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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第六章 聖戦
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Ⅲ-Ⅰ 鍵

2018.10/13 更新分 1/1

「わたくしがジョルアン殿を脅迫し、第四王子カノンをたぶらかして、前王らを暗殺したなどとは、根も葉もない妄言にてございます。ジョルアン殿は我が身可愛さに、何の関わりもないわたくしに罪をなすりつけようとお考えなのではないでしょうかな?」


 むしろ楽しげにすら聞こえるような声で、バウファはそのように述べていた。

 クリスフィアは、このバウファという男のことを、よく知らない。新王と謁見したとき、そのかたわらでにやにやと笑っている姿を目にしたことが、何度かあるぐらいのことだろう。そういう際にも、バウファはあまり口を開くことがなかったので、きちんとその声を聞いたのは、これが初めてであるぐらいかもしれなかった。


 ただし、レイフォンたちとの会話の中では、たびたびその名前を聞いている。彼もまた、前王の死によって権勢を得た人間のひとりであったので、最初は敵方の人間と目されていたのだ。


(前王は聖教団を軽んじていたので、その長であるバウファも日陰に追いやられていた、とかいう話だったな。……しかしそもそも聖教団というのは、西方神の教えを人民に広める、崇高なる存在であるはずだ。それを軽んじる前王も前王だし、神職の身にありながら権勢を求めるバウファのほうも、どうかしているとしか思えんな)


 しかし、クリスフィアの目から見ても、バウファは明らかに俗物である。故郷のアブーフの神官や司祭の中に、こんな脂ぎった目つきをした人間はひとりとして存在しなかった。これがセルヴァ全土の神官たちの頂点に立つ人間であるのかと、最初は我が目を疑ったほどである。


(しかしまた、こやつに前王の暗殺をたくらむほどの器量があるとも思えんな。こやつもまた、敵の手駒に過ぎないのか……あるいは、ジョルアンの告発そのものが妄言なのか、しかと見届けさせていただこう)


 クリスフィアがそのように思案している間も、バウファとジョルアンの舌戦は続いている。しかしそれは、最初から水掛け論に終始してしまっていた。


「ジョルアン殿が語った言葉の中で、真実であったのはただひとつ、わたくしがジョルアン殿の不貞を知っていた、ということぐらいでありましょうな。しかし、それを利用してジョルアン殿を脅迫したなどとは、まったく身に覚えのないことでございます」


「う、嘘を抜かすな! その秘密を暴かれたくなければ自分の命令に従えと、確かにお前はそう言っていたではないか!」


「まったく、覚えがありませんなあ。……それに、ルイド殿の件はどうなのです? 『裁きの塔』にルイド殿が幽閉されていることを突き止めたのは、わたくしの従者であるこのゼラであり、その言葉をそのままディラーム老にお伝えしたのは、このわたくし自身であるのですよ? わたくしがあなたに命令を下していたというのなら、そのような真似をするわけがないでしょう?」


「ル、ルイドに関しては……あれはわたしの独断であったので、お前には庇い立てする理由もなかったのだろう」


「ほうほう。あなたは前王殺しの後始末に奔走していたのに、その首謀者であるわたくしが素知らぬ顔で邪魔立てをしたわけですか。なんとも情のない話でありますねえ」


 どちらも証のない水掛け論であったものの、優勢であるのはバウファのほうであるようだ。

 バウファは罪のない笑みをたたえながら、さらに言葉を重ねていく。


「さらに、あなたがそのような場に立つことになった、告発書の一件もありましたな。その告発書が誰の手によって届けられたものであるのか、あなたはご存知なのでしょうか?」


「告発書? それは……いや、聞いていない」


「それを届けたのは、聖教団の人間であります。たまたまダーム公爵邸に逗留していた聖教団のティートなる者が、ダリアス殿とトライアス殿の告発書を王都に届けたのでありますよ。セルヴァ広しといえども、烏を使って伝書を届けるのは、聖教団の人間をおいて他にないでしょうからな」


 ジョルアンは、真っ青な顔で唇を噛んでいた。

 そこに、「よろしいでしょうか?」というレイフォンの声が響く。


「僭越ながら、発言させていただきます。その伝書は、ティートなる人物からゼラ殿に届けられました。そうしてゼラ殿は、たまたまディラーム老と席を同じくしていましたため、ディラーム老がバウファ殿よりも先にその事実を知るに至ったのです。そうしてディラーム老は王陛下にご報告すると同時に、ジョルアン殿を捕縛することになったわけですね」


「……わたくしが先にその告発書を手にしていたら、罪の露見を恐れて、握り潰していたとでも?」


「いえいえ、私はただ事実を正確に伝えたかっただけです」


 レイフォンは優雅に微笑みながら、そのように述べていた。

 バウファはいくぶん不平そうに、「ふふん」と鼻を鳴らしている。


「それでも、ジョルアン殿の捕縛に聖教団の人間が尽力したという事実に、変わりはありませんでしょう。王国の繁栄と安寧を願う我々が前王を弑したなどとは、まったく馬鹿げた話でありますな」


「なるほど。では、妖魅に関しては、如何なのでしょう?」


 審問の間が、どよめいた。

 バウファは「妖魅?」と眉をひそめている。


「はい。ダリアスたちの告発書によりますと、ジョルアン殿の命令で間諜の仕事を果たしていたシーズは、使い魔なる妖魅に害されたと記されておりました。それがいったい如何なるものであるのか、バウファ殿に心当たりはあるのでしょうか?」


「何を馬鹿な……人間の領土に、妖魅などが姿を現すはずがございません。ダリアス殿は、夢か幻でも目にしたのではないでしょうかな?」


「いえ、告発書には、ジョルアン殿の部下たちを収容していた宿舎にも妖魅が出現したとありました。それはダーム公爵騎士団の面々が力をあわせて退けたとありますので、それだけの数の人間が同じ夢や幻を見ることはないかと思われます」


 人々のざわめきが満ちた審問の間に、レイフォンの声が朗々と響きわたる。


「そしてまた、ディラーム老およびクリスフィア姫の証言によりますと、ジョルアン殿のもとにも使い魔なる妖魅が現れたそうです。ジョルアン殿もシーズと同様に、口封じをされる恐れがあったのですよ。これは、ジョルアン殿もシーズと同じように、何者かに利用されていたという証になるのではないでしょうか?」


 それは事前に、クリスフィアたちの間で議論にのぼった話であった。

 果たしてバウファは、この話にどのような反応を見せるのか――クリスフィアは気を引き締めて注視していたが、バウファのたるんだ顔にはまた余裕たっぷりの笑みが浮かべられていた。


「なるほど。レイフォン殿の仰りたいことは理解いたしました。しかし、それだけの理由でジョルアン殿をシーズ殿と並べてしまうのは、いささか早計なのではないでしょうかな?」


「ふむ。それは何故でしょう?」


「それは、ジョルアン殿が今もこうして魂を召されずに、ご自分の足で立っておられるゆえであります。ジョルアン殿は疑いの目をそらすために、その使い魔なるものに襲われたふりをしていただけなのではないでしょうかな?」


「いえ。使い魔は実際に現れて、ジョルアン殿の部下である兵士と気の毒な厨番たちを害しておりましたよ」


「それでも、ジョルアン殿は生きながらえておられます。ですから、それは……ジョルアン殿ご自身が使い魔なるものを操って、厨番たちを害したのではないでしょうかな?」


 クリスフィアは、いささかならず驚くことになった。

 それは白牛宮の執務室において、ティムトも語っていた可能性のひとつであったのである。ただの俗物だと思っていたバウファが、瞬時にそのような反論を切り出してきたことに、クリスフィアは驚きを禁じ得なかったのだった。


(こやつは見た目よりも、頭が回るのだな。ジョルアンあたりでは、とうてい太刀打ちできなそうだ)


 そのジョルアンは、全身をわななかせながら、バウファの余裕ぶった姿をねめつけていた。


「こ、今度はわたしにあらぬ罪までかぶせようというのか! どうしてわたしに、そのような恐ろしいものが扱えるものか!」


「それもまた、オロルなる薬師に教わった手妻なのではないでしょうかな? その御仁は、シムで薬師としての身を立てたのでありましょう? この四大王国において、呪術の技などというものがわずかなりとも残されているのは、シムを置いて他にないかと思われます」


「それでは、オロルがそのような化け物の扱い方をジョルアンに手ほどきしたと申すのか?」


 と、ベイギルスがひさかたぶりに発言した。

 バウファ以上に肥えた顔が、怒りでわずかに赤らんでいる。


「あやつは幼少のみぎりに我が娘ユリエラを救った、恩人であるのだぞ。其方があやつの誇りを汚そうというのなら、余も黙っているわけにはいかぬであろうな」


「これは、言葉が過ぎてしまいました。わたくしは、決してオロル殿を誹謗しようと考えたわけではないのです」


 と、バウファはとたんに、おもねるような笑みを浮かべる。


「わたくしはただ、自身の潔白を証したい一心であったのです。あらぬ疑いをかけられて、ついつい心を乱してしまいました。王陛下の恩人に無礼な言葉をかけてしまったこと、心よりお詫びを申しあげます」


「そして、その王陛下の恩人たる薬師オロルも、不審な死を遂げているわけです」


 レイフォンの声が、ゆるりと両者の間に割って入った。


「これは妖魅の仕業と断じられたわけではありませんが、守衛の立った『賢者の塔』から首だけが持ち去られるという、奇怪な死でありました。そして、不幸な死を遂げたのは、多かれ少なかれこのたびの一件に関わっていた人々ばかり……誰が真なる叛逆者であるにせよ、それは妖魅を手駒として使う、禁忌の妖術師であるようです」


「禁忌の妖術師……まるで、おとぎ話であるな」


 ベイギルスは、ぶすっとした顔でそのように述べたてた。


「それで、その妖術師というのは、ジョルアンであるのか? そうだとしたら、王国の安寧を脅かした罪は、いっそう重いものとなろうな」


「お、お待ちください! わたしは本当に、そのようなものとは関わりがないのです! 一介の武人に過ぎないわたしが、どうして妖魅など扱えましょう?」


「ふん。戦場におもむいたこともない人間が、どの面を下げて武人などとほざくのだ」


 クリスフィアから遠からぬ場所で、ロネックはそのように吐き捨てていた。

 それを横目で確認しながら、クリスフィアは考えを巡らせる。


(ベイギルス、ジョルアン、ロネック、バウファ……ティムトが最初に敵方の人間と目したのは、この四名だ。この内の誰かが、《まつろわぬ民》などという怪しげな輩と共謀して、前王らを暗殺したのだろうと考えていたのだが……どうにも、そのような気配は感じられぬな)


 しかし、ジョルアンが前王暗殺の手駒として動いていたことは、すでに確定している。そして、ジョルアンの手駒であったシーズ、オロル、ダームで虜囚となった百獅子長のもとに、妖魅が現れているのだ。これが、無関係の話であるわけがなかった。


(やはりジョルアンの言う通り、バウファが敵の首魁であるのだろうか。薬師を害されたベイギルスの怒りに嘘はないように思えるし、根っからの武人であるロネックが妖術師などと手を組むとは考えにくい。この四名の中に首謀者がいるとしたら、それに相応しいのはバウファであろう)


 しかし、表舞台に立っていないだけで、首謀者は他にいるのかもしれない。そこまで考えてしまうと、もはや真実などつかみようもなかった。


(とにかくいまは、ジョルアンの言葉が真実であるかどうかを見極めるしかなかろうな)


 クリスフィアがそのように考えていると、レイフォンが「王陛下」と声をあげた。


「これはジョルアン殿の罪を問う審問の場でありますが、それをよりつまびらかにするために、少し違った方向にも目を向けるべきではないでしょうか?」


「ふむ。違う方向とは?」


「ジョルアン殿は、知らず内に前王暗殺の片棒を担がされていたと述べています。では、本当に前王暗殺には隠された真実というものが存在するのかどうか――それを確かめさせていただきたく思います」


 そこまで踏み込んだ話をするのかと、クリスフィアは感心することになった。

 まあ、どうせそのように考えたのはティムトなのであろうが、大胆であることに変わりはない。この場には、前王暗殺の首謀者と目した四名が勢ぞろいしているのだ。


「……其方をその場に座らせたのは、余であるからな。セルヴァで随一の知略家としての腕を見せてもらおうか」


「過分なお言葉、恐悦至極にございます」


 レイフォンは優雅に一礼してから、その場に集まった人々を見回した。


「さて……現時点で、前王らを弑したのは第四王子カノンと十二獅子将であったヴァルダヌスである、とされています。これは、変事を察して前王の寝所に駆けつけた、十二獅子将アローン殿の部下たる近衛兵の証言によるものですね」


「ふん。そやつもけっきょくは、早々に魂を返してしまったという話であるがな」


「はい。全身に大きな火傷を負いながら、今際のきわにその言葉を遺したそうですね。そしてジョルアン殿は、バウファ殿が第四王子カノンをそそのかしたのだと推測していましたが、それは可能なことなのでしょうか?」


「妄言でありますな。わたくしはカノン王子がエイラの神殿に幽閉されて以来、一度としてその場所には近づいてはおりません」


 涼しい顔でバウファが答えると、レイフォンはいくぶん気の進まなそうな面持ちでそちらを振り返った。


「しかし、バウファ殿は聖教団の長という立場にあられます。エイラの神殿を管理するのも、バウファ殿のお役目でありましょう?」


「前王のご命令により、エイラの神殿は打ち捨てられたも同然であったのでありますよ。流行り病で神殿長が魂を返してからは、新しい神殿長を据えることもありませんでした。あの場所は、修道女がひとりで管理していたはずでありますな」


「なるほど。エイラの神殿の管理は、バウファ殿の手を離れていたわけですか。それでバウファ殿は王命に従い、エイラの神殿には近づきもしなかった、と?」


「ええ、その通りでありますな」


 レイフォンは、ちらりとティムトのほうを見た。

 ティムトはいつも通りのすまし顔で、じっとバウファのほうを見つめている。レイフォンは、いっそう不明瞭な面持ちになってしまっていた。


(どうやらティムトは、レイフォン殿のお気に召さないような策を授けたようだな。いったいレイフォン殿に、何を語らせようというのだ?)


 とりあえず、クリスフィアも視線をバウファのほうに戻しておく。ティムトの策が功を奏するかどうか、それこそを見極めるべきであった。


「しかし……バウファ殿ご自身が近づかぬとも、従者を遣わしたことはあったようですね」


「ふむ、何の話でありましょうかな?」


「……バウファ殿の従者であるゼラ殿は、第四王子カノンのお姿を目にしたことがある、と述べておられました。それはいったい、如何なる目的でエイラの神殿に遣わされたのでしょうか?」


 バウファは、ぽかんと口を開けていた。

 キミュスが豆粒を当てられたような顔である。


「それはいったい、何のお話でありましょう? ゼラが、カノン王子のもとに遣わされていた……?」


「はい。私はゼラ殿ご自身から、そのようにうかがっています。エイラの神殿は人手が足りていなかったので、それを手伝いに出向いたのだという話でありましたね」


 それが、ティムトの策であったのだ。

 大きな驚きに見舞われながら、クリスフィアはバウファを見つめ続けた。

 バウファは当惑の極みに陥りながら、かたわらのゼラを振り返っている。


「ゼラよ、レイフォン殿はあのように申しておるぞ。それは、真実であるのか?」


「……はい、真実にてございます」


「わたくしは、そのような話をお前に申しつけた覚えはない。お前はいったい、どのような用事があって、エイラの神殿などに近づいたのだ?」


 クリスフィアの見る限り、バウファの言動におかしなところはなかった。思いも寄らぬ話を聞かされて、心から驚いている様子である。

 となると――これは、バウファを追い詰める役には立たないということだ。


(それでは、バウファではなくゼラ殿が追い詰められることになりかねん。これではレイフォン殿が躊躇うのも当然だぞ、ティムトよ)


 誰よりも小さな姿をしたゼラは、深くうつむいたまま、口を閉ざしてしまった。頭巾に隠されてしまい、どのような表情をしているのかもわからない。


「答えよ、ゼラ。わたくしはお前にも、エイラの神殿には決して近づかぬように言い置いたはずだ。どうしてその約定を破ってまで、エイラの神殿などに近づいたのだ?」


「それは……カノン王子というのが如何なる御方であるのか、それを知りたく思ったゆえでございます」


「お、お前がそのようなことを知って、何になるというのだ。カノン王子は王位継承権を剥奪された、忌み子であったのだぞ? カノン王子に近づくべからずというのは、わたくしだけではなく前王からのご命令でもあったはずだ」


 バウファが、せわしなく言葉を重ねていく。その姿を見て、クリスフィアは「おや?」と思った。


(この段に至って、バウファはかつてないほど心を乱しているように見えるな。ゼラ殿が勝手な真似をしたところで、バウファが罪に問われるわけでもあるまいに……どうしてそこまで心を乱す必要があるのだ?)


 むろん、バウファがゼラを通じてカノン王子をそそのかしたのではないか、という疑いは生じることになる。しかし、ジョルアンに真っ向から告発されても、余裕たっぷりに微笑んでいたバウファなのである。何も証のある話でないのなら、そこまで取り乱す理由はないように思われた。


「わたしは……自分が何を為すのか、その意味を知りたく思ったのです」


 やがて、ゼラがくぐもった声でそのように述べたてた。


「わたしもまた、これまでにカノン王子のお姿を見たことはありませんでした。ですから、自分の仕事を果たす前に、ひと目でもカノン王子のお姿を見ておきたかった……ただそれだけの話でございます」


「お、お前は、何を……」


 今度こそはっきりと、バウファの顔色が変わった。

 ゼラは立ち上がり、誰にともなく、深々と頭を下げる。


「告白いたします……わたしはバウファ様のご命令により、カノン王子の寝所の鍵を、アイリア姫にお渡しいたしました」


「ゼラ、お前は――!」


「しかし、それがどういった理由でアイリア姫に手渡されたのか、そこまでは聞き及んでおりません。ただ、バウファ様は……これでカノン王子は解放されるのだと、笑っておいででした」


 審問の場が、騒然となった。

 ただし、クリスフィアにはいまひとつ事情がわからない。アイリア姫などという名は、これまで耳にしたことがなかったのだ。


「ディラーム老、アイリア姫というのは、いったい――」


 と、ディラーム老のほうを振り返ったクリスフィアは、そこで息を呑むことになった。

 ディラーム老は憤怒の形相で、肩を震わせていたのである。


「やはり……やはりあの祓魔官めも、このたびの陰謀に絡んでおったのだな」


「それは、どういうことでしょう? アイリア姫というのは、何者なのです?」


「アイリア姫は、ヴァルダヌスの許嫁であった娘御だ。あの災厄の日に、前王らとともに魂を返している」


 たび重なる驚きに、クリスフィアも言葉を失ってしまう。

 そこに、レイフォンの声が響いた。


「みなさん、静粛に。……君はバウファ殿の命令で、アイリア姫に寝所の鍵を手渡したのだね、ゼラ殿?」


「はい……左様でございます……」


「その鍵が、アイリア姫からヴァルダヌスの手に渡り、カノン王子が解放されることになった、ということなのかな?」


「そこまでの詳細はわかりませぬ……アイリア姫は、ただ『ありがとう』と仰っておられました……わたしのあずかり知らぬところで、すでに何らかの密約が交わされていたのでしょう……」


「なるほど。それで、さっぱり事情のわからない君は、カノン王子の姿をひと目だけでも拝んでおこうと考えた、ということなのかな?」


「はい……ヴァルダヌス将軍は、いつも窓からカノン王子に声をかけていると噂になっておりましたので……その窓を探しあて、カノン王子のお姿を拝見いたしました……」


 だぶだぶの外套に包まれたゼラの身体が、小さく震えていた。


「カノン王子は、『何だ、ヴァルダヌスじゃないのか』と残念そうにしておりました……その後に、『君は誰かな?』と仰られたのですが、わたしには答えることができず……そのまま逃げ去ってしまいました……」


「そうか。それじゃあ君は、カノン王子に言葉をかけることもできなかったんだね」


「はい……わたしはカノン王子の美しさに、心を射抜かれてしまい……小娘のように逃げてしまったのです……」


 ざわめきに満ちた審問の間に、ゼラの陰々とした声が響く。

 その声には、無限の悲しみが込められているように感じられた。


「あの御方は十六年間も幽閉されていたというのに、まるで幼子のように無邪気な面差しをされておりました……ヴァルダヌス将軍の他には心をかける相手もなく、あのような暗がりで、孤独に生きてきたというのに……まるで、おとぎ話に出てくる妖精のように、無垢な存在に見えたのです……」


「……そのカノン王子が父たる前王を弑したと聞いて、君はさぞかし驚いたことだろうね」


「はい……アイリア姫は前王と懇意にされていたので、カノン王子にひとときの自由を与えることが許されたのではないかと……最初はそのように思っていたのです……バウファ様も、きっとそのために尽力されたのだろうと……しかし、その夜に、銀獅子宮は燃えてしまいました……」


「……それで、バウファ殿は、何と仰っていたのかな?」


「バウファ様は……何も語るなと……真実が知れれば、自分たちも王殺しに手を貸したと思われかねないので……決して語ってはならぬと仰っておりました……」


 そうしてゼラは、がっくりとくずおれることになった。


「わたしは、咎人にございます……わたしがあの鍵を渡しさえしなければ、このようなことにはならなかった……それを思わぬ日は一日としてありませんでした……」


「うん。だけど君は、大恩ある神官長の言葉に従っただけだからね」


 レイフォンはやわらかい声でそのように述べてから、バウファのほうを振り返った。


「それでは、バウファ殿にお聞きいたしましょう。あなたはどういった目的で、アイリア姫に寝所の鍵などを渡したのですか? そして、それはどのような手段で手に入れたものであったのでしょうか? カノン王子の寝所の鍵はひとつしか存在せず、それは前王の手にあったはずです」


「そ、それは……」


「カノン王子との和解を願った前王が、あなたに鍵を託したのでしょうか? それもおかしな話ですね。前王はあなたの存在を軽んじ、アイリア姫と懇意にされておられました。アイリア姫に鍵を渡したいなら、最初から当人に渡していたことでしょう。あなたを間にはさむ理由はなかったはずです」


「…………」


「それを正直にお話しにならない限り、あなたへの疑いが晴れることはないでしょう。あなたは前王のもとから鍵を盗み出し、カノン王子をそそのかすために、自由を与えたのではないですか?」


「ち、違います! わたくしは、ただ……前王とカノン王子の、和解の一助になれればと思い……」


「では、前王から鍵を託されたのですか?」


 バウファは混乱しきった面持ちで、周囲を見回した。

 そして、クリスフィアのほうを見たかと思うと、慌てた様子で目を伏せる。クリスフィアではなく、クリスフィアのそばにいる誰かの視線を恐れた様子であった。


(ディラーム老の形相に、恐れをなしたのか? いや、それよりももっと手前で、目を伏せたような……)


 そちらに目をやったクリスフィアは、そこにディラーム老よりも恐ろしげな顔つきをした人間を見出した。

 野獣のように両目を燃やした、ロネックである。ロネックは、いまにも席を蹴ってバウファに飛びかからんという迫力を、その巨体にありありとみなぎらせていた。


(まさか……バウファに寝所の鍵を渡したのは、ロネックなのか?)


 いったいどこまで入り組んだ話なのだと、クリスフィアは頭を抱え込みそうになってしまった。

 しかし、バウファは黙して語らない。ただ、ロネックの眼光から逃げるように目を伏せて、唇を噛むばかりである。

 そして、そんなバウファの向こう側では、ゼラが床にうずくまっている。それは、あまりにも悲哀に満ち満ちた姿であった。

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