Ⅰ-Ⅳ レイノスの宿場町
2016.12/27 更新分 1/1
辺境の森で出会ってから、およそ十日――リヴェルたちはついにレイノスの地を踏むことになった。
生まれて初めて目にする宿場町の様相に、リヴェルは「うわあ」と目を丸くする。
「なかなか雑然としているね。だけどやっぱり、たいそうな賑わいだ」
外套の頭巾をすっぽりとかぶり、口もとを襟巻きで隠したナーニャも感心したように声をあげている。
レイノスは、故郷を一歩も出たことのなかったリヴェルでさえ名前を聞いたことのある大きな町であった。
街道沿いにつくられた宿場町であり、特に塀などで守られたりはしておらず、すべての旅人に行き来が許されている。すでに太陽は西の側に傾いて、日没が近いことを知らせていたが、それでも通りはまだまだ活気にあふれていた。
石の街道の左右には木造りの家屋がずらりと立ち並び、旅人に向けたさまざまな商品を売っている。干した肉に、干したアリア、草籠に積まれた白いポイタン、それ以外の野菜や香草、革の外套や大きな敷物に、鉄鍋や食器や果実酒や革細工や――実に色々な店が軒を並べて、さらには露店の屋台まで出されている。この通りを一往復するだけで、旅の装いをそろえることもできそうなほどであった。
その賑やかな通りを行き交っているのは、リヴェルたちと同じような旅人か、あるいは荷物を背負ったこの町の商人たちである。トトスに荷車を引かせている人間も多く、また、腰に刀を下げている者も少なくはない。そのほとんどは旅人を護衛する傭兵や何かなのであろうが、外見的には野盗とあまり大差はないので、やはり用心は欠かせぬようであった。
「……これだけ大きな町なのに、衛兵の姿が見当たらないようですね?」
「うん。ここは貴族の領地ではなく、町の人間が治める自治領区であるらしいよ。町を守るのは兵士ではなく、自警団か何かなんだろう」
弾んだ声で言いながら、ナーニャは足速に歩を進めている。
リヴェルとゼッドも深く頭巾を下ろしたまま、遅れぬようにその後を追いかけた。
「まずは宿を取らないとね。それで美味しい食事をいただいて、疲れた身体を一晩ゆっくり休めてから、明日の朝に必要なものを買い求めよう」
昨日の晩餐で、ついに干し肉もアリアも尽きてしまったのだ。道すがらで収穫していた山菜と香草に不足はないが、それだけで満足な食事を作れるはずはなかった。
「といっても、銅貨には限りがあるからなぁ。あまり安い宿屋だと野盗や無法者に出くわしてしまいそうだし、ゼッド、どうしたらいいと思う?」
ナーニャに言われるまでもなく、ゼッドはさきほどから鋭い眼光で左右の建物を物色していた。
やがてその手が指し示したのは、賑やかな通りのちょうど真ん中ぐらいに達したところにある、二階建ての家屋であった。
看板には《烏のくちばし亭》という名前が刻まれている。大きからず小さからずの、木造りで粗末な建物だ。
ナーニャは「うん」とうなずくと、何の恐れげもなくその宿屋の扉を押し開いた。
「おや、巡礼者とはお珍しい。三名様でしょうかな?」
入ってすぐの受付台に、小太りの主人が待ち受けていた。筒型の帽子をかぶって前掛けをつけた、どこにでもいそうな西の民だ。
「四名様用の個室と、あとは大部屋も空いておりますよ。大部屋では十名ばかりのお客様とご一緒することになりますが」
「それでは、個室でお願いいたします」
低くひそめた声でナーニャが応じる。
屋内に足を踏み入れても頭巾を外そうとしないナーニャたちに、主人はたいそううろんげな目を向けてきていたが、その口もとには愛想のよい笑みが浮かべられていた。
「個室でしたら、白銅貨一枚となります。お食事は食堂のほうで取っていただき、そちらは別に料金がかかりますが、よろしいでしょうかな?」
「はい」とナーニャは物入れをまさぐった。
白銅貨というのは、赤銅貨の十倍の価値を持つ貨幣である。
白銅貨一枚ならば、ラマムの実を二十個ほども買える値段であるが、一夜の宿の代金として適切であるのかそうでないのか、これが初めての宿泊となるリヴェルには見当もつかなかった。
「では、こちらの木札をお持ちください。お部屋は二階の右手の奥側となります。お時間は明日の中天まで。扉は内側から閂を掛けられますので、お眠りの際にはどうぞお忘れなく」
「了解いたしました。……あの、身を清めたいのですが、部屋に水の準備はありますか?」
「もちろんです。朝方に汲んだ井戸の水が、たっぷり水瓶に用意されておりますよ。……ああ、燭台が必要でしたら、蝋燭込みで赤銅貨の割り銭が一枚となります」
「暗くなって必要を感じたらお借りいたします。それでは」
ナーニャは小さな木札を受け取り、右手に見える木造りの階段へと足を向けた。
主人に頭巾の内側を覗かれぬようにうつむきながら、リヴェルもその後を追いかける。
ぎしぎしと軋む階段をのぼると、向かいの壁まで真っ直ぐ通路がのびており、左右には二つずつの扉があった。
主人に言われた右手の奥側の扉には、木札と同じく『羽』の文字が刻まれている。これが部屋の名前なのだろう。
ナーニャがその扉に手をのばそうとすると、ゼッドがそれを押し留めて、音をたてぬよう細めに開いた。
そうして室内の様子をうかがい、危険な人間がひそんでいないことを確認してから、足を踏み入れる。
とても狭苦しい一室であった。
向かって左側に二段の寝台があり、あとは小さな卓と水瓶が準備されているばかりである。部屋の半分は寝台に占められてしまっているので、動き回れるような空間はほとんどない。
「なるほど。宿屋っていうのは、あくまで眠る場所に過ぎないんだね。まあ、獣や魔物に脅かされる心配がないだけ、銅貨を払う甲斐はあるのかな」
「あ、もしかしたら、ナーニャも初めて宿屋で眠るのですか?」
「うん、もちろん。宿屋の主人とのやりとりはあんな感じでよかったのかなぁ?」
ナーニャの言葉に小さくうなずき返しながら、ゼッドはさっそく扉に閂を掛けていた。
そうして扉を閉めてしまうと夜のように暗くなってしまったので、ナーニャが部屋の奥にあった窓を薄めに開いた。
「これぐらいなら、向かいの建物から覗かれることもないだろう。さ、それじゃあ傷口を洗おうか、ゼッド?」
ゼッドは無言のまま、背負っていた荷袋を足もとに置いた。
物入れがないので、荷物は床におろすしかないのだ。そうすると、部屋はいっそう窮屈になってしまった。
「そういえば、寝台は二段でひとつずつしかないのですね。ここは四人部屋という話ではありませんでしたか?」
「うん、ひとつの寝台で二人ずつが眠る造りなんだろうね。ゼッドぐらい身体が大きいと、二人で眠るには少しせまいかな?」
と、そこでナーニャが悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「そうなると、僕とリヴェルが一緒に眠るべきかなぁ? リヴェルが嫌じゃなければだけど」
「え、ええ? わたしとナーニャが一緒にですか?」
「うん。それとも、今日こそゼッドとまぐわりたい?」
「や、やめてください! どうしてナーニャはすぐにそのような冗談を言うのですか?」
「だって、慌てるリヴェルが可愛いんだもん。宿屋の部屋でだったら、何の心配もなくゼッドとまぐわれるんじゃない?」
そうしてリヴェルを真っ赤にさせてから、ナーニャはふっと微笑んだ。
「それに、これが最後の機会かもしれないよ? こうしてレイノスの町に着いたからには、いよいよリヴェルも自分の道を選ばなくてはならないんだからね」
リヴェルはハッとしてナーニャの姿を見つめ返した。
ナーニャはとても優しげに微笑んでいる。
「まだリヴェルはその髪や瞳を人目にさらしていないけれど、いったいどうだろうね? みんなリヴェルを北の民と見間違えて、口汚く罵ってきたりするのかなぁ?」
「それは……わかりません。幼い頃にはそうして虐げられることも多かったですが、それでも父が領主と縁のある大きな家の主人であったので、それほどひどい目にあうことはありませんでした」
「ずいぶん北のほうに来たけれど、まだまだマヒュドラは遠いんだろう? この町の人々だってマヒュドラの軍に襲われたことなんてないだろうから、リヴェルが西方神の子である宣誓をしてみせれば、そんなに問題はないんじゃないかなぁ」
いっそう優しげに真紅の瞳を瞬かせつつ、ナーニャはそのように述べた。
「まあ、明日の中天までに色々と試してみればいいよ。それで平和に暮らせそうだと感じたら、改めて考えるといい。この町で暮らすべきか、まだ僕たちと行動をともにするべきか。僕は、リヴェルの気持ちを尊重するからね」
「ナーニャは……ナーニャはどうしてそのように、わたしを大事に扱ってくれるのですか? わたしはナーニャに何の御礼も返せてはいないのに……」
「それは何回も言っただろう? 僕はリヴェルが好きなんだよ。その素直な気性と可愛らしい仕草と、運命に屈しない強靭な魂がね。あと、この旅ではさんざん美味しい食事を作ってもらったしさ」
ほっそりとした腰に手をやって、いくぶん首を傾けつつ、ナーニャはやんちゃな幼子のように微笑む。
「本音を言えば、僕はいつまでもリヴェルと一緒にいたいと思ってるよ。でも、リヴェルが僕たちの凶運に巻き込まれる姿は見たくない。だから、リヴェルの運命は自分で選んでほしいのさ」
「わたしは――わたしはまだ、ナーニャたちと離れたくはありません。何の御恩も返せないまま別れてしまうのは忍びないですし、この先、ナーニャたちみたいに親切で心強い人間に出会える気がしないのです」
リヴェルは胸もとで手を合わせ、必死の思いでナーニャを見つめた。
「ナーニャがそのように、わたしなどと一緒にいたいと言ってくれるのも、すごく嬉しいです。たぶんナーニャが想像できないぐらい、すごくすごく嬉しいのです」
ナーニャは、静かに笑っている。
それはリヴェルを慈しみつつ、同時に哀れんでいるような表情にも見えた。
「リヴェルがそんな気持ちでいてくれるなら、僕だってとても嬉しいさ。でも、僕たちには――」
「凶運というのは、いったい何なのですか?」
リヴェルはついにその言葉を口にしてしまった。
口もとでは微笑んだまま、ナーニャはすっと目を細める。
「それだけが、わたしにはわからないのです。ナーニャはわたしと一緒にいたいと思ってくれているのに、その凶運というものを恐れているために、気持ちを殺さねばならないのでしょう? それじゃあ、ナーニャたちは――そうして一生、人を遠ざけて生きていくおつもりなのですか?」
「僕たちは何も恐れてはいないよ。恐れているのは、僕たち以外の人間がこの凶運に巻き込まれてしまうことだけさ」
「ですから、それは――」
「それを知ってしまったら、リヴェルは引き返せなくなる。言ったろう? この世の中には、取り返しのつかないこともあるんだよ」
ナーニャの瞳に、また炎が渦巻いていた。
この炎は、いったい何なのだろう? すべてを滅ぼさずにはいられないような――他者どころか自分自身をも焼きつくしてしまいそうな、激情の業火だ。
「だから、取り返しがつく内に、道を選んでほしいんだよ。そうでないと、不公平だろう? 僕はリヴェルが好きだから、すべてを包み隠して自分の運命に巻き込むような真似はしたくないんだ。いつまでも僕たちと一緒にいたら、リヴェルは平和に生きていくという道を失うことになる。そんな風になりたくなかったら、リヴェルは一刻も早く僕たちなんかとは袂を分かつべきなんだ」
リヴェルの鼓動が速くなっていく。
これではまるで、悪神に魂の取り引きを迫られているようなものであった。
そして、こういうときのナーニャは、まさしく悪神の権化のごとき迫力に満ちているのである。
リヴェルは、唇を噛みしめた。
そのとき――ごとりと、重い音色が響いた。
「ゼッド!」
とたんにナーニャが、リヴェルのかたわらをすりぬけてゼッドに取りすがる。
驚いて振り返ると、ゼッドが床に倒れていた。さきほど響いた重い音色は、ゼッドの腰の刀が床を打った音色であったのだ。
「い、いったいどうしたのですか?」
「わからないよ! ゼッド、大丈夫? どこか苦しいの?」
半ば壁にもたれるような格好で倒れたゼッドは、まぶたを閉ざしたまま、ゆっくりと首を横に振った。日に焼けたその顔は脂汗に濡れており、薄く開いた口からは荒い息がもれている。
「うわ、すごい熱じゃないか! いったいいつからこんなにひどくなっていたのさ?」
「…………」
「リヴェル! 水瓶の水で、手拭いを濡らして!」
「は、はい!」
リヴェルは足もとの荷物から綺麗な布を選んで引っ張り出し、水で濡らして固くしぼってから、それをナーニャに手渡した。
ナーニャは貴重品を扱うような手つきでゼッドの汗をぬぐい、それから改めてゼッドの額に自分の額を押し当てる。
「まるで首から上が燃えているみたいな熱さだ。粗末な薬草しか使っていなかったから、傷口に悪い風が入ってしまったのかもしれない……」
「い、医術師を呼びましょう。これだけ大きな町だったら、一人ぐらいはいるはずです」
「医術師は、駄目だ。ゼッドの火傷を人目にさらすわけにはいかないんだよ。……僕が薬屋を探してくる。必要な薬は、ゼッドから教えられているんだ。宿屋を探す前に薬屋を探すべきだった」
ナーニャが勢いよく身を起こす。
その華奢な手首を、ゼッドが左手でつかみ取った。
「何だい? 僕が一人で町をうろつくのが心配なの? 今はそれどころじゃないだろう?」
ゼッドは力なく首を横に振る。
ナーニャは豪炎のように瞳を燃やしながら、その指先を振り払った。
「僕との誓いを忘れたのかい、ゼッド? 僕は君のために生き、君は僕のために生きる。これからはおたがいがおたがいの主人であり下僕なんだ。あの夜にそれを誓ったじゃないか? ゼッドが僕を置いて死ぬことは、絶対に許さない」
そのように語るナーニャは、まるで復讐の女神のように恐ろしく、そして美しかった。
それを見つめ返すゼッドの視線をはねのけるようにして、ナーニャは襟巻きを口もとに巻き、背中に垂らしていた頭巾をひっかぶった。
そうして足もとの荷物と巡礼者の杖をつかみ取り、扉の閂に手をかける。
「薬を探してくる。僕が出ていったら、きちんと閂を戻しておいてよ?」
誰の返事を待とうともせず、ナーニャは部屋を飛び出していった。
呆然と立ちつくすリヴェルの耳に、「リヴェル……」という自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
愕然として視線を下ろすと、ゼッドが手負いの獣のような瞳でリヴェルを見つめていた。
「頼む……ナーニャのそばについていてやってくれ……ナーニャには、お前のような人間が必要なのだ……」
それはリヴェルが初めて耳にするゼッドの声であった。
その貴族然とした容貌に相応しい――それでいて、苦悶と悲哀に満ちみちた声だ。
リヴェルは何をどう考えればいいかもわからないまま、大きくうなずいて扉に手をかけた。
そこが運命の分岐点であったのだ。
そこでナーニャを追わなかったら、リヴェルもまだ異なる道を選ぶことができたのだろう。
しかしそのときの行動で、リヴェルの進むべき道は決されることになった。リヴェルがそれを知ったのは、それから一刻も経たぬ内であった。