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アムスホルン大陸記  作者: EDA
幕間
127/244

Ⅲ 襲来

2018.9/9 更新分 1/1 ・8/11 誤字を修正

・予約投稿を忘れており、更新が数時間遅れてしまいました。

・また、幕間は全3話の予定でしたが、全4話となりました。次回の更新で終了となります。

「おい、これはいったい、どういうことなのだ?」


 荷台の中で、お目付け役のタールスがまた怒声をあげていた。

 王都を出立してもう十日以上が過ぎていたが、タールスは毎日欠かさず怒声をあげている。本日、その怒声をぶつけられているのは、案内人のドンティであった。


「これでは、進路が西に寄りすぎている。お前は本当に、我々をゼラド軍のもとまで導く気はあるのか?」


 敷物の上に座したタールスの足もとには、西の王国の地図が広げられていた。ギリル=ザザと札遊びに興じていたドンティは、そちらに向かって「へい」と頭を下げている。


「道のりは、至極順調でございやす。ゼラドが進軍してきた際には、お目当ての場所でそれを待ち受けることがかないやしょう」


「何をもって、そのように言いきれるのだ? ゼラドが大軍を動かす際は、もっと中央か東寄りの区域を通るはずだ」


「へい、これまでであれば、その通りでございやしょう。ただ今回、ゼラドは西の主街道を使って進軍してくるのではないかと……あ、これは俺の考えではなく、若君のお言葉でございやす」


「若君……レイフォン卿が、そのように指示したと抜かすつもりか?」


 タールスは、肉の薄い顔にぴりぴりと血管を走らせていた。

 ドンティはうやうやしく、「へい」と頭を下げる。


「ゼラド軍は、ラッカスの領地を突破した上で、西の主街道を進んでくる心づもりなのではないかと……若君からいただいた書簡には、そのように記されておりやした」


「ラッカスだと? ラッカスは、守るに易く、攻めるに難い領地として知られている。これまでとて、ゼラド軍がラッカスを突破した例はないのだから、自らそのような進路を取ることはありえまい」


「へえ、俺も同じように思います。……ただ、若君のお考えは異なるようなのでございやすよ」


 そう言って、ドンティはにたりと微笑んだ。


「ラッカスの守りが堅いと知れ渡ってからは、ゼラド軍もうかつに矛先を向けなくなりやした。騎士様の仰る通り、普段はもっと中央か東寄りの進路を取るようになりやしたので……この五、六年は、ラッカスの連中もゼラド軍と刃を交える機会が失われていたのでございやしょうねえ」


「それが、何だというのだ? まさか……ラッカスの領主が、ゼラドに寝返るとでも抜かすつもりか?」


「若君も、そこまでの懸念を抱いてはいないようでございやす。ただ、この五、六年で、ラッカスはすっかり平和な日々の味をしめちまって、戦を忌避する気風にあるようなんでございやすよ。だからまあ、第四王子なんかを旗頭にされちまったら、これ幸いと道を空けてしまうんじゃないかと、若君はそんな風に考えたようでございやすね」


 タールスは、まったく納得いっていない様子で、唇を噛んでいた。

 それをなだめるように、タールスはにたにたと笑っている。


「もちろん若君も、その可能性が一番高いとお考えになっただけで、絶対にそうだと決めつけているわけではございやせん。もしもゼラド軍がもっと東寄りの進路を取った場合は、こちらもすぐに対応できるように、道を選んでおりやす。どうぞ安心して、このドンティにおまかせください」


「ふん! 口で言うのは容易いが――」


 タールスがそのように言いかけたとき、荷車がいきなり動きを止めた。

 タールスは背後の壁に肩をぶつけてしまい、「ちっ」と鋭く舌打ちをする。


「何事だ? また野盗ではあるまいな?」


 タールスはそのように述べていたが、ギリル=ザザは涼しい顔をしていたし、ロア=ファムも変事の予兆を感じ取ってはいなかった。ドンティと合流した翌日以降、この一団は野盗や妖魅に襲われることなく、至極順調に旅路を辿ってきていたのである。

 しかし、太陽はまだまだ高いし、小休止を入れるような刻限でもない。荷車が止められたのには、何らかの事情が存在するはずだった。


「いったい何をしておるのだ。バズ、外の連中に事情を質してくるがいい」


「いや、待て。俺たちが迂闊に動けば、無用な騒ぎを招くこともある。街道をすれ違う旅人などに声をかけられただけなのかもしれんのだからな」


 百獅子長のベルデンが、落ち着いた様子でそうたしなめた。

 そこに、外側から扉を叩く音色が響きわたる。


「隊長殿、失礼いたします。……南の方角から、狼煙が上がりました」


 扉が細く開かれて、そこから緊迫した兵士の声が注ぎ込まれてくる。

「来たか」と、ベルデンは勇んで立ち上がった。


「今日はすでに、黄の月の十八日。ついに、ゼラドの軍が動いたのだな?」


「は。国境の、物見の塔からの報せであるようです。敵の総数は、およそ三万――ダムロスの城から北西に進軍しているとのことです」


「北西、か。これは確かに、ラッカスを目指しているのかもしれんな」


 ベルデンは、引き締まった面持ちでうなずいた。


「何にせよ、セルヴァとゼラドの間に横たわる荒野を踏み越えるには、今日の日暮れまでかかることだろう。次の報せは日暮れ近くになろうが、決して見逃すのではないぞ」


「了解しました。それでは、こちらも出発いたします」


 扉が閉められて、ベルデンは腰を下ろした。

 やがて荷車は、さきほどと同じ勢いで進み始める。タールスは仏頂面で腕を組んでおり、ドンティはにんまりと微笑んでいた。


「なあ、ひとつ疑問に思ったのだが――」


 と、ギリル=ザザが誰にともなく声をあげる。


「ここから国境までは、まだ数日もかかるほど離れているのであろう? そんな場所で焚かれた狼煙とやらが、ここから見えるものであるのか?」


「それはもちろん、もっと近在にある領地からあげられた狼煙に決まっている。物見の塔からあげられた狼煙は、そうやって領地から領地へと引き継がれていき、最後には王都にまで届けられるのだ」


 ベルデンが答えると、ギリル=ザザは「ほう」と目を丸くした。


「ここから十日以上もかかる王都にまで、そのような手段で話を届けることができるのか。そいつはなかなか、たいそうな話だな」


「セルヴァは、あまりに広大であるからな。トトスを駆けさせるだけでは、用事が足りんのだ。……しかしこれで、王都でもようやく本格的に軍を動かすこととなろう」


 まだ興奮冷めやらぬ面持ちで、ベルデンはドンティを振り返った。


「おい、案内人よ。仮にゼラド軍が、ラッカス領を突破するとして――俺たちは、どこでゼラド軍を待ち受けることになるのだ?」


「へえ、それは相手方の動きにもよりますが、順当に行けばレラントの町になるかと思いやす」


「レラント? あまり聞かん名だな。たしか……グリュドの砦の南方にある、さほど大きくもない自治領区か」


「へい。おそらくは、グリュドの砦がこのたびの戦の防衛線となりやしょう。ですから、本格的に戦が始まる前に、レラントの付近で偽王子を確保しなけりゃあならないわけでございやす」


「そうか」と、ベルデンは大きくうなずく。


「して、ここからレラントまでは、あと何日ほどだ?」


「このまま何も起きなければ、三日後には到着する予定でございやす。ゼラド軍が到着するのは、どんなに早くとも五日後ぐらいでありやしょうね」


「ふむ。すべては、レイフォン卿の目論見通りということか」


 ベルデンは、武人の顔で猛々しく笑った。


「相分かった。引き続き、案内のほうをよろしく頼むぞ」


「へい、おまかせください」


 どうやらベルデンは、この段に至ってようやくドンティを心から信用することに決めたようだった。

 いっぽう、タールスは面白くなさげな面持ちでそっぽを向いている。けっきょくはドンティの述べていた通りに事が運びそうであったので、忌々しく思っているのだろう。


(まあ、知恵を授けたのがレイフォンならば、何も驚くことはあるまい。……実際は、レイフォンではなくその従者の知恵かもしれんがな)


 ロア=ファムは、心中でそのように考えた。

 ともあれ、ついにゼラド軍が動いたのだ。その中に、姉のメナ=ファムまで含まれているということが、いまだに冗談のように思えてしまった。


(俺がしくじれば、馬鹿な姉を救うこともできず、そして、王都がゼラド軍に踏みにじられることになるかもしれん。誰が王になろうと、俺の知ったことではないが――あそこには、恩義を受けた人間が何人もいるからな)


 レイフォンとその従者ティムト、ディラーム老、クリスフィア――そして、クリスフィアの侍女である、フラウ。最後にそのつつましくも朗らかな少女の笑顔を思い出したとき、ロア=ファムの胸が熱く疼いた。

 ディラーム老やクリスフィアには身を守る力があるし、レイフォンとその従者は誰よりも知略に長けている。しかし、フラウはただのか弱い少女であるのだ。フラウが戦火に巻き込まれる姿など、想像しただけで胸が悪くなってしまった。


(ええい、あの馬鹿な姉貴は、どうして戦などに加担しようなどと考えたのだ。戦になれば兵士ばかりでなく、罪もない人間までもが危険にさらされることになるというのに――それぐらいのことも、想像できんのか?)


 それはあまりに、メナ=ファムらしからぬ行いであるように思えてならなかった。

 しかしまた、メナ=ファムはきわめて頑固で一途な気性でもあるのだ。偽物の王子を本物の王子と思い込み、その境遇に同情して、自らの平穏な生活をも捨てることになった――ということなのだろうか。


(だったら、俺が目を覚ましてやる。レイフォンもその従者も、ゼラドの王子は偽物だと言いきっていたのだからな)


 ロア=ファムがそんな風に考えたとき、ギリル=ザザが「おい」と呼びかけてきた。


「深刻な顔をして、何を考え込んでいるのだ? ……もしかしたら、王都に残してきたあの娘に思いを馳せているのか?」


「や、やかましいぞ。俺が何を考えようと、俺の勝手だ」


「ふふん。まあ、そう案ずるな。あちらにはジェイ=シンやホドゥレイル=スドラもいるのだから、何も心配する必要はない」


「ほう。森辺の狩人というのは、たったふたりで数万の兵士を撃退する力を持っているのか」


「撃退するのは無理かもしれんが、逃げるなり身を隠すなりすることはできよう。そして、仲間と見定めた相手を見捨てるような真似も、絶対にしない。だから、大丈夫だ」


 ギリル=ザザは、いつもの調子でふてぶてしく笑っていた。

 森辺の同胞に対して、絶対的な信頼感を抱いているのだろう。家族の尻拭いのためにこのような場所まで出向くことになったロア=ファムとしては、妬ましいぐらいの話であった。


                 ◆


 そうして、その日の夜である。

 一団は、人の影もない荒涼とした地で、野営の準備を進めていた。


 目的の地であるレラントの町までは、あと三日。夕刻に、ゼラドの軍はラッカス領を突破したとの報が狼煙で告げられていたので、こちらの予定にも狂いは生じなかった。


 このままおたがいの旅路が順調であれば、五日後ぐらいには姉のメナ=ファムと相対することができる。鉄鍋で煮込んだ粗末な夜食をたいらげた後、ロア=ファムはひとり静かに昂ぶっていた。


「……俺はちょっと、外の空気を吸ってくる」


 ロア=ファムがそのように告げると、敷物の上で身体をのばしていたギリル=ザザは「なに?」と片方の眉を上げた。


「勝手に動くと、またあの連中に難癖をつけられるぞ。……まあ、お前がかまわんのなら、好きにするがいい」


「ああ。好きにさせてもらう」


 現在、ベルデンたちは他の荷台で何やら論議に励んでいる様子であった。どうやってゼラド軍の内にあるメナ=ファムと接触するか、それを論じ合っているようであるが、ロア=ファムとギリル=ザザはここで待つように命じられてしまったのだ。


(おそらくは、あのタールスという男が、それを望んだのだろうな)


 しかし、ロア=ファムにとっては、それもどうでもいいことだった。

 姉と相対する方法をベルデンたちが考案してくれるのならば、ロア=ファムはそれに従うばかりである。まずは顔をあわさなければ、ロア=ファムの使命を果たすことはかなわないのだ。


(もしもあいつがこちらの言葉に従わない場合は、偽王子を暗殺するしかない、という話だったが……そうしたら、あいつは俺を恨むだろうか)


 そんな風に考えながら、ロア=ファムは荷台の扉を押し開けた。

 とたんに、見張りの兵士が陰気な視線を差し向けてくる。そちらに目をやったロア=ファムは、わずかに眉をひそめることになった。


「……少し外を歩きたいのだが、許しをもらえるだろうか?」


 ロア=ファムが声をかけても、その口は閉ざされたままである。

 それは、タールスの部下である、大男のバズであった。


(大事な話し合いにも参加せず、俺たちを見張る役などをつとめていたのか)


 返事がないのでロア=ファムが立ち尽くしていると、少し離れたところで松明を掲げていた別の兵士が速足で近づいてきた。


「ロア=ファム、どうしたのだ? お前はそこで待つように言われていたであろう?」


「うむ。ちょっと外の空気を吸いたく思って……それに、小用も足したいのだ」


「そうか。だったら、俺が付き添おう」


 もう十日以上も寝食をともにしているので、身近な兵士たちとはだいぶ気心が知れるようになっていた。

 が、ロア=ファムが地面に降り立つと、バズが眼前に進み出てくる。


「……荷車を出るなら、小官が付き添おう。貴官は、見回りの仕事をまっとうされるがいい」


 ひさびさに聞く、バズの声であった。

 口調は丁寧だが、低く底ごもる声音をしているので、いくぶん聞き取りづらい。見回りの兵士は、うろんげな面持ちでそれを振り返った。


「べつだん、それはかまわぬが……貴官は、ロア=ファムを疎んでいるのではなかったか? ロア=ファムは重要な使命を帯びているのだから、諍いなどを起こされては困るぞ」


「……むろん、わきまえている」


 無表情に、バズは述べたてた。

 その岩のような顔から、内心を読み取ることは難しい。

 しかし、たとえこの大男が悪さを仕掛けてきても、ロア=ファムは軽く退けられる自信がある。このバズもそれなりの剣士であるようであったが、一対一ならば負ける気はしなかった。


「では、ロア=ファムもこれを持っていけ」


 兵士が予備の松明に火を灯し、それをロア=ファムに渡してくれた。

 バズは足もとにたてかけていた松明を手に取り、ロア=ファムを見下ろしてくる。ロア=ファムはひとつ肩をすくめてから、足を踏み出した。


 ここは、道から外れた茂みの中であった。

 道といっても、ぎりぎり荷車が通れるぐらいの細い道であり、左右は雑木林である。この道を南西に下っていけば、三日後にはレラントに到着するという話であった。


 茂みでは、夜の虫がチリチリと鳴いている。空には厚く雲がかかっており、月も完全に隠されてしまっていた。

 しばらく歩を進めていくと、後方からバズが「おい」と声をかけてくる。


「どこまで進むつもりだ? 小用ならば、どこでも済ませられるであろう」


「うむ。小用というのはついでで、外の風に吹かれることが一番の目的であったのだ。……あまり荷車から離れるのもまずかろうから、この辺りでしばらく休んでもいいだろうか?」


 松明の火に半面を照らされながら、バズはわずかに目を細めていた。

 何か得体の知れない感情をひそめた、強い目つきである。この大男は、何か自分にひとかたならぬ思いを抱いている――というロア=ファムの印象は、十日以上が過ぎてもまったく変じていなかった。


「なあ、前々から聞いてみたかったのだが、どうしてお前はそのような目で俺を見るのだ?」


「…………」


「お前やタールスが俺を疎んじているのはわかっている。しかし、お前の目つきは何というか……ただ疎んじているだけではないように思えるのだ。かといって、そこまで強い悪意を感じるわけでもないし、正直に言って、落ち着かない気分になる」


「…………」


「何か俺に含むところがあるのなら、いまのうちに聞かせてもらえんか? あと数日で大事な使命を果たす日がやってくるので、それまでに心残りは消しておきたく思う」


 ロア=ファムがそのように言葉を重ねても、バズは無言のままだった。

 ならば根比べだと、ロア=ファムも口をつぐんでみせると、十ほどを数えたのちに、バズはようよう重たい口を開いてくれた。


「小官は……べつだん、お前を疎んじたりはしていない」


「うむ? そうなのか? そのわりには、やたらとにらみつけられていたように思うのだが」


「小官は、ただ……お前の行く末を案じていただけだ」


 ロア=ファムは、小首を傾げることになった。

 バズのほうは、ぶすっとした面持ちで、ただ目を強く光らせている。


「お前は姉のために、その生を散らそうとしている。それが不憫でならないので、ついつい目で追うことが多かったかもしれん。それがお前を不快にさせていたなら、この場で詫びさせていただく」


「いや、不快というか何というか……俺のことが、不憫だと? お前はそのようなことを考えながら、俺のことを見やっていたのか?」


「うむ。このように無謀な使命が、無事に果たされるとは思えない。最終的に、我々は偽王子を処することとなろう。そうすれば、お前の姉も叛逆者として処刑され……お前自身も、何らかの責を負わされることになる。それを不憫と感じぬわけがあるか?」


「うーむ。その言い分は了承しかねるが、それにしても、お前の目つきにはもっと異なる感情がひそめられているように思えるぞ」


 ロア=ファムがそのように答えると、バズは小さく息をついた。

 それは何とはなしに、この大男が見せる初めての人間くさい仕草であるように思えた。


「自由開拓民であるお前が、王国の権勢争いに巻き込まれて朽ちていくことが、小官には不憫に思えてならないのだ。……小官も、自由開拓民の血筋であるからな」


「なに? 自由開拓民が、王国の騎士などになれるのか?」


「自由開拓民であったのは、小官の祖父までだ。祖父は故郷と氏を捨て、王国の兵士として生きる道を選んだ。小官の父も王国の兵士として生き、王国の兵士として死んでいった。それは誇りある死であると、小官は信じている」


 聞けば聞くほど、予想外の言葉ばかりであった。

 しかし、バズに虚言を吐いている様子はないし、このような虚言を思いつける気質でもないように思えた。


「かといって、小官に自由開拓民の生き様を否定する気持ちはない。自由開拓民であろうと王国の民であろうと、肝要であるのは、ただひとつ……己の生に誇りを持っているか否かだ」


 ロア=ファムの心情など知らぬげに、バズはそのように言い継いだ。


「お前も姉も、故郷では誇りのある生を生きていたのであろう。その道が半ばで潰えてしまうことを、小官はきわめて不憫に思っている」


「ふむ。お前がそのような思いを抱いていたとは、夢さら思っていなかった。人の気持ちというのは、わからんもんだな」


 ロア=ファムは、苦笑をもらしてしまわないように気をつけながら、そう答えた。


「しかし俺は、まだ誇りある生をあきらめたつもりはない。必ずこの手で使命を果たし、馬鹿な姉ともども故郷に帰るつもりだ。……そのために、どうか力を貸してはもらえんか?」


「小官とて、このたびの使命を果たすために同行しているのだ。ことさらお前に助力を願われるまでもない」


 バズはあくまでぶっきらぼうであったが、ロア=ファムの受ける印象はまったく異なるものに変じていた。

 ロア=ファムの故郷にも、無愛想でなかなか心情をさらそうとしない人間はいる。ロア=ファムとて、どちらかといえばそういった人間に区分されるのだ。それをわきまえた上でこのバズと相対すると、これは確かに頑固で偏屈な自由開拓民の末裔に相応しい立ち居振る舞いであるとさえ思えてきてしまったのだった。


(薄汚れた装束が似合うのも納得だ。きっとこいつは血のにじむような努力をして、王国の騎士などに成り上がったのだろうな)


 そんな風に考えたとき、ロア=ファムの背筋に冷たいものが走った。

 あわてて背後を振り返るが、そこに待ち受けているのは漆黒の闇ばかりである。この辺りは茂みも深いので、月の明かりも届かずに、いっそう黒々とした闇がわだかまっているようだった。


「おい、何かおかしな気配がしたぞ。ついに、妖魅が現れたのかもしれん」


 ロア=ファムは刀の柄に指先をかけながら、バズのほうに向きなおった。

 赤く燃える松明を手に、バズがうろんげに眉をひそめている。


「妖魅だと? それはお前たちの軽口ではなかったのか?」


「そんなことはない。俺はともかく、レイフォンたちだってその目で妖魅を見たと言っていたのだから――」


 そこでロア=ファムは、愕然と立ちすくむことになった。

 バズの頭上に、青い燐光のような双眸が浮かびあがったのである。


「おい、後ろ――!」と、ロア=ファムが叫んだ瞬間、漆黒の影がバズに覆いかぶさった。

 バズの小さな目が、裂けんばかりに見開かれる。その口から、魂消るような絶叫が振り絞られた。


 バズのつかんだ松明によって、妖魅の異形が照らし出されている。

 それは、カロンの大牛の姿をした妖魅であった。

 牧場で飼われる大人しいカロンではなく、凶悪な二本の角を生やした、野生のカロンである。


 ただしその肉体は、半分がた腐りかけていた。

 半分腐ったカロンの屍骸が、その四角い頑丈そうな歯で、バズの肩口にかじりついていたのだ。


 本来は草しか食さないカロンの歯が、バズの肩の骨をめきめきと割り砕いていく。

 やがてバズの絶叫が途絶えたかと思うと、その口から大量の鮮血が吐き出された。カロンの歯が、咽喉もとの血管をも噛み破ったのであろう。


「妖魅め! 土に帰れ!」


 ロア=ファムは、頭蓋骨を覗かせているカロンの顔面に、自分の松明の先端を押しつけた。

 人間や獣の屍骸に憑依した妖魅は、総じて火を嫌う――ロア=ファムは、王都でティムトにそのような知識を与えられていたのだ。


 果たして、妖魅は不気味なうめき声をほとばしらせると、バズの身体を放り捨てた。

 首と肩の付け根からぴゅうぴゅうと鮮血をこぼしつつ、バズはがっくりとくずおれる。巨大な妖魅を松明で牽制しながら、ロア=ファムはバズのもとに屈み込んだ。


「しっかりしろ! お前の使命は、まだ果たされていないのだろう!?」


 その身を真っ赤に染めながら、バズは力なくロア=ファムを見上げてきた。

 その茶色の瞳からは、すでに光が失われつつある。


「逃ゲ……ロ……」


 それがバズの、最後の言葉であった。

 己で作った血溜まりに、バズの身体がぐしゃりと崩れ落ちる。


 ロア=ファムは唇を噛みながら、身を起こした。

 カロンの屍骸の妖魅――屍鬼は、闇の中でうなり声をあげている。


 そして、兵士たちが野営をしている方角からは、喧騒の気配が伝わってきていた。

 あちらでも、何か変事が生じたのだ。

 これまでの平穏な日々を嘲笑うかのように、妖魅どもはついにその毒牙を剥き出しにして襲いかかってきたのだった。

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