Ⅲ-Ⅴ 切れた糸
2019.3/2 更新分 1/1
「あのティムトなる少年は、本当に大した器であるようですね」
そのように囁きかけてきたのは、メルセウスであった。
帳の隙間から応接の間を覗き込みつつ、クリスフィアは「うむ?」と応じてみせる。
「それはまったくその通りだと思うが、メルセウス殿はティムトのどの行いをもって、その思いを新たにさせられたのであろうかな?」
「それはもちろん、これから繰り広げられる審問に関してです。要するに、これは新王とロネック将軍のどちらが虚言を吐いているのか、それを見定めようという行いであるのでしょう?」
「そうであろうか? わたしには、ただロネックめに罠を仕掛けようとしているだけのように思うのだが」
「それは、王陛下がこの提案をすんなり受け入れたからですよね。その時点で、軍配はすでに王陛下へと上げられているわけです」
メルセウスは、室内の者たちに気取られないように忍び笑いをしている。
「王陛下が敵方の人間であったならば、このような提案を受け入れるわけがありません。それでようやく、ティムトも王陛下の言葉を信じて、ロネック将軍ただひとりに的を絞ることになったわけです」
「うむ。しかもロネックは、おそらく虚言を吐いているわけではない。自分は国王の命令で動いているのだと信じ込んでいるのだろう。その妄念を打ち砕き、真なる大罪人の正体を暴きたてようとしているのであろうな」
そのために、ベイギルスはこれからロネックと相対する。クリスフィアの視線の先では、長椅子に座したベイギルスがそわそわと身を揺すっていた。
そのかたわらに控えているのは、レイフォンとティムトである。ロネックと対決するのはその三名のみで、クリスフィアたちは有事に備えて帳の裏に身を隠しているさなかであるのだった。
もともとは、護衛役の武官が待機するための空間である。その場所に、クリスフィアとメルセウスとホドゥレイル=スドラが潜んでいる。ジェイ=シンは、密命を帯びてこの場を離れているのだ。もうそろそろ、双牙殿から呼びつけられたロネックがこの場に参上するはずだった。
「しかし、どうなのでしょうね。ティムトの目論見は、果たして成功するのでしょうか?」
メルセウスは、なおもクリスフィアに呼びかけてきた。
ベイギルスたちの姿を覗き見るのも飽きたので、クリスフィアはメルセウスのほうを振り返る。メルセウスは、普段通りの穏やかな面持ちで微笑んでいた。
「だって、ロネック将軍がどのような形でこのたびの陰謀に関わっていたのか、それを正確に把握していない限り、このような罠に嵌めることはかなわないでしょう? 彼の目は、すべての真相をすでに看破しているのでしょうか?」
「すべて、ということはあるまい。少なくとも、ロネックを誑かした首謀者の正体は、まだ見当もついていないのであろうからな」
「では、それ以外の真実はすべて読み解けた、と?」
「べつだん、不思議な話ではあるまい。それだけ、あやつは聡明であるのだ」
メルセウスはくすくすと笑いながら、かたわらに控えた長身の若者を見やった。
「まったく、驚くべき話ですね。……ホドゥレイル=スドラもティムトに師事すれば、いっそうの聡明さを会得できるのじゃないかな?」
「戯れ言だ」と、ホドゥレイル=スドラは関心なさげに言い捨てた。
「あれこそが、まことの賢者というものであるのだろう。俺などの出る幕ではない」
「しかし、君とて森辺では指折りの――」
と、メルセウスが言いかけたところで、ロネックの到着を伝える従者の声が響きわたった。
回廊に面した扉が開き、ロネックがのそりと現れる。べつだん捕縛されているわけでもなく、腰には短剣を下げている。ただし、そのかたわらには物々しい甲冑を纏った兵士がぴったりと付き添っていた。
「よく来たな、ロネックよ。礼など不要であるから、まずは座すがよい」
いくぶん浮ついた声でベイギルスが言いたてると、ロネックはレイフォンの姿をねめつけたようだった。
「王陛下の寛大なるお言葉に従いましょう。……しかし、どうしてこの場にヴェヘイムの若君がいらっしゃるのでしょうかな?」
「それは、其方が想像している通りだ。今後はレイフォンにも、我々の力となってもらう」
ロネックはしばらくレイフォンの姿を検分してから、どすんと腰を下ろした。まだクリスフィアたちと別れてから大した時間も過ぎていないのだから、ぞんぶんに酩酊しているのだろう。その酒臭い息が、こちらのほうにまで届いてきそうなぐらいであった。
「我々の力とは……? やはり王陛下は、この若君を腹心として召し抱えるつもりであるのでしょうかな?」
「うむ。このたびは、ジョルアンとバウファという二名の腹心をいちどきに失ってしまったからな。まあ、レイフォンであれば、あの両名の存在を補って余りあることであろう」
肥えた身体を落ち着きなく揺すりながら、ベイギルスはそのように述べたてた。
「しかし……ジョルアンとバウファがあのような末路を迎えるとは、実に驚くべきことであったな」
ロネックは、「ふん……」と不遜に鼻息を噴いた。
「やはり王陛下も、俺がジョルアンめを暗殺したなどという神官長めの讒言を真に受けておられるのでしょうかな? それなら、弁明させていただきますが――」
「いや、そのような話はどうでもよい。あやつらがすべての罪をかぶってくれるのならば、むしろ好都合ではないか」
「……好都合? しかし俺は、あの神官長めに誹謗されております」
「あのような讒言は、捨て置くがよい。何も証のある話ではないのだからな」
するとロネックは口をつぐんで、再びレイフォンの姿をねめつけたようだった。
「王陛下。本当にこの若君の前で、忌憚なく言葉を交わしてよろしいのでしょうかな?」
「かまわぬ。レイフォンは、すでにすべてをわきまえておるのだ」
「すべてを……」と、ロネックが巨体を揺すった。
危険な肉食獣が、臨戦態勢を取ったかのようである。そうしてロネックは、かたわらに控えた兵士のほうに暗く燃える双眸を差し向けた。
「では、この兵士めはどうなのです? どうやら第一防衛兵団の所属であるようですが……このような雑兵めは、この場に相応しくありますまい」
「大事ない。そやつは、レイフォンと縁のある人間でな。このたびの騒ぎが収束したのちには千獅子長に引き立てて、第一防衛兵団を陰ながら支えてもらおうと考えておるのだ。……何せ第一防衛兵団の団長は堅物に過ぎて、融通がきかぬからな」
「なるほど」と、ロネックは眼光の切っ先をレイフォンに向けなおす。
「では、やはりそちらの若君の真情を問わせていただこう。……お前は本当に、王陛下のために忠誠を尽くす心づもりであるのか?」
「もちろんです。私の君主はこの世でただひとり、ベイギルス王陛下をおいて他に存在しないのですからね」
ティムトと入念に打ち合わせをしていたレイフォンは、よどみなく答えていた。
しかしロネックは、疑り深そうにぎらぎらと両目を燃やしている。
「そのような言葉を頭から信じられれば、世話はない。すでに公爵家の嫡子という身でありながら、お前は……それでも、さらなる危険や重荷を背負う覚悟があるのか?」
「ええ。私はじきに、宰相という身分を与えられることとなります。それが親愛なる王陛下の思し召しであるのなら、是非もありません」
「ふん……無欲そうな面をふりまいて、けっきょくはそれか。つまり、お前は……今度こそ、俺の敵として立ちはだかろうというのだな?」
盗み見をしていたクリスフィアは、一気に緊迫した。思わぬ場面で、ロネックが敵意を剥き出しにしたのである。
ホドゥレイル=スドラが、すっと帳の前まで進み出てくる。おそらくは、ロネックの怒気を敏感に察知したのだろう。その指先は、ベイギルスから特別に所持を許された腰の長剣に添えられていた。
そこに、ティムトの声が響きわたる。
「僕の主人に、あなたと敵対する気持ちなどはありません。どうぞお気を静めください、ロネック将軍」
ロネックは、凄まじい勢いでティムトを振り返った。
「従者ごときが、口をはさむな! 俺は、こやつと話しているのだ!」
「僕は従者に過ぎませんが、ヴェヘイム公爵家の末席に名を連ねる立場となります。そうでなければ、このような場に同席することが許されるはずもないでしょう?」
どうやらティムトは、自分も身を張ってこの茶番劇に参戦する心づもりであるようだった。
まあ、そうでなくては話も進まないだろう。どれだけ入念に打ち合わせをしても、不測の事態にはティムト自身が対するしかないのだ。
「どうしてあなたは、そのようにレイフォン様を敵視しておられるのです? レイフォン様が王陛下のおそばにあったら、あなたには何か不都合なのでしょうか?」
「やかましい! 俺はこれまで、陛下のために身を削って働いてきたのだ! その成果を、横からかっさらわれてたまるものか!」
「元帥と宰相では、立場が異なります。レイフォン様がどれだけ宰相として身を立てようとも、あなたの立場を脅かすことにはなりますまい」
そのように述べたててから、ティムトはすくみあがっているベイギルスのほうに目をやった。
「それとも……もしや王陛下は、ロネック将軍に何か特別な褒賞をお与えするお約束でも交わされていたのでしょうか?」
「え? いや……」と、ベイギルスは口ごもる。ベイギルスが潔白の身であるならば、何が何やら見当もつかないことだろう。やがてティムトは怒れる将軍のほうに視線を戻すと、こう言った。
「もしもそれが、ユリエラ姫の伴侶となる資格、というものであるのでしたら……何もご心配には及びません。レイフォン様は、どなたを伴侶にお迎えする気持ちもあられないのです」
「たわ言を抜かすな! 目の前にぶら下がった玉座を打ち捨てる人間など、この世に存在するものか!」
怒声をあげるロネックに、ティムトは「いえ」と首を振る。
「ですが、それが真実であるのです。レイフォン様は、数年前に奥方を亡くして以来、そのようなお気持ちであられるのです。ですから、たとえお相手が第一王位継承権をお持ちになる姫君であられても……決して婚儀を肯んじようとはしないのです」
ロネックは、ぐつぐつと煮えたぎるような目でレイフォンをねめつけた。
「それは真実であるのか、若君よ?」
「ええ。私は魂を返した妻に操を立てているのです。この誓いを破るつもりはありません」
「では、どうして貴様は、王陛下にへつらっておるのだ? 貴様の目的は、何なのだ?」
「私の目的ですか。それは、玉座以外のすべてということになるのでしょうね。さしあたっては、宰相という立場と、それに見合った富と栄誉を手中にできれば満足です」
レイフォンが、ようやく自分の役割を演じ始めた。
「確かに私はヴェヘイムの嫡子ですが、その立場には固執していません。公爵など、王国に五名も存在するのですからね。しかし、宰相となる人間は、王国でただひとり。私にとっては、そちらのほうが魅力的であるということです」
「…………」
「あなたは武官の長となり、私は文官の長となる。これでようやく、王都に永遠の安寧が約束されるというものです。神官長や名ばかりの元帥など、最初から王陛下には無用の手駒であったのでしょう」
なかなか堂に入った悪人ぶりではないか、とクリスフィアは感心することになった。なまじ立ち居振る舞いが優雅であるために、いまのレイフォンは小憎たらしくてたまらなかったのだ。
「私はなけなしの知恵を振り絞って、このたびの騒ぎを静める所存です。そのためには、あなたのお力が必要なのですよ、ロネック殿。ともに手を携えて、この困難を乗り越えましょう。……そのためにこそ、王陛下はすべてを私に打ち明けてくださったのです」
「すべて……すべてをか?」
「はい。しかし、私の打った一手が思わぬ波紋を呼び起こし、あなたの心を乱す結果になってしまいました。その点に関しては、重ねてお詫びを申しあげます」
ロネックは、愕然とした様子で巨体をのけぞらした。
「では……では、ジョルアンめに毒を盛ったのは、貴様なのだな!」
レイフォンは優雅に微笑んだまま、何も答えようとしなかった。
ロネックは、岩のような拳で卓を打つ。
「余計な真似をしおって! あのような柔弱者は、放っておけばよかったのだ! あやつが何をほざこうとも、何も証などはなかったのだからな!」
「いえ。ダームの一件をお忘れでしょうか? ダリアスが生き永らえていたことによって、ジョルアン将軍の罪には証が生まれてしまったのです。そもそも、ジョルアン将軍を告発したのは、ダリアスとトライアス殿なのですからね」
「しかし、あやつはバウファめの手駒に過ぎなかった! あやつの罪が暴かれても、道連れとなるのはバウファひとりで済んだのだ! しかし、貴様が余計な真似をしたおかげで、俺にまで矛先が向いてしまったではないか!」
「何もご心配はいらないでしょう。あなたとて、主君の命令で動いていたに過ぎないのですからね」
激昂していたロネックが、ぴたりと口をつぐんでしまった。
その濁った目が、探るようにレイフォンとベイギルスを見比べる。
「貴様は……何をどこまで、知らされているのだ?」
「ですから、すべてをです。私はあなたがたと運命をともにする覚悟を固めたのですから、何も隠すいわれはないでしょう?」
「ならば……貴様には、俺や王陛下を糾弾することも可能である、ということだな」
ロネックの指先が、何かを求めるように蠢いている。
しかしレイフォンは、変わらぬ表情で微笑んでいた。
「そのために、私もこの手を罪に染めたのです。そうでなくては、王陛下の信頼を得ることもかなわなかったことでしょう」
「……なるほど、そういうことか」
ロネックの顔に、醜悪なる笑みがたたえられた。
その目がのろのろと、ベイギルスのほうに向けられる。
「さすがは、念のいったことですな。こやつが俺たちを裏切るようであれば、こやつがジョルアンを毒殺した事実も明るみになる、と……つまり俺たちは、血判を交わしたも同然であるということですな」
「う、うむ」と、ベイギルスは上ずった声で応じていた。
それを聞きながら、クリスフィアはぎゅっと拳を握り込む。
すでにロネックは、自分の罪を認めたも同然であった。
(しかし、それではまだ足りない。ティムトの目的は、その裏に潜んでいる何者かを暴きたてることなのだからな)
クリスフィアがそのように考えたとき、レイフォンが新たな一手を打った。
「しかし、ひとつだけ腑に落ちないことがあるのです。ロネック殿とクリスフィア姫がシムの媚薬を嗅がされたという、あの一件……あれはいったい、何だったのでしょうか?」
とたんに、ロネックがまだ激情の気配を漂わせた。
レイフォンは、かまわずに言葉を重ねていく。
「王陛下も、その一件には関与されていないというお話でありました。さきほどバウファ殿を問い質したところ、それもまたロネック殿のご命令であったという話なのですが……それは真実であるのでしょうか?」
「馬鹿を抜かすな! どうして俺が、自分から媚薬などを浴びなければならないのだ!」
「ですが、バウファ殿はそのように言いたてていたのです。いつも通り、ロネック殿から密書が届いたので、ジョルアン将軍にその命令を下したのだ、と……」
「そのような密書を届けた覚えはない! おおかたバウファのやつめが、俺に嫌がらせを仕掛けてきたのであろう! ……そうか、あれはジョルアンではなく、バウファめの仕業であったのだな……」
「お待ちください。そのように決めつけるのは早計です。もしも本当に、バウファ殿のもとにそのような密書が届けられていたのなら……何者かが、ロネック殿の名を騙って偽の密書をこしらえたということになります。それはつまり、ロネック殿とバウファ殿が密書でやりとりをしていたことを知っていた人間がいる、ということなのですから……これは、由々しき事態ではないでしょうか?」
ロネックは、飢餓に狂った獣のごとき形相でレイフォンをにらみつける。
「そのような者が、存在するはずはない! 俺がバウファに送っていた密書には、事前に取り決めた暗号が記されていたのだからな!」
「ですから、そのような者が存在するとすれば、暗号のことすら把握していたことになります。そのような者が存在するならば、おふたりの間でどのようなやりとりが為されていたかも知り尽くしているということになるのですから、決して放っておくわけにもいきますまい」
「……だとしたら、そやつは俺たちを糾弾しているはずであろうが? どうして媚薬などを持ち出して、俺にしょうもない悪さを仕掛けるに留めたのだ?」
「それは、私にもわかりません。もしかしたら、いまでもロネック将軍の寝首をかこうと、牙を研いでいるのではないでしょうか?」
ロネックは、ぎりぎりと歯を噛み鳴らしている。
その恐ろしげな姿を見やりながら、レイフォンはふっと微笑んだ。
「何にせよ、今後の連絡には注意に注意を重ねるべきでしょうね。密書などは形が残ってしまうのですから、むしろこうして顔をあわせて語らうことこそが、もっとも安全であるのではないでしょうか?」
「ふん! 後から出てきて、偉そうな口を叩くものだな。俺とバウファめがしょっちゅう密談をしていたら、それこそ周囲に何事かとあやしまれてしまうわ!」
「おふたりは、ともに王陛下の腹心であられたのですから、それほどあやしまれなかったように思いますけれどね」
そんな風に言ってから、レイフォンはごく何気なく言葉を重ねた。
「そういえば、王陛下とロネック殿は、どのような形で意思を通わされていたのでしょう? やはり、密書でしょうか?」
「ふん。貴様は、すべてを知らされているのだろうが?」
「そのように些末なことまではお聞きしていませんでした。しかし、密書をもちいておられたのなら、今後は改めるべきかと思われます」
「密書などは使っておらん。俺はいつも、王陛下の従者から言葉を届けられていた」
ロネックの言葉に、クリスフィアは息を呑むことになった。
そしてその後には、さらなる驚愕が待ち受けていた。
「そういえば……その従者めも魂を返してしまったので、今後はどのようにされるおつもりなのかと、俺も気にかかっていたのです。あれ以降は、こちらから言葉を届けることもできなくなってしまいましたし……それで俺は、余計な心労を抱え込むことになってしまったのですぞ?」
ロネックの恨みがましい言葉が、ベイギルスに向けられる。
ベイギルスはきょときょとと目を泳がせており、レイフォンは「ふむ」と下顎を撫でさすった。
「魂を返した王陛下の従者というと……もしかして、それはオロルなる薬師のことであるのでしょうか?」
「ああ、そのような名前であったな。東の民のようにひょろひょろと背の高い、不気味な老人の従者だ」
レイフォンの陰で、ティムトが立ちすくんでいた。
その唇が「そうか」という形に動く。
「王陛下。ジョルアン将軍の助言というのは、どのような形で届けられたのでしょうか?」
ティムトのいきなりの質問に、ベイギルスはまた視線を泳がせた。
「な、なに? ジョルアンの助言というのは……?」
「赤き月の災厄の夜、銀獅子宮で過ごすのは危険であると伝えられた、ジョルアン将軍の助言についてです。それは、ジョルアン将軍ご自身の口から語られたのですか? それとも、密書か何かであったのでしょうか?」
ティムトらしからぬ、性急な物言いである。しかも目の前では、ロネックがうろんげに目を燃やしているのだ。ベイギルスはその眼光に脅かされながら、「ええと」と言葉を探していた。
「それは、たしか……うむ、オロルが伝言を携えてきたのだ。ジョルアンのやつめが内密に言葉を届けたいと申し出てきた、などと言っておったな」
「やはり、そうなのですね」
ティムトはほっそりとした指先で、亜麻色の髪をくしゃっとかき回した。
「だからあの御方は、真っ先に口を封じられることになったのですね。あの御方は、二重三重に鍵を握る御方であったのです。《まつろわぬ民》に操られていたのは、あの御方だった……《まつろわぬ民》はあの御方を傀儡として、王宮内の人間を翻弄していたのです」
「それじゃあ、これで手掛かりが途絶えてしまったということなのかな?」
のんびりとした声でレイフォンが問うと、ティムトは「ええ」と乱暴に言い捨てた。
「僕たちは、また後手を踏んでしまいました。というか、敵の描いた図面の上から、まだ一歩として踏み出すことができていないのです。僕は……自分の無力さにこんなに腹が立ったのは、初めてのことです」
「ティムトが無力であったら、この世の人間のすべてが無力であると思うよ」
すると、ロネックが「おい!」とわめき散らした。
「貴様たちは、さっきから何をほざいておるのだ? ジョルアンの助言というのは、いったい何の話であるのだ?」
ティムトは、底光りする目でロネックを見返した。
「あなたたちは、すでに役目を終えています。あなたもバウファ神官長も、すでに用済みであるのです。あなたがたは、暗殺に怯える必要もないでしょう。薬師オロルと、あとはついでにジョルアン将軍の口を封じておけば、《まつろわぬ民》に繋がる糸は断ち切られます。皮肉なものですね。末端にいる人間のほうこそが、もっとも首謀者の近くにあったのですよ」
「だから、貴様はいったい何を――!」
「王陛下は、あなたに命令を下してなどいません。どうせエイラの神殿の鍵をあなたに渡したのも、あの薬師殿であるのでしょう? これで赤の月の九日にカノン王子を解放すれば、あなたに正当なる立場が回復されるとでも言われましたか? ついでに、グワラム戦役のどさくさでルデン元帥とディザット将軍を暗殺せよ、などと命じられたのでしょうか? それらはすべて、王陛下の名を騙った不届き者の仕業です。あなたは傀儡の手に踊らされる傀儡に過ぎなかったということですよ」
確かに、ティムトは怒っているのだろう。ティムトがこれほどに感情的な姿を見せるのは、きっと初めてであるはずだった。
一瞬言葉を失ってから、ロネックは立ち上がる。その双眸は憤怒に燃えて、ベイギルスの姿をにらみすえていた。
「王陛下、あなたはまさか……この俺をたばかったのですか!? 俺に玉座を与えるというあの言葉も、すべて虚言であったのですか!?」
「た、たわけたことを抜かすな! 誰がお前などに、大事なユリエラをやるものか!」
ロネックが、ベイギルスに襲いかかろうとした。
クリスフィアは、ホドゥレイル=スドラとともに帳をかきわける。
しかし、それよりも早く、甲冑姿の兵士がロネックを組み伏せていた。
抜き身の短剣が床に転がり、ロネックは獣のようなうめき声をあげる。その右腕は、肩の骨が外れそうな角度で背中のほうにねじりあげられていた。
「そのように酒をくらっていては、将軍もへったくれもないな。これでは宿場町の無法者を相手にしているようなものだ」
面頬の奥から、ぶっきらぼうな声がこぼれる。それはもちろん、ジェイ=シンの声だった。
クリスフィアは息をつきながら、ティムトのもとまで歩を進める。
「恐れ多くも王陛下に刀を向けたのだから、こやつも立派な大罪人だ。……それにしても、まさかここでまたあの薬師めが登場しようとはな。かえすがえすも、無念なことだ」
「…………」
「それで、これからどうするのだ? 《まつろわぬ民》に繋がる糸はすべて断ち切られてしまったという話だが……まさか、ここであきらめるわけではなかろう?」
「当然です」と、ティムトは低くつぶやく。その瞳には、この少年らしからぬ闘志の炎が燃えているように感じられた。
(ようやく、ティムトにも火がついたか。……ならば、それほど分の悪い戦いではあるまい)
バウファもロネックも捕縛され、ジョルアンは魂を返すことになった。意外なことに、ベイギルス自身は潔白の身であるようだが――これで残るは、ロネックたちをいいように操っていた《まつろわぬ民》とやらを退治するだけだ。クリスフィアとしては、ようやく敵の先陣を一掃できたような心地であった。
(しかと采配を振ってくれれば、どのような敵でも討ち倒してみせよう。指揮官の役は、頼んだぞ)
クリスフィアは、心の中でそっとティムトを激励することにした。
ティムトは唇を噛みしめながら、まだ見ぬ敵をにらすえているかのようだった。