Ⅴ-Ⅳ 煩悶
2019.2/9 更新分 1/1
「馬鹿な……」という振り絞るような声が、薄闇の中に吐き出された。
声の主は、エルヴィルである。彼は荷台の壁にもたれかかりながら、死人のように青ざめた面持ちでレイフォンからの書状を読んでいた。
「あんたにとっては、そうそう簡単には信じられない内容なんだろうねえ。でも、そいつを運んできたギリル=ザザとドンティの様子を見る限り、信用にしていいんだろうと思うよ」
エルヴィルの差し向かいに座したメナ=ファムは、そのように述べたててみせた。
シルファは惑乱しきった面持ちで、ラムルエルは相変わらずの無表情で、メナ=ファムたちの姿を見守っている。燭台の光にぼんやりと照らされた荷台の中には、皮膚がひりつくような緊迫の空気が漂っていた。
ギリル=ザザとドンティと別れた後、メナ=ファムは真っ直ぐこの場に戻り、先ほどの会話の内容をざっと伝えてから、エルヴィルに書状を手渡したのだ。
セルヴァの第四王子カノンと十二獅子将ヴァルダヌスは、生きているのかもしれない。
もしも両名が生き永らえていた場合、王子の名を騙った人間は王国からもゼラドからも許されざる大罪人として追われることになる。
その前に、偽王子の一行はゼラドの軍から離脱するべきである。
その書状には、そのように記されているはずだった。
「このようなものは……王都の人間の奸計だ」
やがてエルヴィルは、激情に震える声でそのようにつぶやいた。
「あやつらは奸計をもって、ゼラド軍と王子殿下を引き離そうと企んでいるだけなのだ。……そうに決まっている」
「あたしもおんなじ風に、ギリル=ザザたちを問い詰めたよ。でも、あたしはあいつらを信じることにしたんだ」
「何故だ? このような話には、何の証もない!」
「もうちっと声を小さくしないと、外の連中に盗み聞きされちまうよ。……何故って、シルファが偽王子だっていう確信がなければ、そんな手紙も意味を為さないだろう? 理由まではわからないけど、そのレイフォンって御方には、何か確信があるんじゃないのかね」
エルヴィルは唇を引き結びながら、わなわなと肩を震わせていた。
そこにラムルエルが、炭を塗ったように黒い指先をすっと差しのべる。
「私、拝見、よろしいですか?」
エルヴィルは、火のような眼差しでラムルエルをにらみつけた。
しかしラムルエルは、澄みわたった黒瞳でそれを見返している。
「私、あなたがた、運命、ともにします。ですが、そのために、真実、知っておきたい、思います」
「……このようなものは、すべて虚言だ。どこにも真実などは書き記されていない」
「では、自分の目、見極めたい、願います」
エルヴィルは、ラムルエルの胸もとに叩きつけるような勢いで、書状を突きつけた。
ラムルエルは、優雅な所作でそれをつまみあげる。
「ラムルエル、あんた、東の民のくせに西の文字を読めるのかい?」
「はい。商売、必要ですので、学びました」
「そいつは大したもんだねえ。あたしなんて、からっきしだよ。ま、狩人に文字を読む必要なんてないからさ」
シルファは不安にくすんだ瞳で、メナ=ファムを見やってきた。メナ=ファムひとりが妙に昂揚しているので、いぶかしく思ったのだろう。メナ=ファムは、無言でその指先を握りしめてやった。
「どうだい? あたしの話と、何か食い違ったことでも書いてるかい?」
「いえ。より詳細、記されています。王子と将軍、生きていると考えた理由、記されています」
王や王子たちが魂を返した宮殿には、地下に秘密の通路が隠されていた。その通路の出口に野営をした痕跡が残されていたので、王子カノンとヴァルダヌスは無事に逃げのびたのではないかと推察される。書状には、そのように記されていたようだった。
そしてもう一点、そこには重要な事項が記されている。
前王らを弑したのは別の人間であり、カノン王子とヴァルダヌスは冤罪をかけられただけなのではないか――そのために、生き永らえているにも拘わらず、名乗りをあげることができないのではないか――そうであるのならば、必ずや真なる大罪人を突き止めて、王子カノンとヴァルダヌスを王宮に迎えなければならない。ヴェヘイム公爵家の第一子息レイフォンの名のもとに、そのような表明がされていたのだ。
「何だ。それなら、あんたにとってもそのレイフォンってお人は、かけがえのないお仲間じゃないか。あんただって、ヴァルダヌスっていうお人の無念をはらすために、こんな真似をしでかしたんだろう?」
メナ=ファムが言いたてると、エルヴィルは「黙れ」と眼光を燃やした。
「レイフォンというのは、王都で随一の知略家と称される男であるのだ。このようなものは……俺たちを陥れるための奸計に決まっている」
「どうしてそんな風に思うのさ? こいつが虚言だっていう証でもあるなら、話しておくれよ」
レイフォンは、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。
負傷のためにやつれた顔が、いっそう凄愴に引きつっている。
「ねえ、ここが運命の分かれ道なんだよ? もしもそこに書かれていることが真実であったら、あんたは理由もなく王国に牙を向けることになっちまうんだ。ヴァルダヌスってお人が生きてるんなら、あんたもこんな真似をする理由はなくなっちまうんだろう?」
「そのようなことが、ありえるわけはない」
エルヴィルは、ラムルエルの手から書状をひったくった。
そうして逆の手が燭台をつかむのを見て、メナ=ファムは腰を浮かせる。
「ちょいと待ちなよ。まさか、そいつを焼いちまうつもりかい?」
「……このようなものをゼラドの連中に見られたら、俺たちは破滅する」
メナ=ファムが立ち上がろうとすると、ラムルエルがそれを止めた。
「書状、読んだら、すぐに燃やすよう、書かれていました。私も、正しい、思います」
「ああ、そうかい。だったら、かまわないけどさ」
メナ=ファムは、どかりと座りなおした。
エルヴィルは手負いの獣じみた形相になりながら、書状を燭台の火にくべる。メナ=ファムたちの運命を左右する書状は、それであっけなく灰と成り果てた。
「……さ、どうするんだい? あんたの意見を聞かせてもらおうか、エルヴィル?」
エルヴィルは灰となった書状に目を落としたまま、声を振り絞った。
「どうするもこうするもない。たとえ真実がどのようなものであったとしても、数万のゼラド軍に囲まれた俺たちに逃げ場などはないのだ」
「それじゃあこのまま、間違った運命を突き進むつもりかい? あたしはそんなの、まっぴらだね」
ラムルエルの燃える眼光が、のろのろとメナ=ファムに突きつけられてくる。
「では……お前は俺たちを裏切ろうというのだな、メナ=ファムよ?」
「誰もそんなことは言っちゃいないだろ。あたしはただ、一番正しいと思える道を進みたいだけさ」
メナ=ファムは、ずっと沈黙を保っているシルファのほうに目をやった。
「あんたはどう思うんだい、シルファ?」
「え……わたしは……」
「すべてをエルヴィルにおっかぶせるのは、やめておくれよ? あんたはこの先どうしたいと考えているのか、あんたの本音を聞かせておくれよ」
シルファはいまにも泣きだしそうな面持ちで、青灰色の瞳を潤ませた。
「わたしは……わたしには、望むものなどありません……どれだけ柔弱だとなじられようとも、わたしは……エルヴィルの望む道を、ともに歩みたいのです……でも……」
「でも、何だい?」
「でも……これが本当に、エルヴィルの望む道なのでしょうか?」
涙をためたシルファの瞳が、エルヴィルのほうに転じられた。
「もしも本当に、ヴァルダヌスという御方が生き永らえていて……いずれ正しいお立場を取り戻すことができるのなら……エルヴィルは、ヴァルダヌスという御方そのものに刃を向けるような真似をしてしまっているのです……ヴァルダヌスという御方が愛しておられたカノン王子の名を騙り、偽りの玉座を手にしようだなんて……それでは……それでは、エルヴィルがヴァルダヌスという御方に、仇敵として憎まれることになってしまいます……」
シルファの白い指先が、エルヴィルの武骨な手に重ねられた。
「わたしは、エルヴィルと運命をともにします……だから……だからどうか、エルヴィルにとってもっとも正しい道をお選びください……」
エルヴィルは、真正面からシルファの姿を見返していた。
激情に燃える双眸には、強い不安と困惑の光も渦巻いている。それを見て取ったのか、シルファは月の下の花のように微笑んだ。
「たとえどのような運命を辿ろうとも、わたしはかまいません……でも、エルヴィルは……エルヴィル兄さんにだけは、幸福になってもらいたいのです……その気持ちに、変わりはありません」
エルヴィルは、がっくりとうなだれた。
褐色の髪がこぼれ落ち、その目もとを隠してしまう。やがてエルヴィルは、かすれた声で低くつぶやいた。
「明日……ドンティとギリル=ザザを、俺のもとまで連れてこい……そいつらが真実を語っているかどうか、俺が確かめさせてもらう」
「ああ、承知したよ」
メナ=ファムは、大きくうなずいてみせた。
メナ=ファムとて、いまさらシルファたちと袂を分かつつもりはない。この場に集った四名は、運命をともにすると誓った仲間であるのだ。
しかし、大事な弟を見捨てることも、できはしない。
また、シルファとエルヴィルをみすみす破滅させることもできない。
ならば、どちらも救うしかないではないか。
メナ=ファムの五体には、かつてないほどの力がみなぎっていた。
◇
そうして、翌日である。
朝方の出立の前に、ドンティとギリル=ザザはトトス車の荷台に呼びつけられることになった。
両者のトトスは旗本隊の兵士たちに預けられて、そのまま進軍を開始する。幸い、周囲を固めたゼラド軍の兵士たちに、その行いを見とがめられることはなかった。
「隊長殿にお目通りがかなって、ほっとしやしたよ。これもみんな、メナ=ファムの姐さんのおかげでやすね」
揺れる荷台の中で、ドンティはにまにまと笑っていた。ギリル=ザザは、泰然とした面持ちで、その場に集まった者たちの姿を見回している。
ギリル=ザザの目に、シルファの姿はどのように映っているのか。メナ=ファムとしては、大事にしまっておいた宝箱を日の下にさらされたような心地であった。
「そんな挨拶はいいから、さっさと話を進めておくれよ。ゼラドの連中に気づかれたら、厄介だからね」
「へえ、それじゃあさっそく――」
そうして、ドンティは語り始めた。
大半は、書状に書かれていたのと同一の内容である。エルヴィルは、心中に渦巻く激情を押し殺しながら、その言葉を聞いていた。
「……そのギリル=ザザという男は、どうして口をきけぬなどと虚言を述べていたのだ?」
「ああ、それには、ちょいとややこしい事情がありやして……なんでも森辺の民の間では、虚言は罪だとされてるって話なんです。どうしてもその掟を曲げることはできねえってんで、だったらずうっと黙っていてもらうしかない、という話に落ち着いたんでさあね」
「…………」
「本当だったら、名前も嘘っぱちにしたかったところなんですがね。それじゃあ呼ばれても応じることができないって言い張るもんですから、しかたなく氏だけをとっぱらうことにしたんでさあ。なにせこの西の王国じゃあ、森辺の民と自由開拓民の他に氏を持つ一族なんてありゃあしませんからねえ」
「うむ。本来、名だけで呼ぶのを許されるのは家人だけなので、それでもずいぶんと落ち着かない心地であるのだがな」
ギリル=ザザは、ふてぶてしく白い歯を見せた。不敵で、魅力的な笑顔である。その笑顔を、シルファは食い入るように見つめていた。
(……シルファはシルファで、ギリル=ザザのことをどう思ってるんだかね)
それを考えると、メナ=ファムは妙に胸が騒いでしまった。
しかし、どうしてこのように胸が騒ぐのか、理由はさっぱりわからない。
「……仮に、お前たちの言葉が真実であるとしよう。しかし、ゼラドの軍に取り囲まれた俺たちに、逃げるすべなどはあるまい。まさか、力ずくで押し通ろうという算段ではあるまいな?」
「へえ。そこはどうにか、頭をひねるしかねえでしょうね。まあ、手段がねえわけではありやせん」
「……では、その手段とやらを聞かせてみよ」
エルヴィルが言葉を重ねると、ドンティはにたりと微笑んだ。
「それはいっこうにかまいませんが……でも、隊長殿のお気持ちは固まったんでしょうかね? 見たところ、いまだお迷いのさなかにあるように見受けられるんですがねえ」
エルヴィルの目に、ぎらりと野獣じみた火が灯る。
しかし、ドンティのにやけた顔に変わりはなかった。
「俺たちも、生命をかけてこの場に馳せ参じたんです。同志としての絆をしっかり結び合わさない限り、なかなか真情は明かせやせん。あんたがたは、俺たちを同志と認めてくれたんでしょうかねえ?」
「……このようにわずかな時間だけで、心からの信頼を得られるとでも思っているのか?」
「信頼しなきゃあ、始まりません。少なくとも、ギリル=ザザとメナ=ファムの姐さんの間には、確かな絆が育ったご様子でやすよ?」
エルヴィルは、固く口を引き結んだ。
そこで、車が速度を落としていく。どうやら、最初の小休止の刻限となってしまったらしい。
「とりあえず、話はここまでとしやしょうか。……でも、明日にはこの一団も、グリュドの砦に到着しちまいやす。あっちには、もうセルヴァの大軍が待ち受けてるでしょうから……逃げるとしたら、今日の夜が最後の好機でしょうねえ」
そのように囁いてから、ドンティは床の刀に手をのばした。トトス車は、ぴたりと動きを停止する。
「夜がやってくる前に、お心を固めておいてくだせえ。俺たちにとっても、ここが生きるか死ぬかの瀬戸際なんです。正しいご判断をお願いしやすよ、隊長殿」
ドンティが立ち上がると、ギリル=ザザもそれにならった。
二人を見送るべく、メナ=ファムも立ち上がる。エルヴィルは壁にもたれたまま、無言であった。
「それじゃあ、またのちほど――」
と、ドンティが言いかけたとき、荷台の扉が外から開け放たれた。
そこに浮かびあがった兵士たちの姿に、メナ=ファムは鋭く息を呑む。それはゼラド軍の兵士たちであり、しかも扉を開けたのは、ひときわ立派な甲冑を纏ったラギスであったのだ。
「ふむ。この両名は決して王子殿下に近づけぬようにと、俺はそのように命じたはずだな」
兜の面頬に半ば隠されたラギスの顔には、猛々しい笑みが浮かべられていた。黒い双眸は、火のように燃えている。
「どうして俺の命令に背いたのか、釈明してもらおう。納得のいく答えを準備できなかったときは……わかっているであろうな、エルヴィルよ?」