王弟であった現在の王よりも王位継承権は高いのですから、十分に王子の名を僭称する甲斐はあるようにも思えます」
「王子の偽物がセルヴァ王家を乗っ取ろうと目論んでいるというのか? それはとてつもない話だな! まあ、第四王子が本当に生きているというのも、同じぐらいとてつもない話なのだろうが」
そのように述べてから、クリスフィアは虚空をにらみつけた。
「何にせよ、王家の内乱など冗談ではない。そのようなもののせいでマヒュドラの侵攻を許したら何とするのだ。これは一刻も早く王都に向かわなければならないな」
「王都に急いで、それでどうするのです?」
「むろん、事の真偽を確かめる。野に放たれた第四王子というのが偽物か本物か、本物だとしたら、正義は王子と王弟のどちらにあるのか。それをつまびらかにする他あるまい」
「……現在の王に正義がなかった場合は、どうするのです?」
「それはもちろん、玉座から退いてもらう他ないだろう。案外、わたしたちが王都に招かれたのも、西方神の導きであったのかもしれないぞ?」
トトスの手綱をあやつりながら、フラウは深々と息をついた。
「姫様、お願いですから、そのように弾んだお声でそのようなお言葉を語らないでください」
「わたしはフラウの前では心を偽らないと決めているのだ。心配しなくとも、フラウの身はわたしが守ってみせるよ」
「わたくしが心配しているのは、姫様の行く末です」
「それならば余計に心配は無用だ。わたしはわたしの力で正しい行く末を勝ち取ってみせよう」
そう言って、クリスフィアは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「それでは、トトスを急がせよう。新しき王はわたしの剣の主に相応しい器量を持っているのかどうか、この目でしかと確かめてくれるぞ!」