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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
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Ⅴ-Ⅱ 真の名

2018.12/1 更新分 1/1

 妖魅に襲撃された日の翌朝、ゼラドの軍は何事もなかったかのように進軍を再開させていた。

 たとえ百名や二百名の同胞を失おうとも、彼らに足を止めることは許されなかったのだ。その陣の中央に据えられたカノン王子直属の旗本部隊も、それは同様であった。


 カノン王子――を名乗るシルファの乗ったトトス車を幾重にも囲んで、旗本部隊の兵士たちは荒野を駆けている。

 その人数は、十五名の同胞を失い、二名の新たな仲間を得て、四十名足らずになっていた。七名の同胞が魂を返し、八名の同胞が深手を負って、軍から離脱することになったのだ。


 深手を負った八名の同胞たちがどのような運命を辿るのか、メナ=ファムたちに知らされることはなかった。ゼラド軍本隊においても百名近い兵士が戦えぬ身体になっていたので、そちらと同じ場所に集められて、それきり音沙汰がなくなってしまったのだ。


「ここはもうセルヴァの領内で、ゼラドの領地までは数日かかります。ここから無事にゼラドまで帰ることなど、できるのでしょうか?」


 車の荷台で揺られながら、シルファがぽつりとつぶやいた。

 そのかたわらに座したメナ=ファムは、「どうだろうね」とぶっきらぼうに答える。


「親切な連中が、ゼラドまで連れ帰ってやるんだったらいいけどさ。大事な戦力を、そんなことに割いてくれるのかね」


「そんなことって……彼らは、自分の足で歩くことも難しいぐらいの深手を負っているのですよ? まさか、置き去りにされたなんてことは……」


「置き去りにされるならまだしも、口封じで殺されてなきゃいいけどね。あいつらがセルヴァの軍にとっ捕まったら、色々と厄介なことになるんだろうしさ」


「そんな……」と、シルファが両手をもみしぼる。

 すると、メナ=ファムたちの足もとに横たわっていたエルヴィルが「案ずるな」と苦しげな声をあげた。肩と背中を負傷したエルヴィルも、今日は同じ車の中で過ごしていたのだ。


「数万から成る軍勢であれば、百名ていどの負傷者を運ぶことは難しくない。決戦の時までに傷が癒えれば、負傷者たちも立派な戦力であるのだから……みすみす見殺しにすることはないだろう」


「ふうん。ゼラドの連中が、あんたぐらい親切だといいんだけどねえ」


「……どの道、俺たちが頭を悩ませても、詮無きことだ」


 力なく横たわったまま、エルヴィルがメナ=ファムをにらみあげてくる。


「お前が王子殿下を不安にさせてどうするのだ、メナ=ファム。お前は王子殿下の心を安らがせるために、そばにあることを望んだのではないのか?」


「ふん。だったらあんたも、こんなときぐらいはシルファを妹あつかいしてやりなよ。そうしたほうが、シルファはよっぽど心が安らぐだろうさ」


「い、いいのです、メナ=ファム。わたしのほうこそ、いつでも気を抜かずにカノン王子として振る舞うべきなのでしょう」


「いーや、違うね! そんな真似してたら、あんたの心が保たないよ! いざってときにきっちり仕事を果たせるように、休めるときは休んでおくもんさ」


 メナ=ファムは、昨晩のシルファの様子が気がかりであったのだった。

 あのように恐ろしい目にあいながら、夢見るような眼差しで「これが正しい世界の在りようなのかもしれない」などと言いだした、あのシルファの様子が脳裏に焼きついて離れないのである。


「これだけやかましい車の中だったら、話を盗み聞きされる心配もないだろ? こんなときぐらい、シルファの兄として振る舞いな!」


「……俺はそのように、ころころと態度を変えられるほど器用ではないのだ」


 仏頂面で応じつつ、それでもエルヴィルはいくぶん気がかりそうにシルファのほうを見ていた。

 シルファは弱々しげに微笑みつつ、エルヴィルの姿を見返している。


 いかに母が異なるとはいえ、まったく似ていない兄妹であった。

 歴戦の勇士であり、鍛えぬかれた体躯をしたエルヴィルと、おとぎ話の妖精のようにはかなげなシルファであるのだ。外見ばかりでなく、中身のほうも似たところなどはひとつもないように思われてならなかった。


(ま、唯一似てるとしたら、どっちも頑固者ってところかね)


 そんな風に考えながら、メナ=ファムはエルヴィルの顔を覗き込んだ。


「ところでさ、あんたはあいつらのことをどう思っているんだい?」


「あいつらとは……ドンティにギリルとかいう、新参者たちのことだな?」


「当たり前だろ。それ以外に、誰がいるってのさ」


「……あいつらは、いかにも怪しげだな。ラギスが王都からの刺客と疑うのも当然の話だ」


 そう言って、エルヴィルは両目に物騒な光をちらつかせた。


「だいたい、あのギリルというやつのほうは、傭兵にしては腕が立ちすぎる。あれだけの腕を持っていれば、どこかの領主に召し抱えられているはずだ」


 トトスから振り落とされたエルヴィルも、ギリルが一刀のもとにカロンの妖魅を斬り伏せた姿は目にしているのだ。

 それに、自らも剣士であるのなら、ギリルの尋常ならざる力量を肌身に感じないはずがなかった。


「あいつは決して、王子殿下に近づけるな。いざとなったら……寝込みを襲ってでも、俺が処分する」


「そいつは、あんまりいい考えとは言えないねえ。ああいう手合いは、誰よりも気配に敏感なもんだよ」


 頭をかき回しながら、メナ=ファムはそのように答えてみせた。


「なんか、あいつを見てると、故郷の狩人たちを思い出しちまうんだよね。あたしの故郷にだって、あれほどの手練はいなかったけど……剣士というよりは、狩人みたいな気配を感じるのさ」


「狩人か……確かにあいつは、お前と似た気配を持っているように感じられるな」


「よしとくれよ。あんな化け物みたいな力を持ってたら、あたしだって苦労はしないさ」


「何にせよ、あいつらの動向から目を離すな。俺の身体がまともに動くようになるまでは、お前があいつらの動向を探るのだ」


「ふん。それであたしが、どこか人目のつかないところでくたばったら、そいつはあのギリルってやつの仕業に違いないよ」


 すると、プルートゥの頭を撫でていたシルファが、心配げな面持ちでメナ=ファムに身を寄せてきた。


「そんな不吉なことを仰らないでください、メナ=ファム。……きっとあの者たちは、そんな悪逆な真似はしないと思います」


「へえ? どうしてそんな風に思うんだい?」


「それは……実はわたしも、あのギリルという者にはメナ=ファムと似たものを感じていたのです」


 そう言って、シルファは窓から差し込む月光のような微笑みをたたえた。


「とても力強いところもそうですが、それよりも、あの眼差し……とても澄みわたっていて、真っ直ぐに人を見るあの眼差しが、メナ=ファムと似ているように思えるのです」


「あんた……まさか、あのギリルってやつに懸想してるんじゃないだろうね?」


 シルファは「まさか」と目を細めて笑った。

 そうすると、とたんに無邪気な表情になる。


「わたしがあの者を好ましく思うのは、メナ=ファムに似ているからです。懸想というなら、それはメナ=ファムに向ける気持ちのほうが近いものであるはずです」


「女同士で、馬鹿なことを言うもんじゃないよ」


 ぶっきらぼうに応じながら、メナ=ファムの胸には温かい気持ちが生まれていた。

 そのとき、車がゆるやかに動きを止めた。


「四半刻、休憩です」と、御者台のほうからラムルエルが告げてくる。

 メナ=ファムは「やれやれ」と言いながら両腕を頭上にのばした。


「休憩って言っても、あいつらがいるから迂闊に外の空気も吸えないね。ま、尻が痛まないだけ、少しはマシか」


 しかし、この時間は盗み聞きを用心しなくてはならないので、シルファにとってはむしろ心が休まらない。シルファは静かに微笑みながら、無言でプルートゥの頭を撫でていた。


「エルヴィル、いまのうちに水でも飲んでおくかい? 寝そべったままじゃあ、水も飲めなかったろ?」


「ああ」と応じながら身を起こそうとしたエルヴィルは、とたんに苦痛に顔をしかめた。

 メナ=ファムは肩をすくめつつ、エルヴィルのかたわらに屈み込む。


「傷が痛むなら、そう言いなよ。まったく、世話の焼ける兄妹だね」


「おい、メナ=ファム」


「うるさいね。いちいち文句をつけるんじゃないよ」


 メナ=ファムはエルヴィルの首に後ろに手を差し込んで、身を起こすのを助けてやった。

 その間に水筒を取り出したシルファが、エルヴィルのほうにそれを差しのべる。


「ありがとうございます、王子殿下」


 エルヴィルは、咽喉を鳴らして水筒の水を飲んだ。

 ずいぶん背中が痛むようだが、骨にまで異常がないことは確かめられている。エルヴィルぐらい鍛えた人間であれば、明日か明後日には元の力を取り戻せるだろう。


(だけど、あんな怪しげな連中をそばに置いたまま、セルヴァとの戦をおっぱじめるのは、気が進まないね)


 メナ=ファムがそのように考えたとき、車の外から喧騒の気配が伝わってきた。

 何やら、兵士同士で文句を言い合っている様子である。メナ=ファムは腰の刀に指先を添えつつ、扉のほうに歩を進めた。


「ちょいと様子を見てくるよ。あんたたちは、大人しくしておきな」


 扉を細く開いて外の様子を覗き見ると、白銀の甲冑を纏った兵士たちの背中が見えた。

 そしてその肩ごしに、ギリルの浅黒い顔も見える。その目が一瞬だけ自分のほうに向けられたことを、メナ=ファムは見逃さなかった。


(ほうら、気配に敏感だ。ますます狩人じみてるね)


 メナ=ファムは迷ったが、意を決して扉を開けることにした。

 ただし、すぐさま地面に降りて、扉はぴたりと閉めさせてもらう。すると、こちらに背中を向けていた兵士のひとりが、メナ=ファムを振り返ってきた。


「ああ、騒がしくして悪かったな。王子殿下にもご容赦いただけるよう、伝えておいてくれ」


「いいけどさ。いったい何を騒いでたんだい?」


「……この新参者どもの聞き分けが悪くてな」


 メナ=ファムが進み出ると、荷台を守るように立ちはだかっていた兵士たちが左右に分かれた。

 ギリルの姿があらわになり、そのかたわらには相棒のドンティも控えている。こちらは小柄な男であったので、兵士たちの姿に隠されていたのだ。


「ああ、これはこれは……昨晩も挨拶をさせていただきやしたね。新参の、ドンティにギリルでございやす」


「二回も名乗る必要はないよ。いったい何の騒ぎなのさ?」


「俺たちは、ただ隊長のエルヴィル殿にご挨拶をさせていただきたいと願っただけでございやすよ。昨日の夜はずいぶん騒がしくて、ろくに挨拶もできなかったもんで」


 小男のドンティは、商売人のような顔つきでにまにまと笑っていた。

 しかし、かたわらのギリルが規格外であったので霞んでいるが、このドンティも手練であることに疑いはなかった。メナ=ファムであれば遅れを取ることはなかろうが、生半可な兵士であれば太刀打ちはできまい。


「……挨拶ったって、あんたは口がきけないんだろう?」


 メナ=ファムは、ギリルのほうに視線を突きつけた。

 ギリルは棒立ちのまま、にっと白い歯を見せてくる。こんな出会い方でなければ、たいそう魅力的に見えるであろう笑顔であった。


「こいつが口をきけない分、俺がやかましくしている次第でして……隊長のお加減は如何でございやすか?」


「昨日の夜から、変わっちゃいないさ。明日か明後日には元気になるだろうから、そうしたら挨拶でも何でも好きにするといいよ」


 そのように述べながら、メナ=ファムはドンティをにらみつけてみせる。


「とにかく、この車には王子殿下も控えてらっしゃるんだ。迂闊に近づかないでほしいもんだね」


「ええ、そりゃあ重々承知しておりやす。俺たちは、隊長殿とお近づきになりたかっただけなんで……」


 その言葉が終わる前に、メナ=ファムは刀を引き抜いた。

 視線はドンティに据えたまま、その切っ先をギリルの鼻先に突きつける。


 兵士たちは驚きの声をあげていたが、ギリルは微動だにしなかった。

 自分の目でそれを確認してみると、さきほどと同じ笑顔で鼻先の白刃を見つめている。メナ=ファムが舌打ちして刀を下ろすと、ドンティがわざとらしく大きな声をあげた。


「い、いったいどうされたんで? このギリルが、何か失礼でも?」


「いや、本当に口がきけないのかどうか、試したかっただけさ。でも、殺気のこもらない刀なんかに驚くような人間じゃなかったみたいだね」


 かといって、殺気をこめていたら、メナ=ファムの刀が弾かれていただけであろう。そして、そのまま斬り伏せられていたかもしれない。

 そんなメナ=ファムの心情を知ってか知らずか、ギリルは力強くも澄みわたった眼差しでメナ=ファムの顔を見返していた。


「とにかく、エルヴィルへの挨拶は明日か明後日まで待っておきな。そして、この車には近づくんじゃないよ」


「承知いたしやした。お騒がせしちまって、本当に申し訳ありやせん」


 ドンティはぺこぺこと頭を下げながら、きびすを返した。

 ギリルはこちらを向いたまま後ずさり、メナ=ファムの刀が届かない位置にまで至ってから、背中を見せる。それもまた、獣のように空気も乱さぬ所作であった。


「いきなり刀などを抜くな、メナ=ファム。血を見る騒ぎになるかと思ったではないか」


 兵士のひとりが文句を言いたててきたので、メナ=ファムは「ごめんよ」と謝っておいた。


「俺たちも隊長殿から指示を受けているので、案ずるな。あの者たちは、決して王子殿下には近づけん」


「ああ、よろしくお願いするよ」


 しかし、あのギリルがその気になれば、この場にいる全員の手をすり抜けて、シルファの生命を奪うことができるだろう。あのギリルは、それぐらいの手練であるのだ。


(ただ、あたしらは数万の軍勢に囲まれてるからね。そんな真似をしたら、とうてい逃げきることはできない。……だから、大人しくしてるのか?)


 メナ=ファムも、あのギリルが王都の刺客と決めつけているわけではなかった。ただ、いつでもシルファの生命を奪うことのできる存在を、近くに置いておきたくないだけであるのだ。


(確かにあいつは、あたしの故郷の同胞と似たところがある。あいつがこっちの味方だったら、これほどありがたい話はないんだけどねえ)


 そんな思いを胸の奥に抱え込みながら、メナ=ファムはシルファたちの待つ車の中へと引き返した。


                          ◇


 そうしてその日は、平穏に過ぎ去っていった。

 セルヴァの軍や妖魅どもに襲撃されることもないままに、太陽は西の果てに沈んでいく。そんな中、野営の地に選ばれたのは、やはり荒野の只中であった。


「このまま街道を北上すれば、二刻ていどで小さな宿場町に行き当たる。しかしそこは貴族のいない自治領区で、ゼラド軍に攻撃を仕掛けられるほどの兵力は持っていない。さらに、北東の方角には別の砦も存在するが……そちらはトトスで半日の距離であるので、夜襲を仕掛けてくる恐れはまずなかろう」


 壁にもたれて味気ない煮汁をすすりながら、エルヴィルはそのように語っていた。

 メナ=ファム、シルファ、プルートゥに、現在はラムルエルも加わって、その言葉を聞いている。燭台の火に照らされるエルヴィルの顔は、日中よりも生気が失われているように思えた。


「そいつはけっこうな話だけどさ、あんたのほうは大丈夫なのかい? ずいぶん、しんどそうにしてるじゃないか」


「どうということはない。明日か明後日には力も戻るであろうから、放っておけ」


「だけど、明後日にはもう敵方の砦に到着しちまうんだろう? そんな身体で、王都の連中と戦えるのかい?」


 メナ=ファムは空になった木皿を足もとに放り出し、エルヴィルのやつれた横顔をねめつけた。

 エルヴィルは、くすぶる薪の火のような眼差しを返してくる。


「俺の身体がどうであろうが、いまさら引き返すことはできんのだ。まさか、この期に及んで逃げだそうと考えているわけではあるまいな?」


「こんな場所から逃げ出す方法があるなら、教えてもらいたいもんだね。あたしはただ、あんたが王子殿下を置いて魂を返しちまうんじゃないかって心配してるだけだよ」


 メナ=ファムの言葉に、シルファも心配げな面持ちになった。

 エルヴィルはあえてそちらを見ようとしないまま、「大事ない」と言い捨てる。


「ゼラドの連中にとっても、王子殿下の存在は切り札であるのだ。王都の軍と戦端が開かれても、矢おもてに立たされることなどはありえん」


「ふうん。最初の砦では、おもいきり立たされた気がするけどねえ」


「あれは、王子殿下の威光が地方領主に通用するかどうかを見定めようとしての行いだ。王都の軍を前にすれば、俺たちの部隊はどこよりも堅く守られることだろう」


 自分に言いきかせるように言って、エルヴィルはぐったりと壁にもたれかかる。

 その姿を見て、ラムルエルが「失礼します」と手をのばす。その手の平が額に触れると、エルヴィルは「何をする」と眉を吊り上げた。


「やはり、熱、あるようです。背中、傷のせいでしょう」


「俺にかまうなと言っているであろうが? このていどの熱は、何ほどのものでもない」


「馬鹿だねえ。そんなやせ我慢をして、いったい何になるってのさ」


 やはりエルヴィルは、体調を崩していたのだ。

 まあ、こんな車の中で一日ゆられていれば、よくなるものもよくならないだろう。メナ=ファムは頭をかき回しながら、ラムルエルを振り返った。


「東の民なら、薬草の扱いもお手のものだろ? 熱冷ましか何か持ってないのかい?」


「はい。薬草、毒草、すべて、取られました。何ひとつ、残されていません」


「だったら、どこかからもらってくるしかないね」


 メナ=ファムは、床に転がしておいた刀をひっつかみ、立ち上がった。


「ちょいと出てくるよ。ついでに新参者のたちの様子も見てくるから、王子殿下の護衛は任せたよ、プルートゥ」


 黒豹は、得たりとばかりに金色の目を光らせた。

 不安げなシルファと無表情のラムルエルに見守られながら、メナ=ファムは車を出る。


 車の外では旗本隊の兵士たちが火を焚いて、守衛の役目を果たしていた。車を取り囲むようにして立ちはだかり、その外側ではまだ食事をしている者たちもいる。


「おお、メナ=ファム。お前さんも、たまにはこっちでどうだ?」


 と、木皿の煮汁をすすっていた顔馴染みの兵士が、陽気に笑いかけてくる。メナ=ファムも笑顔で答えようとしたが、そのすぐそばにドンティの姿を発見して、顔を引き締めることになった。


「ああ、どうも。これから食事でございやすか?」


「いや、あたしはもう食べ終えた後さ」


 敷物で車座になって、兵士たちは食事をかきこんでいる。ドンティは、至極自然にその中に溶け込んでいるようだった。


(何だよ、こいつらには用心しろって言い渡されてるはずなのに、まるで昔っからの仲間みたいな有り様じゃないか)


 しかしそれよりも、ギリルの姿が見えないことが気になった。


「おい、あんたの相棒はどこに行ったのさ?」


「ギリルですかい? 見張りの当番までまだ時間があるんで、そこらへんをうろついてるんだと思いやすよ」


「そこらへんって、どこらへんだよ? あたしらは、余所に動くことを禁じられてるはずだろ?」


「ええ。ですから、この旗本隊の陣地にはいるはずでございやすよ」


 メナ=ファムは舌打ちをこらえながら、身をひるがえした。

 まずは車の周囲をぐるりと一周して、何も異常がないことを確認してから、見張りの兵士に声をかける。


「ねえ、隊長さんが熱を出しちまったから、どこかで薬を調達しておくれよ。……あと、新参者の姿を見なかったかい?」


「新参者って、あの浅黒い肌をしたやつのほうか? あいつだったら、トトスを繋いだ木のところで、ぼんやりしてるのを見かけたぜ」


「ありがとさん」と言い置いて、メナ=ファムは雑木林のほうに足を向けた。旗本隊の使うトトスは、そこに集められて身を休めているのだ。


 不毛の荒野の中でわずかばりに樹木の立ち並んだ、雑木林である。多くのトトスは、すでに地面で丸くなっているようだった。

 背後で焚かれたかがり火も、ここまではあまり届いていない。そこで眠るトトスたちは、まるで大きな岩塊のような黒影と化していた。


 その黒影の狭間に、ひとり立ち尽くす人間の影がうかがえる。

 無駄と知りつつ、メナ=ファムは気配を殺してそちらに近づいていった。


(こんなところで、何をしてるんだ? まさか、トトスに毒でも与えてるんじゃないだろうね?)


 樹木の陰に身を隠しつつ、メナ=ファムは闇の中に目を凝らした。

 やはり、ギリルである。

 浅黒い肌をした精悍なる若者は、メナ=ファムに右側の横顔を見せる格好で立ち尽くしていた。


 その表情を見て取った瞬間、メナ=ファムは思わず息を呑んでしまう。

 ギリルは、とても悲しげな目つきをしていた。

 あの勇猛なる若き戦士が、まるで親とはぐれた子供のような眼差しで、闇の奥を見つめていたのである。


 ギリルの視線の先にあるのは、闇の中に宝石を散らしたような ゼラド軍の野営の火であった。

 正確な数は知らされていないが、ゼラド軍の総勢は数万に及ぶという話であったのだ。それらの人間が火を焚いて、敵襲に備えながら、食事をとっている。ただそれだけの話であるのに、それは天上の星が地上に落ちてきたかのような、美しくも妖しげな光景であった。


 そんな光景を見つめながら、ギリルは静かにたたずんでいる。

 その目が、ふっとメナ=ファムのほうを見た。


「……あんた、こんなところで、何をやってるのさ?」


 メナ=ファムは内心の動揺を抑え込みながら、ギリルのほうに歩を進めた。

 ギリルは静かに微笑みながら、メナ=ファムのほうに身体ごと向きなおってくる。


「トトスに何か悪さでもしてたんじゃないだろうね? あんたたちは新参者なんだから、怪しく思われるような行いはつつしみな」


 そんな風に述べながら、メナ=ファムは小さからぬ虚しさにとらわれていた。

 あんな目つきをした人間が、罪もないトトスに悪さなどするはずがない。そんなことはわかりきっているのに、どうして自分はこんな言葉を発さなければならないのか。そんな虚しさにとらわれてしまったのである。


(くそっ、いったい何だってんだよ)


 メナ=ファムの胸には、疼くような痛みが生じていた。

 ギリルの胸に渦巻く悲哀が、闇にまぎれてメナ=ファムに忍び寄ってきたかのようである。これほどに勇猛で、化け物のような力を有したギリルが、幼子のように悲しげな目つきをしている。その事実に、メナ=ファムは情動を揺さぶられてしまったようだった。


「あんたは、口をきけないんだっけ……それじゃあ、理由を問い質すこともできないね」


「…………」


「とにかく、お仲間のところに戻りなよ。こんな場所にひとりでいたって、なんにもならないだろ?」


 ギリルは無言のまま、メナ=ファムに背中を向けた。

 そのメナ=ファムよりも大きな姿が、闇の向こうに溶けていく。メナ=ファムは、半ば衝動的にそれを追いかけることになった。


「待ちなよ! どこに行こうってのさ?」


 トトスの間をかき分けて、メナ=ファムも闇の中へと歩を進める。

 ほんの一瞬前まで見えていたギリルの姿が、忽然と消えていた。


「おい、あんた! 姿を見せないと――」


 そのように言いかけたメナ=ファムの口が、ふさがれた。

 何者かが背後からメナ=ファムの身体を抱きすくめて、口もとに手をあてがってきたのである。


 メナ=ファムは、反射的に刀の柄へと手をのばそうとした。

 その手も、背後の何者かにつかまれてしまう。

 メナ=ファムが全力でもがいても、相手の腕は鋼のようにびくともしなかった。


「騒ぐな。俺はただ、お前と語りたいだけなのだ」


 聞き覚えのない声が、耳の中に注ぎ込まれる。

 それは、野太くて、勇ましい――それでいて、どこか悲しげな声だった。


「俺は、お前を信用することにした。だから、お前にも俺を信用してほしい。俺は、お前の弟の力になるために、このような場所にまでやってきたのだ」


 メナ=ファムは、何とか後方に首をねじってみせた。

 浅黒い肌をした若者が、すぐ間近からメナ=ファムを見つめ返してくる。

 メナ=ファムを背後から抱きすくめて、五体の自由を奪っているのは、やはりギリルであった。

 ギリルはその黒い瞳を力強く光らせながら、囁いた。


「俺の真の名は、ギリル=ザザという。お前の弟であるロア=ファムは、俺にとっての同志であり、友だ。どうかその言葉を信じて、俺の話を聞いてくれ」

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