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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
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Ⅳ-Ⅳ 疫神ムスィクヮ

2019.2/2 更新分 1/1

「ラナ……お前は、まぶたを閉ざしていろ」


 闇の中で、ダリアスはうめくようにそう言ってみせた。

 ダリアスの左腕に抱え込まれたラナは、恐怖にその身を震わせながら、「え……?」と問い返してくる。


「まぶたを閉ざしていろ、と言ったのだ。お前は、あの怪物の姿を見てはならん」


 二人が身を寄せ合っているのは、ダームの大聖堂である。天井では巨大な蝙蝠の妖魅どもがひしめき合い、周囲では屍鬼と化した人間たちがぼんやりと立ち尽くしている。そんなおぞましい空間に、ついに疫神ムスィクヮが現出したのだ。


 堂内は闇に包まれているために、その姿は判然としない。

 しかしそれは、ダリアスたちにとって幸いであった。もしもその姿をはっきりと目にしてしまったら、人間など容易く正気を失ってしまうのではないのか――ダリアスには、そのように思えてならなかったのである。


 ダリアスに判別できるのは、その双眸だけだ。

 他の妖魅どもと同じように、青く燃えあがる禍々しい眼光である。

 しかもその大きさは、ひとつひとつが人間の頭部ほどもあった。このように巨大な目玉を持つこの化け物は、いったいどれほどの巨体であるのか――この広々とした聖堂の半分ぐらいはその巨体で埋め尽くされているように思えてしまった。


 その妖しい双眸と相対しているだけで、背筋に悪寒が這いのぼってくる。

 また実際、堂内の空気も北の地の夜のように凍てついているように感じられた。

 ダリアスたちの身体を包む闇も、それ自体が意識を持っているかのように、ねっとりと纏わりついてくる。そこはもはや、血肉を持つ人間が存在するべきではない、魔性の世界に成り果ててしまっていたのだった。


(本当にここは、ダームの聖堂の中であるのか……? 俺たちは、知らず内に魂を返して、邪神の支配する暗黒の世界に引きずり込まれてしまっているのではないのか……?)


 そんな馬鹿げた妄念が、ダリアスの頭の中に渦巻いている。

 その腕の中にラナの存在がなかったら、ダリアスのほうこそが正気を失っていたのかもしれなかった。


 そんなダリアスを鼓舞するかのように、手の中の刀剣がびりびりと震えている。

 見ると、その刀身の内側に光の奔流が生まれていた。鋼の刀身が透き通り、その内に四種の光が駆け巡っていたのである。


 赤と、青と、黄と、黒――それはすなわち、セルヴァ、マヒュドラ、ジャガル、シムの、四大神を示す色彩であった。

 その中で、赤と黒の色彩が、輝きを増していく。

 やがてはその輝きが外側にまであふれ出て、ダリアスの目を眩ませた。


 赤と黒の輝きが、炎の蛇のごとく螺旋を描いて、刀身にからみつく。

 剣の柄から伝わってくる力の波動が、恐怖よりも強い感情をダリアスにもたらした。


(そうか。怯えているひまがあったら、とっとと自分を使え、ということだな)


 ダリアスは、右腕だけで刀剣を握りなおした。

 左腕でしっかりとラナの身体を抱きすくめながら、おもいきって刀剣を振りおろす。


 赤と黒の輝きが、渦を巻きながら邪神へと襲いかかった。

 闇の中に燃えあがる邪神の右目に、光の槍が突き刺さる。


 とたんに、凄まじい絶叫が響きわたった。

 人間の耳では判別しきれない、鳴動のごとき絶叫である。煉瓦造りの壁がみしみしと軋んで、いまにも崩落してしまいそうだった。


(本当に、この剣は……邪神をも退ける力を備えているのだな)


 唇を噛みしめるダリアスの胸に、重たい感覚がずしりとのしかかってくる。

 それは、神をも弑する力を得てしまった人間の、覚悟を問う重みであるように感じられた。


 疫神ムスィクヮは、闇の中で狂乱している。

 それに呼応して、天井の妖魅どもも騒ぎ始めていた。錆びた鉄をこすり合わせているような声をあげながら、闇の中をばさばさと飛来している。黒い巨大な影と青い眼光が、高い位置でせわしなく行き交っていた。


「滅べ、邪神よ! 貴様は四大神の子となることを拒んだ、許されざるべき存在だ! この地に、貴様たちの居場所はない!」


 ダリアスは、再び刀剣を振りおろした。

 新たな斬撃が、邪神の顔面をえぐる。魔を清めるセルヴァの炎が、風神シムの黒き翼によって届けられているのだ。邪神は憤激の雄叫びをほとばしらせながら、闇の中で巨体をうねらせているようだった。


 敵意と悪意に燃え上がる邪神の目が、ダリアスを見る。

 その目が、ふいに大きさを増した。

 邪神が、頭からダリアスに突っ込んできたのだ。


 ダリアスは、その身の力をすべて振り絞り、刀剣を振り上げた。

 これまで以上の輝きが、刀身を包んでいる。

 そうして、ダリアスが刀剣を振りおろそうとした瞬間――赤と黒の輝きが、ほんの一瞬だけ、闇の中に邪神の姿を照らし出した。


 やはり、途方もなく巨大で醜悪な姿である。

 巨大な鼠の胴体に、巨大な蝙蝠の翼が生えている。そして、その顔は――


 その顔は、巨大な人間のそれであった。

 右目と額に傷を負って、凄絶なる怒りに引き歪む、醜い人間の顔である。

 しかもそれは、赤子のような造作をしていた。

 まるで生まれたての赤子のように、顔中が皺くちゃで、頭にはまばらな毛髪が生えている。そんな巨大な赤子の顔が、左目に青い眼光を燃やし、こまかい牙の生えそろった口を大きく開けて、ダリアスに襲いかかってきていたのだ。


 ダリアスは今度こそ、我を失うほどの恐怖に心臓をつかまれていた。

 その手にラナと聖剣がなかったら、幼子のように悲鳴をあげていたかもしれなかった。

 何がそれほどに恐ろしいかといえば――ダリアスの頭よりも大きなその目玉には、まぎれもなく知性と意思が備わっていたのである。

 これほどに醜悪で、おぞましい怪物が、人間をも超越した高い知性と、激烈なる意思を備え持っている。その事実が、ダリアスを戦慄させていたのだった。


(西方神よ、お守りを――!)


 ダリアスは半ば無意識に、刀剣を振りおろしていた。

 そこから生まれ出た漆黒と深紅の光の奔流が、邪神の顔のど真ん中に吸い込まれていく。

 螺旋の形にもつれあう光の槍は、平たく潰れた赤子の鼻を突き破り、頭の後ろから突き抜けていった。


 さきほどとは比較にならぬ絶叫が、堂内に響きわたる。

 比喩でなく大地が鳴動し、まともに立っていられないほどであった。ダリアスはラナの身体を抱きすくめながら、その場に膝をつくことになった。


 大きな聖堂が嵐に見舞われたかのように揺さぶられ、ぱらぱらと砂塵をこぼしてくる。ラナのあげたかぼそい悲鳴は、邪神の断末魔にかき消されていた。


 そこに、ひと筋の光が差す。

 屋根の一部が崩れ落ちて、そこから日の光が差し込んだのだ。

 その光に呼ばれるようにして、ダリアスは面を上げた。


 世界が、静まりかえっている。

 邪神の巨体は、その場から消え失せていた。

 天井を見上げても、そこに妖魅どもの姿はない。ただ、床には魂を返した人間たちの屍が累々と横たわっていた。


「ラナ……危地は脱せたようだ」


 ダリアスが声をかけると、ラナが力なく顔をあげた。

 その顔は、死人のように色を失ってしまっている。しかし、瞳にだけは明るい生気の光が灯っていた。


「ああ、ダリアス様、よくぞご無事で……」


「大事ない。ラナがかたわらにいてくれたからな」


 ラナは、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「わたしなど、何のお役にも立ってはいません。ダリアス様のお手をわずらわせるばかりで……」


「いや。ラナがいてくれたからこそ、俺は自分の仕事を果たすことができたのだ。理屈はわからんが、それは確かなことであると思うぞ」


 ダリアスが微笑みかけると、ラナの瞳はいっそう明るくきらめいた。

 そこに、不吉なる声音が響きわたる。


「ふむ……本当に疫神ムスィクヮを滅してしまうとはな……貴様の力を、いささかならず見誤っていたようだ……」


 ダリアスは、鋭く視線を走らせた。

 しかし、聖堂の中に動くものの姿はない。


「まだこの場に留まっていたか! 姿を見せよ! この場で斬り伏せてくれる!」


「だから、それはかなわぬと言うたはず……我は王都にて、ゆるりとくつろいでおるのだからな……」


 枯れ枝を揺らす夜の風じみた声で、その何者かは笑っていた。


「しかしまさか、四大神の力を封じた刀剣などを手にしているとはな……どれほどの妖魅を送りつけても、貴様の前では無力ということか……どこの誰がそのようなものを授けたのかはわからぬが、まったく厄介なことをしてくれたものだ……」


「恐れをなしたのなら、王国から去るがいい! この大陸アムスホルンは、我ら四大神の子のものだ!」


「たわけたことを……貴様たちなど、簒奪者の末裔に過ぎん……この地は我ら大神の民のもの……」


「それは違うな。貴様たちは、大神の民ですらない。父なる四大神を捨て、大神アムスホルンの眠りを妨げようという不埒者……それが、《まつろわぬ民》の正体であるのであろうが?」


 闇の中に、さらなる笑い声が響く。


「貴様がどれほど意気込もうとも、すでに《神の器》は目覚め始めている……その剣で、大神の眷族を斬ることはできても、《神の器》を斬ることはできんぞ……貴様たちは、大神の供物として滅ぶ運命にあるのだ……」


「運命など、この手で切り開いてみせよう。貴様の益体もない野望ごとな」


 笑い声が、風に吹かれるように遠ざかっていった。

 ダリアスはしばらく周囲の気配をうかがってから、ラナとともに立ち上がる。


「どうやら、去ったようだな。あれがトゥリハラの言っていた《まつろわぬ民》というやつであるのだろう」


「は、はい……そ、それは王都に潜んでいるのでしょうか……?」


「どうだかな。虚言で俺たちを惑わせているだけかもしれんが……何にせよ、やはり俺たちは王都に向かうべきであるのだろう」


 多くの屍が横たわる堂内を見回しながら、ダリアスはそのようにつぶやいた。


(西方神の加護を打ち破らない限り、妖魅がこの世に現出することはかなわぬはずだと、フゥライ殿は言っていた。そのために、敵はこの聖堂を支配したのだろう、と……ならば、王都の大聖堂が敵の手に落ちたら、あちらでも邪神を現出させることができるようになってしまう、ということではないか)


 しかも、城下町においてはすでに妖魅が現出したのだと、レイフォンからの伝書には記されていた。

 なおかつ、大聖堂を管理しているのは、敵方と目されている神官長バウファであるのだ。いますぐにでも伝書を飛ばして、大聖堂の様子を確認させなければならなかった。


「よし、行くぞ。港町の騒ぎが収まったようならば、公爵邸に戻らねばならん。……歩けるか、ラナよ?」


「はい」とうなずいてから、ラナは真摯な眼差しでダリアスを見上げてきた。


「どうぞ最後まで、ダリアス様にご一緒させてください。わたしなど、何のお役にも立てはしませんが……ダリアス様と運命をともにしたく思います」


「またそれか。ラナはそうしてかたわらにいてくれるだけで、俺の力になっているのだぞ」


 邪神をも退けるほどの力を振るいながら、ダリアスの身体には何の異常も見られなかった。むしろ、普段以上に力がみなぎっているかのようであるのだ。


(俺が刀で、ラナが鞘か……フゥライ殿の言葉は、まぎれもない真実であったのかもしれんな)


 そのように考えながら、ダリアスはラナとともに、聖堂の扉へと足を向けた。

 ちょうどその頃、王都においては、審問の場においてジョルアンが毒殺されたところであったのだが――魔術師ならぬダリアスに、そのようなことをうかがい知るすべはなかった。

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