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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅰ-Ⅴ ひと時の安らぎ

2018.7/14 更新分 1/1

 ヤハウ=フェムの審問を終えた後、一同はもとの寝所に戻されることになった。

 リヴェルの手によって外套を脱がされるなり、ナーニャは寝台へと崩れ落ちてしまう。ぜいぜいと荒い息をつくナーニャの顔は苦しげで、その身は炎そのもののように熱くなってしまっていた。


「ああ、ナーニャはやっぱりまだ動き回れるような身体ではなかったんです。すぐに部屋を温めますので、なるべく楽にしていてください」


 石造りの暖炉の火はほとんど消えかけてしまっていたので、そこには薪を追加して、水瓶の水で織布をしぼる。そうしてリヴェルが額の汗をぬぐい始めると、ナーニャはまぶたを閉ざしたまま、弱々しく微笑んだ。


「すべての話を聞いても、リヴェルはそうやって僕を怖がらずにいてくれるんだね……僕がいま、どれだけ幸福な心地でいるかわかるかい、リヴェル……?」


「どのような秘密があろうとも、ナーニャはナーニャです。わたしにとって大事なのはその一点だけだと、あらかじめ言っておいたでしょう?」


 ナーニャの力ない姿に胸をしめつけられながら、それでもリヴェルは何とか微笑んでみせた。


「それにやっぱり、わたしの考えは間違っていませんでした。ナーニャには、何の罪もなかったのです。悪いのは、すべてナーニャにこのような凶運をもたらした者どもであったのですね」


「うん……だけど僕は、自分の身を守るために何人もの人たちを殺めてしまったから……その罪は、僕自身が背負わなければいけないはずだよ……」


「そんなことはありません! ナーニャの身を脅かそうとしない限り、あの炎の魔法で焼かれることはないのでしょう? それなら、ナーニャは何も悪くないはずです」


 あっという間に温くなってしまった織布をまた水瓶にひたして、固くしぼる。

 水の冷たさに指先がじんじんと痛んだが、ナーニャの苦しさに比べれば、どうということもなかった。


「わたしはこれまでに、ナーニャの魔法で何度となく救われてきました。ナーニャは恐ろしい凶運に見舞われながら、その力を正しいことに使ってきたのです。だから、ナーニャがそのように心を痛める必要はありません」


「……悪い人間や邪神教団の信徒や妖魅が相手なら、そうなのかもしれないね……だけど僕はそれ以外にも、大勢の人間を殺めてしまっているんだよ……」


 ナーニャのその言葉で、リヴェルはハッとさせられた。


「そ、それはもしかして、王都の――」


 と、リヴェルがそのように言いかけたところで、ナーニャの熱い指先で口もとをふさがれてしまう。わずかに開いたまぶたの隙間から真紅の瞳を覗かせながら、ナーニャはうっすらと笑っていた。


「うん、それはリヴェルと出会う前の話だよ……僕は悪人ばかりじゃなく、心正しき人間たちも何人となく殺めてしまったのさ……」


 そんな風に述べながら、ナーニャは逆の手でリヴェルの腕を引いてきた。

 リヴェルは寝台に肘をつき、ナーニャの口もとに耳を寄せてみせる。すると、ナーニャはほとんど聞き取れないぐらいの小声で囁きかけてきた。


「この部屋には、たぶん盗み聞きの仕掛けがほどこされているだろうからね……王都にまつわる話はやめておこう……」


 ヤハウ=フェムたちは、いまだナーニャがセルヴァの第四王子であったことを知らないのだ。セルヴァとマヒュドラの長きに渡る抗争の歴史を考えれば、ナーニャがその事実を秘匿したのも当然の処置だと思えた。


「何にせよ、リヴェルに嫌われなくてよかったよ……リヴェルに嫌われてしまったら、この世界を守り抜こうという僕の決意にも、小さからぬ亀裂が入っていただろうからさ……」


 リヴェルの腕を解放してから、ナーニャはかすれた声でそのように述べたてた。

 その透き通るように白い顔には、あどけない幼子のような微笑みが浮かべられている。

 リヴェルは火のように熱いその指先を握りしめながら、ぷるぷると首を振ってみせた。


「わたしがナーニャを嫌うなんて、そんなことはありえません。わたしは……ようやくナーニャの抱えた痛みや苦しみを知ることができて、心から嬉しく思っています」


「うん……これでもう、リヴェルに隠していることは、何もないはずだよ……僕もそれを、心から嬉しく思っているんだ……」


 おたがいの指先を握りしめながら、リヴェルとナーニャはおたがいの顔を見つめ続けた。

 そこでいきなり、何の前置きもなく扉を開かれる。


「痛いなあ。そんなぐいぐい押さないでよ。あたしたちは、囚人じゃないんでしょ?」


 リヴェルが振り返ると、マヒュドラの兵士に文句を言っているチチアの姿が見えた。

 さらにその後ろからは、ゼッドとタウロ=ヨシュが部屋に押し込まれてくる。


 そうしてその三名を部屋に押し入れると、兵士たちは何の言葉も残さずに扉を閉めてしまった。

 そちらにべーっと舌を出してから、チチアがリヴェルたちに向きなおってくる。


「ふん。さすがに乳繰り合う元気はなかったか。あたしらも、こっちの部屋にお邪魔させてもらうからね」


「い、いったいどうしたのです? ゼッドたちも同じ場所で過ごすことが許されたのですか?」


「ああ。何だか知らないけど、上の連中の話し合いが終わるまでは、一緒にいろってさ。処刑前の最後の温情じゃなきゃいいんだけどね」


 椅子の数には限りがあったので、チチアとタウロ=ヨシュは暖炉の前に座り込んでいた。ただゼッドだけは、鋭い面持ちで寝台に近づいてくる。


「やあ、ゼッド……無事な姿を見ることができて、ほっとしているよ……剣も使えない状態だったのに、よく生きのびてくれたね……」


 寝台に横たわったまま、ナーニャが微笑する。それはどこか、父親に甘える幼子のようにも見えた。

 ゼッドは寝台のかたわらに膝をつき、ナーニャの白銀の髪にふわりと手をのせる。その猛禽のように鋭い眼差しにも、とても優しげな光が灯っているように感じられた。


 両者がこのように身を寄せ合うのは、二日ぶりであるのだ。そして、このグワラムに連行されるまでは、もっと長きの時間、引き離されてしまっていた。おたがいを伴侶のように慈しみ合うその姿を見ているだけで、リヴェルは何だか胸が詰まってしまった。


 そうしてしばらく無言で情愛を交わし合ってから、ナーニャがリヴェルのほうに目を向けてくる。

 その指先に招かれて、リヴェルはまたナーニャの口もとに耳を寄せることになった。


「たぶんマヒュドラの兵士たちは、僕らが何か重要な言葉でももらすんじゃないかと、伝声管の向こうで聞き耳をたてているんだと思うよ……だから、僕の素性に関しては口にしないように、チチアたちに伝えてもらえるかな……?」


 リヴェルはせわしなくうなずいてから、その言葉をチチアたちに届けることにした。

 チチアは口をへの字にして肩をすくめ、タウロ=ヨシュは悩ましげな面持ちでうなずく。その間に、ナーニャはゼッドにもその言葉を伝えたようだった。


「さーて、この先はいったいどうなるんだろうね? マヒュドラの連中は、あんたの言葉を信じたのかなあ?」


 暖炉の前で膝を抱えたチチアが、そのように述べたてた。

 そちらに顔を向けながら、ナーニャは「どうだろうね……」と皮肉っぽく微笑む。


「信じなかったら、四大王国は滅ぶことになる……メフィラ=ネロっていう妖魅を目にした彼らなら、信じてもらうことはできると思うんだけど……それでも、可能性は五分というところかな……」


「ふん。いっそのこと、この場で首を刎ねてもらったほうが、よっぽど楽なんだろうけどね。あんた、本気であの化物女とやりあおうってつもりなの?」


「うん、もちろん……どこにも逃げ場はないんだから、生命を懸けてでも戦うしかないだろう……? マヒュドラの兵士たちが協力してくれれば、それほど分が悪い戦いでもないさ……」


 チチアは「どうだかね」と顔をしかめていた。


「あんな化物を相手にできるのは、同じ化物のあんただけなんでしょ? 刀や斧をふるうしかない兵士たちが、何の役に立つってのさ?」


「四大神の力は、そこまで大神アムスホルンに劣っているわけじゃないんだよ……四大神の民は魔法を使えない代わりに、鋼や石や木の武器で戦うすべを持っている……ゼッドやタウロ=ヨシュだって、妖魅と化した蛇神の民や生ける屍と戦うことはできていただろう……?」


「へーえ? それでもそいつらにとどめを刺したのは、みーんなあんたの魔法じゃなかったっけ?」


「それは、そのほうが手っ取り早かったからさ……妖魅だって、うつつの世界に害を為すには、肉の身体を持つしかないんだから……それを破壊してやれば、無力化することができるんだよ……」


 そのように述べてから、ナーニャは激しく咳き込んだ。

 リヴェルは、慌ててその身に取りすがる。


「ナーニャ、無理をなさらないでください。いまのナーニャは、言葉を発するだけでも苦しいはずです」


「大丈夫だよ、リヴェル……これは、必要なことなんだ……」


 ナーニャの胸もとに置いたリヴェルの手に、白い指先が重ねられてくる。

 ナーニャの真紅の瞳は、真っ直ぐチチアに向けられていた。


「それに、王国の民は、現世の炎を扱うことができる……現世の炎でも、十分な質量さえあれば、氷雪の妖魅を滅ぼすことはできるんだ……だから決して、彼らは無力なんかじゃないんだよ……」


「ふーん。ま、確かに、この城にだって一万や二万の兵士はいるんだろうからね。そいちらが総出でかかれば、皆殺しにされることはないか」


 妙に強い口調で、チチアがそのように言葉を重ねた。

 それでリヴェルは、はたと思いあたる。おそらくチチアとナーニャは、盗み聞きしているマヒュドラの兵士たちに聞かせるために、このような会話を続けていたのだ。


「だけど、あいつらだけであの化物どもを退治することは、いくらなんでもできないんでしょ?」


「うん……現世の炎や鋼の武器だけで、大神の御子を退けることはできないだろうね……メフィラ=ネロの生み出した妖魅を退けることはできても、メフィラ=ネロ自身を退けることはできないはずだ……そして、僕も自身の力だけでは、メフィラ=ネロを退けることはできない……だから僕たちは、手を取り合わなきゃいけないんだよ……」


 そう言って、ナーニャは目もとに力を込めた。

 そうすると、またあの王家の人間としての威厳と力が感じられる。


「マヒュドラとセルヴァの確執なんて、それに比べたらちっぽけなことさ……向こうは四大王国のすべてを滅ぼそうと考えているんだから、内輪でもめている場合じゃないだろう……? だから君たちも、マヒュドラに対する敵対心などは捨て去って、彼らと手を取り合うべきなんだ……」


「ふん。あたしなんざは、西方神に唾を吐いちまった身だからね。マヒュドラを憎む気持ちなんて、これっぽっちも持ち合わせちゃいないよ」


「うん、僕とゼッドも、それは一緒だよ……リヴェル、君は大丈夫かな……?」


「は、はい。わたしは北の民を母に持つ身ですので……マヒュドラを恐れる気持ちはあっても、憎む気持ちはありません」


 リヴェルは、本心からそのように答えることができた。

 ナーニャは凛然とした表情のまま、満足そうに微笑んでいる。


「それじゃあ後は、イフィウスたちか……イフィウスは素晴らしい剣士だったから、ともに戦ってほしいところなんだけど……ヤハウ=フェムが、それを許してくれるかな……」


 そのとき、再び扉が開かれた。

 現れたのは、マヒュドラの兵士と若い西の民である。西の民の若者は、その手で大きな台車を押していた。


「お、お食事をお持ちしました。みなさん、奥の壁際までお下がりください」


 どうやら昼の食事の刻限となったらしい。ナーニャが昏睡していたこの二日間も、こうして食事が届けられていたのだ。

 チチアとタウロ=ヨシュは、無言で壁際まで退いていく。しかし、リヴェルはナーニャに寄り添ったまま、マヒュドラの兵士に懇願することになった。


「あ、あの、ナーニャは立ち上がることすらままならないぐらい、弱り果てているのです。決して逃げだしたりはしないので、この場に留まることを許していただけませんか?」


 マヒュドラの兵士は紫色の双眸を底光りさせながら、何事かをつぶやいた。

 給仕係として使われている若者は、「は、はい」と気弱げにうなずく。


「そ、それでは、その卓をわたしのほうにお運びください。そして、他の方々は壁際まで下がるようにお願いいたします」


 リヴェルがその言葉に従うと、ゼッドもしかたなさそうに壁際まで退いた。

 若者はほっと息をつきつつ、卓の上に木皿を並べていく。そこに湯気をたてた煮汁が注がれて、木皿の横には丸めて焼かれたポイタンの団子も添えられた。


「……それでは、失礼いたします」


 若者がきびすを返そうとすると、ナーニャが「待って……」と声をあげた。


「そちらの、マヒュドラのお人……食事の後でかまわないんだけど、イフィウスと言葉を交わす場を作ってもらうことはできないかな……? 彼にもマヒュドラの軍と共闘してもらえるように、説得をしたいんだ……」


 マヒュドラの兵士は、険悪な面持ちで何事かを言い捨てた。

 若者が、ほとんど泣きそうな顔でナーニャを振り返る。


「そ、そのような言葉を述べながら、グワラムから逃げ出そうという心づもりなのではないか、と仰っています」


「僕がこの地から逃げる理由はないよ……心配なら、マヒュドラ軍の誰かが同席すればいい……僕には何も、後ろ暗いところなどないからね……」


 マヒュドラの兵士はしばらく黙りこくってから、ごく短い言葉を発して、部屋を出ていった。


「しょ、将軍におうかがいをたてる、だそうです」


 通訳の仕事を済ませてから、若者も部屋を出ていった。

 そうして扉が閉められると、ナーニャは苦笑めいた表情を浮かべる。


「やれやれ……ずいぶん怯えている様子だね……」


「は、はい。でも、奴隷として北の民に使われていれば、それも当然だと思います」


「そっちじゃなくて、マヒュドラの兵士のほうさ……それはまあ、僕のような化物と言葉を交わすのは、誰だって気が進まないことなんだろうけどね……」


 そう言って、ナーニャはくすくすと笑い声をたてた。


「さあ、それじゃあ食事にしようか……食欲なんてこれっぽっちもないけれど、僕は一日も早く力を取り戻さなければいけないからね……ゼッド、身体を起こしてもらえるかい……?」


 ゼッドはうなずき、左腕一本でナーニャが身を起こすのを助けていた。

 その間に、チチアは木皿の中身を覗き込んでいる。


「ふん。またキミュスの卵と野菜の煮汁か。たまには肉でも食べさせてもらいたいもんだよ」


「ぜいたくをいうな。おれたちはまだ、しゅうじんのようなものなのだぞ」


 タウロ=ヨシュが地鳴りのような声でそう応じると、チチアは鼻のあたりに皺を寄せた。


「ひさかたぶりに口を開いたかと思えば、その言い草かい。憎まれ口もほどほどにしておきなよ」


「にくまれぐちをたたいているのは、おまえのほうだ」


 頭ひとつ分以上も差のある両者が、おたがいの姿を憎々しげににらみ合っている。

 その姿を目にした瞬間、リヴェルはこらえようもなく涙を流してしまった。


「どうしたんだい、リヴェル……いったい何を泣いているのさ……?」


「あ、す、すみません……何だか、ようやくみんなが元気でいることを実感できたような気がして……ついつい気持ちがゆるんでしまったのです」


 リヴェルたちがマヒュドラ軍に捕らわれたのは、もう十日近くも前のことだった。ゼッドたちとは別々の荷車に放り込まれて、グワラムに到着してからは地下の牢獄に監禁され、それを脱出したかと思ったら、今度はメフィラ=ネロの襲撃を受け――このように、五人全員が顔をそろえて食事を取ろうなどというのも、それ以来のことであったのだ。


 むろん、事態がそこまで好転したわけではない。ヤハウ=フェムはナーニャからの提案を退けてしまうかもしれないし、たとえ共闘の道が開けたとしても、またあの恐ろしいメフィラ=ネロと相対しなければならない。


 しかし、そうだからこそ、リヴェルはいまこの瞬間の幸福を噛みしめたかった。

 ナーニャがいて、ゼッドがいて、チチアとタウロ=ヨシュがいて、自分がいる。それがどれほどかけがえのないことであるか、リヴェルはあらためて思い知らされた心地であった。


「……あたしたちって、そんなに和やかな間柄だったっけ?」


 チチアは仏頂面になりながら、がりがりと頭をかいていた。

 タウロ=ヨシュは、目もとだけで優しく微笑みながら、リヴェルの姿を見下ろしている。


「いいから、とっとと食べようよ。ただでさえ粗末な食事なんだから、冷めちまったら目もあてられないよ」


「ええ、そうですね」


 リヴェルは頬の涙をぬぐい、チチアに笑いかけてみせた。

 それから、ナーニャのほうに視線を戻すと――ナーニャは思いがけないほど、やわらかい表情で微笑んでいた。

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