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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅴ-Ⅴ 邂逅

2018.8/11 更新分 1/1

「エルヴィル、話が違うじゃないか。あたしらが相手をするのは、セルヴァの軍だって話だったはずだよ?」


 半月刀をかまえながら、メナ=ファムはそんな風に言い捨ててみせた。

 そこから十歩といかぬところで、カロンの生ける屍は鬼火のごとき双眸を燃やしている。小山のような図体でありながら、ところどころが腐り落ちている、見るもおぞましい妖魅である。


 その場にひしめいていた旗本隊の兵士たちは、みんな死人のような顔色で刀をかまえている。このような妖魅を目の前に迎えるのは、誰にとっても初めてのことであるようだった。


「……こいつが生きているカロンと同じぐらい素早く動けるとしたら、とびきり厄介だね。カロンってのは、見かけほど鈍重じゃないんだよ」


 恐怖と惑乱の心情を腹の底にねじ伏せながら、メナ=ファムはなおも言葉を重ねてみせた。


「エルヴィル、あいつが大人しくしているうちに、みんなトトスに乗っちまったほうがいいんじゃないのかねえ?」


「……しかし、四方はゼラドの軍に囲まれている。どこにも逃げ場などはないのだぞ」


 エルヴィルは、振り絞るような声でそう答えていた。

 妖魅の姿から目を離すことはできないので、エルヴィルがどのような表情をしているのかはわからなかったが、やはり慄然としているのだろう。このような妖魅が現世に現れることなど、普通は考えられないことであるはずだった。


「だったら、ゼラドの軍の中に突っ込んじまおうよ。そうしたら、ゼラドの兵士たちが代わりに戦ってくれるだろう? こんな化け物、あたしらが相手をすることはないさ」


「うむ。ならば――」とエルヴィルが答えかけたとき、ふいに妖魅の巨体が動いた。

 もっとも近くにいた傭兵が、体当たりをくらって吹っ飛んでしまう。たちまちその場には、我を失った悲鳴や怒号が交錯することになった。


「心を乱すな! トトスに騎乗せよ! 王子殿下をお守りしながら、西の側に撤退する!」


 撤退の一言が、傭兵たちの心をつき動かしたのだろう。周囲の傭兵たちがいっせいに身をひるがえすのを感じて、メナ=ファムは「馬鹿野郎!」とがなることになった。


「王子より先に逃げてどうするんだよ! あんたたちがいなくなったら、この化け物は――!」


 メナ=ファムが叫ぶと同時に、鬼火のごとき眼光がこちらに向けられてきた。

 いまや、この場でもっとも妖魅のそばにあったのは、メナ=ファムであったのだ。

 そして、メナ=ファムの背後にはシルファの乗った車がある。いまごろラムルエルは、トトスを車に繋いでいるさなかであるのだろう。メナ=ファムだけは、その場から逃げることは許されなかった。


(畜生、だったら――!)


 一瞬で決断して、メナ=ファムは地を蹴った。

 妖魅との距離は保ったまま、横方向に移動したのだ。

 シルファのもとから離れるのは不安であったものの、いまは妖魅の目を自分にひきつけておく必要があるはずだった。


「ほら、かかってきなよ、腐りかけ野郎! あんたなんざにやられやしないよ!」


 妖魅は地鳴りのような声で咆哮をあげてから、メナ=ファムのほうに突進してきた。

 十歩ほどもあった距離が、一瞬で詰められてしまう。メナ=ファムは内心で息を呑みながら、頭から地面に転がり込んだ。


(ふん! シャーリの大鰐だって、同じぐらいすばしっこいよ!)


 妖魅の突進をなんとか回避しながら、メナ=ファムは半月刀を横に薙いだ。

 メナ=ファムの身体をほとんどかすめるようにして通りすぎていった妖魅が、その先でぐしゃりと倒れ込む。

 地面を一回転して立ち上がったメナ=ファムは、「ふう」と息をつきながら、刀に付着した腐汁を振り払った。


「あやうく刀をへし折られそうだったけど、なんとか上手くいったみたいだね」


 妖魅は濁ったうめき声をあげながら、のろのろと巨体を起こした。

 しかし、真っ直ぐ立つことはできない。さきほどの一撃で、メナ=ファムが右の前肢を叩き斬ってみせたためである。


「メナ=ファム、無事だったか」


 頭上から、エルヴィルの声が聞こえてくる。

 振り返ると、トトスに乗ったエルヴィルが燃えるような目つきで妖魅の姿をねめつけていた。


「ああ。だけど、あんな化け物はどうやったら退治できるのかもわからないからね。逃げる準備が整ったんなら、とっとと逃げることにしよう」


 すると、それに答えるように、ラムルエルの声も聞こえてきた。


「準備、できました。メナ=ファム、こちら、来られますか?」


「ああ、いま行くよ! ……それじゃあ、逃げるとしようかね。三本足だったら、荷車を引かせたトトスでも追いつかれることはないだろうよ」


「ああ。周囲は俺たちが固めるので、お前は王子殿下を――」


 エルヴィルの声が、人間の断末魔によってかき消された。

 背後を振り返ったメナ=ファムは、愕然と立ちすくんでしまう。


 旗本隊の兵士の身体が、闇の中で高々と吊り上げられていた。

 吊り上げているのは、新たな妖魅である。さきほどの妖魅よりも巨大な図体をした妖魅が、その角を兵士の首に突き刺して、見せびらかすかのように中空へと掲げていたのだ。


 さらにその背後には、いくつもの青い鬼火が灯っていた。

 それらがすべてカロンの生ける屍だとすると――最低でも、十体以上はいそうな数である。

 メナ=ファムはぎりっと奥歯を噛みしめてから、エルヴィルと同じトトスに飛び乗った。


「何をぐずぐずしてるんだい! 逃げるんだよ、エルヴィル! ラムルエルも、トトスを走らせな!」


「了解です」と、こんな際にも感情を見せないラムルエルの声が響くや、シルファの乗った車が動き始めた。

 エルヴィルも、我に返った様子で、トトスの腹を蹴る。


「王子殿下をお守りしろ! 西方のゼラド軍と合流するのだ!」


 メナ=ファムはエルヴィルの腹を左腕で抱え込みながら、背後を振り返った。

 十数体にも及ぶ妖魅どもが、地響きをたてて追いすがってくるのが感じられる。その中で、メナ=ファムが足を斬り落とした妖魅だけが、よたよたとおぼつかない足取りであった。


「あれだけの数が集まってたんなら、ゼラドの陣が突破されるのも納得だね。それにしても、残りの連中は何をやってるんだか」


「大丈夫だ。ようやく伝令が回されたらしい」


 エルヴィルの声で前方に向きなおると、松明を掲げたゼラドの兵士たちが前方から迫ってくるのが見えた。エルヴィルは、ラムルエルの車と並走しながら、息をついている。

 しかし、ゼラドの兵士たちはこちらの進行をさまたげる格好で立ちはだかり、「止まれ!」と怒号をあげてきた。


「陣を乱すな! もとの場所まで戻るのだ!」


「何だと!? お前たちは、状況がわかっていないのか!?」


「ふん。妖魅が出現したとかで、何やら騒ぎになっているようだな。そんな流言を流して、我らをたばかろうとしても――」


 と、そのように言いかけたゼラド兵の目が、かっと見開かれた。

 メナ=ファムたちの背後に迫る、異形の存在に気づいたのだろう。


「エルヴィル! このままじゃあ、ゼラドの連中ごと圧し潰されちまうよ!」


「……進路を左に取れ! 味方にぶつかるなよ!」


 その命令に真っ先に従ったのは、ラムルエルであった。

 重い荷車を引かされた2頭のトトスが、その速度は減じぬまま、左方向に進路を変える。その左右をはさんだ傭兵たちも、慌てふためいた様子でそれに従った。


 そして、そのすぐ後に、凄まじい絶叫が闇に響きわたる。

 妖魅の大群が、立ちはだかっていたゼラド軍の兵士たちに突っ込んだのだ。

 エルヴィルの身体にしがみつきながら、メナ=ファムは「ちっ」と舌を鳴らした。


「半分ぐらいは、まだしつこくこっちを追いかけてきてるよ。荷車を捨てないと、いずれ追いつかれちまうだろうね」


「しかし、王子殿下を降ろしている時間はないぞ!」


「わかってるよ。とりあえず、このトトスを車の横につけな」


 エルヴィルは無言のまま、メナ=ファムの言葉に従った。

 木造りの荷台が、すぐ真横に迫ってくる。その位置を確認しながら、メナ=ファムは右手の刀を鞘に収めた。


「いいかい、まずはあたしが荷台に飛び移るからね。それで、シルファを……いや、王子様を引っ張り出すから、そいつをあんたが受け止めな」


「何? トトスを走らせたまま、そのような真似をするつもりか?」


「止まっちまったら、あっという間に追いつかれちまうだろ? 相手との距離がある、いましか好機はないんだよ」


 エルヴィルの背中に、メナ=ファムはにやりと笑いかけてみせた。


「王子様を受け取ったら、あんたたちは全力で逃げな。荷台を引かせてないトトスだったら、まあ追いつかれることはないだろうよ」


「……その後、お前はどうするつもりだ?」


「あたしとラムルエルは、トトスを走らせながら、荷車を切り離すよ。ラムルエルがきっちり手綱を操ってくれれば、何も難しい話じゃないさ。……こんなことなら、最初から荷車なんかに繋がなきゃよかったね」


 しばしの沈黙ののち、エルヴィルは「よし」とうなずいた。

 そして、わずかにトトスの足を速めると、御者台のラムルエルに呼びかける。


「王子殿下に、後方の扉を開けさせろ! これから、メナ=ファムが荷台に飛び移る!」


「承知しました」


 真っ直ぐに正面を向いたラムルエルの横顔は、やはり沈着そのものであった。

 そうしてエルヴィルがトトスを後ろに下がらせると、後部の扉が勢いよく開かれた。


「よし。すぐに王子様をよこすからね」


 メナ=ファムはエルヴィルの肩に手をかけて、トトスの上で膝立ちになった。

 そして、一息に荷台の扉へと飛び移る。その扉を伝って、メナ=ファムは荷台の中に転がり込んだ。


「ふう。無事だったみたいだね、シルファ」


「ああ、メナ=ファム……」


 メナ=ファムが身を起こすと、とたんにシルファが抱きついてきた。

 ほっそりとした身体が、がくがくと震えている。その足もとでは、黒豹のプルートゥが凛然とメナ=ファムたちを見上げていた。


「あたしのほうも、かすり傷ひとつないよ。さ、それじゃああんたは、外に出な」


「そ、外に? いったい、どうしようというのですか?」


「エルヴィルの乗ってるトトスに飛び移るんだよ。あの扉にしがみついてれば、エルヴィルが上手いこと抱えあげてくれるさ」


 シルファはメナ=ファムの身体をぎゅっと抱きすくめながら、涙で潤んだ青灰色の瞳を向けてきた。


「でも、そうしたらメナ=ファムはどうするのです? 別のトトスも準備されているのですか?」


「いや、あたしはこの荷車のトトスを使わせてもらうつもりだよ。ラムルエルと一緒に、すぐに後から追いかけるさ」


「嫌です!」と、シルファはいっそう強い力でメナ=ファムを抱きすくめてくる。


「それなら、わたしもメナ=ファムたちとご一緒します! この荷車を引いているトトスは2頭なのですから、3人いても問題はありませんよね?」


「そりゃあそうだけど、ここから御者台に向かうには、屋根を伝っていくしかないんだ。あんたにそんな真似はできないだろ、シルファ?」


「で、できます! いえ、やってみせます! メナ=ファムたちを置いて逃げることなんて、わたしにはできません!」


 メナ=ファムは、心臓をつかまれるような幸福感と、尻に火をつけられたような焦燥感を同時に味わわされることになった。


「あのねえ、シルファ。こんな風に騒いでる時間はないんだよ。うかうかしてると、あの化け物どもに追いつかれちまうんだからさ。わがままを言わないで、あたしの言葉に従っておくれ」


「でも――!」


「でも、じゃないんだよ。これまで、あたしがあんたとの約束を破ったことがあるかい?」


 メナ=ファムは、精一杯の思いを込めて、シルファの髪を撫でてみせた。


「王都の軍に襲われたときも、あたしたちは上手く逃げのびたじゃないか? まあ、最後にはゼラドの連中に救われたんだけど……何にせよ、あたしはあんたを置いて死ぬ気はないし、あたしより先にあんたを死なせる気もないよ」


「メナ=ファム……」と、シルファはその白い頬に一筋の涙を伝わせた。


「わかりました……メナ=ファムの言葉を信じます。わたしは、エルヴィルのもとでメナ=ファムたちを待てばいいのですね?」


「ああ。いい子で待ってるんだよ?」


 メナ=ファムは最後にぐっとシルファの身体を抱きしめてから、その身を引き離した。


「さ、それじゃあ地面に落ちないようにね。あの扉の、できるだけ外側にしがみつくんだ」


 メナ=ファムはシルファとともに、後部へと移動した。

 妖魅の青い眼光は、石を放れば当たりそうな位置にまで迫っている。もはや、一刻の猶予もならないようだった。


「よし、あたしが身体を支えてやるから、あんたは扉に手を――」


 そのとき、メナ=ファムの目に信じ難い光景が映った。

 横合いの暗がりから、突如として新たな妖魅が出現したのだ。


 その妖魅が、エルヴィルの乗っていたトトスに真横から激突した。

 トトスはあわれげな鳴き声を発し、鞍の上のエルヴィルごと横転する。

 そして――妖魅はまったくその勢いを減じぬまま、メナ=ファムたちの乗った荷台にまで激突した。


 凄まじい衝撃が、荷台を震撼させる。

 出口に足をかけていたシルファは、その衝撃で足を踏み外すことになった。

 驚愕に凍りついたシルファの顔が、メナ=ファムを見つめながら遠ざかっていく。

 メナ=ファムはとっさに手をのばしたが、シルファの指先はぎりぎりのところですりぬけていってしまった。


(くそ、またかよ!)


 考える間もなく、メナ=ファムも荷台から身を躍らせていた。

 いったんは離れたシルファの指先を空中でとらえて、自分のほうに引き寄せる。そうしてシルファのほっそりとした身体を両腕で抱え込み、メナ=ファムは背中から地面に落ちた。


 重い衝撃が、背骨を走り抜けていく。

 それを少しでも緩和させるべく、メナ=ファムは地面を転がった。

 もちろん、シルファの身体はその腕に抱いたままである。これは、かつて王都の軍勢に追い詰められたときの再現であった。


「あいててて……シルファ、無事かい?」


「は、はい。わたしは、大丈夫です」


 シルファはメナ=ファムの胸に取りすがりながら、ぜいぜいと息をついていた。

 そして、そんなふたりのかたわらを、妖魅の数体が走り抜けていく。荷車に追いすがっていた妖魅どもである。


 荷車は、少し離れたところで横転していた。

 エルヴィルとトトスの姿は、闇にまぎれて確認できない。この場では、妖魅の群れに踏み潰されていないことを祈るしかなかった。


 そして、エルヴィルと荷車を横転させた、新手の妖魅である。

 その妖魅だけは、荷車のかたわらで立ち尽くしていた。


 やはり巨大な、カロンの生ける屍である。

 その顔は右半面が腐り落ちて、白い頭蓋を剥き出しにしていた。

 その頭蓋に空いた眼窩には、青い眼光が灯っている。その眼光が、何かに引き寄せられるかのように、メナ=ファムたちのほうを向いた。


「まいったね。どうやら、気づかれちまったみたいだ」


 シルファの震える肩に手を置きながら、メナ=ファムはもう片方の手で半月刀を抜き放った。


「シルファ、あんたはここにいるんだよ。あたしはちょいと、あいつの足を叩き斬ってくるからね」


「だ……大丈夫なのですか、メナ=ファム? あれは……この世のものではありません」


 シルファは、がちがちと歯を鳴らしてしまっていた。

 それを力づけるために、メナ=ファムはぐっと肩をつかんでみせる。


「大丈夫さ。あんな化け物にやられたりはしないよ。あんたはあたしを信じて、ここで待っておきな」


 そう言って、メナ=ファムは立ち上がろうとした。

 その右の足首に、ずきりと鈍い痛みが走る。


(まいったね。足をひねっちまったか)


 しかし、メナ=ファムのやることに変わりはない。

 この魂が母なるシャーリのもとに返されるまで、メナ=ファムは自分の生をあきらめるつもりはなかった。


「さあ、あたしが相手になってやるよ! 文句があるなら、かかってきな!」


 地面にくずおれたシルファから遠ざかり、妖魅のほうに足を向けながら、メナ=ファムはそのように宣言してみせた。

 妖魅は地鳴りのようなうなり声をもらしながら、青い眼光をゆらめかせている。


「どうしたんだい? あんたは人間様に喧嘩を売る気で現れたんだろ? そいつを買ってやろうってんだから、とっととかかってきなよ!」


 妖魅の関心をシルファに向けさせてはならじと、メナ=ファムは声を張ってみせる。

 そのとき、横合いの暗がりから、巨大な影が飛び出してきた。

 新手の妖魅か、とメナ=ファムは刀をかまえなおす。


 しかしそれは、トトスにまたがった人間であった。

 ただし、甲冑は纏っていない。ゼラド軍でも旗本隊でもない、それは浅黒い肌をした若者であるようだった。


 妖魅の眼光が、すかさずそちらに差し向けられる。

 トトスにまたがった若者は、真っ直ぐ妖魅へと突き進んでいた。

 その手には、鋼の長剣が握られている。

 妖魅は咆哮をあげて、自らも若者に突進した。


「馬鹿! 真正面からやりあうつもりかい!?」


 メナ=ファムは、ほとんど無意識にそう叫んでしまっていた。

 その間に、若者と妖魅の身体が交錯する。


 そして――妖魅の巨体が、ぐしゃりと崩れ落ちた。

 そこから分離した巨大な塊が、ごろごろと転がったのちに、メナ=ファムの足もとで停止する。


 それは、妖魅の生首であった。

 すれ違いざまに、若者が一刀でその図太い首を叩き斬ってしまったのだ。

 しかし、首を落とされてなお、この妖魅は魂を返していなかった。

 その目を憎悪に燃やしながら、頑丈そうな四角い歯でがちがちと空を噛んでいる。そのおぞましい姿をにらすえながら、メナ=ファムはシルファのもとまで後ずさった。


 すると、トトスに乗った若者もまた、メナ=ファムたちのほうに駆け寄ってきた。

 メナ=ファムはとっさに刀をかまえたが、若者はこちらを見ようともせずに、ふたりのかたわらを通りすぎていく。そして、その際にトトスの鉤爪で妖魅の生首を踏みにじっていた。


 頑丈そうな頭蓋がその一撃で砕け散り、腐り果てた脳漿がどろりと地面にこぼれ落ちる。

 たまらない腐臭が、夜気に満ちていた。

 そして――それでついに、妖魅の眼窩に灯っていた鬼火のごとき眼光も消えることになった。


「メ、メナ=ファム……」


 シルファは身体を震わせながら、メナ=ファムに取りすがっている。その肩をしっかり抱き寄せながら、メナ=ファムは視線を巡らせた。

 いったん通りすぎた若者が、またこちらに近づいてきていたのだ。

 その手には、腐汁にまみれた刀が握られている。その刀身のきらめきが、メナ=ファムの危機感をかきたてていた。


「ちょっと待ちな。それ以上、近づくんじゃないよ。……あんた、いったい何者なんだい?」


 ここは、ゼラドの陣の真っ只中なのである。その中に、兵士でもない人間がまぎれこんでいるというのは、本来ありえない話であった。

 周囲の暗がりからは、喧騒が伝わってきている。旗本隊やゼラドの兵士たちも、妖魅を相手に奮闘しているのだろう。そんな中、この場所にだけ妙な静けさが満ちてしまっていた。


 若者は、無言でメナ=ファムたちを見下ろしてきている。

 本当にまだ若い、メナ=ファムよりも若そうな青年である。

 ただ、なかなかの長身であり、体格もがっしりとしている。西の民としては、大男に分類される体格であった。


 しかし、この若者は西の民であるのだろうか。

 その肌は、ずいぶん浅黒い色合いをしている。東の民ほどではないにせよ、生粋の西の民とは思えぬような色合いであった。


 短く切りそろえた髪は褐色であり、瞳は黒色だ。精悍で、いかにも勇猛そうな面立ちをしており、メナ=ファムのことを値踏みするように見つめている。

 その身に纏っているのは旅用の外套と、ごく粗末な布の装束であり、トトスの鞍にはそれなりの荷物を積んでいるようだった。


「……あんた、いったい何者なんだい?」


 メナ=ファムは、同じ言葉を繰り返すことになった。

 この若者から、ちょっと普通でない気配を感じ取ったためである。


 それはまるで、野生の獣が人間の形を取ったかのような存在であった。

 ただ逞しい体格をしているというだけでなく、その肉体から野生の生命力があふれかえっているかのようだ。メナ=ファムの故郷にだって、これほどの力強さを感じさせる人間はいなかった。


(何てこった。こいつは……シャーリの狩人が束になってもかなわない、化け物だ)


 それはつまり、シャーリの大鰐よりも危険な存在である、という意味になる。

 メナ=ファムにとって、それは生ける屍と同じぐらい、驚愕に値する存在であった。


 若者は、ただ静かにメナ=ファムたちを見下ろしている。

 威嚇しているつもりなど、さらさらないのだろう。しかし、その身から感じ取れる力感だけで、メナ=ファムには十分以上の脅威であった。


(もしもこいつが襲いかかってきたら、とうていシルファを守りきれない……くそっ! こんなの、妖魅よりタチが悪いじゃないか!)


 メナ=ファムは、祈るような気持ちで刀をかまえなおすことになった。


「危ないところを助けてくれたことには、感謝しているよ。でも、あんたはいったい何なんだい? この場に兵士じゃない人間がいるはずはないんだよね」


「…………」


「名前を、名乗りなよ。あたしは、グレン族のメナ=ファムってもんだ。あんたの敵に回るつもりはないよ」


 若者は、何かに驚いたように目を見開いていた。

 しかし、口を開こうとはしない。ただ、しげしげとメナ=ファムとシルファの顔を見比べるばかりであった。


 そこに、新たな人影が現れる。

 トトスに乗った、今度は壮年の小男である。


「おおい、俺を置いていくんじゃねえよ! あの化け物どもに踏み潰されるところだったじゃねえか!」


 それもまた、兵士ならぬ身なりをした男であった。

 メナ=ファムはシルファの身体を固く抱き寄せながら、そちらに視線と刀を向ける。


「あんた、このお人の連れかい? どうして兵士でもない人間が、こんなところにいるんだよ?」


「おや、あんたは……シャーリの川辺の狩人さんかい? こんなところで、ずいぶん珍しいもんに出くわすもんだ」


 そのように述べてから、小男は「あっ!」と大声をあげた。


「そっちのあなた! あなたは、もしかして……セルヴァの第四王子、カノン殿下でいらっしゃいますか?」


 シルファは唇を噛みながら、必死な眼差しでその小男を見返した。

 小男はトトスから飛び降りて、その場に膝をつく。


「お、俺は傭兵のドンティというものです! カノン王子殿下が決起されたと聞きつけて、この場に馳せ参じた次第でございやす!」


「傭兵……? それじゃあ、そっちのお人も傭兵なのかい?」


「ええ、こいつは俺の相棒でして……おい、お前は何をふんぞり返ってやがるんだよ! 王子殿下の御前だぞ!?」


 若者はひとつ肩をすくめてから、その巨体にそぐわぬ軽やかさで地に降り立った。

 そうして刀を鞘に収めてから、小男の隣で膝を折る。


「どうにも無愛想で、申し訳ありやせん。こいつは生来、口をきけないもんで……」


「口をきけない? 西の言葉がわからないって意味かい?」


「いやいや、こいつはこんな見た目をしてますが、生まれも育ちも西ですよ。ただ、祖父さんだか何だかが東の民であったらしくて、こんな見た目をしているだけなんです」


 ドンティと名乗った小男は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、また頭を垂れた。


「俺たちは、王子殿下の噂を聞きつけて、この場に駆けつけたんでさあ。そうしたら、あの化け物どもがゼラドの軍に突っ込むのが見えて……それで、王子殿下をお助けするべく、陣中に乗り込んだっていう次第でさあね」


「そうなのかい。そいつはずいぶん、よくできた話だね」


 メナ=ファムは、ついつい内心の疑念を言葉にもらしてしまった。

 メナ=ファムの本能が、何かが嘘くさいと感じ取ってしまっていたのである。


(……そもそもこんな化け物みたいな人間が、傭兵なんぞに身をやつすもんなのかね。こんな化け物を味方につけられるなら、どの国の人間でも銅貨を山積みにするだろうよ)


 メナ=ファムは、目に力を込めて、若者の姿を注視した。

 すると、それに気づいた若者が、にっと口もとをほころばせる。

 不敵で、魅力的な笑顔である。

 危険な存在ではあるが、決して悪い人間ではない――メナ=ファムの直感が、そのように告げていた。


(だからって、手放しで信じる気にはなれないね)


 その手に刀を握りしめたまま、メナ=ファムは首を横に振ってみせた。


「あんたたちの言い分はわかったよ。でも、あたしは王子殿下の従者にすぎないんでね。そういう難しい話は、うちの隊長さんか、ゼラドのお人らと話してもらえるかい?」


「ええ、もちろんでさあ! そしてその前に、あの化け物どもを片付けなきゃあいけませんね!」


 顔をあげたドンティは、悪戯小僧のような顔つきで笑っていた。


「俺たちも、必ずお役に立ってみせやしょう! 特にこいつは、頭が回らない代わりに、腕っ節は人一倍なんでね! 剣の腕だけなら、どこの領地の闘技会でも第一位を取れるようなやつなんでさあ」


「その腕前は、あたしも拝見させてもらったよ。……そっちのお人は、なんて名前なんだい?」


 メナ=ファムが問い質すと、口をきけないという本人の代わりに、ドントが笑顔で答えていた。


「こいつの名前は、ギリルでさあ。さ、ゼラドの連中にも仲間入りを認められるように、お前の腕を見せつけてやりな、ギリル!」

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