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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
158/244

Ⅲ-Ⅵ 暗がりに潜むもの

2019.4/6 更新分 1/1

 クリスフィアとジェイ=シンとホドゥレイル=スドラの三名は、ウォッツの案内で西方神の大聖堂に駆けつけることになった。


 大聖堂は、王族や貴族の葬祭を司る場所であるために、原則として平民の立ち入りは禁じられている。よって、神聖なる七つの宮殿と同じ区域に併設されていた。

 また、現在は神官長たるバウファが大罪人として捕縛されているために、その門扉は固く閉ざされている。が、見張りの人間などは立たされておらず、ウォッツの所持していた鍵によって簡単に踏み入ることができた。


「どうぞ……現在、神官の職にある人間は取り調べを受けるために、全員が出払っております……」


「ふむ。お前とて、その神官の職にある人間なのではないのか?」


 クリスフィアが尋ねると、ウォッツは「いえ……」と小さく首を振った。


「わたくしなどは、祓魔官たるゼラ様の従者に過ぎませんので……小姓や侍女などといったものと同じ身分に過ぎませぬ……」


「ほう。そんなお前が、大聖堂の門扉の鍵を預かることになったのか」


「は……ゼラ様の従者の多くは、現在王都を離れておりますため……わたくしのごとき卑しき身が、ゼラ様の代理をつとめる他なかったのでございます……」


「ゼラ殿の、代理か」


 薄暗い礼拝堂を足早に進みながら、クリスフィアはそのように繰り返した。


「あの場で罪の告白などに及ばなければ、代理の人間を立てる必要などなかったろうにな。これまで我々に内情を隠しておきながら、どうしてゼラ殿はいきなり自分の罪を告白する気になったのであろうか」


 ウォッツは、何も答えようとしなかった。

 その代わりに口を開いたのは、ホドゥレイル=スドラである。


「あのバウファなる者は、ゼラなる者にとって大恩ある相手であったのだろう? 確かな証が手に入るまでは、そのような相手の罪を弾劾することはできなかった……ということなのではないだろうか?」


 そんな風に述べてから、ホドゥレイル=スドラは小さく息をついた。


「あるいは……大恩ある相手が潔白であればいいと願いながら、こたびの陰謀を暴くために奔走していたのだろうか。何にせよ、ゼラなる者がどのような思いを抱えていたのかは、本人に問い質すしかないように思う」


「うむ……それはその通りであろうな」


 クリスフィアも、つられて溜息をつくことになった。

 正直なところ、クリスフィアはあの陰気な小男をそれなりに気に入っていたので、それに欺かれていたことが少なからず悲しかったのだ。


(ダリアス殿などは、心底仰天されたことだろう。そして、わたし以上にやるせない気持ちであるに違いない。あの文書の短い文面にも、その心情が表れていたように思う)


 しかしゼラは、神殿の鍵をアイリアという姫君に渡すよう、バウファから命じられただけのことだ。あの時点で、それが王国の存亡を揺るがすような災厄を招き寄せるなどとは予見できたはずもないので、それ自体は大した罪ではない。


 だが――実際に災厄が訪れた後も、ゼラは口をつぐんでいた。それは、大きな罪である。

 その贖罪として、ゼラはダリアスの身を救い、こたびの陰謀を暴くべく奔走していた、ということなのだろう。大恩あるバウファが、前王殺しに関わっているのかいないのか、その真実を究明しようと力を尽くしていたのだ。


(それで……バウファも陰謀に関わっていたのだと確信して、いよいよ口をつぐんではいられなくなった、ということなのか)


 クリスフィアは、重苦しい気持ちでいっぱいであった。

 つまるところ、ゼラには何の悪意もなかったのだ。ただ、大恩あるバウファへの忠心と、その美しさでゼラを魅了したカノン王子への思いで、板挟みにされていたに過ぎない。ゼラがそのように苦しんで、あげくには大罪人と見なされてしまったことが、クリスフィアには不憫でならなかったのだった。


(ゼラ殿がいなければ、ダリアス殿はとっくに魂を返していたはずだ。そして、ダリアス殿がいなければ、ジョルアンらの罪を暴くことも、ダームを救うこともできなかった。そこのあたりをうまくつついて、恩赦を願うことはできないだろうか?)


 クリスフィアがそのように考えたとき、先頭を歩いていたウォッツが足を止めた。

 広大なる大聖堂の、最奥部に到着したのだ。そこに待ちかまえていたのは、両開きの古めかしい扉であった。


「こちらが、奥の殿でございます……葬祭に臨む人間が身を清めるための場所となります……」


「うむ。戴冠式がつつがなく行われていれば、新王陛下もこの場所で身を清めることになっていたわけだな」


 そういえば、クリスフィアやメルセウスは戴冠式に参席するために、この王都を訪れたのだった。それも為されぬまま、すでにひと月が経とうとしているのだ。


(アブーフでは、父上もさぞかしやきもきしておられることだろう。手土産に、何としてでもこのたびの陰謀を打ち砕いてやらねばな)


 そんな風に考えながら、クリスフィアは頼もしき同志らに目をやった。


「ここが目的の場所であるそうだ。何かおかしな気配は感じられるだろうか?」


「さてな。少なくとも、扉のすぐ向こうに妖魅が待ち受けていることはなさそうだ」


 気安く答えながらも、ジェイ=シンの瞳には鋭い光がたたえられていた。いつでも沈着に見えるホドゥレイル=スドラも、それは同様である。


「ティムトも言っていたが、何事もなければそれが最善であるのだ。しかし、この場が妖魅どもに蹂躙されれば、西方神の加護が打ち破られて、王都が危険にさらされる事態に至るやもしれん。そのつもりで、助力をお願いしたい」


「わかっている。何か化け物が現れたら、そいつを斬り伏せればいいのであろう? さっさとその扉を開くがいい」


 ジェイ=シンの言葉に従って、ウォッツが新たな鍵を取り出した。

 それを鍵穴に差し込むと、がちゃりと金属的な音色が響く。ウォッツは物怖じしている様子もなく、扉の片方を大きく引き開けた。


「こちらに、灯篭の準備がございます。少々お待ちくださいませ」


 入ってすぐの場所に戸棚が設置されており、そこにいくつかの灯篭が仕舞われていた。回廊の奥は、漆黒の闇に閉ざされてしまっている。


「暗いな。明かり取りの窓はないのか?」


「は……ここは神聖な場所でありますため、窓にも鍵が掛けられてございます……お時間をいただければ、開けて回ることもかないますが……」


「そうか。まずは火があれば十分だ。俺たちも、それぞれ灯篭を掲げることにしよう」


 人数分の灯篭に、ウォッツがラナの葉で火を灯していく。その間に、ジェイ=シンが戸棚から何かをつかみ取った。赤子の頭ほどもありそうな、ずしりとした革袋である。


「これは、予備の油だな? ホドゥレイル=スドラとクリスフィアも、持てるだけ持っていけ」


「ああ、妖魅への用心か。さすがに、ぬかりがないな」


 銀獅子宮の地下に発見した隠し通路において、クリスフィアたちは蛇の妖魅と遭遇している。あのときは、ジェイ=シンの剣技と灯篭の炎で妖魅を退けることになったのだ。


「あのときの妖魅は炎が弱みであると、ティムトが教えてくれたのだったな。このたびも、そうであれば幸いだ」


 クリスフィアの言葉に、ジェイ=シンは「ふん」と鼻を鳴らした。


「どうやら妖魅というのは、四大神のもたらす火、水、土、風のいずれかが弱みとなるらしい。しかし、水や土を運ぶなど難儀に過ぎるし、風を生み出すすべなどわきまえていない。ここは西方神の司る炎の力にすがるしかあるまいよ」


「ふむ、それは道理であるな」


 ともあれ、準備は整った。

 自分の灯篭を手にしたウォッツが、陰気な眼差しを向けてくる。


「それでは、ご案内いたします……足もとにお気をつけくださいませ……」


「待て。この先は危険やもしれぬから、お前はここで待っているべきではないか? ……その場合、扉の鍵をこちらで預かることになろうが」


 ウォッツは「いえ……」と首を振る。


「天井の崩れかけた場所を知るのは、わたくしのみでございます……わたくしのご案内がなければ、皆様が危険に見舞われるやもしれません……」


「しかし、お前がそうまで危険に身をさらす理由はあるまい?」


 クリスフィアはそのように言葉を重ねたが、ウォッツは肯んじようとしなかった。


「わたくしは、ゼラ様にお仕えする身です……そのゼラ様が、レイフォン様を筆頭とする皆様にお仕えするようにと仰っていたのですから……わたくしに、是非はございませぬ……」


「ふむ……お前にとって、ゼラ殿というのはそこまで大事な主人であるのか?」


 返答は、「左様でございます……」であった。


「そうか。ならば、お前にもお前の仕事を果たしてもらおう。案内を、頼む」


「かしこまりました……」と、ウォッツは闇の中に足を踏み入れた。

 まずはジェイ=シンがそれに続き、しんがりはホドゥレイル=スドラだ。屈強なる森辺の民に前後を守られながら、クリスフィアはまた考えていた。


(イリテウス殿は、ゼラ殿のこともウォッツのことも怪しんでいる様子であったが……こやつらが敵方の人間であるなどということが、はたしてありえるのであろうか?)


 クリスフィアは直感で、ゼラのことを信用していた。ならば、その従者であるウォッツやティートのことも、怪しむ理由はない。が、それはあくまで直感に過ぎないので、証もないうちにウォッツらを全面的に信用するわけにもいかなかった。


「ゼラ殿は、数多くの従者を抱えておられるのだという話であったな。しかしゼラ殿は、自身も神官長の従者であったに過ぎん。もともとは卑しき素性であったとも聞いているし、お前たちはどうしてそうまでゼラ殿に忠義を尽くそうとしているのであろうな?」


 慎重に歩を進めながら、クリスフィアはそのように問うてみた。

 先頭を進むウォッツは、こちらを振り返ろうとしないまま、「は……」とわずかに頭を垂れる。


「それはおそらく……ゼラ様がバウファ神官長に忠義を尽くすのと、同じ理由かと思われます……」


「ふむ。つまりお前も、ゼラ殿に大恩ある身であるということか?」


「は……わたくしやティートは、もともと親を持たぬ下賤の身でありました……戦で家や家族を失って、地方の聖堂にて育てられた、行き場のない孤児に過ぎなかったのです……」


「それが、ゼラ殿の従者に引き立てられたということか。確かにゼラ殿も、そのようにしてバウファ神官長に引き立てられたのだと、ダリアス殿から聞かされているぞ」


「左様でございます……ゼラ様がおられなければ、わたくしは羽虫のようにはかない一生を終えていたことでしょう……ゼラ様の御為であれば、この生命を惜しむものではございませぬ……」


 それは、納得のいく話であった。

 しかし、ゼラが《まつろわぬ民》ではない、という証にはならない。


(むしろ、戦で家族や故郷を失った人間であれば、この世のすべてを憎みぬいて、邪教徒に成り果てることもありえるやもしれん。ティムトであれば、それぐらいのことは念頭に置いていそうなところだ)


 真相は、果たしてどうなのか。

 クリスフィアには、見当をつけることもできなかった。


「こちらが、貴き方々が身をお休めになる、寝所にてございます……こちらも壁にいくつかの亀裂がありますため、修繕が必要とされていたのですが、如何いたしましょうか……?」


 と、ウォッツが足を止めて、そのように述べたてた。

 見れば、右手の側の壁に簡素な木造りの扉が出現している。


「では、俺が様子を見てみよう。お前たちは、下がっていろ」


 ジェイ=シンが、その扉にぴったりと身を寄せた。

 灯篭の光に照らされて、青い瞳が炯々と光っている。そうしてしばらく室内の気配を探ってから、ジェイ=シンは灯篭を足もとに置いて、腰の長剣に手をかけた。


 逆の手が、ゆっくりと扉を開いていく。

 その向こうに待ち受けるのは、こちらと変わらぬ漆黒の暗がりだ。

 ジェイ=シンは空いた手で灯篭を拾いあげると、野の獣のようにしなやかな足取りで、闇の中に踏み入っていった。

 が、十を数える前に、その姿が回廊に戻ってくる。


「何もおかしな気配はないな。壁には確かに大きな亀裂が入っていたが、いますぐどうこうという状態でもなさそうだ」


「はい……天井が崩れかけておりますのは、祈りの間でありますので……」


「祈りの間? 西方神に、祈りを捧げる場所か? 妖魅がこの場所を穢そうとしているのなら、確かにそちらのほうが相応しいやもしれんな」


「は……それでは、ご案内いたします……」


 ウォッツが再び、ひたひたと歩き出す。

 その後を追いながら、ジェイ=シンはひとつ肩をすくめていた。


「この場所に妖魅が潜んでいるならば、少しぐらいは残り香がありそうなものだ。これは皆が望んでいた通り、手ぶらで帰ることになりそうだな」


「油断するな、ジェイ=シンよ。俺たちは、妖魅のことなど、ろくに知らないのだからな。ギバとは異なり、気配も発しないまま潜むすべがあるのやもしれんぞ」


 ホドゥレイル=スドラが落ち着いた声でたしなめると、ジェイ=シンは子供のように唇をとがらせた。


「そのときは、この刀で斬り伏せてやるまでだ。油断などは微塵もしておらぬから、安心するがいい」


「うむ。ならば、いいのだが――」


 と、ホドゥレイル=スドラが言いかけたところで、ウォッツが早々に足を止めた。


「この先が、祈りの間となっております……ここ数日は、天井がどのような状態にあるかも確認しておりませんでしたので、くれぐれもご注意を……」


 その場所には、扉も何も存在しなかった。ただ、行く手に暗がりが待ち受けているばかりである。

 ただ、天井から豪奢な帳が掛けられており、それが左右の壁に束ねられている。貴き人間が祈りの儀式に臨む際は、その帳を広げて外界を遮断するのだろう。


「ここからも、何もおかしな気配は感じぬな。いちおう、奥のほうまで調べておくか」


「それでは、壁にそってお進みください……天井が崩れかけておりますのは、中央の部分でありますので……」


 言いながら、ウォッツ自身がその場に足を踏み入れていく。

 入り口は広かったので、クリスフィアたちは横並びでそれに続いた。


 そうして、その場に足を踏み入れた瞬間――えもいわれぬ感覚が、クリスフィアの背筋を走り抜けていく。

 それと同時に、ジェイ=シンとホドゥレイル=スドラは刀を抜いていた。


「おい、待て! こっちに戻ってこい!」


「は……?」と、ウォッツがこちらを振り返る。

 その姿が、ふっと消え去った。


 落とし穴にでも落ちたのか、とクリスフィアは足もとに視線を差し向ける。

 そこに、明々と燃える灯篭が落下してきた。

 硝子の囲いが砕け散り、石敷きの床で炎がくすぶる。


 クリスフィアは、慌てて頭上に視線を転じ――そして、息を呑むことになった。

 天井に、ウォッツがへばりついている。

 頭巾の陰から覗くその顔は、恐怖と混乱に引き歪められていた。


「妖魅だ! くそっ! 弓の準備が必要であったか!」


 ジェイ=シンが、憤激の声をあげていた。

 この場所の天井は高く、剣を振り上げても届く距離ではなかった。


 しかし、どこに妖魅が潜んでいるというのか、クリスフィアには知覚することができない。クリスフィアの目には、両手と両足を広げたウォッツが、こちらを向いて天井に張り付けられているようにしか見えなかった。


「こ、これはどういう手管であるのだ? 妖魅は、いったい何処に……?」


「天井に走った亀裂の、その向こう側だ! そこに潜んでいた妖魅めが、あやつの身体に何かを巻きつけて、あのような場所にまで吊り上げてしまったのだ!」


 ジェイ=シンが、灯篭を頭上に掲げやる。

 その光を反射して、白くきらめくものがあった。ウォッツの手足や胴体に、白っぽい糸が何重にもからみついていたのだ。


 そして――ウォッツの右肩の上あたりに、ぎらりと黄色い光が灯った。

 天井の亀裂の向こう側で、妖魅が瞳を燃やしているのだろう。それは、飢餓に狂った獣のごとき眼光であった。


「おい! お前だって、短剣ぐらいは持っているであろう!? その身に巻かれた糸のようなものを断ち切るのだ!」


 ジェイ=シンはそのように叫んだが、ウォッツはぱくぱくと口を開閉させるばかりで、指一本も動かせない様子であった。

 そして、その目がくわっと見開かれる。

 それと同時に、ウォッツは苦悶の絶叫をほとばしらせた。


「くそっ! こうなったら、火だ! あやつの身体も焼けてしまうやもしれんが、妖魅に喰われるよりはマシであろう!」


 ジェイ=シンが灯篭を置いて、腰にぶら下げていた革袋を引っ張り出す。

 しかし、ホドゥレイル=スドラが手でそれを制した。


「駄目だ、ジェイ=シン。……もはや、間に合わぬ」


 非情なれども、それが事実であった。

 ウォッツはすでに、魂を返してしまっていたのだ。


 その顔や手の先の皮膚は、老人のようにしなびてしまっている。その目は恐怖に見開かれたまま、どろりと濁り、口の端からは紫色の舌が垂れていた。


「どうやらあの妖魅は、人間の生き血を吸うらしい。瞬く間に、あのような姿に成り果ててしまったのだ」


 無念そうに、ホドゥレイル=スドラがそのように述べたてた。


「さあ、このように語らっている場合ではない。我々は、一刻も早くこの場を立ち去るべきであろう」


「なに!? 妖魅を前にして、おめおめと逃げ出そうというのか!?」


「あのような妖魅を退治するには、火矢でも準備するしかあるまい。口惜しくとも、ここは退くのだ」


 こんな際でも、ホドゥレイル=スドラは沈着であった。

 いっぽうジェイ=シンは、悔しげに歯を噛み鳴らしている。


「ジェイ=シンよ、わたしもホドゥレイル=スドラと同じ意見だ。そろそろ大聖堂の周囲には、ディラーム老の手勢が集まっている頃であろうから、そちらで――」


 と、言いかけた瞬間、クリスフィアはその場に引き倒された。

 灯篭と刀を掲げたジェイ=シンたちの姿が、瞬く間に遠ざかっていく。床に倒れたクリスフィアの身体が、物凄い勢いで引きずられているのである。


 クリスフィアは何とか仰向けの姿勢を取って、まだ手もとに残されていた灯篭を足もとに突きつける。

 クリスフィアの足首に、白いきらめきが巻きつけられていた。

 そのきらめきは、闇の向こうにまで続いており――その最果てに、妖しく瞬く黄金色の眼光がうかがえる。


 妖魅は、一体ではなかったのだ。

 クリスフィアは恐怖の絶叫を呑み込んで、自分の足もとに刀を振り下ろした。

 白い糸と石敷きの床を叩いて、闇の中に火花が散る。


 しかし、その糸を断ち切ることはできなかった。

 黄金色の眼光は、もはや足先に迫っている。


「おのれっ!」


 その眼光めがけて、クリスフィアは剣先を繰り出した。

 ぶにゃりと、嫌な手ごたえがする。

 妖魅は、金属的な絶叫をほとばしらせた。

 そして――それと同時に、クリスフィアの背中を擦っていた床が消失した。


(何ッ――?)


 浮遊の感覚が、クリスフィアの五体を包み込んでいた。

 クリスフィアは、闇の中を落下していたのだ。

 どうやらあの場所には天井ばかりでなく、床にも亀裂が走っていたようだった。


(くそ、このままでは……!)


 クリスフィアは、なんとか体勢を整えようとした。

 しかしその前に、凄まじい衝撃が背中から全身に走り抜けていく。穴の底に、到着してしまったのだ。


 クリスフィアは苦悶の声をあげながら、半身を起こす。

 そこに、黄金色の眼光が肉迫してきた。


「うぬっ!」と声をあげ、クリスフィアはとっさに長剣を繰り出してみせる。

 それで顔面をえぐられた妖魅は、再び金属的な雄叫びをあげて、後方に退いた。


 地面に落ちた燭台の火が、その妖魅のおぞましい姿を照らしあげている。

 それは、巨大な蜘蛛の妖魅であった。


 大きさは、小柄な人間ほどもあっただろう。まるまるとした身体に八本もの足を生やしており、それをうねうねと不気味に蠢かせている。

 黄金色に燃える目も、八つは存在するようだ。二つの巨大な目の周囲に、六つの小さな目がちろちろと燃えている。その身は闇を凝り固めたかのように漆黒で、全身が短い毛に覆われているようだった。


「妖魅め……西方神の神域を穢すことは許さんぞ!」


 クリスフィアは背中の痛みをこらえて、立ち上がろうとした。

 が、そうしたとたんに足を引かれて、また転倒してしまう。

 クリスフィアの左足には白い糸が巻きつけられたままであり、それはこの妖魅の尻の先から放たれたものであったのだ。


 クリスフィアの身体が、再び妖魅のもとに引きずられていく。

 妖魅は八つの目を妖しく燃やしながら、巨大な横向きの牙を噛み鳴らした。


(ならば今度は、その首を刎ねてくれよう!)


 クリスフィアは、両手で刀を振りかざした。

 そのとき――頭上から、獣のごとき黒影が飛来してきた。


 妖魅の断末魔が、闇に轟く。

 頭上よりの黒影が、その手の長剣で妖魅の胴体を寸断したのだ。

 妖魅は黒い塵と化し、クリスフィアの足首にからみついていた糸も消失した。


「危ういところだったな。怪我はないか?」


 ぶっきらぼうな声が問うてくる。

 それは、長剣を下げたジェイ=シンであった。


「……またジェイ=シンに助けられてしまったな。しかし、このような場所に飛び降りてくるとは、あまりに無謀ではないか?」


「ふん。へらず口を叩くのは、後にしろ。まさか、お前ひとりでどうにかできると思っていたわけではあるまい?」


 青い瞳を爛々と燃やしながら、ジェイ=シンは周囲の闇に視線を巡らせた。

 えもいわれぬ悪寒を味わわされながら、クリスフィアもそれにならう。


 闇の中には、無数とも思える黄金色の眼光が瞬いていた。

 無数の眼光がクリスフィアたちを取り囲み、じりじりと近づいてきているさなかであったのだ。


「どうやら、ここも鍾乳洞とかいう場所であるようだな。それでいまでは、妖魅どもの巣窟に成り果てていたわけだ」


 つぶやきながら、ジェイ=シンは刀をかまえなおしていた。


「縄でもなければ、もとの場所にのぼることもできまい。難儀だが、こやつらはすべて斬り伏せるか燃やし尽くすしかないようだぞ」


「……ならばやはり、お前は飛び降りるべきではなかったのだ。わたしのことなど捨て置いて、ディラーム老に助力を求めるべきであったな」


「ふん。その役目は、ホドゥレイル=スドラに頼んでおいた。それが間に合うかどうかは、俺たち次第であろうよ」


 クリスフィアは立ち上がり、ジェイ=シンと背中を合わせる格好で剣をかまえる。


「ならば、死力を尽くさせてもらおう。わたしとて、剣士の端くれであるからな」


「ああ。せいぜい力の出し惜しみはしないことだ」


 ジェイ=シンがそのように言い捨てた瞬間、妖魅どもが殺到してきた。

 そうしてクリスフィアたちは、再び暗がりの中で妖魅と死闘を繰り広げることになったのだった。

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