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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
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Ⅴ-Ⅲ 正しき道

2019.1/5 更新分 1/1

 闇の中、肉体の自由を奪われた状態で、メナ=ファムは呆然と立ちすくんでいた。

 メナ=ファムの身体は背後から逞しい腕に抱きすくめられて、口をふさがれている。そんな無法な真似に及んでいるのは、新参者のギリルである。そうしてこの化け物じみた力と不思議な雰囲気を持つ若者は、メナ=ファムの耳に信じ難い言葉を吹き込んできたのだった。


(こいつが、ロアの同志……? そんな馬鹿なことが、あるもんか! 口からでまかせに決まってる!)


 しかしそれならば、どうしてギリルがロア=ファムの名を知っているのか。メナ=ファムは、得体の知れない情動に衝き動かされて、再び身体をよじろうとした。

 だが、やはりギリルの腕はびくともしない。屈強の狩人であるメナ=ファムが、かよわい町娘のように身体の自由を奪われてしまっていた。


「頼むから、暴れるな。どうか俺の言葉を信じてくれ」


 ギリルがまた低い声で囁きかけてくる。

 しかし、このような不埒者を信じられるはずがなかった。そもそもこのギリルは、口をきけないという触れ込みで、旗本隊に入隊したのである。いったいどのような目論見があったのかはわからないが、彼は最初の最初からメナ=ファムたちをあざむいていたのだ。


(やっぱり、狙いはシルファなのか……? でも、どうしてロアの名を知ってるんだ? まさか、こいつら……あたしの集落を襲ったのか?)


 そんな風に考えると、怒りで頭の奥が痺れてしまいそうだった。

 そんなメナ=ファムの耳もとで響くギリルの声が、苦笑の気配をおびる。


「お前はものすごい怪力であるのだな。気を抜いたら、いまにも逃げられてしまいそうだ。俺の故郷でも、お前にように力の強い女衆はそうそういないように思うぞ」


「…………ッ!」


「わかった。証拠の品を見せる。ちょっと窮屈だろうが、こらえてくれよ」


 背後からつかまれていたメナ=ファムの右手首が、ふいに解放された。しかし、今度は右腕ごと胴体をぎゅうぎゅうと締めあげられてしまい、呼吸さえもが苦しくなってしまう。どうやらギリルはメナ=ファムの身体を抱きすくめたまま、自分の腰の物入れをまさぐっているようだった。


「そら、これが証拠の品だ。見覚えがあるであろう?」


 メナ=ファムの目の前に、小さな赤と白の色彩が揺れた。

 大鰐の牙に穴を空けて、そこに赤い髪の毛を結びつけた、護符である。メナ=ファムの故郷であるシャーリの集落では、血を分けた家族にこういった護符を贈る習わしが存在するのだ。


 人間の親指ぐらいの大きさをした牙に、赤い髪の毛がぐるぐると巻きつけられている。

 それは、メナ=ファム自身の髪の毛であった。

 メナ=ファムが、ただひとりの家族であるロア=ファムに贈った護符であるのだ。


「どうだ? これで、俺の言葉を――」


 ギリルがそのように言いかけた瞬間、メナ=ファムは渾身の力で身をもぎ離した。メナ=ファムに護符を見せるために、ギリルの腕が上のほうに持ち上げられて、胴体を圧迫する力が弱められていたのだ。


 ようやく自由を得たメナ=ファムは、すかさずギリルのほうに向きなおって、刀の柄に手をかける。指先で小さな護符をつまんだギリルは、月明かりの下で苦笑していた。


「油断したな。しかし、大声をあげずにいてくれて、ありがたく思っている」


「仲間連中を呼びつけるのは、あたしの話が終わった後だ。……あんた、ロアに何をした? ロアを殺して、その護符を奪ったのか?」


 メナ=ファムの内には、自制しようのない怒りの炎が吹き荒れていた。

 一対一ではギリルにかなうはずがないのに、自分を抑えることができない。もしもこの男が大事な弟の生命を奪ったのであれば――この身にかえても仇を討つ覚悟であった。


「俺はロア=ファムの同志であり友であると言っただろうが? これは、お前が俺の言葉を信じてくれるようにと願って、ロア=ファムが託してくれたのだ」


「そんな言葉は、とうてい信じられないね。あたしたちシャーリの狩人は、余所の人間を簡単に同志だなんて認めたりはしないんだよ」


「しかしお前も、カノン王子を名乗る者やエルヴィルという者を、同志だと認めたのではないのか? そうだからこそ、あやつらと行動をともにしているのであろう?」


 ギリルは護符をつまんだまま、自分の刀に手をのばそうともしない。その面には、ふれぶてしいまでに落ち着き払った笑みが浮かべられていた。


「では、ロア=ファムからの伝言も伝えよう。……この馬鹿姉貴、黙ってギリル=ザザとドンティの言葉を聞け。父との約定を踏みにじるつもりなら、お前が泣くまで尻を蹴っ飛ばしてやるぞ、だとさ」


「父との約定……?」


「黒の月の十四日を思い出せ、と言っていたな」


 メナ=ファムは、再び愕然と立ちすくむことになった。

 黒の月の十四日――それは、メナ=ファムたちの父親が魂を返した日であった。シャーリの大鰐に肩を噛まれた父親は、家で手当をされても力を取り戻すことがかなわず、メナ=ファムとロア=ファムに見守られながら、静かに息を引き取ったのである。


「お前たちは、父の分まで狩人としての仕事を果たしてみせると、約定を交わしたのだろう? だったら、故郷に帰るべきではないのか?」


「あんたは……あんたはいったい、何なんだ? ロアのやつが、そんな話をうかうかと余人にもらすはずがない」


「だから、同志であり友であるのだ。顔を突き合わせた時間はさほど長くもないかもしれんが、俺はあいつを気に入っていたし、あいつも俺を信用してくれたのだろう。……生まれた場所は違えども、同じ狩人であることだしな」


 そう言って、ギリルはいっそうふてぶてしく笑った。

 最前まで見せていた悲しげな様子など、綺麗に消えてしまっている。それは、不敵で魅力的な笑顔であった。


「ドンティは俺がダバッグの生まれであるなどと言っていたが、あれは虚言だ。俺はダバッグの向こう側にあるジェノスの領土、モルガの森辺に生を受けた。ギバを狩る森辺の狩人、ザザ家の末弟ギリル=ザザだ」


「モルガの森辺……森辺の民?」


「うむ。それと同時に、ジェノス侯爵家の第一子息、メルセウスの護衛役でもある。俺は主人の命令で、わざわざこのような場にまで出向いてきたのだ」


 そのとき、新たな人間の気配が近づいてきた。

 メナ=ファムは慌ててそちらに向きなおったが、ギリル――いや、森辺の狩人ギリル=ザザは「大丈夫だ」と声をあげる。


「この気配は、ドンティだ。俺がいつまでも戻らないので、心配になったのだろう」


 足もとで眠るトトスたちの間をすり抜けて、小柄な人影がひょこひょこと近づいてくる。ギリル=ザザの言葉通り、それは彼の相棒であるドンティであった。刀に手をかけてギリル=ザザと対峙するメナ=ファムの姿に気づいたのか、その目がぎょっとしたように見開かれる。


「ど、どうしやした? ギリルが、何か粗相でも?」


「案ずるな。いま、俺たちが敵ではないと説明していたところだ」


 ギリル=ザザが答えると、ドンティはいっそう驚愕した様子で矮躯を強ばらせる。


「そ、それじゃあ、正体を明かしちまったんですかい? 説得の役は、俺が引き受けるって話だったでしょう?」


「悪いな。俺はもう、偽りの中に身を置いておくことに耐えられなくなってしまったのだ。どのみち、エルヴィルなる者と言葉を交わすことがかなわないなら、このメナ=ファムと絆を結ぶのが一番であろう?」


 ドンティは、闇の中でがっくりと肩を落としていた。

 その姿を、メナ=ファムはおもいきりにらみつけてみせる。


「やっぱりあんたたちは、何かたくらみがあって王子殿下に近づいてきたんだね? いくらこいつがたいそうな剣士だとしても、数万のゼラド軍を相手にしたら、勝ち目はないよ?」


「お、お待ちくださいな、姉上殿。確かに俺たちは、あれこれ偽りを述べていましたけれど……それもみんな、王国の平和とあんたの無事を願うゆえなんでさあね」


「……あたしの無事?」


「うむ」と応じたのは、ギリル=ザザであった。


「俺やドンティの主人たちは、王国の平和を願っている。しかし、ロア=ファムが願っているのは、お前を救い出すことだ。俺などは、主人の命令が半分で、もう半分はロア=ファムのために動いているようなものだな」


「意味がわからないね。あんたたちは、けっきょく何をたくらんでやがるのさ?」


「俺たちの目的は、ゼラドの軍から偽王子を引き離して、この戦を止めることだ。そうすれば、王国の平和とお前の行く末は、同時に守られることになる」


 その後は、ドンティが引き継いで説明した。

 いわく――王都の一部の貴族たちは、何とかゼラドとの全面的な戦を回避したいと願っている。そのためには、カノン王子を名乗る謎の人物を、ゼラドの軍から奪い取る必要がある。その大役を果たすために、ロア=ファムが使者として派遣された――との話であった。


「しかしロア=ファムは、妖魅に襲われて手傷を負い、旅を続けることが難しい身体になってしまった。その代わりとして、俺とドンティがここまで駆けつけてきた、というわけだ」


 ギリル=ザザが、最後にそう締めくくった。

 腰の刀に手を置いたまま、メナ=ファムは険しく眉をひそめてみせる。


「まだわけがわからないね。どうしてロアのやつが、そんな大役を果たすことになったのさ? こんな馬鹿げた騒ぎとあいつには、何の関係もないはずだろ?」


「だからそれは、お前を救うためであるのだ。お前が偽王子に加担したたために、あいつは罪人として王都にまで引っ立てられることになった。しかし、お前が偽王子を説得して、ゼラドの軍から引き離すことができれば、姉弟ともども罪は許される、という話であるらしいぞ」


 メナ=ファムは、頭を殴られたような衝撃を受けた。


「ちょ、ちょっと待ちなよ。そもそも、どうしてあいつが罪人あつかいされなきゃいけないのさ? あいつは大人しく、シャーリで狩人としての仕事を果たしていたはずだろ?」


「お前たちをゼラド軍に奪われてしまった王都の軍の指揮官が、腹いせとしてロア=ファムを王都に連れ帰ったのだという話であったな。それを救ったのが、このドンティの主人であるレイフォンという貴族であるらしいぞ」


 ギリル=ザザの言葉に、メナ=ファムはぎりっと奥歯を噛み鳴らした。


「だったらそのまま、シャーリに帰してやりゃあいいじゃないか? どうしてあいつを、こんな馬鹿げた騒ぎに巻き込むのさ?」


「他の貴族連中は、いまでもロア=ファムを罪人として処断するべきだと言い張ってるそうでやすよ。だからレイフォン様は、ロア=ファムを救うための道筋を準備してくれたんでさあ」


「うむ。それに、ロア=ファムの身にもなってみろ。お前が同じ立場であったら、のうのうと故郷に戻る気持ちになれるのか? 自分の行いひとつで、血を分けた家族の罪が許されるのなら、何としてでも大役を果たそうとするのではないのか?」


 ギリル=ザザの目が、ふいに厳しい輝きを帯びた。


「俺が同じ立場であれば、ロア=ファムと同じように振る舞うだろう。だから俺は、あいつを好ましく思っているのだ。お前があいつと同じ魂を持っていることを、俺は心から願っているぞ、メナ=ファムよ」


 それまるで、心の奥底にまで食い入ってくるような眼光であった。

 大事な弟をこのような騒ぎに巻き込んだのは、メナ=ファム自身に他ならないのだ。それが理解できないなら、お前に姉を名乗る資格はない――と、言外に糾弾されている心地であった。


 メナ=ファムは刀の柄から手を離し、かたわらの樹木にもたれかかる。

 脳裏には、ロア=ファムのぶすっとした顔が浮かんでいた。あの小生意気で可愛らしい弟の運命を、メナ=ファムが大きく歪めてしまったのだ。ギリル=ザザに糾弾されるまでもなく、メナ=ファムの心は強い悔恨に苛まれていた。


「苦しいか? ならばそれが、お前の罪に対する罰だ。お前は他者を救うために、家族の存在をないがしろにした。森辺においても、それは大きな罪とされている」


 ギリル=ザザの声が、近づいてきた。

 メナ=ファムが顔をあげると、思いも寄らぬほど優しげな笑みをたたえたギリル=ザザの顔が、自分を見下ろしている。さきほどの眼光が嘘のように、その眼差しには慈愛の光が宿されていた。


「それだけの罪を犯したのだから、お前はさぞかし苦しい思いであることだろう。……しかし、すべてを失ってしまったわけではない。お前のために大きな苦難を背負い込むことになったロア=ファムのためにも、今度はお前が力を尽くして、正しき運命を取り戻すのだ」


「でも……でも、あたしは王子殿下を見捨てることはできない。そのために、あたしは故郷をも捨てたんだ」


「ふむ。しかし、そやつは偽物の王子であるのだろう? そのような虚言を吐く人間と、家族を引き換えにできるのか?」


「それはだから、こっちにも事情が……」


 そのように言いかけて、メナ=ファムは強い疑念にとらわれた。


「……ちょっと待っておくれよ。あんたは最初から、王子殿下が偽物だと言いたててたよね。どうしてそんな風に決めつけることができるんだい?」


「うむ? 俺はそやつが偽物であると聞いているぞ。たしか……本物の王子は、どこか別の場所で生きながらえている公算が高い、という話ではなかったか?」


 ギリル=ザザが目を向けると、ドンティが「ええ」とうなずいた。


「俺がレイフォン様から受け取った書状にも、そのように記されておりやしたね。どこに隠れているのかはわからないが、本物の王子は生きながらえている……そして、ゼラド軍と手を組んだ人間は偽物であるに違いないと、そんな風に記されておりやしたよ」


「……そいつは何か、証のある話なのかい?」


「いえ。ですが、レイフォン様ってのはセルヴァで一番の知略家なんでやすよ。そのレイフォン様がそんな風に言い切るからには、よっぽどの確信があるんでしょう」


 そんな風に述べながら、ドンティは胸もとをまさぐった。そこから取り出されたのは、一通の封書である。


「それについては、一切合切がここに記されているはずでやす。レイフォン様からエルヴィルって御方に宛てられた、大事な大事な手紙でやすね。俺たちの役目は、こいつをエルヴィルって御方に渡すことだったんでさあ」


「……そのレイフォンってやつは、あたしたちを騙して戦を止めようとしてるだけなんじゃないのかい?」


「いえいえ。もしもこの場にいる王子殿下が本物であるのなら、こんな手紙は何の意味もなさないでしょう。レイフォン様は、ゼラドの王子殿下が偽物であると見越した上で、こいつを書き上げたんでしょうからね」


 そう言って、ドンティはにたりと微笑んだ。


「で……あんたがその偽王子を大事に思っているなら、やっぱりレイフォン様こそが救いの神になるはずでございやすよ?」


「……それは、どういう意味なんだい?」


「だって、本物の王子殿下が生きながらえていたら、大変な騒ぎになっちまうでしょう? あんたがたは、王国とゼラドの両方をたばかった大罪人ってことになっちまうんでやすよ。そんな剣呑な事態に陥る前に、一刻も早くこんな場所からは逃げ出すべきなんじゃないでしょうかねえ?」


 メナ=ファムは気力をかき集めて、ドンティの姿をにらみ返してみせた。


「やっぱりあたしは、そのレイフォンってやつに誑かされてる気になってきちまうね。どこか別の場所にカノン王子を名乗る人間が現れたとしても、そっちのほうこそ偽物かもしれないじゃないか?」


「偽物と本物の区別をつけるのは、簡単です。恐れ多きことながら、裸にひんむいちまえばいいんですからねえ。本物のカノン王子ってのは、半陰陽っていう珍しいお身体をしてらっしゃるんでしょう?」


 メナ=ファムは、思わず息を呑むことになった。

 確かにエルヴィルも、そのようなことを述べていたのだ。だから、女であるシルファがカノン王子を演じることもできるのだ、と。


「それにですね、カノン王子が生きているなら、一緒に姿を消しちまったヴァルダヌスって将軍様も、生きている公算が高い。そうしたら、エルヴィルって御方がこんな真似をする必要もなくなるはずだと、そんな風にも聞いておりやすよ」


「ヴァルダヌスっていうのは……エルヴィルの主人だったってやつのことだね。そいつも、生きてるっていうのかい?」


「あくまで、可能性の話でやすけどね。でも、レイフォン様はそんな風に確信しているご様子でありやすよ」


 メナ=ファムは、新たな衝撃に打ちのめされることになった。

 本物のカノン王子とヴァルダヌスが生きながらえているならば、エルヴィルの計略は根底からくつがえされてしまうのだ。それにエルヴィルは、見当違いの復讐心にとらわれて、王国に刀を向けることになる。そのような事態に陥れば、待っているのは破滅だけだった。


「あんたは……あんたはどう考えてるんだい、ギリル=ザザ?」


 メナ=ファムが呼びかけると、ギリル=ザザはけげんそうに首を傾げた。


「難しい話は、よくわからん。しかし、俺の主人や同胞は、たいそう頭が回るのでな。そいつらも、レイフォンという貴族の言葉は真実であると信じているようだから、まあ間違ってはいないのであろうよ」


「そんな言葉じゃ、納得できない。あたしは、あんたの気持ちを知りたいんだ」


 メナ=ファムは半ば無意識のままに、ギリル=ザザの胸ぐらをひっつかんでしまった。

 ギリル=ザザであれば、その手をかわすことなど造作もなかっただろう。しかし、ギリル=ザザは微動だにせず、メナ=ファムの好きにさせていた。


「あんたの言葉なら、信じることができる。あんたは確かに、立派な狩人だ。あたしの故郷にだって、あんたみたいに立派な狩人はそうそういないに違いない。あんたの言葉は、故郷の同胞の言葉と同じぐらい、あたしの心に真っ直ぐ突き刺さってくるんだよ」


「うむ。俺もお前に、同胞めいた魂を感じていた。それを、とても好ましく思っているぞ」


 ギリル=ザザは、にやりと笑った。

 とてもふてぶてしい笑みであるのに、その瞳にはとても優しげな光が灯されている。メナ=ファムの心を苛んでいる恐れも、疑念も、惑乱も、すべてこのギリル=ザザには筒抜けであるのだろう。その上で、彼はこのように優しげな眼差しを向けてくれているのだ。


「あんたのことなら、信じることができる。頼むから、あんたの気持ちを教えておくれよ」


「だから、さっきも言ったろう。俺は、俺の主人と同胞を信じている。だから、迷うことなく、自分の仕事を果たすことができるのだ」


「あんたは本当に、迷ってないのかい? だったらどうして、さっきはあんな目つきをしていたのさ?」


 ギリル=ザザはこの雑木林で、とても悲しげな横顔を見せていた。そしてその瞳は、闇夜に浮かびあがるゼラド軍の野営の火を見つめていたのだ。

 ギリル=ザザは、豪放で、ふてぶてしく、そして優しかった。この短い時間で、メナ=ファムはそのように確信することができた。そんな中で、さきほどの悲しげな眼差しだけが、このギリル=ザザには似合わない。その秘密を解くことさえできれば、メナ=ファムはギリル=ザザのことを心から信じられるような気がした。


「……ふん。あのときは、俺も自分の思いにとらわれて、お前の気配に気づくことができなかった。余人にあんな姿をさらしてしまったのは、気恥ずかしい限りだぞ」


「いいから、答えなよ。あんただって、何かに迷っているから、あんな目つきになってたんじゃないのかい?」


「違うな。俺はただ、自分の罪と向き合っていただけだ。その上で、自分の仕事を果たしてやろうと、覚悟を固めていたのだ」


 胸ぐらをつかんだメナ=ファムの手に、ギリル=ザザの手がそっと重ねられた。

 それは、とても温かくて、力強い手であった。


「昨晩、ゼラド軍やお前たちを襲った、屍の妖魅ども……あれは、俺とドンティがけしかけたものであったのだ」


「……そいつは、どういう意味なんだい?」


「そのままの意味だ。ロア=ファムは、妖魅に襲われて手傷を負ったのだと言ったろう? あの妖魅どもは、もともと俺たちをつけ狙っていたのだ」


 ギリル=ザザの優しげな瞳に、淡い陰が落ちている。

 それこそが、さきほども見せていた悲哀の証であった。


「妖魅どもに追われていた俺たちは、そのままゼラドの軍に突っ込んだ。その騒乱にまぎれて、偽王子のもとに近づこうという算段であったのだ。俺たちにとって、それはやむをえない行いであったのだが……そのために、大勢の人間が傷つき、魂を返すことになった。それらはすべて、俺たちが刀をふるって斬り殺したも同然だ」


「だけど、それは……」


「ああ。ゼラドというのは、王国の敵だ。敵国の兵士をどれだけ傷つけても、罪に問われることはない。しかし……それでも俺は、大勢の人間を殺めてしまった。たとえ王国の法に許された行いであったとしても、その罪を罪と感じないような人間にはなりたくないのだ」


 メナ=ファムの手を握ったギリル=ザザの手に、わずかな力が込められる。

 その指先から、ギリル=ザザの真情が流れ込んでくるかのようだった。


「俺はこの魂を森と神に返すその日まで、昨夜の罪を忘れないだろう。……その上で、王国の民としての使命を果たす。そんな風に、誓いを立てていただけのことだ。俺は決して、迷っても嘆いてもいない。主人と同胞の信ずる道を、ともに歩もうと考えている」


「そうかい」と、メナ=ファムはつぶやいた。

 気を抜くと、涙をこぼしてしまいそうな心地であった。


「あんたはきっと、あたしなんかよりも、よっぽど真っ当な人間なんだろうね。あたしなんて……自分の都合のために家族や故郷をないがしろにした、半端者だからさ」


「人間は、常に正しい道を歩けるとは限らない。しかし、間違った道に足を踏み出してしまったのなら、どのような苦難を背負ってでも、正しき道を探すべきなのだ」


 そんな風に言ってから、ギリル=ザザは子供のように微笑んだ。


「……俺の親父は、そのように言っていた。お前が自分の行いを悔いているのなら、何としてでも正しき道を探すべきなのだと思うぞ」


「べつに、悔いてるわけじゃないよ。あたしには、シルファを見捨てることなんて、できっこないんだからね」


 メナ=ファムは、力ずくで笑顔を作ってみせた。


「だけどあたしは、可愛い弟を見捨てることもできない。あたしの大事な人間たちを、どっちも救ってやらなきゃならないんだ。……そのために、力を貸してくれるかい、ギリル=ザザ?」


「俺たちは、そのためにやってきたのだぞ。まあ、偽物の王子に救う価値があるかどうかは、これから見定めなければならないがな」


 ギリル=ザザはドンティの手から封書をひったくって、それをメナ=ファムに差し出してきた。

 ようやくギリル=ザザの胸もとから手を離したメナ=ファムは、押し抱くようにして、それを受け取る。


「まずは、エルヴィルというやつに、そいつを渡せ。すべては、それからだ」


「承知したよ。あの頑固者が聞く耳をもたなかったら、あたしがこの手でねじふせてやるさ」


 メナ=ファムは、そのように宣言してみせた。

 これでシルファを、嘘と欺瞞で塗り固められた世界から救い出すことができるかもしれない――そのように考えると、メナ=ファムの五体にはこれまで以上の活力が満ちていくかのようだった。

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