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アムスホルン大陸記  作者: EDA
幕間
126/244

Ⅱ 案内人

2018.9/1 更新分 1/1

「ずいぶん怪しげな輩だな。……だいたい、我々とて西の王国の地理は十分にわきまえているというのに、どうして案内人などを同行させなければならないのだ?」


 タールスが、不信感に満ちみちた眼差しでドンティをにらみつけている。小男のドンティは、上目づかいでそちらを見返しながら、「ひひ」と笑った。


「もちろん王都の騎士様であれば、王国の地図も頭に叩き込まれているのでございやしょう。だけど、数万から成る軍勢の通る道と、数十人の人間が通る道では、自ずと勝手が異なってきやす。普段は騎士様の目に止まりもしない裏道や小道を使って、安全に、かつ迅速に、お目当ての土地までご案内いたしやすよ」


「ふん。このように口の回る輩は、ますます信用がならん」


 タールスがそのように言い捨てたとき、ほどよく肥えた若い娘が巨大な盆を手に近づいてきた。


「お待たせしました。お食事ですよお。……あらやだ、六人って聞いてたのに七人いらっしゃるみたいですねえ」


「ああ、俺のことは気にしないでくんな。自分の分は、自分で注文するからよ」


 ドンティが如才なく応じると、娘は「そうですか」と微笑んだ。


「それじゃあ、ちょいと失礼しますよお。……あらやだ、みなさん男前ですねえ」


「へん、ただし俺を除いてはって言いてえんだろ? 俺だって、同じ銅貨を払ってる客なんだぞ?」


「誰もそんなこと言ってないでしょうよお。さ、ごゆっくり召し上がれえ」


 たくさんの木皿と壺を卓に並べて、娘は立ち去っていった。

 頬の無精髭をさすりながら、ベルデンは「ふむ」と感心したような声をあげている。


「俺も大した生まれではないので、それなりに無頼漢を演じられていると自負していたのだがな。お前にはまったくかなわないようだ」


「ひひ。何も不思議はございやせん。俺なんざは、正真正銘の無頼漢でございやすからね」


「何? しかしお前は、レイフォン卿の手の者なのであろう?」


「俺は数年前、ヴェヘイムの若君に危ういところを助けられたんでさあ。もともとは、ゆすりたかりで人様の稼ぎをかすめとっていた小悪党でございやす」


 ドンティの言葉に、タールスはいっそう深い皺を眉間に刻むことになった。


「我々は、そんな小悪党の世話にならなければならんのか? レイフォン卿は、いったい何をお考えであるのだ」


「いえいえ、若君に救われてからは、悪党稼業からもすっぱり身を引いておりやす。……ただ、蛇の道は蛇と申しやすでしょう? 悪党ってのは目も耳も早いもんですから、お役に立ちそうな話をかき集めるのに重宝するんでさあ」


 ドンティはにたりと笑ってから、卓の上の木皿を指し示した。


「さ、とりあえず食べておくんなさい。その間、俺はここ最近でかき集めた話をお聞かせいたしやしょう」


「ああ。さっきから、ずっと腹が鳴っていたのだ。そのように言ってもらえるのは、ありがたいな」


 ギリル=ザザが笑いながら木皿を引き寄せたので、タールスはいよいよ険悪な面持ちになってしまった。

 とはいえ、今日は朝から街道を駆けていたので、干し肉と干し団子ぐらいしか口にしていない。安宿のわびしい料理であったものの、温かい煮汁を食べられるだけで、ロア=ファムには満足だった。


「それで、お前はどのような話を集めることができたのだ?」


 平たく焼かれたポイタンの生地を煮汁にひたしながら、ベルデンがそのように問い質した。

 果実酒の酒盃をちびちびとなめながら、ドンティはまた「ひひ」と笑い声をあげる。


「まずは、ゼラドの情勢でございやすね。あちらでは、王都侵攻の話を大々的にぶちあげて、傭兵を募っておりやしたよ」


「それはまあ、当然の話だろう。そうだからこそ、俺たちもこのような場所にまで出張ってきたのだからな」


「へい。そうして編成されたゼラド軍の総数は、少なく見積もっても三万。総指揮官は第一公子のデミッド、副官は第二公子のラバッド、参謀はタラムス将軍となるようでございやすね」


「なに?」とベルデンは目を剥いた。


「お前は、どこからそのような話を仕入れたのだ? ゼラド軍は、いまだ編成のさなかであるのだろうが?」


「へへ。蛇の道は蛇と申したでしょう? ゼラドの領内にも、俺の昔の悪党仲間が大勢潜んでいやがるんでさあ。あとは、ゼラド軍に入隊した傭兵の中にもね」


 ドンティは、自慢そうににたにたと笑っている。


「若君からは山のような銀貨を届けられたんで、そいつをばらまいて話をかき集めたってわけです。誓って、自分の懐にねじこんじゃいませんよ」


「ふうむ、やはり傭兵というのは、信用ならんものだな。自分の所属する軍の内情を、銀貨目当てで余人にもらすとは……しかしそれならば、その傭兵どもに偽王子との橋渡しを頼めばいいのではないか?」


「いやいや、傭兵なんぞに与えられるのは、最前線の矢よけと相場が決まっておりやす。偽王子なんざ、ご尊顔を拝見することもできねえだろうっていう話でありやしたよ」


 そう言って、ドンティはまたちびりと果実酒をすすった。


「で、その偽王子の御一行ですが……そちらはどうやら、もともと偽王子が引き連れてきた傭兵どもが、旗本隊として従軍するようです。同じ傭兵でも、そちらは偽王子に心酔しており、自分たちの手で僭王ベイギルスを討ち倒すのだと息巻いているようでございやすね。人数はせいぜい五十名ていどのようでやすが、エルヴィルっていう元千獅子長の隊長のもと、固く団結しているという話でありやす」


「やはり、エルヴィルか。……しかし、そのような話まで、ゼラドの傭兵どもに筒抜けであるのか?」


「それはむしろ、ゼラドの側がおおっぴらにしているようでございやすね。第四王子カノンに加えて、王都の軍の千獅子長であった人間までもが叛旗をひるがえしたという話で、箔をつけたいんでございやしょうよ」


「なるほどな。敬愛するヴァルダヌス将軍があのような最期を迎えて我を失ってしまったのであろうが、まったく厄介な真似をしでかしてくれたものだ」


 ベルデンは、壺から注いだ水をがぶりと飲んだ。本当であれば、ベルデンも果実酒をあおりたいところであるのだろう。


「しかしまあ、敵の総勢が三万ならば、これまでにもなかった数ではない。たとえ偽王子の存在で心を乱されようとも、王都の安寧が脅かされるには至らんだろうな」


「おっとっと、ちょいとお待ちください。話には、まだ続きがあるんでさあ」


「何だ、もったいぶらずに、早く言え」


「いえ、こちらはまだ確証のある話ではないのでございやすが……ゼラドの都オータムには、各領地からの兵団が続々と集められているという話なんでさあ。その数が、ちょっと尋常でないという話なんでさあね」


 そう言って、ドンティはじわりと身を乗り出してきた。


「ご存知の通り、ゼラドの南側に広がるのは、南の王国ジャガルでさあ。ゼラドとジャガルは友国の関係にありますし、大公がベアルズになってからは、ますますその絆が深まったと聞きやす。だからまあ、領地の守りを手薄にしても、それほど危なっかしいことはないんでございやしょう」


「だから、何だというのだ? もったいぶるなと言っているであろうが?」


「ええ。こいつは俺の憶測も混じってるんで、話半分に聞いていただきたいんですが……もしかしたら、最初の三万っていうのは先発隊に過ぎないかもしれないんでさあ。各領地からかき集めた兵団と、オータムに残っている兵士をあわせて、それよりも立派な本隊を編成する心づもりなんじゃないかと……」


「何だと!?」と、ベルデンが腰を浮かせかけた。

 周囲の客たちが、いったい何事かと視線を飛ばしてくる。ベルデンは頭をかき回しながら、ドンティに詰め寄った。


「三万もの軍勢が先発隊に過ぎないなど、そのような話がありうるのか? ゼラドとて、無限に兵士を抱え込んでいるわけではあるまい?」


「ええ。ですが、ゼラドは去年の戦が終わってから、躍起になって兵士をかき集めておりやしたからね。それで先ごろも大々的に傭兵を迎え入れたところですし……オータムの守りを考えなくていいなら、もう五万ぐらいの兵を動かせる算段なんでございやすよ」


「馬鹿な。それでは総勢で、八万の軍勢になってしまうではないか。それは……王都の軍と五大公爵領の騎士団を合計した数にも匹敵するのだぞ?」


「そうでやすね。守りの堅さで知られる王都を侵略しようってんなら、最低でもそれぐらいの軍勢が必要なんでございやしょうねえ」


「考えられん」と、別の人間がひび割れた声をあげた。

 ロア=ファムが振り返ると、タールスが顔を青くしてわなわなと震えている。


「そもそも、オータムを空にすることなど、できるものか。いくらジャガルとの関係が良好でも、セラドの周囲にはセルヴァの砦がいくつも存在するのだぞ? 王都を侵略する前に、自分たちの都を失うことになってしまうではないか」


「王都を侵略できるなら、オータムを失っても痛くはない、ということなんじゃないでしょうかねえ? だってベアルズ大公は、玉座を簒奪する心づもりなんでございやしょう? それなら、王都を侵略した後はオータムに帰る理由もなくなっちまうんじゃありやせんか?」


「し、しかし、いくら何でも、そのように無謀な真似をするわけが……」


「ええ。ですから、すべては俺の憶測でございやす。話半分で聞いていただきたいと、最初に述べさせてもらったでしょう?」


 ベルデンとタールスは、それぞれ苦悶の表情で押し黙ってしまった。

 その隙をついて、木皿の中身を食べ終えたギリル=ザザが発言する。


「なあ、これでは俺の腹も三分目だ。もういっぺん、今度は倍の量の食事を注文してもらえんか?」


 そのとぼけた言葉に、タールスが血走った目を差し向ける。


「くだらん話で水を差すな。我々がどれだけ重要な話をしているか、わかっておらんのか?」


「頭を使うのは、俺の仕事ではないのでな。荒事に備えて力を蓄えるのが、俺にとっては一番の仕事であるのだ」


 そんな風に述べてから、ギリル=ザザはドンティに向きなおった。


「ただ、ひとつだけ気になったことがある。お前は自分の憶測だと言っていたが、どうしてそのような憶測を思いつくことになったのだ?」


「は? どうして、とは……どういう意味でございやしょう?」


「どういう意味もへったくれもない。周りの土地から兵士をかき集めたからといって、どうしてそいつらまでもが王都に攻め込んでくると考えたのだ? 単に、守りを固めただけの話かもしれんではないか」


 ドンティは「なるほど」と目を細めて笑った。


「確かに、言葉足らずでございやしたかね。俺がそんな風に考えたのは、ふたつの理由からでございやす」


「ふむ。その理由とは?」


「はい。まずひとつ。もともとオータムは三万の兵を出しても、二万を超える軍勢が残されておりやした。オータムを守るだけなら、それ以上の兵を他の領地から招集する必要はないように思いやす。オータムは天然の要所なので、守るのにそれほどの兵力は必要ないんでさあ」


「ふむ。ふたつ目の理由は?」


「ふたつ目の理由は……本腰を入れて王都を侵略しようという戦に、ベアルズ大公自身が出向かないはずはない、ということでありやすね」


 そう言って、ドンティは短い指を顔の前で組み合わせる。


「ここ最近はオータムに引っ込んでおりやしたが、ベアルズ大公は猛将で知られる御仁でありやす。これまでも、でかい戦では大公自身が采配をふるっておりやした。いっぽうで、公子たちはボンクラぞろいで評判でありやすから……たとえタラムス将軍を参謀につけたところで、これほどの戦の総指揮官を任せられる器ではないんでございやすよ」


「なるほど。俺にはよくわからんが、お前なりに考えた末の言葉であったというわけだな」


 ギリル=ザザは満足そうな面持ちで、椅子の背もたれに身を預けた。


「後の判断は、みなに任せよう。なあ、食事を頼んでもかまわんだろうか?」


 ギリル=ザザの言葉が耳に入った様子もなく、ベルデンは自分の額に拳をおしやった。


「なるほどな……言われてみれば、あのボンクラ公子たちにこのような戦を任せるはずがない。さらに言うなら、毒蛇ベアルズがこのような戦に出向かぬはずがない、ということか……」


「お、おい。貴官はこのような妄言を信じようというのか?」


「信じざるを得まい。むろん、すべてを判断するのは、王都の貴き方々だ」


 ベルデンは、鋭い刃のごとき視線をドンティに突きつけた。


「おい、その話はもう王都に伝えられているのか?」


「ええ。昨日の晩に、早駆けの使者を送りやしたよ。数日の内に、若君へと伝えられることでしょう」


「ならば、大事ない。レイフォン卿ならば、きっといいように取り計らってくれることだろう」


 鋭い眼光をまぶたの裏に隠し、ベルデンはふっと息をついた。


「これで我々の任務は、いっそう重要なものとなった。ベアルズの率いる本隊が動く前に、偽王子の一団をゼラドの軍から引き離すのだ。……いっそこのままゼラドに乗り込んで、偽王子めを斬り捨ててやりたい心地だな」


 それでは、姉のメナ=ファムを救う道が閉ざされてしまう。

 ロア=ファムは内心でやきもきすることになったが、幸いなことに、ドンティがベルデンをなだめてくれた。


「いくら武勇を誇る騎士様でも、たった五十人でゼラドに乗り込むのは無謀ってもんです。あっちには、八万からの軍勢が集結しつつあるのですからね」


「わかっている。しかし、あちらがゼラドの領地を出ても、偽王子は三万の兵に守られているのだ。その目を盗んでロア=ファムの姉に言葉を届けることなど、可能なのだろうか?」


「そのあたりのことには、計略が必要でありやしょう。あちらさんがどんな具合に動くのかを、まずはしっかり見定めるべきでありやしょうね」


 そう言って、ドンティはにっと微笑んだ。

 そういう笑顔は、人懐っこいように見えなくもない。貧相な小男でありながら、このドンティには不可思議な魅力が備わっているようだった。


(それに、ずいぶん頭が切れるようだしな。まあ、そうでなくてはレイフォンに目をかけられることもないのだろう)


 ともあれ、ロア=ファムの使命はこれからが本番である。

 明日からの旅路に備えて、ロア=ファムも二杯目の食事を要求することにした。


                 ◇


 その翌日である。

 一行は、夜明けと同時に町を出て、再び合流することになった。

 しばらく街道を進んでから、ロア=ファムたちはまた荷車の中に詰め込まれる。あとはひたすら、街道を進むばかりである。


「あと三日ばかりは、この主街道を道なりに進んでいただいてけっこうです。その後に、ちょいと入り組んだ裏道にご案内いたしやすよ」


 ドンティは、ロア=ファムたちと同じ荷車に乗ることになった。

 また得体の知れない人間が増えてしまって、タールスとバズは不機嫌そうな様子である。その代わりに、ギリル=ザザは愉快そうに笑っていた。


「それならしばらくは、お前にも為すべき仕事はないということだな。では、昨晩の札遊びというやつを、また手ほどきしてくれんか?」


「おやおや、ジャガルの札遊びがずいぶんお気に召したようでやすね。そこでちっとばかりでも銅貨を賭けたら、またぐっと面白みが増すところでございやすが……」


「俺が持っているのは主人から預けられた銅貨であるので、賭け事などに使うわけにはいかんのだ。それに、銅貨など賭けなくとも、あの遊びは十分に面白いと思うぞ」


 昨晩、安宿の大部屋に移った後、この両名はずっとジャガルの札遊びなどというものに興じていたのである。忍耐強くそっぽを向いていたタールスは、ついにそこで怒声をあげることになった。


「おい、いい加減にしろ、痴れ者どもめ! これは王国の行く末を左右する重要な任務であるのだと、何度言ったら理解できるのだ!?」


「そうは言っても、ゼラドの軍にまみえるにはまだ数日ばかりもかかるのだろう? 荷車の中で眠っていても札遊びに興じていても、何も変わりはないではないか」


「そのような遊びに興じながら、有事に備えることができるのか? この道行きでも、どのような苦難に見舞われるか知れんのだぞ!」


「ああ、確かにその通りだな」


 不敵な笑顔で応じながら、ギリル=ザザは音もなく身を起こした。

 揺れる荷台の中で危なげもなく立ち上がり、腰の剣の柄に手をのばす。その姿を見て、タールスは顔面を蒼白にした。


「な、何をするつもりだ! まさか貴様――ゼラドの間諜か!?」


「わけのわからぬことを言うな。有事に備えるのではなかったのか?」


 そのとき、ロア=ファムも異変の兆候を察知することができた。

 荷車を引くトトスの足に、いくぶんの乱れが生じたのだ。


「妖魅の類いではないようだな。少しは手ごたえのある相手だといいのだが」


 ギリル=ザザは小窓の帳を引き開けて、外界を覗き見た。

 その横顔に、狩人らしい精悍な笑みが浮かべられている。


「そら、来たぞ。せっかくだから、俺も手伝ってきてやろう」


 そう言い捨てるや、ギリル=ザザはずかずかと後部の扉に近づいていった。

 タールスが「待て!」と叫ぶと同時に、荷車が急停止する。荷台に乗っていた人間の大半は、それで床に這いつくばることになった。


「おい、待て! いったい何が起きたというのだ?」


 床に転がったタールスたちを横目に、ロア=ファムはギリル=ザザに追いすがった。

 ギリル=ザザは「ふふん」と鼻を鳴らしてから、勢いよく扉を開け放つ。


「どうやら無法者の類いのようだな。まあ、寝起きの運動にはちょうどよかろう」


 扉を開けると、表の兵士たちのあげる怒号がまざまざと伝わってきた。

 ギリル=ザザの脇から外の有り様を見たロア=ファムは、「なるほどな」と刀の柄に手をかける。


 トトスにまたがった兵士たちが、無法者の集団と斬り結んでいた。

 おそらく、野盗の類いであろう。昨晩の安宿の客たちよりも薄汚い身なりをしており、蛮声をあげて刀を振り回している。表で護衛役のふりをしていた兵士たちは六名であったが、野盗の数はそれ以上であるようだ。


 野盗どももトトスにまたがっているので、兵士たちは苦戦を強いられている様子である。ギリル=ザザが地面に降りようとすると、床から身を起こしたベルデンが「おい!」と声を投げつけてきた。


「お前は、何をするつもりだ? 相手は、トトスに乗っているのだぞ!」


「心配するな。罪もないトトスを傷つけたりはせん」


 言うなり、ギリル=ザザは外界へと身を躍らせた。

 それに気づいた野盗のひとりが、獣のように吠えながらトトスを突進させてくる。

 トトスは、とてつもない怪力を有する恐鳥である。空を飛ぶ翼をもたない代わりに、強靭な足と鋭い鉤爪を有している。その足で踏みにじられれば人間などひとたまりもないし、体当たりをくらっただけで生命に関わるはずだった。


 が、トトスの突進を目前に迎えて、ギリル=ザザは悠然と立ちはだかっている。その腰の刀は、いまだ鞘から抜かれてもいなかった。


「くたばれ!」とわめきながら、野盗がトトスの脇腹を蹴った。

 トトスは得たりと、鉤爪の生えた足を大きく跳ね上げる。

 しかしギリル=ザザは、するりと横合いに身をかわした。

 トトスの足は虚空を踏み、そのままの勢いで駆け抜けていこうとする。その鞍の上にいる野盗の腰帯を、ギリル=ザザは無造作につかみ取っていた。


「うわあっ!」と情けない声をあげて、野盗の身体が宙に浮く。

 ギリル=ザザは、その身体を背中から地面に叩きつけた。

 騎手を失ったトトスはしばらく猛然と突進してから、不思議そうに立ち止まる。トトスは騎手の命令でもない限りは人を襲うこともない、無害な獣であるのだった。


「おっと」という声とともに、ギリル=ザザが刀を抜き放つ。

 そのまま刀が一閃されると、地面の上にへし折られた矢が落ちた。何者かが、背後からギリル=ザザに矢を射かけたのだ。


「腕が悪いな。せっかくの弓が、泣いているぞ」


 さらに何本かの矢が飛来したが、ギリル=ザザは余裕しゃくしゃくでそれを払い落としていた。

 そうして歩を進めると、騎手を失ってぼんやりと立ち尽くしていたトトスの手綱を取る。


「よかったら、俺に力を貸してくれ」


 その太く長い首を優しく撫でてから、ギリル=ザザはトトスに飛び乗った。

 そして、乱戦のさなかへと突入していく。


「こいつはたまげた。あのお人は、さぞかし名のある剣士様なのでしょうねえ」


 気づくと、ドンティがロア=ファムのかたわらでそのようにつぶやいていた。

 ロア=ファムは、そちらに肩をすくめてみせる。


「一晩中顔を突き合わせていながら、あいつの素性を聞いていなかったのか? あいつは、森辺の狩人だ」


「森辺の狩人! そいつは、モルガの森のギバ狩りの一族でやすかい? そいつはまあ、驚くべきお人と出会えたもんだ」


 そのように述べながら、ドンティはにっと笑いかけてきた。


「そうすると、あなた様もあの御方のお仲間なんで? あの御方とあなた様は、ずいぶん似たような目つきをしてらっしゃる」


「俺の素性も聞いていないのか? 俺は、シャーリの川辺を故郷とするグレン族だ」


「ああ、なるほど。あなた様は、大鰐狩りの狩人さんでありやしたか。さすがギバだの大鰐だのを相手取る狩人さんは、人間離れしたお力を持ってるもんでございやすねえ」


「……ギリル=ザザはともかく、俺はまだお前に力など見せていないぞ」


「いやいや、これでも剣士様の力量を見る目ぐらいは持ち合わせているつもりでやして……それにしても、あの御方がこれほどのお力を持っているとは、さすがに想像を超えておりやしたよ」


 ドンティの言葉通り、ギリル=ザザは人間離れした力量で野盗どもを退治していった。

 ギリル=ザザが刀をふるうたびに、ひとり、またひとりと野盗が地に落ちていく。それはまるで、闘神にして太陽神たるアリルが体現したかのような戦いぶりであった。


(ジェイ=シンもそうだったが、こいつも人間相手の戦いに慣れている。それもまた、俺の持たない強さだな)


 ロア=ファムはあくまで狩人であるので、その刀を人に向けたことはほとんどない。しかし、ジェイ=シンやギリル=ザザたちは、ジェノスの城下町で剣術の手ほどきを受けたことがある、という話であったのだ。


(それだけ都の人間と深い縁を結びながら、狩人としての力も損なわれていない。森辺の狩人よりも強靭な人間など、この世に存在しないのではないだろうか)


 ロア=ファムがそんな思いにとらわれている間に、戦闘は終了していた。

 十人ばかりもいた野盗どもは全員が地面に横たわり、それぞれ苦悶の声をあげている。五体満足の人間はいなかったが、同時に生命を失った人間もいないようだった。


「おおい、片付いたぞ。やはり、大した相手ではなかったな」


 ギリル=ザザは野盗から強奪したトトスに乗りながら、ロア=ファムたちのほうに戻ってきた。その後から、別の兵士も一名、追いすがってくる。


「隊長殿、三名ほどが手傷を負ってしまいました。それに、二頭のトトスが矢を受けています」


「手傷を負った隊員は、荷台の人間と交代しろ。トトスは、もう走れなそうか?」


「はい。一頭は絶命し、もう一頭は足を貫かれています」


「では、野盗どものトトスを代わりに使うしかなかろうな。しかし、どうせそれはどこかから奪ってきたトトスであろうから、のちのち厄介なことになるやもしれん。新しいトトスを買うことのできる町までたどり着いたら、乗り捨てることとしよう」


 ベルデンは、的確に指示を飛ばしていく。すると、呆然と立ち尽くしていたタールスが割り込んできた。


「おい。それよりも、まずは野盗どもの始末であろう。他の人間に見られる前に、処置しておくべきだ」


「処置? あいつらはもう、悪さをする力も残されていないぞ」


 ギリル=ザザがうろんげに振り返ると、タールスは「ふん」と目を光らせた。


「それでも、口をきく力は残されているだろう。我々の存在を余所で吹聴されないように、口を封じておけ」


「何だ、それは。まさか、生命を取ろうというのではなかろうな? あやつらは大罪人かもしれんが、それを裁くのは王国の法であろう?」


「野盗を殺めて罪に問われることはない。ここは万全を期すために、とどめを刺しておくべきだ」


 ギリル=ザザはぎゅっと眉根を寄せると、「断る」と言い捨てた。


「な、なに? お前は、自分が何を言っているかわかっているのか?」


「俺には異郷の罪人を裁く資格などない。また、動く力も残されていない人間を殺めるなど、まっぴらだ」


 ギリル=ザザの黒い瞳に、深甚なる怒りの炎が宿っていた。

 いつも飄々と笑っているギリル=ザザの初めて見せる、怒りの炎である。タールスは青ざめながら後ずさり、それを庇うように大男のバズが身を乗り出した。


「き、貴様、何だその目は……我々は、王都の騎士であるのだぞ!」


「相手が誰であれ、俺は自分の心を曲げることはできん。それに、俺に命令できるのは、森辺の族長とジェノス侯爵家の主人だけだ」


 その目を爛々と燃やしながら、ギリル=ザザはにやりと口の端を吊り上げた。


「野盗どもの生命を奪いたいならば、お前が自分の手でやればいい。ただし、その汚れた手で俺に触れてくれるなよ、王都の騎士殿」


「貴様……!」と、タールスが剣の柄に手をかける。

 そこでベルデンが、「よさんか」と強い声をあげた。


「タールス殿、貴官はあくまで見届け役であり、この部隊の指揮官は俺だ。俺を差し置いて、勝手な真似は差し控えていただこう」


「し、しかし、あの野盗どもを野放しにするわけにはいくまい? どこにゼラドの間諜が潜んでいるのかもしれんのだぞ?」


「あやつらが目にしたのは、荷台から現れたギリル=ザザが自分たちを返り討ちにした姿だけだ。他の兵士たちは姿を見られてもいないだろうから、ゼラドの間諜に怪しまれることもあるまい」


 そう言って、ベルデンは配下の兵士へと視線を戻した。


「野盗どもは、手足を紐でくくっておけ。次にこの街道を通る者たちが、始末をつけてくれることだろう。その前に、俺たちは一刻も早くこの場を離れるのだ」


「了解いたしました」と、兵士はトトスの首を巡らせる。

 それを見届けたのち、ギリル=ザザがこちらに向きなおると、その双眸からは怒りの火が消えていた。


「ベルデンといったな。あなたのような人間が指揮官で、俺は喜ばしく思っているぞ」


「そうか。ならば言わせてもらうが、お前も勝手な真似は控えてもらおう。お前が手出ししていなければ、タールス殿も口封じなどを考えずに済んだのだ」


「そうだな。あまりに退屈であったので、つい気がはやってしまった。今後は、あなたの言葉を聞いてから動くことにしよう」


 ギリル=ザザがあまりに素直であったためか、ベルデンは拍子抜けしたように頭をかいていた。

 いっぽう、タールスは憤懣やるかたない様子で、ギリル=ザザをねめつけている。


(やれやれ。ギリル=ザザは、またこの御仁の反感を買ってしまったようだな)


 そのように考えながら、ロア=ファムは赤茶けた髪をかきあげる。

 ロア=ファムの右頬には、さきほどから余人の視線が突きつけられていた。

 その正体は、とっくにわかっている。大男のバズは、こんな際にもロア=ファムのほうを注視していたのである。


(俺は何もしていないのに、どうしてこやつは俺の挙動ばかりをうかがっているのだ? これならば、面と向かって文句を言われたほうが、まだましだな)


 とはいえ、姉のメナ=ファムを救う旅路は、まだ始まったばかりである。

 心の片隅にささやかな疑念を抱え込みながら、ロア=ファムは荷台で身体を休めることにした。

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