Ⅲ-Ⅲ シャーリの河にて
2016.12/25 更新分 1/1
「おお、見てみろ、フラウ! あれがシャーリの河だぞ!」
クリスフィアがそのように声をあげたのは、故郷のアブーフを出立して十日ていどが経過した日の昼下がりのことであった。
王都アルグラッドまでの道程の、およそ半分ぐらいを踏破した頃合いである。だいぶん南方に下ってきていたので、もはや毛皮の胴衣が不要なぐらいに気候は温かくなっていた。
獣道を踏み越えてクリスフィアに追いついたフラウも、トトスの上でのびあがって「まあ」と弾んだ声をあげる。
二人の眼前には、明るい翡翠のような色合いをした広大なるシャーリの河が広がっていた。
シャーリの河は、セルヴァの領土の中央部を西から東に流れる雄大な河川である。この辺りは特に河の幅が広く、矢を射っても向こう岸には届かなそうなほどであった。
「すごいですね! まるで噂に聞く海のようです!」
「ああ、これほど立派な河はアブーフの周辺にはないからなあ」
そして、セルヴァにおいて海というのは、西の果てにある王都のさらに西側、ダーム公爵領と面する西竜海しか存在しない。大陸の肥沃な中原の大部分を支配する代わりに、セルヴァは海と縁遠くなってしまったのだ。
「きっとその内、河船というやつを見ることもできるはずだぞ。中央の連中はそれであちこちの町と商いをしているはずだからな」
「素敵ですね。わたくしもいつかはその船というものに乗ってみたいです」
「それはまたいつかのお楽しみだな。トトスは船の揺れをとても嫌がるので、乗せることができないのだ」
そうでなければクリスフィアも、中央部から西部までを船で進む道を選んだだろう。それならばもう数日ばかりは旅程を縮めることも可能であったが、その場合は船の乗り場でトトスを手放し、降り場で新たなトトスを買わねばならなかったのだ。
「とりあえず、こいつに沿って西に進もう。これより南に下るには、どこかで橋を越えねばならないのだ」
クリスフィアはほとんど鼻歌まじりにトトスの手綱を操った。
トトスが嫌がらないていどに河へと近づき、草むらの土手を進む。気温は高かったが風は涼しく、目に見えぬ精霊たちに祝福されているかのような心地であった。
アブーフを離れて十日間、フラウとの二人旅によって、クリスフィアはかつてないほど清々しい気分である。心に溜まっていた澱のようなものが、すっかり溶かされたかのようだ。
(戦場からは遠ざけられて、グワラムでの敗戦を他人事のように聞かされて、あげくに連隊長の座をキャメルスにひったくられて……よっぽどわたしは鬱屈していたんだな)
トトスを軽快に歩ませながら、クリスフィアはかたわらを振り返る。
フラウは「どうかされたのですか?」と微笑み返してくる。
「何でもないよ。ただ、フラウの大事さをあらためて噛みしめていただけさ」
「まあ」とフラウも楽しそうに笑う。
野盗や危険な獣が出ると聞く区域は外して旅を進めているので、今のところは何ひとつ危うい目に合っていない。小さな宿場町で夜を明かすには無法者どもと顔を突きあわさなければならないが、傭兵たちに慣れ親しんだクリスフィアにとっては、それも脅威たりえないのだ。
何せ女の二人旅であるから、宿屋や食堂では何度となく酔漢にからまれることになったが、その土地の衛兵や自警団の手をわずらわせることなく、クリスフィアはそれらの者どもを退けることができていた。
(そういえば、この近くにも危険な獣がいたはずだな。あれはたしか――)
と、クリスフィアが記憶を辿ろうとしたとき、フラウが「きゃあっ!」と悲鳴をあげた。
慌てて振り返ると、フラウの乗ったトトスが歩を止めている。草むらに隠されていた泥濘に足を取られてしまったのだ。その顔だけはいつも通りにきょとんとさせたまま、トトスはじたばたと鉤爪で地面を掻いていた。
「ああ、慌てることはない。下に落ちるなよ、フラウ? トトスを落ち着かせて、一歩ずつゆっくり歩かせるんだ」
「は、はい……」
フラウは手綱を引き絞り、まずはトトスの動きを止めさせた。トトスはもがくのをやめたが、不安そうにぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「よし、いいぞ。暴れなければ、それ以上沈むことはないからな。ゆっくり、慎重に足を踏み出すんだ」
そのとき、ぱしゃんと河の水が跳ねた。
まだ河までには二十歩ぐらいの距離があるのに、その音色は妙にまざまざと響いてきた。
「いま何か、音がしましたか?」
「ああ、だけど気にすることはない。それよりトトスをその泥の中から――」
再び、ぱしゃんと音が響く。
クリスフィアはトトスを移動させ、フラウの肩ごしにシャーリの河を見た。
そして、鋭く息を呑む。
怪物のように巨大な影が、翡翠色の河面に浮かんでいた。
細長い尾が、ゆらゆらと蠢いている。その体長は人間の倍ほどもあり、太さも城の石柱ぐらいはありそうであった。
「あ、あれはいったい……?」
クリスフィアの視線を追ったフラウが、囁くような声で言う。
その瞬間、盛大な水しぶきをあげて、その怪物が半身を露わにした。
信じ難いほど巨大な口に、ぞろりと生えそろった白い牙、全身を覆う暗緑色の鱗に、爪の生えた短い四肢――シャーリの大鰐である。
(馬鹿な! こいつが出るのはもっと下流じゃなかったのか!?)
内心でうめきながら、クリスフィアは長剣の柄に手をかけた。
大鰐はその巨体を半分ほど岸辺に這い出させて、フラウのほうをじっと見すえている。
「ひ、姫様……」
「怯えるな。大鰐よりはトトスのほうが素早い。泥濘から脱すれば、難なく逃げられるはずだ」
そのように思って、クリスフィアはこの大鰐のことをあまり警戒していなかったのだった。
よって、大鰐を退治する具体的な考えもなかった。この大鰐は鎧のように頑丈な鱗を纏っているため、確実に倒すには腹を裂かねばならないはずなのだ。
(あんなにぴったりと地面に伏せた大鰐の腹を、どうやって斬り裂けばいいというのだ……? いっそ、口の中でも狙ったほうが確実かもしれん)
それよりももっと確実なのは、トトスの脚力で逃げきることだ。
大鰐を刺激しないよう動きを止めたまま、クリスフィアはそっとフラウに呼びかけた。
「さ、こっちにおいで、フラウ……あいつが跳びかかってきたら、わたしが追い払ってやるから、何も心配はいらない。ゆっくり、泥濘から出るんだ」
「はい」と悲壮な面持ちでうなずき、フラウはじわりと手綱をゆるめた。
トトスはびちゃりと、一歩だけ足を進める。
泥濘は嫌がっても他の獣を恐れたりはしないトトスの呑気さが、この際は何よりもありがたかった。
「いいぞ、ゆっくり……こっちの草むらまで出られれば、もう安心だからな……?」
そのとき、ざぶんと大きな音がした。
大鰐が、ついにその全身を岸の上に引き上げたのだ。
人間など一呑みにできそうな巨体である。
さしもの気丈なフラウも悲鳴をあげて、手綱の操作を誤ることになった。
いきなり手綱を引かれたトトスが、細長い首をぐいんとのけぞらせる。
その首に胸もとを叩かれたフラウは、「ああっ!」と叫んで泥濘に落ちてしまった。
大鰐はずりずりと這い寄ってくる。
その巨体には不似合いな敏捷さである。
重荷を失ったトトスはすたこらと逃げてしまったので、クリスフィアは「フラウ!」と地上に手を差しのべた。
フラウの震える指先が、クリスフィアの手をつかむ。
もはや大鰐は数歩の距離だ。
クリスフィアは一息でフラウの身体をトトスの上に引き上げた。
それと同時に、大鰐が首を突き出してきた。
鋭い牙の生えそろった巨大な口が、トトスの足もとを狙ってくる。
片方の腕でフラウの身体を支えつつ、クリスフィアはとっさに手綱を引き絞った。
トトスは、ひょいっと右の足を振り上げる。
大鰐の口は、がつんっと虚空で噛み合わされた。
まさしく間一髪である。
そうしてクリスフィアが、逃走するべくトトスの首を巡らせかけたとき――ひゅんっという鋭い音色とともに、大鰐の右目に矢が突きたった。
大鰐は声なき悲鳴で空気を震わせ、巨体をよじる。
その隙に、クリスフィアはトトスの頭を巡らせた。
泥濘に足を取られないよう気をつけながら、大鰐と距離を取る。
しかし大鰐は尻尾でびしゃびしゃと地面を叩くや、そのまま身をひるがえしてシャーリの河へと逃げ去ってしまった。
ほっと息をつきながら、クリスフィアはフラウの泥だらけの身体を抱きすくめる。
すると、横合いからその人物が近づいてきた。
「逃がしてしまったか。お前たちが邪魔で、二の矢を放つことができなかった」
奇妙な格好をした、小柄な少年である。
その少年は右手に弓を持ち、左手にトトスの手綱を握っていた。主人を放り捨てて逃げ出してしまったフラウのトトスだ。
「今の矢はお前が放ったのだな? 窮地を救ってもらい、感謝する」
「別に助けたつもりはない。俺は俺の仕事を果たそうとしただけだ」
どうやらその少年は、狩人であるようだった。
その身に纏った胴衣も外套も、何なら手甲や長靴までもが、大鰐の鱗でできあがっている。まるで大鰐が人間に化けたかのような有り様で、クリスフィアは「ほほう」と感心の声をあげることになった。
「大鰐を狩る狩人などというものがいるのだな。実に勇壮な姿ではないか」
少年は愛想のない目つきでクリスフィアを見つめ返している。
身なりは立派だが、背丈などはクリスフィアよりも小さいし、体格もかなり細身である。しかし、袖なしの胴衣から覗く腕や足などは革鞭のように引き締まっており、並々ならぬ生命力が感じられた。
ぼさぼさの蓬髪は赤茶けており、肌は日に焼けた黄褐色で、そしてその双眸は大鰐のように黄色く光っている。西の民であることに間違いはないが、北部ではほとんど見られない物珍しい姿であった。
「ともあれ、お前が矢を放ってくれたおかげで、わたしたちは危地から脱することができたのだ。おまけに逃げ出したトトスまで捕まえてくれたのだから、礼を言わずに済ますことはできまい。……わたしはクリスフィアで、こちらはフラウという。どちらも北方のアブーフの生まれだ」
「……俺はグレン族の、ロア=ファムだ。シャーリの河辺で狩人を生業にしている」
「ほう、グレン族というのは旧き氏族なのか」
旧き氏族というのは、西の王国セルヴァの版図に住まいながら、旧き血脈を重んずる一族のことであった。このセルヴァにおいて氏を持つのは、爵位を有する貴族か旧き氏族のみなのである。王国が建国されて六百余年、旧き氏族というのはもうごく一部の自由開拓民を除いて絶えてしまっているはずであった。
「シャーリの河辺は、俺たちの狩場だ。そんなところをのこのこと歩いていれば、大鰐に襲われるのが当たり前だ」
「うむ。シャーリの大鰐というのはもっと下流に生息するものだと聞いていたのだ」
「下流のほうが数は多いのだろうが、この辺りだって大差はない。だからこそ、俺たちはこの地に集落を築いたのだ」
「身をもって知ることができたよ。やはり実際に足を踏み入れなくては、その土地の実態というのはわからぬものだな」
クリスフィアはフラウをうながして、トトスを降りることにした。
まだ大鰐の存在は気になったが、恩人を見下ろしていることに気が引けてしまったのだ。
「この恩義に報いるには、どうしたらよいのだろう? 銅貨を払うのは失礼になってしまうだろうか?」
「銅貨とは、仕事の対価として得るものだ。お前たちから銅貨をもらういわれはない」
「ふむ……狩人というからには、やはり大鰐の皮や肉を売っているのかな? あんまり美味そうな姿ではなかったが」
「……俺たちは大鰐の肉を食って生きているし、町の連中たちも喜んで買っていく」
少しむっとした様子で少年はそのように述べたててきた。
「そうか」とクリスフィアは笑顔で応じる。
「それでは、わたしたちにも大鰐の肉を売ってくれ。ついでにフラウの外套を清めることのできる安全な水場でも教えてもらえればありがたいのだが」
少年はうろんげに眉をひそめたが、何も言わずにトトスの手綱を差し出してきた。
フラウはお行儀よく頭を下げてから、「ありがとうございます」とそれを受け取る。
クリスフィア以上に狩人などというものには馴染みのないフラウであるはずであったが、窮地を救ってくれた恩人を忌避するような性分ではない。そうしてフラウが感謝の念を込めて微笑みかけると、少年は日に焼けた頬をわずかに赤らめた。
「……俺たちの集落は、橋のたもとだ」
「ああ、南に下りたいから橋も探していたのだ。どうやらここでお前に出会えたのはセルヴァのお導きであったようだな」
「……神の導きで大鰐にかじられていたら世話はない」
やはり愛想の欠片もない表情と口調であったが、すでにクリスフィアはこの少年を気に入ってしまっていた。シムの民だとか蛮なる狩人だとか、そういう西の王国の習わしにとらわれない存在が、クリスフィアの奔放な気質には合ってしまうのである。
そうしてクリスフィアとフラウはトトスの手綱を引きながら、ロア=ファムなる若き狩人の案内でグレン族の集落へと導かれることになった。
シャーリ河からは二十歩ぐらいの距離を保った上で、川べりを西へと進んでいく。その間、ロア=ファムはずっと油断なく黄色い瞳を光らせていたが、再び大鰐に襲いかかられることはなかった。
そうして半刻ばかりも歩くと、巨大な橋が見えてきた。
河の幅はずいぶんと狭くなり、そこに木造りの橋が渡されている。荷車でもぎりぎり渡ることのできそうな、立派な橋だ。大鰐を警戒しながらこのようなものをこしらえるには、相当な手間と時間が必要であったに違いない。
その橋の周辺が、グレン族の集落であった。
雑木林が大きく切り開かれて、小屋のような家屋がたくさん建てられている。なおかつ、どの家の前にも木の柱が何本も立てられて、そこに渡された竿に大鰐の皮や肉が干されているという、なかなか物凄い様相であった。
「これは凄いな。まさしく狩人の集落だ」
フラウなどは目がこぼれ落ちそうなぐらいまぶたを開いて、きょろきょろと辺りを見回していた。恐ろしがっているというよりは、ひたすら度肝を抜かれている様子だ。
「それに何だか、酸っぱいような臭いがたちこめているな。干し肉を作るための香草か何かか?」
「香草の匂いも混ざってはいるが、酸っぱく感じられるのは鰐除けの葉の香りだ。鰐どもに集落を襲われてはかなわないからな」
ロア=ファムは足を止めることなく、その集落に足を踏み入れた。
この時間、男の多くは狩りに出ているようで、集落には女や老人、それに幼子の姿しか見受けられなかった。いずれも鰐の皮の装束を纏って、肉を裂いたり、それを薫煙で燻したり、皮をなめしたりという仕事に励んでいる。髪や瞳の色はまちまちであったが、彼らはいずれも黄褐色の肌をしており、誰もがクリスフィアたちの姿をけげんそうに見返してきた。
「……ここが俺の家だ」
やがて、いくばくも歩くことなく、ロア=ファムが足を止めた。
他の家屋と同じように、木造りの粗末な家だ。草を編んだ屋根の下に、巨大な鰐の皮と小分けにされた肉が干されている。
「肉を買いたいなら、味を確かめてみろ」
そのように言って、少年は腰から短剣を引き抜いた。
三日月のように刃の湾曲した曲刀だ。その鋭い刃で干されていた肉を削り取り、クリスフィアのほうに差し出してくる。
元来、西の王国においては肉食の獣を食することは忌避されている。
腐肉喰らいのムントやギーズの大鼠の肉などを食べたら病気になってしまうし、また、アルグラの銀獅子やガージェの豹の肉などは固くて臭くて食べられたものではない、といった理由から、そういう風習が生まれたのだろう。
だが、病気にもならず、不味いこともないのなら、どのような肉でも食してかまわないはずだ。
そういったわけで、クリスフィアは遠慮なくその肉片をかじり取ることにした。
まだ干している最中の肉であるので、それほど固くはない。水抜きで使われた塩気がものすごく強いが、疲れた身体にはとてもありがたかった。
それに、肉の味も悪くはないようだ。
色合いは白みがかっており、あのように凶暴で肉食の獣であるのに、なかなか淡白な味わいである。特に臭みやクセもなく、筋が歯にからまったりもしない。
「うむ。想像と違って、ずいぶん食べやすいな。見た目も味も、まるで上等なキミュスのようだ。フラウも食べてみるといい」
「はあ……」とフラウはおそるおそる歯を立てたが、しばらくすると「まあ」と目を見開いた。
「本当に美味しいですね。ギャマの山羊などより、わたしはこっちのほうがずっと好きです」
「ああ、ギャマもなかなかクセが強いからな。……ロア=ファムよ、この肉はどれぐらい保存がきくものなのだろうか?」
「これは作りかけだが、きちんと仕上げたものならキミュスやカロンと変わりはない。何ヶ月だって腐ることはないだろう」
「それでは日中にかじる分を十日分ほどいただこうか。もちろん、二人分な」
そうしてクリスフィアは、視線を少年の顔から腰へと移動させた。
「それに、その短剣の鞘も見事なものだな。それも自分でこしらえたのか?」
「ああ。作って、町の革細工屋に売っている」
「実はわたしの短剣もだいぶ鞘が傷んできてしまってな。そいつも売ってもらえるとありがたいのだが」
ロア=ファムは、とてもうろんげに眉をひそめた。
「……橋を越えた向こう側に町があるので、俺たちの作った細工物はそこで売られている。俺よりは他の女衆の作った細工物のほうが出来はいいから、欲しいならそちらで買い求めるべきだろう」
「ふむ。お前の家に女衆はいないのか?」
「……馬鹿な姉が一人いたが、馬鹿なので家を出ていった」
少年の顔が、いっそう不機嫌そうな表情になってしまう。
そういう子供っぽい表情が、クリスフィアには好ましかった。
「だけどどうせなら、鞘もお前から買いたいものだな。どこの誰が作ったかもわからないものを買うより、顔と名前を知る人間から買ったほうが愛着もわくではないか」
「……貴族のような身なりをしているくせに、妙な女だな」
ロア=ファムはぶっきらぼうに言い、小さく息をついた。
「作りかけの鞘はいくつかあるが、自前の刀だと大きさを調節しなければならないので、少し時間がかかってしまうぞ?」
「かまわない。朝から歩き通しであったので、そろそろ休みを入れようと思っていたところなのだ。大鰐の干し肉をかじりながら、のんびり待たせていただくさ」
クリスフィアはうーんと伸びをしつつ、あらためて周囲に視線を向けてみた。
物陰から、黄色や茶色の目をしたたくさんの子供たちが不思議そうにこちらをうかがっている。町の人間がここまで集落に足を踏み入れることなど、そうそうないのだろうか。
クリスフィアが手を振ると、何人かの子供たちははにかむように笑ったり、手にした棒やかじりかけの干し肉などを振り返してきた。
それだけで、この地が平和な場所なのだということが察せられる。
「ここはいいところだな。お前の姉はどうしてこのように素晴らしい故郷を捨ててしまったのだ、ロア=ファムよ?」
「さっきも言っただろう。馬鹿だからだ」
「馬鹿にも馬鹿なりに理由があるだろう。そもそも血の縁を重んじる旧き氏族が故郷を捨てるというのは、そうそうありえない話であるように思えるのだが」
「そんなことはない。貧しい生活に嫌気がさして、傭兵になったり町に移り住む人間もいなくはないからな。……そんな中でも、俺の姉ほど馬鹿な人間はいないだろう」
そうしてロア=ファムは、仏頂面のまま赤茶けた髪をかきむしった。
「俺の姉は、王国の窮地を救うなどと言い残して、集落を出ていった。馬鹿だから、野盗か何かに騙されてしまったのだ」
「王国の窮地? 王国というのは、セルヴァのことであろうな?」
「ああ。王国を追放された王子のために、力を尽くすなどと言っていた。王子があのように胡散臭い連中を引き連れて旅などするものか」
クリスフィアは、思わず言葉を失うことになった。
それはもしかして――あの東の民ラムルエルの言っていた、セルヴァの第四王子のことであるのだろうか?
しかし、王や他の王子たちを鏖殺したという第四王子を助けることが、どうして王国の窮地を救うことになるのか。そもそも、王を弑して王宮を燃やした大罪人が王都から逃げることなど、本当に可能なのか。
(だけど少なくとも、第四王子を名乗る人間は、確実に存在するということだ。……さてさて、王都の連中がそれを知ったら、放ってはおけぬところだろうな)
クリスフィアは、奇妙な昂ぶりを覚えることになった。
王族たちの騒乱など、クリスフィアにとってはどうでもよいことであったが、戴冠の祝宴などよりはよほど面白いかもしれない。
クリスフィアは、礼服よりも甲冑を纏う機会を欲しているのだ。
(まあ、内乱などにうつつを抜かす余力があるならば、グワラムを占領したマヒュドラ軍をさっさと殲滅してみせろ、とも言いたくなるところだがな)
何にせよ、王都を目指す意義がまたひとつ追加されたことに間違いはないようであった。
フラウの言う通り、強大な戦力と豊かな糧食を有する王都の行く末は、マヒュドラと戦うクリスフィアたちにも捨ててはおけぬ事柄であるのだ。
(本当に、事と次第によっては新王を切り捨てたほうがアブーフのためになるということもありうるのやもしれん)
そんな不穏な想念を胸中に抱きつつ、クリスフィアはロア=ファムの家へと足を踏み入れることになった。