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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
122/244

Ⅳ-Ⅴ 疫神の眷族

2018.8/4 更新分 1/1

 黄昏刻の薄闇の中、ダリアスは懸命にトトスを走らせていた。

 追従しているのは、ダリアスの護衛役である二名の武官と、危急を告げてきた伝令役の兵士、そしてトレイアスの侍女レィミアである。


「まさか、お前までついてこようとはな。トレイアス殿の身を守らなくてよいのか?」


「ふん。主様に、ことの顛末を見届けてこいと命じられてしまったのだから、しかたないでしょう? 言っておくけれど、主様のいない場所で生命を張る気なんて、さらさらないからね」


 そのように述べながら、レィミアは誰よりも巧みにトトスを操っていた。豪奢な飾り物をたくさんぶら下げた宮女のごとき身なりであるというのに、大した手綱さばきである。


「しかし、妖魅に詳しいお前の存在は、何よりも心強く思う。生命を張る必要はないが、どうかその知恵で俺たちを助けてくれ」


「だったら、忠告してあげるわよ。太陽神の加護が失われる夜の間こそ、妖魅どもの刻限であるのよ。生命が惜しければ、さっさと引き返すことね」


「残念ながら、その言葉だけは聞き届けられんな。……見ろ、兵舎が見えてきたぞ」


 兵舎を取り囲む石塀には、すでに明々とかがり火が灯されていた。

 そして、トトスが地を蹴るごとに、喧騒の気配が近づいてくる。それはまさしく、敵味方が入り乱れる戦場のごとき騒乱であった。


「あちらの兵舎には、騎士団の半数までもが集められていたはずだ。それだけの兵をもってしても、あらがえぬような妖魅であるのか?」


「は、はい。敵が人間でさえあれば、どのような軍勢にも臆するところはありませんが……敵は、人智を超えた妖魅であるのです」


 伝令役の兵士は、死人のような顔色になってしまっていた。

 それでも必死に自分を奮いたたせて、トトスの腹を蹴っている。この若き兵士も、誉れ高きダーム騎士団の一員であるのだ。


「ああ……腐った屍骸のような臭いがするわ。これは、まぎれもなく妖魅であるようね」


 レィミアが、憎々しげに言い捨てた。


「剣士様、あんたは本当にあの場所へ乗り込むつもりなのかしら? これはあのときの使い魔よりも、よっぽどタチの悪い妖魅であるようよ?」


「ムンドル殿を見捨てることはできんし、捕虜どもを失うわけにもいかん。どのような妖魅であろうとも、俺が斬り捨ててくれよう」


 ダリアスの腰には、四大神の祝福を受けた剣が下げられている。その効力を無条件で信じているわけではないものの、ダリアスの取るべき道に変わりはなかった。


(妖魅であれ何であれ、目に見える敵であれば、臆するものか!)


 そうして兵舎の入り口が迫るにつれ、いよいよ騒乱の気配が濃厚になってきた。

 聞こえてくるのは、人間のあわれげな悲鳴である。ダリアスは片手で手綱を操りながら、腰の刀にそっと手を添えた。


「おお、これは――!」と、武官のひとりが驚愕の声をあげる。

 開かれたままであった門をくぐるなり、目を疑うような惨劇の場があらわとなったのだ。


 薄闇の中を、魔なるものが無数に飛びかっていた。

 小さな身体に禍々しい翼を生やした、おぞましき妖魅である。その姿は漆黒の影であり、青く燃える目が薄闇の中で妖しい軌跡を描いていた。


 以前に見た使い魔と同じように、その大きさはちっぽけなものだ。しかし、その数が途方もない。いったい何百匹の妖魅がその場に飛びかっているのか、見当もつかぬほどであった。


 そんな妖魅が兵士たちの刀をかいくぐり、小馬鹿にするように旋回しながら、鋭い爪や牙で攻撃を仕掛けている。兵舎の中庭には、顔や腕から血を流してのたうち回っている兵士たちが、すでに数十名にも及んでいた。


 そして、ダリアスのすぐ近くからも、魂消るような絶叫が響きわたる。

 振り返ると、護衛役のひとりが顔面をかきむしられて、トトスの上から転落するところであった。

 妖魅はそのまま飛び去ってしまい、騎手を失ったトトスはきょとんと小首を傾げている。その足もとで、武官はじたばたともがいていた。


「ふん。どうやらこの妖魅も、爪だか牙だかに毒をもっているようね」


 レィミアが、ダリアスにトトスを近づけてきた。


「さあ、どうするの? どうやらこいつらは、敷地内の人間だけを襲うように命じられているようよ。このままお屋敷に逃げ帰れば、追ってくることもないのじゃないかしら」


「このような木っ端妖魅に恐れをなすものか。こやつらは、言ってみれば雑兵なのだろうが?」


 それぐらいのことは、ダリアスにも察することができた。中庭で奮闘している兵士の数はせいぜい数百名であるし、騎士団の本隊は兵舎の内にこもっている様子であるのだ。


「俺たちの使命は、重要な証人である捕虜どもを守ることだ! 兵舎まで、一息に駆け抜けるぞ!」


 そのように命令を下してから、ダリアスは率先して中庭に乗り込んだ。

 たちまち頭上から、何匹もの妖魅が襲いかかってくる。

 ダリアスは、鞘から抜いた刀を一閃させた。

 そのひと振りで、妖魅の数匹が弾け散る。難を逃れた残りの妖魅は、宙返りをしてから、再び襲いかかってきた。


 その邪悪な姿が、間近に迫ってくる。

 それでダリアスは、ようやくその姿をはっきり見て取ることができた。

 それは、毛むくじゃらの小さな身体に、扇のごとき翼を生やした、天鼠――蝙蝠の妖魅であったのだ。


 普通の蝙蝠と異なるのは、その目が青い鬼火のように燃えていることと、その黒い異形がぼんやりと霞んでいること――そして、吐き気をもよおすような腐臭を漂わせていることであった。


「闇に帰れ、妖魅どもめ!」


 ダリアスは、再び長剣を旋回させた。

 その刃で斬り捨てられると、妖魅の身体は空中で塵と化してしまう。ダリアスの指先に伝わってくるのは、ねっとりとした液体の塊でも斬り捨てたような、不可解な感触であった。


(このていどの妖魅に、ムンドル殿が音をあげるとは思えん。敵の首魁は――兵舎の中か?)


 懸命に戦っている兵士たちをトトスで蹴り飛ばさないように配慮しながら、ダリアスは兵舎の入り口に駆けつけた。

 その場でも、数名の兵士たちが狂ったように刀を振り回している。それを騎乗から加勢しつつ、ダリアスは鋭く問い質した。


「おい! ムンドル殿や捕虜どもは無事であるのか!?」


「あ、ダリアス閣下! 副官殿は、捕虜のもとに向かいました! 我々は、副官殿の命令でこの扉を守っております!」


「では、俺がムンドル殿に加勢する! 頭上を守るので、扉を開けよ!」


 兵士のひとりがうなずいて、両開きの扉に手をかけた。

 ダリアスは地に下りて、その頭上に襲いかかろうとする妖魅を切り捨てる。


「中にもすでに多くの妖魅が入り込んでおります! どうぞお気をつけください!」


「承知した! お前たちも、武運を祈る!」


 兵士の手によって、扉が開かれる。

 そこから飛来してきた妖魅を斬り伏せてから、ダリアスは兵舎の中に飛び込んだ。

 間を置かず、扉は背後で閉められる。すると、ダリアスのすぐ背後から「ふう」という声が聞こえてきた。


「本当にあんたは、妖魅の首魁と相対するつもりであるのね。いったいどこからそんな蛮勇をひねりだすことができるのかしら」


「レィミア、ついてきていたのだな。あとのふたりはどうした?」


「ひとりは妖魅にやられて、もうひとりは足止めをくらってたわよ。あの調子じゃあ、四半刻もしない内に、表の連中は全滅でしょうね」


 そのように述べてから、レィミアは冷ややかな視線を足もとに差し向けた。


「まあ、それでもこの中よりはマシなようだけど……これじゃあ墓掘りも追いつかないわね」


 ダリアスは、無念の思いに唇を噛みしめることになった。

 兵舎の回廊は、累々と横たわる兵士たちの屍骸によって埋め尽くされてしまっていたのだ。

 兜の陰に覗くその顔は、いずれも紫色に腫れあがっている。妖魅の毒によって魂を返すことになったのだろう。ダリアスは、その魂の安息を西方神に祈ってから、屍の間をぬって足を踏み出した。


「剣士様、さっきの言葉は取り消させていただくわ。あんたは一刻も早く、妖魅どもを退けてちょうだい」


「うむ? もとよりそのつもりだが、いったいどうしたのだ?」


「どうしたもへったくれもないでしょう? この兵士どもは、みんな主様の持ち物であるのよ? ダームの騎士団が全滅してしまったら、誰が主様の領地を守るというのよ?」


 そのように述べるレィミアの声には、したたるような憎悪が込められているようだった。


「主様をこんな騒ぎに巻き込んだのは、あんたなのだからね。あんたには、生命を賭して戦う責任があるはずよ」


「だから、もとよりそのつもりだと言っている。このような暴虐を、決して許してなるものか」


 ダリアスの胸にも、憤怒の炎が宿っていた。

 わずか一度の襲撃で、ダーム騎士団はおそらく百名以上に及ぶ死者を出してしまったのだ。このような無法を働いたものは、誰であれ見過ごすわけにはいかなかった。


(トゥリハラは、俺たちの前に魔なるものが立ちはだかると言っていた。あいつの言う『まつろわぬ民』とかいう狂信者どもは、こうまで自由に妖魅というものを使役することができるのか?)


 それでもダリアスには、戦う他に道はなかった。

 この剣で斬れる敵であるのなら、何も恐れるものではない。妖魅であろうと邪神であろうと、ダリアスはこの身にかえても討ち倒す所存であった。


「……剣士様、のんびり歩いている場合じゃないようよ?」


 と、レィミアがダリアスの背中を押してきた。

 慎重に歩を進めていたダリアスは「何だ?」と言葉を返してみせる。


「俺とて心は急いているが、どこに妖魅がひそんでいるかもわからんのだから、むやみに進むことはできまい。それに、騎士としての役目を果たした同胞の亡骸を踏みつけるわけにもいかんからな」


「だから、そんな甘っちょろいことを言ってる場合じゃない、と言っているのよ。その同胞とやらに寝首をかかれたいのかしら?」


 どういう意味だ、と問おうとしたダリアスの足もとで、何かがもぞりと蠢いた。

 慌てて飛びのいたダリアスの眼前で、兵士の亡骸が起き上がる。紫色に腫れあがったその顔に、青い瞳が鬼火のように燃えていた。


「な、何だ、これは――?」


「屍骸が妖魅に憑依されてしまったようね。なんて馬鹿げた話かしら……いったいどれだけの瘴気が満ちていたら、こんなことが可能になるのよ」


 そのような言葉を交わしている間にも、回廊に満ちていた亡骸たちが次々と動き始めている。それは、悪夢のような光景であった。


「こんな連中を相手にしていたらキリがないわよ。さっさと進んで、妖魅の主を叩きなさい」


「くそっ! 許せよ、お前たち!」


 ダリアスは、こちらに近づいてこようとした兵士のひとりを、長剣でなぎ払った。

 首を失った亡骸は、ぐしゃりと崩れ落ちてしまう。


「あら……屍鬼のくせに、首を失ったぐらいで動けなくなるのかしら」


 レィミアが、うろんげにつぶやいている。

 もしかしたら、これこそがトゥリハラのほどこした祝福の恩恵なのかもしれなかったが、ダリアスにもそのようなことを詮索しているいとまはなかった。


「行くぞ! ムンドル殿は、捕虜を収容している地下房にいるはずだ!」


 ダリアスは、正面に立ちはだかる兵士たちの屍骸――屍鬼を斬り捨てながら、回廊を駆けた。

 しかし、どれだけ進んでも、回廊には屍骸が満ちあふれている。そして、それらの屍骸が次々と起き上がって、ダリアスにつかみかかってこようと迫り寄ってくるのだった。


(誉れある死を遂げた騎士の魂をも冒涜するとは……どこの誰かはわからぬが、決して許さぬぞ!)


 そのような思いを胸に、ダリアスは屍鬼を斬り捨てていった。

 レィミアは、ダリアスの陰に隠れて、屍鬼の攻撃をやりすごしている様子である。毒と短剣の使い手であるレィミアも、このような妖魅が相手では分が悪いのだろう。


 そうして数十体もの屍鬼を斬り伏せながら、ようやくダリアスは目当ての場所に辿りついた。

 地下房へと通ずる、扉の前である。

 しかし、ダリアスが扉を開けるなり、そこからはまた蝙蝠の妖魅が飛び出してきた。

 さらにその後からは、屍鬼どもがのろのろと階段を上がってくる。階下は真なる闇に閉ざされており、そこには無数の青い鬼火が燃えていた。


「こんなところに降りるのは、毒蛇の巣に飛び込むようなものよ。生命が惜しければ、やめておきなさい」


「しかし、あの捕虜どもを失うわけにはいかん! ムンドル殿とて、そのように考えるはずだ!」


「この下に、生きた人間なんていないわよ。それに……敵の首魁もね」


 そう言って、レィミアは探るような眼光を天井に差し向けた。


「上のほうから、とてつもない瘴気を感じるわ……あの老いぼれ剣士様は上に逃げて、妖魅の首魁もそれを追ったのじゃないかしら?」


「誓って、それは真実か? 俺やムンドル殿の使命は、捕虜どもを守ることにあるのだぞ?」


 わらわらと寄ってきた屍鬼を撃退しながら、ダリアスは問い質した。

 レィミアは、黒くきらめく瞳でダリアスをねめつけてくる。


「あたしの使命は主様のために、一刻も早くこの脅威を退けることよ。敵の首魁を討ち取れば、他の妖魅も力を失うはずよ」


「……わかった。お前の言葉を信じよう」


 ダリアスは地下房への扉を叩き閉めると、さらに回廊を前進した。

 二階への階段は、この先にある。幸いなことに、進むごとに屍鬼の数は減じていった。

 ただし、これまで踏み越えてきた回廊からは、おびただしい数の屍鬼が追ってきている。それに追いつかれないように足を急がせながら、ダリアスは険しく眉を寄せることになった。


「何だか俺にもおかしな臭いが嗅ぎ取れるようになってきたぞ。これはいったい、何の臭いであるのだ?」


「これだけ瘴気が強くわだかまっていれば、臭うのが当然よ。言ってみれば、これは世界が腐りかけている証なのよ」


 その声の響きにダリアスが振り返ると、レィミアは追い詰められた獣のような形相で歯を食いしばっていた。


「何やら、加減が悪いようだな。どこかに手傷でも負ったのか?」


「あたしはそんなに間抜けじゃないわよ。これだけの瘴気の中で平然と息をすることができる鈍感さを羨ましく思うわ」


 そう言って、レィミアは空中に何かの図を描いた。ダリアスには覚えのない作法であるが、魔除けの印でも切ったような素振りである。


「瘴気がこれ以上濃くならないことを祈りなさい。うかうかしていると、その目が潰れて皮膚もただれ落ちることになるわよ」


「では、そうなる前に妖魅の主とやらを斬り捨てる他ないな」


 ダリアスは、不快な異臭の他に異変を感じてはいなかった。ただ、長剣の柄を握った手の平がわずかに熱く感じられるばかりである。


(ひょっとしたら、これも四大神の加護であるのか?)


 そのように思いつつ、ダリアスはついに階段まで到着した。

 その場には屍骸のひとつもなく、蝙蝠の妖魅も飛びかってはいない。ただ、階上からは弱々しい人間のわめき声が伝わってきていた。


「確かに、階上には生きた人間が集まっているようだ。行くぞ、レィミア」


 ダリアスは、二段飛ばしで階段を上がっていった。

 レィミアは、黙然とついてきている。

 そうして二階に到達すると、回廊の奥に屍鬼が群がっているのが見えた。

 さして広くもない空間に、蝙蝠の妖魅もぶんぶんと飛びかっている。そして、屍鬼どもが凄まじい怪力で扉を殴打している音色が陰々と響きわたっていた。


「よし、まずはあいつらを蹴散らして――」


「待ちなさい!」という悲鳴まじりの声とともに、レィミアがダリアスの腕をつかんできた。


「あんた、あの気配を感じないの!? 妖魅の主は、目の前にいるのよ!」


「目の前だと?」


 ダリアスは目を凝らしたが、その回廊には燭台も灯されていなかったので、ぼんやりとした薄闇しか見て取ることはできなかった。

 ただ、回廊の真ん中が妙に黒々としているように感じられる。そこにだけ、闇が濃くわだかまっているかのようだった。


「ああ、現出するわよ……何てことなの! どうしてこんな化け物が……!」


 驚くべきことに、ダリアスの腕をつかんでいるレィミアの指先が、わずかに震えていた。

 あの傲岸にして不遜なるレィミアが、妖魅の存在に恐怖してしまっているのだ。

 ダリアスは両手で長剣を握りなおすと、いっそう目に力を込めて、その空間をにらみすえた。


 レィミアの言葉通り、その場の闇が凝り固まって、何かの形を取ろうとしているかのように感じられる。

 それにつれて、ダリアスの鼻を刺す臭気もいっそう強まっているようだった。


 また、その場の空気がぐんぐんと冷えていくのが感じられる。

 まるで北方の領地のごとき冷気がダリアスの五体を包み込み、肌に粟を生じさせた。


(これが……妖魅の主か)


 漆黒の巨大な影が、回廊の真ん中に立ちはだかっている。

 頭の天辺が天井にまで達しようかという、巨大な影である。

 そのいびつな形をした頭部に、ふたつのおぞましい鬼火が灯った。

 それと同時に、巨大な翼がばさりと広げられる。

 どうやらそれは、人間よりも巨大な蝙蝠の妖魅であるようだった。


「え、疫神ムスィクヮ……? まさか、そんなものがこの世に現出するはずは……」


 レィミアは、いまや冷水をあびせかけられたかのように、ガタガタと震えてしまっていた。

 ダリアスは呼吸を整えながら、小声で「レィミアよ」と呼びかける。


「悪いが、俺の腕から手を離してくれ。これでは、とっさに剣をふるうことも難しい」


「だ、だけど……」


「妖魅は、俺が叩き斬る。お前は決して、ここを動くのではないぞ」


 ダリアスがそのように囁いた瞬間、妖魅の巨大な口がくわっと開けられた。

 漆黒の姿をしたその口の中は、闇よりもなお暗い深淵である。

 そして、その深淵の向こう側から、どす黒い紫色をした煙のようなものが噴出された。


「おのれっ!」


 ダリアスはほとんど無意識の内に、長剣を振り下ろしていた。

 紫色の妖しい煙は、その一閃で寸断されて、左右に分かれていく。レィミアは、彼女らしからぬか弱げな悲鳴をあげていた。


(いまのは、毒の息吹だな。このような場所で毒を撒き散らされては、長くもたん)


 そうと判じて、ダリアスは足を踏み出した。

 恐怖をも上回る闘志が、ダリアスの手足に力を与えてくれている。そして、その手の長剣がうっすらと黄金色の光を帯びていた。


(父なる西方神よ! その兄弟たる四大神よ! 忠実なる子に、力を貸し与えたまえ!)


 妖魅の姿が、目の前に迫っていた。

 何かの影のように輪郭はおぼろであるのに、そこには確かな造形も見て取れた。

 丸々とした胴体や頭には、短い毛がびっしりと生えている。

 顔面はしわくちゃで、鼻は醜く潰れており、頭の上には楕円形の大きな耳が生えている。扇のように広げられた翼の先に禍々しい鉤爪が生えており、矮小なる二本の足もそれと同様であった。


 その引き攣れた唇が再び開かれて、ダリアスに向かって毒煙を吐き出してくる。

 その毒煙ごと、ダリアスは妖魅の胴体を斜めに斬り伏せた。


 とたんに、凄まじい衝撃の波動が邸内の大気を震わせる。

 耳で感じたわけではないが、それはこの妖魅のあげる苦悶の絶叫であるようだった。


 巨大な翼が、左右からダリアスを包み込むように閉じられてくる。

 ダリアスは、身体全体を旋回させて、その翼を長剣でなぎ払った。

 そうして正面に向きなおるや、剣の切っ先を頭上に突き上げる。

 黄金色にきらめく刀身が、妖魅の顔面を深々と斬り裂いた。

 再びの絶叫が、びりびりと世界を震わせる。


(通じるぞ! この剣ならば、この妖魅を討ち倒すことができる!)


 妖魅が、全身でダリアスに覆いかぶさってきた。

 その口に生えたこまかい牙が、ぞろりと剥き出しにされている。

 そして、深淵の向こうにまた紫色の陰りが見えた。


「させるか!」


 肉迫する妖魅の顔面に、ダリアスは長剣を突き立てた。

 黄金色の刀身が、妖魅の口の中にずぶりと埋まる。

 ダリアスとしては、どろりとした泥の塊に剣を突き立てたような心地であった。


 妖魅の巨体が、ぴたりと動きを止め――次の瞬間、これまで以上の衝撃が、地震いのように世界を揺るがした。


 剣の柄を握ったダリアスの指先にも、凄まじい振動が伝わってくる。

 しかしダリアスは、さらなる力を込めて、刀身を押し込んだ。


 それと同時に、妖魅の巨体が爆散した。

 ダリアスよりも巨大であったその肉体が弾け飛び、黒い塵と化していく。

 そうして青い鬼火のごとき双眸もかき消えると、ようやく世界は静寂に包まれた。


「これで……終わったのか?」


 ダリアスは、後方のレィミアを振り返ろうとした。

 とたんに、膝から力が抜けて、がっくりとくずおれてしまう。

 妖魅の姿が消えると同時に、ダリアスはとてつもない虚脱感に見舞われてしまっていた。


「何てこと……あんた、いったい何なのよ?」


 レィミアの声が、頭上から聞こえてきた。

 そして、呆然としたレィミアの顔が、鼻先に近づけられてくる。


「あんな化け物を剣一本で始末するなんて、信じられないわよ。あれはたぶん、疫神ムスィクヮ……いや、たぶん疫神の身から分かたれた眷族であったのよ? それを、人間が退治してしまうなんて……」


「……疫神というのは何なのだ? そのようにおぞましい神の名は聞いたこともないぞ」


 剣を支えにして立ち上がりながら、ダリアスはそのように応じてみせた。

 レィミアは、ほとんどつかみかからんばかりの勢いで詰め寄ってくる。


「疫神ムスィクヮは、蛇神ケットゥアや蛙神グーズゥと並び称される、邪神のひとつよ! 鼠と蝙蝠を束ねて疫病を運ぶ、厄災の神ね! そんなことも知らないまま、あんたはその眷族を斬り捨てたっていうの!?」


「ああ。俺はそこまで邪神などに精通していないのでな」


 ただし、トゥリハラからもその存在は示唆されている。四大神の祝福を受けたこの剣は、邪神そのものに太刀打ちすることもできる――トゥリハラは、そのように語っていたのだ。


(ならば、その眷族を斬ることも難しくはない、ということなのだろう。しかし、何の代償も払わずに済ませることはできないようだな)


 ダリアスは、自身の生命力をごっそり削られていることを自覚していた。

 さきほどまで、ダリアスの身体には熱い力が満ちみちていたが、それはおそらくダリアスの生命を薪にして燃やされていたのだろう。気を抜くとまた倒れ込んでしまいそうになるぐらい、ダリアスは疲弊しきってしまっていた。


(しかし、このていどで力尽きたりはせんぞ)


 ダリアスは、ぐっと胸をそらして、レィミアの姿を見下ろしてみせた。


「ともあれ、お前の言う通りに妖魅の首魁を倒したのだ。これで、他の妖魅どもも力を失ったのか?」


「……そんなものは、自分の目で確かめればいいじゃない」


 レィミアは疑り深げに目を光らせながら、回廊の奥を指し示してきた。

 そちらに目をやると、突き当たりの扉の前で、兵士たちの屍骸が折り重なっていた。ついさきほどまで執拗に扉を叩いていた、屍鬼の成れの果てである。

 そして、天井の近くを飛び交っていた妖魅の姿も見当たらない。扉の向こうから聞こえてきていた人間たちの悲痛な声も、やんでいた。


「よし。ムンドル殿らと合流するぞ」


 ダリアスは、震える膝に力を込めて、足を踏み出した。

 たとえどのような代償を払っても、祖国セルヴァに安寧をもたらしてみせる。王国の民たるラナたちに幸福な生をもたらすには、それしか道がないのだ。

 そのためならば、ダリアスはどれほど苦難に満ちた運命でも、甘んじて享受する覚悟であった。

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