Ⅳ 使命
2018.9/15 更新分 1/1 ・8/11 誤字を修正
ロア=ファムは、足もとに松明を投げ捨てて、両手で刀をかまえてみせた。
屍鬼は炎を嫌うというが、松明の炎ていどで焼き殺せる存在ではないのだ。油でも浴びせて丸焼きにしなければ、その澱んだ魂を浄化することはかなわない――奇怪な書物を手に、レイフォンの従者ティムトはそのように語っていたのである。
「炎の次に有効なのは、鋼の剣です。鋼には四大神の加護があるので、妖魅に痛撃を与えられるようなのですね。錬成されていない金属の武器では、役に立たないと覚えておいてください」
ティムトの噛んで含めるような声を思い出しながら、ロア=ファムは刀の柄を握りなおした。
ロア=ファムの刀は故郷に置き去りにされてしまったので、これは王都でディラーム老が準備してくれた刀である。ロア=ファムは真っ直ぐな形をした直刀というものを扱ったことがなかったので、わざわざ半月刀を取り寄せてくれたのだった。
(少なくとも、故郷で使っていた刀よりは値の張る業物であるのだろう。これで歯が立たなければ、どのみち俺に妖魅を退治するすべはない)
ロア=ファムがそのように考えたとき、屍鬼が猛然と突進してきた。
四肢で地面に立っているにも拘わらず、頭がロア=ファムよりも高い位置にある、巨大なカロンの屍鬼である。その突進をくらってしまえば、一撃で魂を召されてしまうことだろう。
しかも、そんな巨体であるのに、動作は驚くほどに敏捷である。死したカロンの姿をしたその妖魅は、野生のカロンと同じぐらい俊敏で、凶暴であるようだった。
(カロンなどを退治したことはないが、こいつの頭蓋骨はシャーリの大鰐よりもよほど頑丈だという話だったな)
ならば、下手に刀を撃ち込めば、刀身をへし折られてしまうかもしれない。
そのように考えて、ロア=ファムは身体をひねりつつ、屍鬼の足もとに刀を繰り出した。
腐って骨が剥き出しになった屍鬼の前肢に、半月刀を叩きつける。
重い手応えとともに、屍鬼の前足は膝から先が吹っ飛んだ。
そして、ロア=ファムの身体すれすれのところを通りすぎて、目の前に迫った大木に激突する。
すかさずロア=ファムは身をひるがえし、屍鬼の後ろ肢にも刀を振り下ろした。
図太い腿の付け根あたりに、刀身が深々と潜り込む。その身は肉も皮膚も腐りかけていたので、思いの外、ぐにゃりとした手応えであった。
「どうだ、これで動けまい」
それでもロア=ファムは油断なく刀をかまえつつ、さきほど投げ捨てた松明のところまで後退した。
屍鬼はぶるぶると巨体を震わせながら、身を起こそうとしている。
その途中で、斬撃を受けた右の後ろ肢が、ぶちゅりと湿った音色をあげながら腐り落ちた。
腐って脆くなった肉や筋が、その重量を支えかねたのだろう。後ろ肢をも失った屍鬼は、地響きをたてて地面に沈んだ。
しかし、その魂はいまだ浄化されず、頭をもたげて無念の咆哮をほとばしらせている。
樹木に激突した際に首の骨が折れたのか、頭は斜めに傾いでしまっていた。
(何とおぞましい怪物だ……しかし、動けぬ敵にかまっているひまはない)
ロア=ファムは左手で松明を拾い上げて、皆のもとに戻ろうとした。
その途中で、血の海に沈んだバズを振り返る。
近寄るまでもなく、彼がすでに魂を返してしまっていることは明らかであった。
(……その魂の安からんことを)
そのように念じてから、ロア=ファムは闇の中を駆け出した。
ロア=ファムが荷台で大人しくしていれば、バズは死なずに済んだのかもしれない。
あるいは、ロア=ファムがもっと早く妖魅の気配に気づいていれば、バズを助けられたかもしれない。
無念の思いは尽きないが、いまはそのような思いに身をゆだねることも許されなかった。闇の向こうではいくつもの松明の明かりが乱舞して、兵士たちが狂騒しているのだ。
(誰に邪魔立てされようとも、俺は決してあきらめぬぞ!)
そのとき、横合いから黒い影が飛びかかってきた。
ロア=ファムは、右腕一本で半月刀を旋回させる。腐った肉と硬い骨を叩き斬る感触とともに、新たな襲撃者は地に沈んだ。それは図太い胴体と骨ばった四肢を持つ、腐肉喰らいのムントであるようだった。
(腐肉喰らいが腐肉の妖魅と化して襲いかかってきたのか。まったく、悪夢のような有り様だな)
ロア=ファムは、茂みを飛び出した。
とたんに、凄惨な状況が目に焼きつけられる。
五十名からの兵士たちが、死に物狂いで妖魅どもを相手取っていた。
しかし、妖魅の大半はカロンの屍鬼である。すでに何名かの兵士たちはカロンの突進をくらって、地に伏してしまっていた。
ただし、屍鬼の何体かも、地面に這いつくばって怨嗟の声をあげている。ロア=ファムと同じように、とにかく動きを止めればいいと考えた者がいたのだろう。そういった屍鬼どもは、のきなみ肢を何本か失っていた。
「おお、無事だったか、ロア=ファムよ! ついに妖魅どものお出ましだな!」
陽気な笑い声とともに、大柄な人影が近づいてくる。それは、どす黒い腐汁に刀を濡らしたギリル=ザザであった。
「屍鬼というのは妖魅の下っ端と聞いていたが、これだけの数が集まるとさすがに厄介だ。しかも、カロンなどに取り憑かれてはな」
そのように述べながら、ギリル=ザザの黒い瞳は爛々と燃えていた。
獲物を前にした、狩人の眼光である。しかし、ロア=ファムの故郷にも、ここまで凄まじい眼力を持つ狩人はいなかった。
「いま、隊長殿が逃げる準備をしているぞ。トトスを荷車に繋ぐのに手間取っているようだな」
「そうか。ならば、俺たちもそちらに助力を――」
そのように言いかけて、ロア=ファムは再び刀を繰り出した。
咽喉もとを断ち割られたムントの屍鬼が地面に落ち、ギリル=ザザがその胴体を真っ二つに叩き斬る。
「ふん。生きたムントというのは臆病なものだが、こいつらは容赦なく襲ってくるな」
「こやつらは、ムントではなく妖魅だからな。さあ、ベルデンたちのもとに向かうぞ」
「まあ待て。荷車で逃げるとしても、こいつらの足では追いつかれるかもしれん。どの妖魅も、足の一本ぐらいは奪っておくべきであろうよ」
そのように言い捨てて、ギリル=ザザは手近な妖魅へと突進していった。
兵士を追っていたカロンの屍鬼に、横合いから刀を叩きつける。呆れたことに、その一撃でカロンの図太い首は刎ね落とされてしまった。
「おっと、足ではなく首を落としてしまった。まあ、どちらが先でも同じことか」
頭を失った屍鬼は、獲物を見失った様子で足取りが覚束なくなっている。その前肢を、ギリル=ザザは容赦なく叩き斬った。
(こいつであれば、何体の屍鬼が相手でも遅れを取ることはなかろうな)
ロア=ファムがそのように考えたとき、背後の茂みががさりと鳴った。
素早く振り返ったロア=ファムは、驚愕のあまり、立ちすくんでしまう。
それは、新手の屍鬼であった。
四本ではなく、二本の足で地に立っている。
傭兵のようななりをした、大柄な人間の屍鬼である。
その双眸は鬼火のごとく青く燃え、血に濡れた唇からはおぞましいうめき声を絞り出している。
それは、バズの遺骸に憑依した屍鬼であった。
(馬鹿な……)
人間も屍鬼になりうるという話は、ティムトから聞いていた。人間であれ獣であれ、屍鬼に殺された生き物は屍鬼に憑依されてしまうという話であったのだ。
しかしそれには、いくばくかの時間がかかるという話であるはずだった。
この世界は、四大神の加護のもとにある。黄昏刻から夜の間はその加護もいくぶん力を失ってしまうものの、太陽さえのぼれば妖魅どもを駆逐することができるので、屍鬼が増殖する恐れはない――ロア=ファムは、そのように聞かされていたのだった。
「そうでなければ、この世界はあっという間に屍鬼だらけになってしまうでしょう。たとえ屍鬼に魂を奪われても、その者が屍鬼と化す前に太陽神が浄化してくれるはずです」
つまり、死者が屍鬼と化すのには、一晩以上の時間が必要だ、ということである。
然して――バズは、さきほど生命を失ったばかりのはずだった。一晩どころか、四半刻と経ってはいないのである。
「ただし、瘴気の濃い地においては、四大神の加護も及びません。そのような場所で妖魅と出くわしたら、ともかく逃げることを考えるべきです」
ティムトは、そのようにも言っていた。
つまりは、ここがその「瘴気の濃い地」であったということなのだろうか。
ロア=ファムには、わからなかった。
わかるのは、バズがすでに屍鬼に化してしまったという、この許し難い現実だけだった。
(俺に……俺に、こいつを斬れというのか!)
バズは両足を引きずるようにして、ロア=ファムに近づいてきた。
その腰に刀は下げられたままであるが、それを抜こうという気配はない。ただ、太い両腕を前に突き出し、自分の血で濡れた歯をがちがちと噛み鳴らしていた。
その厳つい顔からは、すべての感情が抜け落ちてしまっている。
これはもはや考える力も感じる心もない、妖魅であるのだ。
それがわかっていながら、ロア=ファムはどうしても刀を振り上げることができなかった。
(駄目だ。俺にこいつを斬ることはできん)
ロア=ファムは、きびすを返そうとした。
その瞬間、バズがいきなり飛びかかってきた。
さきほどまでの緩慢な動きが嘘のような、獣のような素早さであった。
迷いと惑いの中にあったロア=ファムは、刀を繰り出すこともできないまま、バズに両肩をつかまれてしまう。
そのままロア=ファムは、地面に押し倒されることになった。
両肩に、バズの指先が食い込んできている。
白い歯が、ロア=ファムの鼻先にまで迫ってきていた。
バズはその歯で、ロア=ファムの顔面を噛み破ろうとしているのだ。
ロア=ファムは松明から手を離し、左手をバズの咽喉もとにあてがった。
バズの皮膚は、ひんやりと冷たい。
そして、自身の血で濡れている。
その血も乾ききらぬ内に、バズは屍鬼に憑依されてしまったのだった。
その血が、ロア=ファムの顔にまで垂れてきた。
白い歯が、凄まじい渇望とともに、宙を噛んでいる。
一回りも身体の大きなバズにのしかかられて、ロア=ファムには逃げるすべもなかった。
(くそっ……許せ、バズ……!)
ロア=ファムは、右手の刀をバズの咽喉もとに当てがった。
それでもバズはかまわずに迫り寄ってくるので、刀身がずぶずぶと咽喉もとにめり込んでいく。
目の前にあるバズの口から、大量の鮮血が吐き出された。
その血も、夜明けの川の水のように冷たかった。
ロア=ファムはまぶたを閉ざし、呼吸も止めながら、さらに刀を押し込んだ。
刀身が、首の骨に当たって止まる。
ロア=ファムは刀の背に左手を添えて、一息に力を込めた。
バズ自身の怪力と重量が相まって、首の骨がぼぎんと折れる。
ロア=ファムの刀が、残りの肉と皮膚をぶちぶちと断ち切っていった。
やがて、ロア=ファムの顔の横に、どさりとバズの生首が落ちた。
それでようやく肩をしめつける力が弱まったので、ロア=ファムはバズの腹を蹴り抜いた。
バズの身体が地面に転がり、ロア=ファムはのろのろと身を起こす。
バズの頭はまだがちがちと歯を噛み鳴らしており、胴体のほうは死にかけの虫みたいに手足をばたつかせていた。
悪夢のような光景である。
ロア=ファムは目もとの血をぬぐいながら立ち上がり、「くそっ!」と無念のうめきをもらした。
「どうしてだ……どうしてこのバズが、こんな死に様をさらさなくてはならないのだ!」
「馬鹿! 何をしている、ロア=ファム!」
遠くのほうで、ギリル=ザザの声が響いた。それと同時に、ロア=ファムは凄まじい衝撃に見舞われた。
世界がぐるぐると回転し、わけもわからぬまま地面に叩きつけられる。
どうやらロア=ファムは、カロンの屍鬼に撥ね飛ばされてしまったようだった。
(俺の運命は……ここまでなのか)
もしかしたら、これは西方神の下した罰なのかもしれない。
ロア=ファムのせいで、バズは死んだのだ。
しかもロア=ファムは、死したバズの肉体を切り刻んでしまったのだ。
己の魂を返さない限り、このような大罪を贖えるとはとうてい思えなかった。
ロア=ファムは、深い悲しみの中で、暗黒の底に沈んでいくことになった。
◇
「……気がついたか、ロア=ファムよ」
何者かが、ロア=ファムの顔を覗き込んでいた。
無精髭を生やした、端正な壮年の男の顔だ。
それがベルデンだと思い出すのに、ロア=ファムはしばらくの時間を要することになった。ベルデンは頭に包帯を巻いており、目から上がほとんど隠れてしまっていたのだ。
「まだ身を起こす力はなかろうから、そのまま休んでおけ。水を飲みたかったら、身体を起こしてやる」
「こ……ここは……?」
別人のようにかすれた声が、ロア=ファムの口からこぼれ落ちた。
あたりは薄暗く、自分がどのような状況にいるのかもわからない。ただ、あちこちで獣のようなうめき声が弱々しく響いていた。
「ここは、ナッツの宿場町だ。安全な宿屋の中なので、何も心配はいらんぞ」
「ナッツ……そのような町は、知らん……」
「ああ。俺たちは、妖魅に追われてこのような場所まで逃げ込むことになったのだ。何とか半数ぐらいは魂を返さずに済んだが、お前よりひどい手傷を負った人間も少なくはない」
では、この弱々しいうめき声は、兵士たちのあげる声であったのだ。
それでもまだ考えのまとまらないロア=ファムがぼんやりしていると、小さな燭台を手に、別の人影が近づいてきた。
「おお、ようやく目を覚ましたか。お前ともあろう者が、油断をしたな、ロア=ファムよ」
それは、ギリル=ザザと案内人のドンティであった。
この両名は無傷であるらしく、ギリル=ザザのふてぶてしい表情にも変わりはなかった。
「しかし、丸一日も眠りこけていたのだからな。このまま魂を返してしまうのではないかと、少々危ぶむことになったぞ」
「丸一日……俺はそんなにも長い時間、意識を失っていたのか……」
「無理をして喋るな。お前、ひどい声をしているぞ」
すると、隣のドンティが気の毒そうな面持ちでロア=ファムを覗き込んできた。
「昨晩からずっと寝込んでいたので、咽喉も干からびちまったんでしょうよ。目が覚めたんなら、まずは咽喉を潤すべきだと思いやすよ」
「うむ、そうだな。どれ、俺が身を起こしてやろう」
ギリル=ザザの逞しい腕が、ロア=ファムの背中に回されてきた。
とたんに鈍い痛みが背中から胸にまで走り抜けたが、何とか歯を食いしばってこらえてみせる。まったく自覚していなかったが、ロア=ファムの体内は火のように熱を持っているようだった。
「お前は、あばらを何本かへし折られてしまったのだ。しかし、カロンの体当たりをくらって死なずに済んだのだから、西方神に感謝するべきであろうな」
そのように述べながら、ギリル=ザザが木皿を口もとに差し出してきた。
「さあ、飲め。いっぺんに飲むと傷に響くだろうから、ゆっくりと口に含むのだぞ」
これではまるで、母親にあやされる幼子のようだった。
しかし、木皿から流れ込んでくる冷たい水を口にふくむと、そんな雑念も吹き飛んでいった。
ロア=ファムの身体は、狂おしいまでに水を欲していたのだ。胸もとが熱く疼くのにもかまわずに、ロア=ファムはあっという間にそれを飲み干してしまった。
「あとでまた持ってきてやるから、いまはこれぐらいで我慢しておけ。さあ、ゆっくり下ろすぞ」
ギリル=ザザの腕が、壊れ物でも扱うような優しさで、ロア=ファムの身体を寝かせてくれた。
板張りの床の上に、敷物が敷かれているのだろう。ようやくそれが認識できるぐらい、ロア=ファムは頭がはっきりしてきた。
「それで……妖魅どもからは、逃げきることができたのだな……? 一日を無駄にしてしまったという話だったが、今後はどうするのだ……?」
「どうするもこうするもない。我らの使命は、道半ばで閉ざされることになったのだ」
別の声が、反対の側から聞こえてきた。
見届け役の、タールスである。ロア=ファムの側近くに腰を下ろしたタールスは、無念の形相となっていた。
「あとは傷ついたお前たちの回復を待って、王都に戻る他ない。ゼラドの軍は、刃をもって退けるしかあるまい」
「何故だ……? 俺たちには、二日ほどの猶予があったのであろう……? 一日を無駄にしてしまったとしても、ここから目的の場所を目指せば……」
「それは、かなわんことなのだ、ロア=ファムよ」
ベルデンもまた、無念の面持ちでそう述べた。
「いま、まともに動ける人間は十人もいない。しかも、ここからレラントに向かう道は、文字通り閉ざされてしまっているのだ」
レラントというのは、メナ=ファムたちが目指していた町の名だった。ロア=ファムたちはそのレラントに身を潜めて、ゼラドの軍を待ち受ける心づもりであったのだ。
「レラントはここから南西の方角にあるが、そこに至る区域は妖魅で埋め尽くされてしまっている。俺たちばかりでなく、そこを通る人間はのきなみ妖魅に襲われてしまっているという話であるのだ」
「妖魅が……日の出ている間にも、人間を襲っている、と……?」
「うむ。この宿屋などは、そこから逃げ帰った者たちであふれかえってしまっているのだ。戻れずに魂を返した人間は、それ以上の数であるのだろうな」
そう言って、ベルデンはがっくりと肩を落とした。
「我々とて、半数近くの仲間を失い、残された人間もそのほとんどが深手を負ってしまった。まともに動ける人間は、もはや十名ていどしかおるまい。これではもはや、使命を果たすすべもないのだ」
「そんな……駄目だ……俺の行いには、姉の行く末がかかっているのだ……」
ロア=ファムは、激情のままに身を起こそうとした。
が、その肩をギリル=ザザに抑えつけられてしまう。
「動くな。狩人であれば、己の身体がどれほどひどい状態にあるのかもわかろう? そんな身体で荷車に乗ったら、今度こそ折れたあばらに肺を貫かれてしまうぞ」
「いや、しかし……!」
「わかっている。俺も途中で使命を放り出すつもりはない」
ギリル=ザザの言葉に、タールスが「何?」と目を剥いた。
「お前は、何を言っているのだ。たったいま、使命を果たすすべはないと話したところであろうが」
「これまでに考えていた計略が台無しになったのはわかっている。ならば、新たな計略に挑むまでだ」
ギリル=ザザは不敵に口もとをほころばせてから、ドンティを振り返った。
「さきほどまで、こやつとその計略を練っていたのだ。おい、そいつを話してやれ」
「へい……聞くところによると、妖魅どもがあふれかえっているのは、おもに西側であるようでございやす。北や東はもちろん、真っ直ぐ南に向かう分には、妖魅どもに襲われることもないようなのでございやすよ」
「では、別の道からレラントを目指そうと言うつもりか? しかし、レラントは南西の方角にあるのだから、いずれは西に向かわねばならなかろうが?」
「へい。そうして南から大回りでレラントを目指しても、ゼラド軍に先んじることはできやしません。この辺りはトトスも通れない岩場が多くて、進める道も限られておりやすからね」
「ならば、けっきょく不可能ではないか」
タールスの言葉に、ドンティは「いえいえ」と首を振った。
「レラントに向かうのは不可能でも、ゼラド軍のもとに向かう道は残されておりやす。明日の朝にでも出立すれば、日暮れ時にはゼラド軍にまみえることはできやしょう。こう、北上するゼラド軍に東側から近づく格好でありやすね」
「レラントまでは二日かかるのに、ゼラド軍には明日まみえることができるというのか? まったく辻褄があっていないではないか」
「へい。それは、トトスに荷車を引かさなければ、の話でございやす。荷車さえ引かせていなければ、トトスはうんと早く駆けさせることができやすからねえ」
真剣な面持ちで話を聞いていたベルデンは、それでまた肩を落とすことになった。
「お前たちは、このような深手を負ったロア=ファムをトトスにまたがらせようというのか? 荷台に乗ることさえ難しいのに、そのような真似ができるわけがないではないか」
「ああ。だから、ロア=ファムはこの場に置いていく。俺たちが、ロア=ファムの言葉を姉に届けてやろうという計略だ」
ギリル=ザザの言葉に、ロア=ファムは息を呑むことになった。
それに気づいたギリル=ザザが、にやりと笑いかけてくる。
「お前としては無念なところであろうが、残された道はこれしかない。必ず使命は果たしてやるから、お前はこの場で待っていてくれ」
「いや、待て。我々はあの場で二頭のトトスを失ったから、残りは六頭しかおらんのだ。たった六名では、使命など果たせるはずが――」
「六頭も必要ない。ゼラド軍のもとに向かうのは、俺とドンティだけで十分だ」
「何だと!?」と、ベルデンとタールスが同時に声をあげた。
しかし、ギリル=ザザはふてぶてしく笑っている。
「この計略には、少ない人数のほうが望ましいのだ。ゼラドの連中も、あまり人数が多くては怪しむやもしれんからな」
「少ない人数のほうが望ましいだと? わずか二名で、どのように使命を果たそうというのだ?」
「俺たちは、偽王子の護衛をしたいと名乗り出るのだ。そら、偽王子を守る旗本隊とかいう連中がいるのだろう? その中に加わらせていただこうという計略だな」
そう言って、ギリル=ザザはドンティのほうに目を向けた。
「後のややこしい話は、お前に頼んだぞ。これは、お前の立てた計略なのだからな」
「へい……明日の日暮れにはゼラド軍とまみえることができやしょうが、どこかの町で待ち伏せすることはできやせん。あの辺りはまともな町も少ないので、ゼラド軍はしばらく野で夜を明かすことになるはずでございやす。そうすると、こちらも真正面からぶつかるしかすべがない、ということでございやすね」
「しかし、進軍の途中で傭兵などを迎え入れるはずがあるまい。そのようなものは、敵方の間諜と疑うのが当たり前なのだからな」
「へい。ですから、あちらの信用を得るために、ひと芝居打つつもりでございやす」
ドンティが、にんまりと微笑んだ。
「あの汚らしい妖魅どもを、ゼラド軍のもとまで引き連れていくのでございやすよ。それで、あいつらをゼラド軍にぶつけてやろうという計略でございやす」
ベルデンとタールスは、そろって言葉を失うことになった。
先に我を取り戻したのは、タールスのほうである。
「あ、あの屍の獣どもをゼラド軍にぶつけるだと? そのような真似が、できるわけがなかろうが!」
「それは、あいつらがどれだけ執念深いかにかかっておりやすね。まずは明日、俺とギリル=ザザが南西の方角に足を向けて、妖魅どもをおびき寄せやす。しかるのちに、進路を南に切り替えて、ゼラド軍のもとを目指す、という算段でございやすね」
「そ、それでは丸一日、あの妖魅どもに後を追わせようというのか? そのような真似をしたら、途中で追いつかれるに決まっているであろうが」
「いえ、あいつらは荷車を引かせたトトスより、ちょいと速いていどの足しかないようでございやすからね。トトスにまたがって走らせれば、そうそう追いつかれる心配はございやせん」
「追いつかれたら、俺が斬り伏せてやるさ。それでも、ゼラドの連中にぶつけるぐらいの数は余ろう」
ギリル=ザザは、変わらぬ表情で笑っている。
ドンティは、苦笑めいた表情になっていた。
「まあ、このギリル=ザザってお人の力を見込んでの計略でありやすね。あの妖魅どもをゼラド軍にぶつけて、兵士たちがてんやわんやになっているところで、ギリル=ザザが颯爽と妖魅を斬り伏せるってえ寸法です。そうしてギリル=ザザの力を見せつけてやりゃあ、ゼラドの連中もちっとは心を動かすんじゃないでしょうかねえ」
「それは……あまりに無謀な計略だ」
ベルデンがうめくように言うと、ドンティは「へへっ」と笑った。
「無謀なのは、承知でございやす。しかし、これ以外の計略を思いつけなかったんでございやすよ。このナッツの宿場町の位置と、ゼラド軍が現在逗留している位置を考えると……明日しか、好機はないのでございやす」
「どうしてお前がそうまでして、我々に力を貸そうというのだ? まともな心を持った人間であれば、あのような怪物どもとは二度とまみえたくないと考えるのが当たり前のはずだ」
ベルデンが、何かを思い出したようにぶるっと身体を震わせてから、そう言った。
ドンティは、ちょっと無邪気にも見える顔で笑う。
「以前にお話ししました通り、俺はヴェヘイムの若君に救われた身でございやす。若君のお力になれないなら、生きながらえる甲斐もないんでさあ。……ですから、騎士の皆様方と同じぐらい、身体を張る覚悟はできているつもりでございやすよ」
ギリル=ザザも大きくうなずいて、ロア=ファムのことを見下ろしてきた。
「まあ、そういうわけだ。俺たちを信じて、使命を託すか?」
ロア=ファムはまぶたを閉ざし、無念の思いを呑み下してから、「ああ」と答えてみせた。
「俺がこの身でトトスに乗ることはできんし、俺の存在は敵方にも知られているはずだとレイフォンに聞かされている。傭兵として敵軍の中にまぎれ込むという役割は、俺以外の人間にしか果たすことはできないのだろう」
「うむ。必ずや、お前の姉を救ってみせよう」
ギリル=ザザは、白い歯を見せて笑った。
つられて、ロア=ファムも口もとをほころばせる。
「俺の荷袋に、レイフォンから託された書簡というものがある。それを、エルヴィルという男に渡してくれ。俺の姉は文字を読めないので、必ずエルヴィルに渡すのだぞ」
「おお、まかせておけ」
そうしてギリル=ザザは、タールスのほうを振り返った。
「残念ながら、お前を連れていくことはできん。この場で、ロア=ファムたちの面倒を見てやってくれ。……この中でもっとも腕が立つのは、お前であろうからな」
「ふん。言われずとも、わたしの使命はそのロア=ファムという者の行いを見届けることだ。こやつから目を離すわけにはいかん」
そんな風に答えてから、タールスはギリル=ザザをにらみつけた。
「しかし、何故なのだ? お前とて、ジェノス侯爵家の従者に過ぎぬのであろう? しかも、もとを質せば卑しい狩人にすぎん。王都から遠く離れたジェノスの狩人が、どうしてそうまでして身命を捧げようというのだ?」
「ふふん。使命のために力を尽くすというのは主人からの命令であるし、このロア=ファムは――いちおう、同志としての絆を結んだ間柄であるからな。森辺の狩人は、友のためなら生命を懸けて戦うものであるのだ」
そのように語るギリル=ザザは、実に雄々しい表情になっていた。
虚言を罪とする森辺の民であるのだから、それは包み隠さぬ真情であるのだろう。ロア=ファムは、誰よりも誇り高い人間をそこに見出したような気持ちであった。
(俺も決して、自分の使命はあきらめない……バズの分まで、誇り高く生きてみせよう)
ロア=ファムは、心の中でそのように誓った。
ロア=ファムの脳裏には、不機嫌そうな顔つきでロア=ファムの行く末を案じてくれていたバズの姿が、くっきりと焼きつけられている。
ロア=ファムは、ぶすっとした顔をしているタールスに向けて、言った。
「バズが死んだのは、俺のせいだ……俺さえ荷車を離れていなければ、バズは死なずに済んだかもしれん……心より、詫びの言葉を言わせてもらいたい……」
タールスは眉を吊り上げて、ロア=ファムを振り返った。
「見当外れのことを言うな。我々は、王国の騎士であるのだ。王国に捧げた魂を使命のために散らすことに、恐れなど抱いてはいない。……お前は、バズの覚悟を踏みにじるつもりか?」
「いや……ただ、バズの同胞であったお前には、詫びておきたかったのだ……」
タールスは同じ表情のまま、首を振った。
「だから、詫びる必要などないと言っている。誇り高く死んでいった騎士に、憐憫など必要ない。……バズの家族には、あいつがどれだけ勇敢な騎士であったか、わたしから伝えよう」
「うむ……よろしくお願いする……」
こぼれそうになる涙をこらえながら、ロア=ファムはひそかに拳を握り込んだ。
(誇り高い死……バズにとっては、確かにそうだったのだろう……あいつは自分で言っていた通り、誇り高く生き、誇り高く死んでいったのだ……)
そのように考えて、ロア=ファムは頭上の闇をにらみあげる。
(しかし俺は、このような真似をしでかした何者かを、決して許したりはしない……お前の仇は、必ず討ってやるぞ、バズ……それが、俺にできる、せめてものはなむけだ……)
レイフォンたちの言葉によれば、妖魅を操っているのはどこかの人間であるはずなのだ。
その何者かが前王を弑した真なる叛逆者だというのなら、ロア=ファムは決してその悪党を許さない。王国の行く末にはあまり関心のなかったロア=ファムは、これでようやくレイフォンやクリスフィアたちと志を同じくすることができたのかもしれなかった。
時は、黄の月の十九日。ジョルアンを叛逆者として捕らえた後、レイフォンたちはどのような苦難に見舞われ、どのような真実を見出したのか。それを知るすべもないまま、ロア=ファムはひとり決意を新たにすることになったのだった。