Ⅰ-Ⅵ 大神の民
2019.3/23 更新分 1/1
青い髪と肌を持つ矮躯の人獣が、石槍を振りかざして襲いかかってきた。
どの人獣も、リヴェルより小さいぐらいの矮躯である。しかしその小さな身体には野獣じみた力が備わっているらしく、人間とは比較にならぬほどの俊敏さであった。
マヒュドラの兵士たちも、必死に大剣を振りかざして、それに応戦している。しかし、人獣たちに比べると、彼らはあまりに鈍重に見えてしまった。大剣は空を切り、石槍が甲冑を打つ。人数はおたがいに十名ぐらいずつであったが、戦況は明らかに不利であった。
「まるで、悪夢だ。四大王国の民と大神の民が、刃を交えることになるなんて……こんな悲劇を生み出さないために、大神の民は聖域を作りあげたというのにね」
ナーニャが、感情の欠落した声音でつぶやいている。
「こんなことは、絶対に許しちゃいけない。《まつろわぬ民》は、すべての神々を穢す存在であるんだ。僕は今日、それをはっきりと確信することができた」
そうしてナーニャは、白銀の髪を夜風になぶらせながら、足を踏み出した。
「すべての罪は、僕が背負おう。どうせ僕は、最初から呪われた存在だ。すべての凶運は、僕が引き受ける。……もしかしたら、僕はそのために生まれてきたのかもしれない」
リヴェルは「違う!」と叫びたかった。
しかし、ありうべからざる光景を目の当たりにして、身体が痺れてしまっている。
そんなリヴェルから、ナーニャは一歩ずつ遠ざかっていった。
「さあ! 僕のもとに集うといい! 君たちのねじ曲げられてしまった運命を浄化できるのは、僕の炎だけだろう!」
闇に浮かぶ青い眼光のいくつかが、ナーニャを見た。
そして、耳をふさぎたくなるような雄叫びとともに、人獣たちがナーニャに飛びかかる。
あちこちに設置されたかがり火から炎の渦が生まれいで、それらの人獣を呑み込んでいった。
炎にくるまれた人獣は、石造りの床に落ちて、苦悶にのたうち回っている。
やはり彼らは、妖魅ではなく生身の存在であるのだ。
その事実が、リヴェルをいっそう戦慄させた。
マヒュドラの兵士たちを相手取っていた人獣たちも、ナーニャに向きなおる。
そして――恐るべきことに、胸壁の向こうからは新たな人獣が次々と姿を現していた。
マヒュドラの兵士たちは、北の言葉で何かを叫んでいる。
すでにその半数ほどは、鮮血にまみれて地に伏していた。
兵士たちの悲痛な叫びにいっそう闘争心を鼓舞された様子で、人獣たちはナーニャに飛びかかる。
しかしそれらは、すべて炎の竜に喰らい尽くされていった。
ナーニャは、静かにたたずんでいるばかりである。そのナーニャを中心にして、紅蓮の炎が闇を引き裂き、人獣たちを屠っていくのだ。それは、この世のものとは思えないほど、凄絶で、惨たらしく、そしてある種の冒涜的な美しさを持つ光景であった。
(ああ、もう、やめて……こんなのは、絶対に正しくない!)
恐怖で舌を動かせないリヴェルは、心の中で絶叫をあげていた。
人獣たちは、同胞があえなく滅される姿に怯える様子もなく、次から次へとナーニャに群がっていく。それはまるで、断罪を求める罪人たちが自ら崖から身を投じているかのような様相であった。
ナーニャがこうして敵を焼き滅ぼす姿は、リヴェルもこれまでに何度なく目にしている。
最初は、レイノスの宿場町で――あるいは、邪教徒の集落で――あるいは、マヒュドラの集落で――あるいは、このグワラムの城塞で――ナーニャは魂を焦がしながら、こうしてリヴェルたちを救ってきていたのだ。
しかし、それらの際とは異なる恐怖と悲哀が、リヴェルの胸を潰してしまっていた。
ナーニャがこれまでに滅してきたのは、おぞましい妖魅だった。あるいは、妖魅に憑依された人間や、ナーニャに悪念を向ける人間たちだった。しかし、これらの人獣は――それらのいずれとも異なるように思えてならなかったのだ。
何がどのように異なるのかは、リヴェルにも理解しきれていない。大神の民の住まう聖域などというものは、リヴェルにとって御伽噺にも等しい存在でしかなかったのだ。
しかしナーニャは、彼らが《まつろわぬ民》に騙されたのだと言っていた。聖域で平和に暮らしていたのに、陰謀に巻き込まれてしまったのだと言っていた。その言葉が真実であるのなら――このようなことが、許されるわけもなかった。
(どうして……どうしてナーニャが、罪もない相手を滅ぼす役目を負わなければならないの?)
ナーニャは炎の中心で、人形のように立ち尽くしていた。
その深紅の瞳も炎さながらに、爛々と燃えている。
しかしリヴェルには、ナーニャが血の涙を流しているように見えてしまった。
そのとき、「あぶない!」という声とともに、何か巨大なものがリヴェルに覆いかぶさってきた。
ナーニャの姿が、視界から消えていく。そちらに手を差し伸べながら、リヴェルは冷たい地面に押し倒されることになった。
「ば、馬鹿! 重たいよ!」と、思いも寄らぬほど近くから、チチアの声が聞こえてくる。
リヴェルとチチアにのしかかっているのは、タウロ=ヨシュであった。
「おもいぐらいで、もんくをいうな」
ぶっきらぼうに言いながら、タウロ=ヨシュがわずかに身を起こす。
とたんに、金褐色の髪の間からひと筋の鮮血がしたたって、地面に赤いしみを作った。
「ど、どうしたのさ! 大丈夫!?」
「いしやりが、かすめただけだ。さわぐようなことではない」
リヴェルとチチアを巨体の下にかばいながら、タウロ=ヨシュは視線を巡らせる。それを追うと、背中を断ち割られた人獣の亡骸がすぐ近くに転がっていた。
「たすかった。かんしゃする」
さらにタウロ=ヨシュの視線を追うと、ゼッドが長剣の血を振り払っているところであった。
ナーニャを愛するゼッドもまた、同じ罪に手を染めたのだ。
リヴェルは知らず内、涙を流してしまっていた。
「……さしあたっては、片付いたようだね」
ナーニャの声が、遠くから響いていた。
「だけど、この場に現れた大神の民は、せいぜい数十人といったところだ。もしも残りの者たちが、下界を駆けずり回っているとすると……ヤハウ=フェムたちが、危うくなってしまう。僕たちは、この場を離れるべきだろう」
「は、はなれてどうする? どこで、ようみをむかえうつのだ?」
マヒュドラの兵士が、それに応じている。リヴェルがタウロ=ヨシュの身体の下から這い出して、ナーニャの姿を追い求めると――ナーニャはいままさに、こちらに歩み寄ってくるところであった。
「メフィラ=ネロを迎え撃つには、やっぱり高い場所が望ましい。こうなったら、グワラムの外側にある城壁に移動するしかないだろうね。そうやって僕をおびき寄せるのが、メフィラ=ネロの狙いかもしれないけれど……グワラムに住まうすべての人々の生命と引き換えじゃあ、それもしかたないことさ」
そんな風に述べながら、ナーニャがリヴェルのほうに手を差し伸べてきた。
その面には、悲しみをこらえて微笑んでいるような表情がたたえられている。
リヴェルはナーニャの腕をすりぬけて、そのほっそりとした身体に取りすがることになった。
「どうしたのさ? そんなに恐ろしかったのかい?」
リヴェルは答えられぬまま、ただナーニャの胸もとに顔をうずめた。
火のように熱いナーニャの指先が、リヴェルの髪をそっと撫でてくる。
「それじゃあ、移動しよう。……今度こそ、決着をつけるんだ」
◇
ほとんどナーニャに引きずられるようにして、リヴェルは塔の階段を下ることになった。
そうして、最初に乗ってきた車の荷台に詰め込まれる。そこで、ナーニャとは引き離されることになってしまった。
「城下の町には、妖魅どもがひしめいているからね。僕は表で、それを蹴散らさなきゃいけないんだ。ゼッドだけ、僕と一緒に来ておくれよ」
ゼッドと、それに御者役の兵士だけを引き連れて、ナーニャは姿を消してしまう。
荷台には、リヴェルたちと生き残りの兵士三名が乗り込むことになった。
扉が閉められて、すぐに車は動き始める。
すると、チチアが何やら決然とした面持ちでタウロ=ヨシュに近づいていった。
「あんた、いつまでぽたぽたと血を流してるのさ? 悪い風が入ったら、どうするつもり?」
懐から取り出した織布で、タウロ=ヨシュの頬から下顎まで伝わった血をぬぐう。タウロ=ヨシュは、その姿をうろんげに見返していた。
「このていどのきずに、かまいつけているばあいではない。これから、もっときけんなばしょにおもむこうとしているのだからな」
「うっさいよ! だったらなおさら、その前に手当てしておきな!」
揺れる荷台の中で立ち上がり、チチアがタウロ=ヨシュの頭に包帯を巻いていく。タウロ=ヨシュはぐったりと座したまま、されるがままになっていた。
イフィウスのほうは手傷を負った様子もなく、剣についた血をぬぐっている。リヴェルの知らないところで、彼らも戦いに身を投じていたのだ。それはリヴェルたちを守る戦いであったのだから、全員に等しく罪があるはずだった。
(ナーニャに比べたら、こんなの何でもない……でも……こんなことは、もう終わりにしなくちゃいけないんだ)
リヴェルの中に、何か形の定まらない激情の萌芽が生まれていた。
怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか、恐れなのか――おそらくは、そのすべてであるのだろう。自分と身の回りの人々にしか目の届かないリヴェルにも、ようやくナーニャの見据えていたものがぼんやり見えてきたような感覚であった。
四大王国を滅ぼすというのは、こういうことであったのだ。
ただ王国の王たちを殺して、支配者としての座を奪おうだとか、そんな簡単な話ではない。大神アムスホルンとその子たる四大神がもたらしたこの世の摂理を崩壊させて、世界そのものを変容させてしまう――《まつろわぬ民》の目的というのは、そういうものであったのである。
(そんな馬鹿げた目的のために、ナーニャの人間としての幸福が奪われてしまっただなんて……そんなこと、わたしには絶対に許せない)
ナーニャの本当の敵は、どこにいるのだろう。
メフィラ=ネロもまた、ナーニャと同じ凶運を背負わされただけの存在に過ぎない。ナーニャやメフィラ=ネロにおぞましい呪いをほどこして、《神の器》などというもの仕立ててしまった《まつろわぬ民》というのは、いったいどこで何をしているのだろうか。
リヴェルがそんな想念に打ち沈んでいる間に、トトスの車が動きを止めた。
扉が開き、御者をつとめていたマヒュドラの兵士が重い声音で「でろ」と命ずる。
リヴェルたちが外に出ると、ナーニャとゼッドは変わらぬ姿でたたずんでいた。
ただ、ナーニャの赤い瞳が激情の余韻を漂わせて、妖しくきらめいている。きっと車に襲いかかってこようとする妖魅を何体も返り討ちにしたのだろう。
「さあ、急ごう。うかうかしていると、この辺りの妖魅がみんな集まってしまうからね」
リヴェルはナーニャに駆け寄って、その火のように熱い指先を握りしめた。
ナーニャはちょっと不思議そうに、リヴェルを見つめ返してくる。
「どうしたんだい、リヴェル? 君は何だか……別人みたいに強くなったように見えるよ」
「わたしは……わたしには、何の力もありません。ただナーニャたちに守られるだけの、ちっぽけな存在です」
リヴェルは心のおもむくままに、そのように答えてみせた。
「でも……ナーニャと最後まで運命をともにします。どうか……どうか凶運なんかに負けないでください、ナーニャ」
「……リヴェルにそんな風に言ってもらえたら、身体の奥底から力がみなぎってくるよ」
冗談めかして言いながら、ナーニャはリヴェルの身体をそっと抱きすくめてきた。
「さあ、それじゃあ行こう。たぶんこれが……最後の戦いだ」
ナーニャの優しい声を聞きながら、リヴェルは「はい」と答えてみせた。