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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
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Ⅴ-Ⅰ 闖入者

2018.10/27 更新分 1/1

 荒野に張られたゼラド軍の陣には、時ならぬ騒ぎが満ちみちていた。

 それはこの夜半、恐るべき妖魅どもに襲撃されて、数多くの兵士を失うことになったためであった。


 カロンやムントの屍骸に憑依して、人間を襲う、それは屍鬼なる妖魅であった。しかもおそるべきことに、屍鬼に生命を奪われた人間は自身もまた屍鬼と成り果てて、かつての同胞に襲いかかってきたのである。


 それらの屍鬼が一掃されたのは、一刻あまりの時間が過ぎ去ってからだった。

 しかし、その騒ぎの渦中にあった人間たちにとっては、無限とも思えるほどの長き時間に感じられたに違いない。四大神の叡智に守られたこの時代、妖魅などというものに遭遇するだけで、それはありうべからざる恐怖であるのだった。


「この騒ぎで魂を返すことになった兵士は、百名以上にも及ぶようだな。まったく、忌々しい化け物どもだ!」


 そのように怒りの声をあげていたのは、第一連隊長のラギスであった。彼自身はどこにも手傷を負った様子はなく、ただ爛々と黒い瞳を燃やしている。


「この御時世に妖魅など、まったく馬鹿げている! 俺たちは、どこで文明の版図から足を踏み外してしまったのだ? 妖魅など、せいぜい人間の立ち入らない辺境の奥深くで跋扈するものであろうが?」


「そいつはどうだろうね。あたしの集落には理屈で説明できない不思議な体験をした老人がたくさんいたし、あたしだって川面に浮かぶ鬼火ぐらいは目にしたことがあるよ」


 シルファのかたわらに控えたメナ=ファムはがそのように応じると、ラギスは火のような眼光を突きつけてきた。


「ほう! ならば、屍骸が動いて人間を襲うことなど、珍しくもないなどと抜かすつもりか? 自由開拓民というのは、ずいぶん過酷な生を送っているのだな!」


「うるさいねえ。あたしが妖魅を仕掛けたわけじゃないんだから、八つ当たりしないでおくれよ」


 ラギスはおそらく、恐怖や驚愕の反動で怒り狂っているのであろう。メナ=ファムとて、とうてい平静な気持ちでいられるわけがない。すべての妖魅が退治されたという報告を受けてもなお、また暗がりの向こうからおぞましいうなり声が聞こえてくるのではないかという思いにとらわれて、ずっと刀の柄に手を置いていた。


 メナ=ファムたちはトトス車の前で語らっており、その周辺では手傷を負った旗本隊の兵士たちがうめき声をあげている。敷物の上に横たえられて、傷の手当てをほどこされているのだ。その中には、カロンの屍鬼にトトスごと跳ね飛ばされて、肩と背中を負傷することになったエルヴィルの姿もあった。


 エルヴィルの身を案じて、シルファはさきほどからずっと目を伏せている。生命に別状はないという話であったが、少なくとも現在は立ち上がることもできないぐらいの手傷ではあるのだ。


 五十余名であった旗本隊は、その内の七名が魂を返してしまっていた。

 そして、それと同じぐらいの人数が、深い手傷を負ってしまっている。たとえ生きながらえたとしても、その者たちは行軍を続けることもかなわないだろう。旗本隊の被害も、甚大であった。


「とりあえず、これから先はどうするのさ? いったんゼラドに戻ったりはしないのかい?」


「馬鹿を抜かすな! このていどの損害で、おめおめとゼラドに戻れるものか!」


「このていどの損害っていうなら、どっしりかまえてればいいじゃないか。あんたがそこまで取り乱しちまうのは、ちっとばっかり意外だね」


 メナ=ファムの言葉に、ラギスはいっそう猛々しい形相になった。


「俺はたかだか百名ていどの死者が出たことで騒いでいるわけではない。王都の軍と刃を交えれば、その十倍以上の人数が瞬く間に魂を返すことになるのだろうからな。……しかし、この状況が気に食わないのだ」


「そりゃあそうだろうさ。妖魅に襲われて喜ぶ人間なんざいるもんかね」


「そうではない。これがたまたまゼラドの軍に降りかかった災厄であるのかどうか、俺はそれを危ぶんでいるのだ」


 今度は、メナ=ファムが眉をひそめる番であった。


「そいつはどういう意味だい? まさか、王都の連中が妖魅をけしかけてきたとでも?」


「……そうでない、と言いきれるか?」


「言いきりたいところだねえ。セルヴァの王ってのは、西方神に王冠を授かった身なんだろう? それが、あんな化け物を手下にするもんかね?」


 ラギスはわずかに目を細めながら、メナ=ファムに顔を寄せてきた。


「そうか。お前たちには知らされていなかったのだな。……実は、王都に潜ませている間諜から、奇妙な報告が入っていたのだ」


「奇妙な報告?」


「ああ。王都や公爵領に妖魅が現れて、名のある将軍を始めとする何名もの人間が魂を返すことになったという、馬鹿げた報告がな。これまでは気にもかけていなかったが……もしかしたら、王都では妖魅を操る妖術師などを飼っているのかもしれん」


「妖魅を操る妖術師ね。川面に浮かぶ鬼火よりも、そいつはけったいな話じゃないか」


 そのように答えてから、メナ=ファムは首を傾げることになった。


「でも、仮にそんな愉快なやつがいたとしてもさ。王都で騒ぎを起こす理由はないんじゃないのかい? というか、王都の将軍様に牙を剥くようなやつなら、ゼラド軍にまでちょっかいを出してくる理由もないように思えちまうね」


「ふふん。やはりお前は、頭が回るな。……どうせこのように昂ぶっていてはしばらく眠れもせんのだから、俺の天幕に来るか?」


「シャーリの女は身持ちが固いって言ったろ。話をそらすんじゃないよ」


「ああ。王都にだって、さまざまな思惑を持つ人間がひしめいているのだからな。そいつにとっては、王都の将軍もゼラドの軍も、同じように邪魔者であるのかもしれん」


 メナ=ファムは、そのような話に同意することはできなかった。

 というよりも、正しい判断を下すには、あまりに情報が少なすぎる。それに、人間があのように恐ろしい妖魅を操ることができるなどとは、なかなか信ずることができなかったのだ。


(こいつも頭は回るんだろうけど、いまはすっかり心を乱しちまってるからね。話半分で聞いておくことにするか)


 メナ=ファムがそのように考えたとき、複数の人影がこちらに近づいてきた。

 そちらに目をやったメナ=ファムは、ハッと息を呑む。ゼラドの兵士たちの隙間から、浅黒い肌を持つ若き剣士の姿が垣間見えたのである。


「何用だ? いまは俺が王子殿下にご報告を差し上げているのだぞ」


 ラギスが荒っぽい声をあげると、兵士たちは恐縮した様子で敬礼をした。


「は。デミッド殿下のご命令を受けて、この両名を案内してきました。この両名は、旗本隊に加わることを許されたそうです」


「何だと?」と、ラギスはうろんげに顔をしかめた。

 兵士たちが左右に退き、その者たちの姿があらわになる。大柄で、野生の獣のごとき生命力を発散させている、浅黒い肌の若者ギリルと、小柄ですばしっこそうな体躯をした、壮年の小男ドンティである。


「お前たちは、勝手に陣中に入り込んで、妖魅どもを斬り伏せていたそうだな。……そんなお前たちが、旗本隊に加わることを許されただと?」


「へい。俺たちは、もともとそのつもりで、この場に参じた人間ですので」


 小男ドンティがにたにたと笑いながら、そのように述べたてた。


「第四王子カノン殿下が決起されたと聞いて、俺たちはゼラドの傭兵部隊に志願しようと考えていたんでさあ。それが、オータムに向かう途中で野盗なんぞに襲われちまったもんで、出陣の日に間に合わなかったんでございやす」


「……つまり、お前たちはゼラドの民ではない、ということだな」


「へい。俺はバルドの内海で産湯につかり、こっちのギリルはダバッグの生まれでございやす。どっちも西方神の忠実な子でありやすが……このたびは、第四王子カノン殿下に正義はありと考えて、ゼラドのお味方にならせていただこうと決断した次第でございやす」


「ふん……」と目を細めて、ラギスはその両名の姿を見比べた。

 メナ=ファムも、あらためてその姿を検分する。


 ドンティもそれなりの力量であるようだが、特別にメナ=ファムの関心を引くような人間ではない。やはり、問題なのはギリルのほうだった。

 とにかくこの若者は、凄まじいまでの力感を発散させているのである。他者を威圧するような雰囲気ではなく、むしろ大きな岩のように静謐な気配であるのだが――それでいて、ゆるぎのない力の波動を感じてしまう。この若者であれば、素手でもシャーリの大鰐を仕留められるのではないかという、そんな馬鹿げた妄念が浮かんでくるほどだった。


(こんな連中をシルファのそばに置くなんて、冗談じゃない。あのふとっちょ公子は、いったい何を考えているんだよ)


 メナ=ファムがそんな風に考えていると、ラギスが「ふむ……」と感情の読めない声をあげた。


「確かになかなかの腕を持っているようだが、傭兵部隊ではなく、旗本隊に配属されるとはな。……それは、デミッド殿下のご判断であられるのだな?」


「はい。小官がじきじきにご命令を承りました」


 すると、ドンティがするりと自分の言葉をさしはさんでくる。


「もともと俺たちは、王子殿下のお力になりたい一心で駆けつけた身でございやす。ゼラドの公子殿下は、その心情を汲み取ってくださったのでございやしょう。まったく、ありがたい限りでございやす」


「そうか。ともあれ、デミッド殿下のご判断であれば、是非もない。その者たちを、エルヴィル隊長のもとに連れていけ。俺もすぐに、そちらへと参じる」


「はい、了解いたしました」


 再び兵士たちが両名を取り囲み、敷物で横たわっているエルヴィルのもとに足を向ける。それがいくらも進まぬ内に、ラギスはメナ=ファムに顔を寄せてきた。


「おい。これからエルヴィルにも申しつけておくが、決してあの者たちを王子に近づけるのではないぞ」


「ああ。あたしは最初っから、そのつもりだよ。ていうか、どうにか別の隊に移しちゃもらえないもんかね?」


「あの愚かな公子をどうにかできるのは、父親たるベアルズ大公だけだ。あのドンティと名乗る小男はずいぶん口が回るようだから、ぼんくら公子を適当に言いくるめて、自分の望む通りの結果を得たのだろう」


 そのように語るラギスの双眸には、敵意にも近い激情が燃えさかっていた。


「妖魅とともに姿を現したあの連中は、いかにもあやしげだし……それに、浅黒い肌をしたほうのやつは、生半可な剣士ではない。王都の連中がカノン王子の暗殺を目論んで、刺客を送り込んできたのかもしれん」


「そこまで考えているなら、何とか遠ざけてほしいもんだねえ」


「旗本隊の四方を囲む部隊の連中にも、よく言っておく。とにかく、あいつらを王子に近づけるな」


 それだけ言い捨てると、ラギスもエルヴィルのほうに駆け寄っていった。

 エルヴィルが仲間に背中を支えられながら、身を起こしている姿が、遠くに見える。それを見届けてから、メナ=ファムはシルファの姿を見下ろした。


「何だかとんでもない夜になっちまったね。……王子殿下、大丈夫かい?」


「ああ……わたしは、大事ない。メナ=ファムたちが、身を挺して守ってくれたからな」


 黒豹のプルートゥが、心配そうにシルファへと身を寄せていた。

 膝を折り、そのしなやかな背中の毛皮を撫でながら、シルファは重く息をつく。


「たったひと晩で、我々は七名もの同胞を失ってしまったのだな。わたしは……彼らの忠義に報いることができるのだろうか……」


「それは、これからの頑張り次第だろ。いまから気に病んでたって、しかたがないさ」


 メナ=ファムも身を屈めて、シルファに小声で問うてみた。


「ねえ、あんたはセッツとかいう町の生まれなんだよね? そっちでは、妖魅が出たりはしたのかい?」


 シルファは不思議そうにメナ=ファムを見返してきた。


「いや、そのような話は聞いたこともない。妖魅というのは、文字通り人外の辺境区域にしか現れないものであろう?」


「うん。だから、妖魅なんてもんが人間の目にふれる機会はないってこったよね。そんなもんは、おとぎ話に出てくる竜や妖精や怪物と同じもんでしかないはずだ。ここは確かに人間の住んでない荒れ地だけど、妖魅なんかが現れるのはおかしな話だよ」


「うむ……しかしわたしは、何やら心を震わされてしまった」


 その奇妙な声の響きに、メナ=ファムはぎょっとすることになった。


「心を震わされたって、何の話だい? 確かにあんたは、がたがた震えていたと思うけどさ」


「ああ。最初は、恐怖に心をつかまれていた。しかし、時間が経つにつれ……妙な安らぎのようなものを見出してしまったのだ」


 シルファの血の色を空かせた青灰色の瞳は、ここではないどこかを見つめているかのように、焦点がぼやけていた。


「メナ=ファムが、たったひとりでカロンの妖魅と対峙して……わたしは、叫びたいほどの恐怖と絶望を感じていたはずなのに……何だか、世界が正しく動きだしたかのような感覚を覚えることになったのだ」


「あ、あんたはいったい、何を言ってるのさ? 下手をしたら、あたしたちも魂を返すところだったんだよ?」


「うむ。しかし……あの妖魅は、死した肉体で動いていた。あのように生と死の境が曖昧であるならば、ことさら死を恐れる必要もないのではないだろうか? もしかしたら……人間にとっての平穏とは、そういった世界にこそ存在するのかもしれない……」


「おい、シルファ」と小声で鋭く囁きながら、メナ=ファムはシルファの華奢な肩を荒っぽくつかんだ。

 シルファは夢から覚めたように、メナ=ファムを見つめてくる。


「どうしたのだ、メナ=ファム……? 壁もない場所でその名を呼ぶことは許されないはずだ」


「どうしたのだは、こっちの台詞だよ。あんたはいったい、どうしちまったのさ?」


 カノン王子としての体裁を取りつくろいつつ、シルファは幼子のようにあどけない面持ちになってしまっていた。


「……すまない。わたしは幼き頃、誰とも口をきかずに過ごしていた時間が長かったので……ひまさえあれば、修道院の書庫にあったおとぎ話や神話の書物を読みあさっていたのだ。だから、何だか……そういった、この世ならぬ世界が現出したかのような感覚に見舞われてしまったのかもしれない」


「誰とも口をきかずに過ごしていたって……ああ、そうか。エルヴィルが故郷を離れてからは、ひとりぼっちで過ごしてたって話だったね。でも、修道院で働いてたなら、口をきく相手ぐらいはいただろう?」


「いや。わたしは周囲の人間から忌避されていたのだ。何せ、盗賊と娼婦の間に生まれた、望まれぬ存在であったからな」


 そう言って、シルファはくすりと微笑んだ。


「しかしいまは、エルヴィルばかりでなくメナ=ファムやラムルエルやプルートゥまでもがかたわらにいてくれる。わたしはこの世に生を受けてから、いまが一番幸福であると思えるほどだ」


 この世に戻ってきたシルファの瞳には、思いも寄らぬほどの温かい光が灯されていた。

 メナ=ファムはわけもなく頭をかきながら、「ふん」と鼻を鳴らしてみせる。


「いきなりわけのわからないことを言いだしたかと思ったら、今度はそんな目つきをして……まったく、気ままな王子様だね!」


「すまない。何かメナ=ファムの機嫌を損ねてしまっただろうか?」


「いいよ、もう。とにかくあたしらは、目の前の問題を何とかしなくちゃね」


 さしあたっての問題は、ギリルとドンティの去就である。

 そして、ラギスの残していった妖魅についての言葉も、メナ=ファムの心には引っかかっていた。本当に妖術使いなどというものが存在して、妖魅をけしかけてきたのだとしたら、今後も同じような災厄に見舞われるかもしれない、ということであるのだ。


(王都と戦をするってだけで大ごとなのに、まったく何なんだよ。……母なるシャーリよ、不肖の子をお守りくださいませ、だ)


 メナ=ファムは溜息を呑み込みながら、暗い天空に目をやった。

 あちこちで死者の亡骸が燃やされているために、空にはいくつもの白煙がたちのぼっている。この夜だけで、百以上もの魂が天に召されることになったのだ。

 それはこの上なく、不吉で陰鬱な情景であったが――さしあたって、この夜に新たな災厄が迫り来る様子はないようだった。

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