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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅴ-Ⅳ 遭遇

2018.7/7 更新分 1/1

 ラッカスの領地を通過して二日が過ぎ、黄の月の二十日。

 偽王子の一団を擁するゼラドの大軍は、ひたすら街道を北に進んでいた。


 その間、何回かはセルヴァの軍と刃を交えたのだと、メナ=ファムは聞いている。しかし、その剣戟がメナ=ファムたちの耳に届くことはなかった。防衛線であるラッカスを突破されたことにより、他の地方領主たちもようよう重い腰を上げたようであるのだが、そこからもたらされる迎撃の軍はいずれも小規模であり、陣の中央でもっとも堅く守られた偽王子一行の安寧を脅かすには至らなかったのだった。


「やはり、王家を名乗る人間においそれと剣を向けようという心情にはなれぬのだろうな。もとより地方領主どもの役割は我らを足止めすることであるのだが、普段よりもいっそう生ぬるく感じられるぞ」


 昨晩、シルファたちのもとを訪れたラギスなどは、不敵に笑いながらそのように述べたてていた。

 何にせよ、メナ=ファムは毎日、荷車に揺られるばかりである。すでに戦が始まっているという実感も得られぬまま、シルファたちはついに進軍を始めてから六日目を数えることになったのだった。


「このまま進軍が止まらなかったら、あと九日ていどで王都に到着しちまうってことなんだよね。ま、さすがにそんなことにはならないんだろうけどさ」


 じょじょに暗くなっていく窓の外を眺めながら、メナ=ファムはそのように言ってみせた。

 プルートゥをかたわらに侍らせたシルファは、「そうですね」と静かに微笑んでいる。


「ただ、進軍が順調であるということに間違いはないようです。このままでいけば三日後には目的の場所に辿り着くことができると……エルヴィルは、そのように言っていましたよね」


「ああ、何とかっていう砦だったっけ? 王都の軍が到着する前にその砦を落としちまえば、ずいぶん戦を有利に進められるって話だったよね」


 シルファのほうに視線を戻しつつ、メナ=ファムはにっと笑ってみせる。


「ま、何がどうなろうと、あんたの身はあたしが絶対に守ってやるからさ。あんたは何も心配せず、王子様らしくふんぞりかえっておきなよ、シルファ」


「はい。メナ=ファムさえいてくれれば、わたしはいくらでも勇敢に振る舞える気がしてしまいます」


 そう言って、シルファはふわりと微笑んだ。

「何を言ってんだい」と、メナ=ファムはその華奢な肩をどやしつける。


「ゼラドを出立して以来、あたしはまだ何の役にも立っていないじゃないか。もちろん、それだけ平和な毎日だったってことなんだから、何も文句を言う筋合いじゃないけどさ」


「いえ。メナ=ファムがそばにいてくれなかったら……わたしをシルファと呼ぶ人間が誰もいなかったら、わたしはもうこの道中で心がくじけていたかもしれません。日中にこうしてメナ=ファムと過ごしているからこそ、わたしは王子として振る舞う力をひねりだすことができているのです」


「ふふん。まあ、あんたと日がな一緒にいられるのは、あたしだけだからね。こいつが侍女の役得てやつなのかねえ」


 信頼と慈愛に満ちみちたシルファの眼差しを向けられていると、メナ=ファムも幸福な気持ちになってくる。

 しかしその反面、メナ=ファムは大きなもどかしさをも抱え込んでしまっていた。


(でも、あんたはこれからシルファっていう名前を一生捨てちまおうとしているんだ。もちろんこうやって二人きりのときには、あたしがいくらでもその名前を呼んでやるけどさ。一生身分を偽って生きるなんて……やっぱりそんなのは、絶対に正しい道じゃないんだよ、シルファ)


 しかし、その道を選んだのはシルファ自身であるし、運命をともにすると決めたのはメナ=ファム自身である。西方神に怒りの炎で焼かれるその日まで、二人は背徳の道を突き進むしかなかったのだった。


(ここまでとんとん拍子に話が進むと、エルヴィルやラギスの悪巧みが成功しちまうんじゃないかって思えてきちまうね。……ま、そこまで話は甘くないんだろうけどさ)


 エルヴィルたちの野望を結実させるには、まず王都の軍を退けたのち、現在の王を弑逆して、さらに今度は返す刀でゼラドの軍をも退けなければならないのだ。大いなる西方神が居眠りでもしていない限り、このような悪巧みが成功するとは、とうてい思えなかった。


(それでももう、引き返す道は残されてないんだ)


 メナ=ファムがそのように考えたとき、トトスの車が停止した。

 気づけば、窓の外はずいぶん薄暗くなってきている。本日は、この場所で夜を明かすことになるのだろう。


「あーあ、すっかり尻が痛くなっちまった。食事の準備ができるまで、外の空気でも吸いに行くかい?」


「いや、わたしは大丈夫だ。荷台で揺られるのにも、だいぶん慣れてきたからな」


 トトスの車が動きを止めると、シルファはすぐに口調を偽王子のそれに戻してしまう。この車の周囲を固めているのはエルヴィルを隊長とする旗本隊の兵士たちであるものの、そういった者たちにもシルファの正体を悟られてはならないのだ。


(まったく、難儀な話だね)


 メナ=ファムは、ラナの葉を使って燭台に火を灯した。

 シルファは黒豹の艶やかな毛皮を撫でながら、静かに微笑みかけてくる。


「わたしのことは気にせずに、メナ=ファムだけでも外の空気を吸ってくるがいい。というか、たまには外の兵士たちと食事をしてきたらどうだ? メナ=ファムは、賑やかなほうが好きであろう?」


「何を言ってるんだい。護衛役のあたしがそばを離れるわけにはいかないだろうよ」


「わたしのそばにはプルートゥがいるし、じきにラムルエルもやってきてくれる。少しぐらいの時間であれば、危険はあるまい」


「ラムルエルは毒の武器を取り上げられてるんだから、護衛の役には立たないだろうさ。……まさか、あたしをのけものにしてラムルエルと乳繰りあおうって考えじゃないだろうね?」


 後半の言葉は、盗み聞きを警戒して、シルファの耳もとに囁きかける。

 するとシルファは、少し甘えるような仕草で目を細めた。


「わたしがそのように不埒な真似に及ぶと思いますか? わたしだって、本当はメナ=ファムとずっと一緒に過ごしていたいです」


「だったら、余計な気をつかう必要はないよ。あんたのいないところで馬鹿騒ぎしたって、なんにも楽しかないさ」


 肌が触れそうなぐらいに顔を近づけながら、こそこそと囁きあう。メナ=ファムとしては、何だか許されぬ相手と逢引でもしているような心地であった。


(ま、ゼラドの連中なんかは、あたしとシルファがよろしくやってるって思い込んでるんだろうけどさ。たとえシルファが男だったとしても、あたしみたいな荒くれた女なんざに目をかけるもんかい)


 メナ=ファムがそんな風に考えたとき、車の扉が外から叩かれた。


「ラムルエルです。食事、お持ちしました」


「おや、早かったね。おつかれさん、ラムルエル」


 メナ=ファムが扉を押し開けると、大きな盆を手に掲げたラムルエルが立ち尽くしていた。

 メナ=ファムがその盆を受け取ると、ラムルエルは音もなく荷台に上がり込んでくる。プルートゥに負けない、軽やかな身のこなしである。


「王子殿下、お変わり、ありませんか?」


「ああ、大丈夫だ。ラムルエルも、ご苦労であったな」


「いえ。車、走らせる、仕事ですので」


 ラムルエルは敷物の上に腰を下ろしながら、プルートゥのほうにも目配せをした。黄金色の目をしたシムの黒豹は、嬉しげな様子で咽喉を鳴らしている。


 この車にもさまざまな物資が積まれているので、三人と一頭が陣取るだけで、ずいぶん狭苦しくなってしまう。ゼラドの領内では天幕を張っていたが、セルヴァの領内に踏み入ってからは、食事も寝場所もこの荷台の中と定められていたのだ。


「それじゃあ、食事にしようかね。いいかげん、この粗末な煮汁にも食べ飽きちまったところだけどさ」


 ラムルエルの運んできた盆には、煮汁の皿が載せられていた。干し肉と野菜とポイタンの団子を煮込んだだけの、味も素っ気もない夜食である。舌を楽しませるのではなく、ただ栄養の補給だけを目的にした代物であった。

 ちなみにプルートゥの食事は、干し肉を水に漬けて塩気を抜いた、ぬめぬめとした肉塊である。シムの黒豹という獣は肉さえ食べていれば十分であるそうだが、このようにふやけた肉だけではきっと不服なことだろう。


「しかし、食事が粗末、略奪していない証拠です。そう考えれば、気持ち、安らぐのではないでしょうか」


「ふん。そりゃまあ、罪もない人らから奪った食事で腹を満たしても、なんにも嬉しかないからね。それにしたって、もうちっとはマシなもんを食べたいところだけどさ」


 メナ=ファムは煮汁をすすってみたが、やはりそこには干し肉から溶け出した塩気しか感じることはできなかった。

 干し肉はきっと、カロンの牛の足肉だろう。これだけ煮込まれていても筋張っており、噛みちぎるのに難渋するほどである。ポイタンの団子は半ば溶け崩れており、粘っこく口の中にからみついてくる。


「このポイタンの団子だって、煮込むんじゃなく火で炙ってやれば、もうちっとは食べやすいのにさ。何でもかんでも煮込めばいいってもんじゃないだろうよ」


「はい。ですが、少しの手間も、許されないのでしょう。数万、人間、いるのですから、いちいち焼いていたら、大変な手間、なります」


 黒い瞳を静かに瞬かせながら、ラムルエルはそのように述べていた。


「それに、ポイタンの団子、まだありがたい、思います。昔、ポイタン、そのまま食していた、聞いています」


「そのまま? ポイタンをそのまま鍋にぶちこんでたっていうのかい? そんなことしたら、どろどろの泥水みたいな煮汁になっちまうじゃないか」


「はい。ポイタン、粉にして、練り物にする食べ方、ここ二十年、生まれたらしいです。それより前、ポイタン、溶かして食べるものだった、聞いています」


「二十年前なんて、あんたはまだ幼子だろ。そんな話、いったい誰に聞いたってのさ?」


「父です。父、商団の長だったので、旅暮らしでした。私、生まれた頃、まだ、ポイタン、溶かして、飲んでいたそうです」


「ラムルエルは、父君も旅の商人だったのか」


 木匙の動きを止めて、シルファがそのように声をあげた。

 味気ない煮汁をすすってから、ラムルエルは「はい」とうなずく。


「父、大陸中、旅していた、聞いています。私、その話、憧れて、旅の商人、なったのです」


「ふうん。でも、親父さんが商団の長だったんなら、そこで一緒に旅をすればよかったじゃないか。どうしてあんたは、たった一人で旅を続けているんだい?」


「商団、私の兄、引き継ぎました。私、大きな商団より、気軽な一人旅、好んだのです」


 そう言って、ラムルエルは穏やかな視線をプルートゥのほうに差し向けた。


「それに、プルートゥ、一緒だったので、孤独、ありません。故郷、戻れば、たくさん家族、いますし――」


 そこでラムルエルは、ふいに口を閉ざした。

 その姿を見つめながら、シルファはふっと息をつく。


「……しかしこのままでは、故郷に戻ることもできまいな。私が新たな王として玉座につかない限り、ラムルエルは永遠に叛逆者として扱われてしまうのだ。シムとセルヴァは建国以来の友国であるのだから、ラムルエルは故郷でも大罪人と見なされてしまうことだろう」


「はい。覚悟の上です。お気遣い、無用です」


 ラムルエルの表情に変化はない。彼は感情を隠すことを美徳とする、東の民であるのだ。

 シルファは木皿を敷物の上に置くと、身を乗り出してその耳もとに口を寄せた。


「本当によろしいのですか? もしもわたしたちの力が及ばなかったら……ラムルエルも叛逆者として処刑されてしまうのですよ?」


「……覚悟の上です。私、シルファ、正しい人間、信じています」


 そのように述べてから、ラムルエルはわずかに首を傾げた。


「いえ、違いますね。私、シルファ、信じること、正しい、信じています」


「どうしてですか? わたしなんて、兄であるエルヴィルの志に殉じたいと願っているだけなのですよ? わたし自身、これが正しい行いであるかはわかっていないのです」


「はい。ですから、私、シルファに正義、求めていません。ただ、シルファ、不幸になる、見過ごせないだけなのです」


 そう言って、ラムルエルはまぶたを閉ざした。


「私、自分の行い、正しい、信じています。東方神、きっと、明るい行く末、導いてくれるでしょう。ですから、心配、無用です」


「でも……わたしはラムルエルがこれほどの覚悟を捧げてくださっているのに、何ひとつ報いることができません。わたしなんて、本当は何の価値もない人間であるのに……」


「おいおい、馬鹿なことを言ってるんじゃないよ。あんたがそんなくだらない人間だったら、あたしやラムルエルもこんなところまでついてきちゃいないってんだよ」


 メナ=ファムも声をひそめながら、その輪に加わらせていただいた。


「それに、あたしらはあたしらなりに考えぬいた末に、この道を選んだんだからね。あんたが心配してくれるのはありがたいけど、そいつはありがた迷惑ってもんさ。あんたはあんたで自分の信じた道を突き進めばいいんだよ」


「はい。私、同意します」


 シルファはきゅっと口を引き結び、涙をこらえるような表情を垣間見せてから、「ありがとうございます」とつぶやいた。


「メナ=ファムとラムルエルを大罪人にしないためには、わたしが何としてでも玉座を得るしかないということですね。……わたしはそのために、この身の力をすべて振り絞ると、ここに誓います」


「ああ。セルヴァの王子を名乗るには、それぐらいの覚悟が必要ってことだよ」


 メナ=ファムは笑いながら、シルファの頭を小突いてみせた。

 不安定な体勢であったシルファは、それでよろけてラムルエルに肩をぶつけてしまう。とたんに、ラムルエルは深々と溜息をついた。


「す、すみません、ラムルエル」


「何だい、これ見よがしに溜息なんてついちゃってさ。王子殿下に対して、あまりに不遜な態度なんじゃないのかい?」


「申し訳ありません。ただ、シルファのように、美しい女人、これほど間近に迫ると、心、乱れてしまうのです。話、終わったなら、離れていただけますか?」


 シルファは、きょとんと目を丸くしていた。

 メナ=ファムは、思わずふきだしてしまう。


「あんた、ずいぶん愉快なことを言うじゃないか。そんな取りすました顔して、シルファの色香に心を乱されてたってのかい?」


「はい。シルファ、美しいのですから、当然です」


 シルファは珍しくも目を白黒とさせながら、身を引いていた。

 ようやくまぶたを開いたラムルエルは、もう一度深く息をついている。


「申し訳ありません。もちろん、よこしまな気持ち、ないのですが、それゆえに、いっそう心、乱されてしまうのです」


「ふうん。東の民から見ても、やっぱり王子殿下ってのは、とてつもない美しさなのかい?」


「はい。東の民、細い女人、美しい思います。王子殿下、女人であったなら、誰もが美しい、思うでしょう」


 そのように述べるラムルエル自身も、木の棒のような長身痩躯である。シャーリの集落にもときおり東の商人がやってくることはあったが、肥え太った東の民というのはかつて見かけたこともなかった。


「なるほどねえ。それじゃあ、あたしみたいに図太い女なんかは語るにも値しないってことか」


「メナ=ファム、図太い、思いません。鍛えぬかれた身体、美しい、思います。……ただ、心、乱されること、あまりない、思います」


「そいつは何よりだ。あたしらは、いわゆる戦友ってやつなんだろうからね。色恋なんざは抜きにしようや」


 メナ=ファムは大いに笑いながら、ラムルエルの骨ばった肩を叩いてみせた。

 荷台の扉が再び叩かれたのは、そのときである。


「王子殿下、失礼いたします! お食事の最中に恐縮ですが、敵襲におそなえください!」


 それは、普段から伝令役を担っている旗本隊の兵士の声であった。

 メナ=ファムは床に置いていた半月刀をひっつかみ、扉のほうへと駆けつける。


「敵襲だって? こんな刻限に襲ってくるなんて、愉快な真似をしてくれるじゃないか」


「ああ、メナ=ファム。いや、実際に敵襲があったかはわからんのだ。ただ、陣の右辺から喧騒の気配が伝わってきたので、敵襲にそなえることにした」


 白を貴重としたセルヴァの鎧に身を包んだ兵士が、そのようにまくしたててきた。


「どうせ騒ぎが収まるまで、こちらに事情を知らされることはないのだろう。ゼラドの黒蛇どもは、盟友たる我々をまったく信用しておらんようだからな」


「そりゃまあ、こっちも黒蛇呼ばわりしてれば、しかたない話なんじゃないかねえ」


 メナ=ファムが肩をすくめてみせると、兵士は「違いない」と不敵に笑った。彼らは義憤に燃える勇士であったものの、もとを質せば荒くれた傭兵の集まりであるのだ。


「まあ、いつもの小競り合いで終われば、王子殿下の身が危険にさらされることはないだろう。それでも油断せず、王子殿下をお守りしてくれ」


「もちろんさ。……おや、隊長さんまで来ちまったね」


 甲冑姿のエルヴィルが、ほとんど駆け足でこちらに近づいてくる。伝令役の兵士は、如才なく敬礼の姿勢を取っていた。


「何も異常はないな? 東の民も、荷台の中か?」


「ああ。みんなで一緒に食事を楽しんでいたところさ」


「ならば、御者台に戻らせろ。いつでも動けるように準備をしておけ」


 メナ=ファムは、伝令役の兵士と一緒に眉をひそめることになった。


「何だい、穏やかじゃないね。今回は、小競り合いで終わりそうにないのかい?」


「いや、そのような軍勢の接近してくる気配はなかった。しかし、どうにも腑に落ちんのだ」


 白銀の兜のひさしの下で、エルヴィルの瞳は火のように燃えていた。


「もとより、この近在にセルヴァ側の砦は存在しない。いかにトトスを急がせても、二、三刻はかかるはずだ。そうだからこそ、この場を夜営の地に定めたのだからな」


「ふうん? あいにくあたしには、言葉の意味がわからないね。トトスで二、三刻かかると、それが何だってのさ?」


「……このような刻限に襲撃すれば、そやつらは夜の中を二、三刻もかけて砦に戻ることになるのだ。しかも、地方領主どもの狙いはゼラド軍の足止めであるのだから、夜襲などを仕掛けても効果は薄い。そのような危険を犯してまで夜襲を仕掛ける理由は、どこにもないはずであるのだ」


「ふうん? だったら、王都の軍とやらがついに到着しちまったとか?」


「いや、それではあちらの進軍が速すぎるし、そもそもこのような場所で襲撃を仕掛けるのは戦略的にありえない。この近在には、王都の本隊を収容できるような砦も存在しないのだからな」


 そう言って、エルヴィルは兵士のほうに鋭い眼光を差し向けた。


「ともあれ、これはいままでの小競り合いと様相が異なっているように感じられる。旗本隊は全員トトスの手綱を取り、何が起きても対処できるように伝令を回しておけ」


「了解いたしました、隊長殿。……どんな敵でも、俺たちが斬り捨ててみせますよ」


 最後に傭兵らしい言葉を添えてから、伝令役の兵士は駆け去っていった。

 その姿を横目で見送りながら、メナ=ファムは「ふん」と鼻を鳴らしてみせる。


「確かに何だか、おかしな感じだね。隊長さん、こっちのほうまで騒ぎの気配が近づいてきちゃいないかい?」


「なに? ……なにも感じぬぞ」


「そうかい。あたしには、ひしひしと感じられるねえ」


 人間のわめき声や、トトスの甲高い雄叫びが、風に乗ってメナ=ファムの耳をわずかに震わせている。世界はすでに宵闇の中にあったが、そちらの方向では松明の火が慌ただしく蠢いているようにも感じられた。


(しかも、それだけじゃない。この気配は、何なんだろうね……シャーリの大鰐が群れで襲ってきたような……いや、もっと危なっかしいもんが近づいてきているような……)


 気づくと、メナ=ファムの背中の毛が逆だってしまっていた。

 何か、異変が起きているのだ。

 その正体はまったくわからないまま、メナ=ファムは荷台の中に声を投げ入れた。


「ラムルエル! 御者台に戻ってもらえるかい? こいつは……何だか、まずそうだ」


「承知しました」


 ラムルエルが、ふわりと地面に降り立った。

 そこに、ブオオオオォォォォ……ッという、異様な音色が響きわたる。


「何だ、いまの音は!?」


 エルヴィルが刀の柄に指をかけながら、周囲の薄闇をにらみ回した。

 メナ=ファムの背筋は、ぞくぞくと粟立ってしまっている。


「エルヴィル! ここに突っ立ってるのはまずいよ! いますぐ、トトスで逃げちまおう!」


「馬鹿を言うな。この周囲はゼラドの軍に囲まれているのだから、俺たちだけ逃げることはできん」


「だったら、ゼラドの連中にもそう伝えなよ! こいつは……きっと、よくないものだ!」


 言いざまに、メナ=ファムは抜刀した。

 エルヴィルは、火のような眼光を突きつけてくる。


「何をしている、メナ=ファム。まさか……そのままゼラドの軍からも逃げようという魂胆ではあるまいな?」


「何を言ってるのさ! あんたは、この気配を感じないのかい!?」


 シャーリの大鰐よりも恐ろしい何かが、ものすごい勢いでこちらに近づいてきている。それはもう、目で見ているのと同じぐらい、メナ=ファムにははっきりと知覚できていた。


「くそっ! トトスを動かせないなら、この場で迎え撃つしかないのか……王子殿下! 扉を閉めて、絶対に出てくるんじゃないよ!」


 そのとき、暗がりの向こうから魂消る絶叫が響きわたった。

 メナ=ファムをにらみつけていたエルヴィルも、それでようやく刀を抜き放つ。


「馬鹿な! ゼラドの陣を突破されたというのか? まさか、本当に王都の軍が……?」


「あんたこそ、馬鹿なことを言ってんじゃないよ。これが、人間様のわけがあるもんかい」


 鈍色に輝く半月刀を両手でかまえながら、メナ=ファムは腰を落とした。

 悲鳴と絶叫が交錯しながら、じわじわとこちらに近づいてくる。そして、薄闇の中で松明の炎が狂ったように乱舞していた。


「エ、エルヴィル隊長、これはいったい……?」


 と、若い傭兵が横合いからまろび出てくる。

 その姿が、ふいにかき消えた。

 闇の中から突進してきた異形の存在が、そのあわれな若者の身体を撥ね飛ばしてしまったのだ。


 若者の身体は、メナ=ファムの頭より高い位置まで浮き上がっていた。

 そして、頭から地面に落ちて、そのまま動かなくなってしまう。断末魔の声をあげる間もなく、その若者は絶命したようだった。


 しかし、メナ=ファムにはそちらを振り返る余裕すらなかった。

 あちこちで焚かれたかがり火によって、襲撃者の姿が照らし出されていたのだ。


 それは、異形の怪物であった。

 ただし、正体は知れている。それは、図太い胴体と巨大な二本の角を持つ、野生のカロンの大牛であった。


 人間に飼いならされたカロンは気性も穏やかで動きも鈍重であるが、野生のカロンは凶暴だ。うかつに人間が近づけば、角で突き殺されるか、踏み潰されることになる。このカロンも、体長はメナ=ファムの背丈と同じぐらいもあり、ごつごつとした岩塊のような巨体であった。


(なんてこった……母なるシャーリよ、あたしは故郷を捨てちまった、不出来な子だけど……どうか、シルファを守る力を貸しておくれ!)


 そんな風に念じながら、メナ=ファムは刀を握りなおした。

 カロンの大牛は、ブオオオオォォォォ……ッと、地鳴りのような雄叫びをあげている。


 カロンの大牛に相応しい、恐ろしげな咆哮である。

 しかしそれは、野生のカロンよりもなお凶悪で、おぞましい存在であった。

 そのカロンの大牛は、腐った肉体のあちこちから白い骨を覗かせた、生ける屍であったのである。


 腹の下には、はみだした臓物がぷらぷらと揺れている。

 辺りには、耐え難いほどの腐臭が満ちていた。

 そして――頭蓋骨が半ば剥き出しになったその巨大な顔には、青い鬼火のような目が爛々と燃えている。

 これは、カロンの大牛の姿をした、まぎれもない妖魅であったのだった。

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