Ⅲ-Ⅳ 急報
2018.6/23 更新分 1/1
「カノン王子とヴァルダヌス殿が、まだ生きておられる――その話は、すでにディラーム将軍からお聞きしています。しかし、そのようなことがありえるのでしょうか? カノン王子とヴァルダヌス殿がご存命であるのならば、そのように隠れひそむ理由はないように思うのですが」
イリテウスという若き騎士は、疑り深げな面持ちでそのように述べたてた。
クリスフィアの見たところ、彼は真っ当なる武人らしい気性であるようだ。年齢はクリスフィアと同じていどで、王都の騎士らしく端正な面立ちをしていたが、その眼差しにはなかなかの気迫が感じられた。
(この御仁の父親であるアローン将軍は防衛兵団とやらの長であり、前王もろとも銀獅子宮の火災で魂を返してしまったのだという話だったな。それでは、このたびの話もとうてい穏やかな気持ちで聞くことはできないのだろう)
そんなイリテウスを恐れげもなく見返しながら、ティムトは「いえ」と首を横に振った。
「カノン王子とヴァルダヌス将軍は、前王らを弑したという疑いをかけられていたのです。それでは、たとえ王都から逃げおおせたとしても、うかつに名乗りをあげることはできないように思います」
「しかし、清廉潔白の身であるならば、己の無実を主張するべきです。そうでなくては、真の犯人をのさばらせてしまうことになってしまいましょう。我々の知るヴァルダヌス殿であれば、おめおめと逃げたりはしないはずです」
イリテウスのかたわらでは、ディラーム老が白くなりかけた眉を厳しく寄せていた。ディラーム老は、そのヴァルダヌスという人物を実の息子のように可愛がっていたという話であったのだ。
「儂もイリテウスと同じ気持ちだ。ヴァルダヌスは、どのような難敵を前にしても、逃げるような男ではない。無事に災厄から逃れたのならば、王都に引き返して真の悪党どもを斬り捨てていたはずだ」
「では、無事でなかったとしたら、いかがでしょう? あの隠し通路の出口には、熱冷ましであるロロムの葉が残されていたのです。ヴァルダヌス将軍は手ひどい火傷を負ってしまったために、敵と戦う力が残されていなかったのかもしれません」
「ヴァルダヌスが……そのような憂き目にあったというのか?」
「あるいは、火傷を負ったのは王子のほうであったのかもしれません。何にせよ、敵と戦えるような状態ではなかったのではないでしょうか」
「しかし、あれからすでに長きの時間が過ぎています。いまだに姿を隠し続ける理由などはないのではないでしょうか?」
イリテウスのほうが、しつこく食い下がった。
ティムトはまったく動じた様子もなく、「どうでしょう?」と小首を傾げている。
「敵が誰であるにせよ、それは銀獅子宮に出入りできる人間であったわけです。それほどの貴き身分にある人間が、カノン王子らに王殺しの罪をなすりつけたとするならば、その疑いを晴らすのは容易ではありません。長きの時間をかけて、自身の潔白を証すための算段を講じるか……あるいは、すべての希望を捨て去って、流浪の身となってしまっても、僕は不思議には思いません」
「いや、しかし――」
「それよりも、敵を倒すためにゼラド大公国を頼るというほうが、ヴァルダヌス将軍の気質にはそぐわないように思います。よって、仮にカノン王子とヴァルダヌス将軍がご存命であったとしても、ゼラド大公国に連れ去られた一団は偽物なのだろうと思います」
クリスフィアは、若干の違和感を覚えることになった。いつも理路整然としているティムトが、強引に話をねじ曲げたように思えたのだ。
(ふむ。イリテウス殿の気をそらそうとしているのかな。ティムトとしては、確かめようのない話でいつまでも時間を無駄にしたくはない、ということか)
ティムトの思惑はどうであれ、イリテウスの関心はまんまと偽王子のほうに移ったようだった。
「ゼラド大公国は、我々にとって長年の仇敵です。ヴァルダヌス将軍がどれほど力を欲していたとしても、ゼラドを頼ることだけはありえないでしょうな」
「はい。なおかつ、カノン王子を名乗る人物のかたわらにあるのは、ヴァルダヌス将軍ではなく、かつてその旗下にあった千獅子長のエルヴィルという人物です。推測するに、その人物はかつて敬愛していたヴァルダヌス将軍の汚名をすすぐために、偽物の王子を仕立てあげたのではないでしょうか」
「うむ……自分はそのエルヴィルという人物のことはよく知らないのですが、たしか、傭兵の身でありながら、千獅子長にまで取り立てられたという話でしたな。言っては悪いが、傭兵という野卑な身であれば、そのように馬鹿げた真似をしでかしてもおかしくはないかもしれません」
自分の部下である傭兵たちとも気安い交流を結んでいるクリスフィアにとっては、あまり面白くない言い様であった。
しかし、ティムトは「そうですね」とうなずいている。
「しかし、それもまた、ヴァルダヌス将軍を思うゆえであったのでしょう。彼らはゼラド大公国に身を寄せてしまいましたが、本来であれば、こちらと志を同じくする立場であったのです。彼らとは剣を交えるのではなく、いずれ手を携えられるように取り計らうべきだと思います」
「そのためにこそ、そちらのロア=ファム殿は王都に留まっているのだというお話でしたね」
と、ふいにメルセウスが割り込んできた。
そちらの一件に関しては、もともとディラーム老のもとにあったイリテウスはすでに十分に心得ている。いっぽうで、昨晩に内情を聞いたばかりのメルセウスは、まだ上っ面の話しか聞かされていないはずだった。
「何でも、ロア=ファム殿の姉君が、偽王子の一団に加わっているとか……それで、ロア=ファム殿が姉君を通じて、講和の使者となるというお話なのですよね?」
「はい。それでゼラドの進軍を退けることがかなえば、彼の姉君の大罪も許すという約定を、すでに新王から取りつけています」
「大罪ですか。もちろん王家の名を騙る人間に加担すれば、それは大きな罪となってしまうのでしょうね」
メルセウスは穏やかに微笑みつつ、さらに言った。
「しかし、ゼラド大公国は本当に進軍してくるのでしょうか? もう偽王子の一団が連れ去られてから、それなりの時間が過ぎているのですよね?」
「数万から成る軍勢を動かすには、長きの時間がかかります。どんなに早くとも、この黄の月の半ばまでは、それほどの大軍を動かすことはかなわないと思います」
「黄の月の半ばですか。今日は黄の月の五日ですから、もうそれほどの猶予は残されていないことになりますね」
「はい。ですから、彼にはそろそろ王都を発ってもらおうかと考えています」
ティムトの言葉に、ロア=ファムが黄色みがかった瞳をきらりと輝かせた。
「ようやく、俺の仕事を果たすときがやってきたのだな。ゼラドの軍勢が押し寄せてくるまでは出番もないのかと思っていたぞ」
「王都とゼラドは、車を引かせたトトスであれば半月もかかるほどの距離があります。相手が動いてから動くのでは、こちらも好機を逸してしまうことでしょう。ただ……」
「ただ、何だ?」
「敵方に妖魅を使うものが存在するなどとは、こちらも予想していませんでした。もしも敵方が偽王子との講和を妨害しようと考えたならば、ロア=ファムは大きな危険に見舞われてしまうかもしれません?」
「なに?」と、クリスフィアは思わず声をあげてしまった。
「ちょっと待て。どうして敵方の人間が、偽王子との講和を妨害せねばならんのだ? このままゼラドが王都にまで攻め込んできたら、せっかく築きあげた権勢も揺らぐことになりかねないのだから、それを邪魔立てする理由はあるまい」
「それは……」と、わずかに口ごもってから、ティムトはすくいあげるような視線をクリスフィアに突きつけてきた。
「僕たちはその一団を偽物と決めつけていますが、敵方はどう考えているかわかりません。もしもそれが本物のカノン王子であったとしたら、赤の月の陰謀が暴かれてしまうかもしれないのです。ならばきっと、ゼラド軍もろともカノン王子を名乗る人物も叩き潰してしまいたいと願うことでしょう。カノン王子を名乗る人物と講和などが為されるのは、敵方の人間にとって都合が悪いはずなのです」
それは確かに、もっともらしい話であった。ティムトがすんなりとそのように答えていたのならば、クリスフィアも信じていたかもしれない。
が、ティムトは何かを危ぶむような眼差しでクリスフィアを見つめていた。
頼むから、これ以上は詮索するな――と、その目が語っているように思えてしまう。
(ならば、この場では引いておいてやるか。あくまでも、この場においては、だぞ)
クリスフィアはそのように考えながら、ティムトに薄く笑いかけてみせた。
「了承した。しかし、まさかこのロア=ファムを単身でゼラド軍に送りつけるわけではないのだろう? 新王とて、監視の人間をつけずにはいられんだろうからな」
「はい。もちろんディラーム将軍から兵士をお借りするつもりですが、あまり大人数になってしまうと、敵方に動きを察知されてしまいます。かといって、妖魅が相手ではどれだけの兵士が必要かも計算が立ちませんし……」
「ならば、俺が同行しよう」
そのように言い出したのは、ギリル=ザザであった。
その場にいるほとんどの人間が、ぎょっとしたようにそちらを振り返る。
「待て。お前の仕事は、メルセウス殿をお守りすることなのだろう? そんなお前が、王都を離れようというのか?」
クリスフィアが尋ねると、ギリル=ザザは「ああ」と笑った。
「主人の護衛など、こいつらのどちらか一人でも十分なぐらいだ。三人の内の一人がそばを離れたところで、問題はあるまいよ」
「うん。僕のもとには何人かの近衛兵もいるからね。べつだん、不都合はないと思うよ」
メルセウスは、ごくあっさりとそのように答えていた。
ティムトは探るような目つきでその笑顔を見据えている。
「本当によろしいのですか? 事と次第によっては、大事な従者を失ってしまうことにもなりかねないのですよ?」
「ふん。ジェイ=シンだって、その妖魅とやらを返り討ちにしたのだろうが? ジェイ=シンには一歩及ばぬ身であっても、俺とて遅れを取ったりはせん」
主人よりも先に、ギリル=ザザがそのように答えていた。
すると、すぐそばに控えていた二名の同胞たちが、左右からギリル=ザザに詰め寄ろうとする。
「ちょっと待て。お前はどうせ、大人しくしていることに飽きただけなのだろう? 一人で勝手に話を進めるな」
「うむ。たとえその仕事を引き受けるとしても、この三人の中で誰がもっとも適しているか、もっと慎重に考えるべきだろう」
「何を言っている。この中で、伴侶を娶っていないのは俺だけだ。魂を返すことにもなりかねないほど危険な仕事であるならば、俺が出向くのが相応であろうが?」
そう言って、ギリル=ザザは豪放に笑い声をあげた。
「だいたい、ジェイ=シンは主人のお気に入りであるから手放すはずがないし、ホドゥレイル=スドラは頭を使う仕事を得手にしている。俺はややこしい陰謀などよりも、妖魅とやらを拝んでみたいのだ」
「やっぱり、大人しくしていることに飽きただけではないか」
ジェイ=シンが、不満そうな面持ちでそのように述べていた。
ホドゥレイル=スドラは物思わしげな眼差しになりながら、「そうか」とうなずいている。
「そう言われてみると、その仕事に相応しいのはギリル=ザザであるのかもしれんな。正直に言わせてもらうと、俺はこちらに居残って、この陰謀とやらの結末を見届けたいと願ってしまっている」
「ならば、決まりだな! お前――じゃなかった、主人にも文句はないだろう?」
「うん。僕もこの役にはギルル=ザザがもっとも相応しいと考えていたよ」
そう言って、メルセウスはティムトとレイフォンの姿を見比べた。
「よろしければ、ギリル=ザザをお貸しいたしましょう。彼もまた、僕にとってはかけがえのない友人であり、森辺の族長からお預かりした大切な身でありますが、王都の行く末を左右する一大事とあっては、是非もありません」
「ふむ。メルセウス殿は、彼らに絶大なる信頼を置いているようだね」
レイフォンが言うと、メルセウスは「はい」と笑顔でうなずいた。
「たとえこの仕事で魂を返すことになっても、それは誇り高き死であると言えるのでしょうが……それ以前に、僕はギリル=ザザが邪な力に屈する姿を想像できません。彼ならば、たとえどのような苦難を迎えたとしても、必ずや無事に戻ってくれることでしょう」
「任せておけ。俺の死に場所は、モルガの森だ。このような異郷で魂を返すつもりはない」
不敵に笑うギリル=ザザを見つめながら、ティムトは小さく息をついた。
「その申し出は、心からありがたく思います。森辺の狩人は一人で兵士十人分の力を持つと聞きますが……それ以上に、彼らは妖魅に対してきわめて耐性が強いように思うのです」
「ふむ。耐性とは?」
「妖魅に屈せぬ強靭な心、とでも言うべきでしょうか。普通はあのように、妖魅に向かってやすやすと刀を振りおろすことはできないように思います」
「うむ。それに、ギリル=ザザのみならずロア=ファムも、『賢者の塔』においては妖魅の気配を察知していたようだからな。その二人が行動をともにすれば、妖魅とて恐れるものではあるまい」
クリスフィアも、そのように言葉を添えてみせた。
ティムトは真剣きわまりない面持ちでうなずいている。
「では、王都を出立される方々には、僕が禁忌の歴史書から学んだ妖魅のすべてを事前にお伝えしたく思います。そうすれば、危険の度合いもかなり軽減することでしょう」
「ふうむ。すっかり妖魅というものが、当たり前に語られるようになってしまいましたな。例の薬師というものを殺めたのも、本当にその妖魅なのでしょうか?」
イリテウスが、まだちょっと疑り深げな面持ちでそのように述べたてた。
妖魅などというのは、あくまで伝説やおとぎ話の中の存在であるのだ。そのようなものが人間の版図に出現するなどというのは、本来考えられない話であるのだった。
「薬師の死については、推測を並べることしかできません。しかし、人間の仕業と考えるには難しいような状況であったのですよね?」
ティムトのその言葉は、クリスフィアに向かって投げかけられた問いかけであるようだった。
「うむ。なにせ、どこを探しても薬師めの首は見つからなかったようだからな。あの塔の出入り口は守衛に見張られているのだから、生首を持ち出すことなどできようはずもないのだ。わたしたちが犯人と目されずに済んだのも、おそらくは首を持ち出す時間や手段がなかったためなのだろうと思うぞ」
「では……どこからともなく現れた妖魅が、薬師の首をかじり取って、また消え失せたということなのでしょうか? それは何とも……荒唐無稽な話でありますね」
そう言って、イリテウスはかすかに身体を震わせたようだった。
いかに勇敢な騎士であっても、相手が妖魅では勝手が異なるらしい。
「あのオロルという薬師は、何かこの陰謀を暴くための証を握っていたはずであるのです。それを失ってしまったのは、かえすがえすも惜しいところです」
ティムトの言葉に「ふむ……」と声をあげたのは、ホドゥレイル=スドラであった。
「申し訳ないが、またいらぬことを考えついてしまった。それを口にしてもかまわぬだろうか?」
「ああ、何でも発言しておくれよ。どのような意見でも、無駄になることはないだろうからね」
レイフォンが気安く応じると、ホドゥレイル=スドラは「いたみいる」と目礼をした。
「その薬師というのは陰謀に深く関わっていた疑いがあり、その死については新王も激しく怒りをあらわにしていた、という話であったな?」
「ああ、その通りだね。戴冠以来、この世の春を謳歌していた新王陛下も、このたびばかりは怒りの極みにあるようだったね」
「ふむ。なおかつ、これはセルヴァの玉座を巡る陰謀であるのだと聞いている。そうだからこそ、新王自身がこの陰謀の首謀者と目されていたのであろうが……口封じのために薬師を殺めたのは、別の人間であるのだな? そして、その犯人こそが妖魅をあやつる『まつろわぬ民』であると……そういう認識で合っているのだろうか?」
「ええ。可能性としては、それが一番高いと思います」
ティムトが静かな声音で答えると、ホドゥレイル=スドラは「なるほど」とうなずいた。
「しかも、ジョルアンやロネックといった者たちまでもが牙を剥き合っていることを考え合わせると、敵方の仲間関係はもはや完全に瓦解しているということなのか」
「はい。赤の月の災厄までは、敵方の人間も一致団結していたはずです。しかし、ジョルアン将軍がロネック将軍に謀略を仕掛けたことを皮切りに、敵方は内部抗争を始めた感があります。というか、彼らの盟約は前王らを弑したところで終わっていたのかもしれません」
「ああ、そういえば新王は、ジョルアンたちに対しても、何だかつれない素振りだったよね。彼らの権勢争いを楽しんでいるというか何というか……安全な高みから、獅子狩りの余興でも楽しんでいるような面持ちであったように思うよ」
レイフォンは優美に微笑みながら、そのように述べていた。
ホドゥレイル=スドラは、また考え深げな面持ちで目を細めている。
「では、もうひとつだけ、おうかがいしたい。俺は主人からしか話を聞いていないので、ここで確認させていただきたいのだが……最初に敵方と目されていたもう一人の人物は、完全に疑いが晴れたのだろうか?」
「うん? もう一人の人物とは?」
「たしか、神官長とかいう身分にある、バウファという者だ」
「ああ、バウファ殿か。完全に疑いが晴れたわけではないけれど、いまのところは怪しい動きもないという話だったよね、ゼラ殿?」
半ばその存在を忘れられかけていたゼラが、「はい……」とうなずいた。
「以前にお話ししました通り、ダリアス様の副官であられたルイド殿をお救いする際にも、バウファ様は進んでレイフォン様に進言をされておりました。もしもバウファ様が敵方の人間であるならば、ルイド殿の身柄を奪われないように、何としてでも妨害していたところでありましょう……」
「なるほど。しかし、敵方はすでにおたがい牙を剥き合っているらしい。ならば、そのバウファという者も、かつての仲間であった相手を陥れようと考えただけなのではないか?」
ホドゥレイル=スドラの発言に、クリスフィアは虚を突かれる思いであった。
不覚にも、そのような考えは一度として思いつくことができなかったのだ。
「それに、俺は都のことなどろくに知らない狩人であるので、まったく偉そうなことは言えないのだが……妖魅というのは、神と対になる存在であるのであろう? ならば、神に近しい存在こそが、妖魅をあやつるのに相応しいようにも思えてしまう。兵士や狩人や商人などよりも、神官という立場にある人間のほうが、妖魅に近しい存在であるように思えてしまうのだ」
「それは……確かにそうかもしれないね。神官長という立場にあれば、禁忌の歴史書というものに触れる機会もあったかもしれない」
「お待ちを、レイフォン様……そちらの御方の仰る通り、魔なるものは神の対となる存在でありましょう。それはつまり、神ともっとも遠き存在であるのですから……神職にある人間にとって、妖魅などというものはもっとも忌避すべき存在であるはずです……」
「忌避すべき存在であるからこそ、余人よりもそれを深く知る機会があったはずだろう? 少なくとも、神官か学士でない限りは、禁忌の歴史書や『まつろわぬ民』のことなど、なかなか耳にする機会さえないのだろうからね」
そう言って、レイフォンは優しげな微笑みを口もとにたたえた。
「ゼラ殿は、バウファ殿に大恩があるのだよね。私だって、バウファ殿が敵方の人間でなければいいと願っている。ただ、この際は私情を捨てて、冷静に状況を見るべきだろう。その末にバウファ殿の潔白が明かされれば、何も問題はないのだからね」
ゼラは深くうつむいたまま、口をつぐんでしまった。
その幼子のように小さな身体を見下ろしていたイリテウスが、ふいに両目をぎらりと輝かせる。
「なるほど……バウファ神官長は敵方の人間らしからぬ動きを見せたために、ひとまずは疑いが晴れたのだと聞いておりました。しかし、敵方がすでに内部抗争を始めていたとしたら、それだけで疑いを解くことはできぬ、ということなのですね」
「…………」
「しかしそうすると、その言葉はそのままこの御仁にも当てはまるのではないでしょうか?」
イリテウスの言葉に、ディラーム老がハッと息を呑んでいた。
レイフォンはきょとんとしており、ティムトは鋭く目を細めている。かくいうクリスフィアも、再び背中から斬りつけられたかのような心地であった。
「そちらのゼラという人物は、ダリアス将軍をお救いしたために、同志と認められたのだと聞いています。そして、ダリアス将軍を襲ったのは、ジョルアン将軍の旗下である兵士たちと推測されている……それで間違いはありませんね?」
「うん。それで間違いはないけれど、イリテウス殿はいったい何を――」
「敵方が内部抗争を始めているならば、ダリアス将軍をお救いしたことも、その一環に過ぎないのやもしれません。このゼラという人物は、正義の心でそのような行いに及んだのではなく、ジョルアン将軍を陥れるために、ダリアス将軍をお救いした。それが、真実だったのではないでしょうか?」
レイフォンは「ええ?」と目を丸くしていた。
イリテウスは、もはやこの場が戦場であるかのように双眸を燃やしている。
「しかもこのゼラという人物は、バウファ神官長の従者です。バウファ神官長が敵方の人間であるとしたら、このゼラという人物もその手駒に過ぎないと考えるほうが自然であるように思えます」
「いや、ちょっと待ってもらいたい」という沈着な声が響きわたった。
ホドゥレイル=スドラが、とても静かな眼差しでイリテウスとゼラの姿を見比べている。
「バウファという人物に対しての疑念を呈したのは俺だが、それで仲間割れが起きてしまうのは困る。俺などは、単なる思いつきを口にしたまでなのだからな」
「いや、貴方の言葉は卓見であるように思えました。自分は最初から、このゼラという人物だけがこの場で浮きあがっているように思えたのです」
イリテウスのそんな言葉に、ホドゥレイル=スドラの目がわずかに細められた。
「あなたは最初から、このゼラという人物のことを怪しんでいたということか。ならば、なおさら冷静になったほうがいい。人間は、とかく自分の都合のいいように物事を捻じ曲げて見てしまうものであるのだからな」
「自分が、そのような愚を犯していると? それは、聞き捨てなりません」
イリテウスの激しい眼光が、今度はホドゥレイル=スドラのほうに差し向けられた。
ホドゥレイル=スドラは、それをふわりと受け流す。
「あなたはこのたびの陰謀で父親を失っているのだという話であったな。俺とて、あなたと同じ立場であったのなら、とうてい平静な気持ちではいられなかっただろう。しかし、仇敵の正体を見定めたいと願っているならば、どうか心を静めてもらいたい」
「自分は決して心を乱してなどはおりません。自分の言葉の、どこが間違っているというのですか?」
「間違っていると決めつけているわけではない。しかし、俺は一度仲間と定めた人間を、やすやすと疑ったりはしたくないのだ」
この場にいる誰よりも背の高いホドゥレイル=スドラは、そのように述べながら透徹した眼差しで人々を見回していった。
「このゼラという人物も、何らかの道筋を経た上で、同志と認められたのであろう? その信義をやすやすと踏みにじっていたら、とうていこの場にいる誰とも運命をともにすることはかなわないのではないだろうか?」
「うん、それはもっともな話だね」と、メルセウスが変わらぬ朗らかさで相槌を打った。
「そちらのゼラ殿を同志と認めたのは、レイフォン殿なのでしょう? レイフォン殿は、いったい如何なる理由をもって、彼を同志と認めたのでしょうか?」
「ええと、それはその……」
と、レイフォンはあやふやな表情でティムトを振り返る。
ティムトは張り詰めた面持ちで、「そうですね」と語り始めた。
「確かにそちらのゼラ殿を潔白と証すことはできません。ゼラ殿はこれまでにさまざまな仕事を果たしてきてくれましたが……その正体は敵方の一味であり、単にジョルアン将軍と仲間割れをしたために尽力しているに過ぎない、という可能性は打ち消せないと思います」
「そうですか。それならば――」
「ただし、僕やレイフォン様は、そのようには考えていません」
イリテウスの言葉をさえぎって、ティムトはそう言い切った。
イリテウスは、「何故です?」と眉を吊り上げる。
「それは、彼がギムやデンといった人々の口を封じなかったためです」
ティムトは冷徹なまでに落ち着いた声音でそう続けた。
「彼が敵方の人間であり、僕たちの中に潜り込んだ間諜であるという可能性はあります。ですが、そんな彼にとっても、ギムやデンといった人々の存在は目障りであったはずです。何せその人々は、彼がダリアス将軍をかくまっていた事実を知る生き証人であったのですからね。ゼラ殿は、それらの人々の口をふさがなかったために、ダリアス将軍との繋がりを告白するしかない状況に追い込まれてしまったのですよ」
「しかしそれは……こちらの信用を得るための小細工だったのではないでしょうか?」
「それでしたら、クリスフィア姫の窮地を救った一件で十分だと思われます。というか、彼が敵方の人間であったのなら、ダリアス将軍という切り札は最後まで伏せておきたかったはずです」
ティムトは淡々と言葉を紡いでいく。その声に、迷いや惑いはいっさい感じられなかった。
「そしてまた、彼は敵方と目されていたバウファ神官長の従者でした。そうだからこそ、僕たちも最初は最大限に警戒しながら、彼と接していたのです。敵がこちらに間諜を潜り込ませようと考えたのなら、もう少しは警戒されにくい人間を選ぶことでしょう。そうすれば、この場でもこれほど警戒されることはなかったのでしょうからね」
「…………」
「以上の考察から、僕は彼が敵方の人間である可能性は低いと考えています。彼の人柄を信用したのではなく、その言動から導きだした結論となります」
ティムトの言葉を聞き終えたイリテウスは、深々と息をついていた。
「そうですか。自分の考えが浅慮であったのなら、お詫びの言葉を申しあげます。ただ、自分の心情が間違ったものであるとは思いません」
「……心情?」
「はい。このゼラという人物は、この場に不似合いであるように思います。それ以外の人間は王国の行く末を憂う貴き方々と、その従者という身分にありますが、彼だけは本来の主君であるバウファ神官長のあずかり知らぬところで、こうして暗躍しています。彼はいったい、いかなる目論見でこの陰謀を暴きたてようとしているのでしょうか?」
「ああ、なるほど……その件に関しては、僕たちもまだ本心をうかがってはいません」
ティムトとイリテウスの目が、それぞれゼラに向けられた。
しかし、ゼラは石像のように動かない。
「あなたはいったい、何のために奔走しているのか――かつて僕とレイフォン様も、そのようにお尋ねしましたね。ですが、確たるお言葉をいただくことはできませんでした」
「…………」
「忠実なる王国の民であれば、このような陰謀を許せるわけがない、という考えもありますが、だからといって現在の王に疑いの目を向けるなどというのは、生半可な覚悟で為せる所業ではないでしょう。あなたはいったい何を目的として、このような行いに身命を懸けているのでしょうね、ゼラ殿?」
いったんゆるみかけた空気が、またじわじわと張り詰めていく。とはいえ、緊迫しているのはおもにイリテウスとディラーム老であるように思えた。
(やれやれ。王都の武官と神官というのは、本当に相容れぬ存在であるようだな)
内心でそのように思いながら、クリスフィアは発言することにした。
「実はわたしは、その件についてゼラ殿に一度お尋ねしている。あまり深くは聞いておらぬが、ダリアス殿は心情を打ち明けられているという話であったぞ」
「ダリアス将軍に? それはいったい、何のお話なのですか?」
とたんにティムトがきつく眉を寄せたので、クリスフィアは思わず笑ってしまった。
「わたしも近い内に、語って聞かせようとは考えていたのだ。ただ、あまりにさまざまなことが起きたもので、ついつい後回しにしてしまってな。そんなに怖い顔をして怒らないでもらいたい」
「戯れ言はけっこうです。いったい、どのような事情なのですか?」
「重ねて言うが、わたしもそこまで詳しく聞いているわけではない。ただ、ゼラ殿はカノン王子の無念を晴らすために身命を懸けている、とのことだ」
人々は、けげんそうに首を傾げていた。
その中で、ティムトだけが真剣な眼差しになっている。
「カノン王子の無念? それは、どういうお話なのですか?」
「だから、詳しくは知らん。詳しい事情を聞いているのは、ダリアス殿おひとりだけだ。ただ、ダリアス殿はそれでゼラ殿を信用すると決断した、という話であったな」
「……カノン王子とは、ごく限られた人間しか縁を結んでいないはずです。あなたと王子の間に、いったいどのような縁が存在したというのですか、ゼラ殿?」
同じ眼差しのまま、ティムトがゼラを振り返った。
ゼラは深くうつむいたまま、のろのろと首を振っている。
「まさか、カノン王子が生きながらえていたなどとは……わたしはそのようなことを、想像だにしておりませんでした……」
「そのような話は聞いていません。あなたは何故、カノン王子にそこまで心を寄せることになったのですか?」
ティムトが重ねて問うたとき、執務室の扉が外から叩かれた。
ゼラを除くすべての人間が、いっせいに視線を差し向ける。
「何用か! 誰も近づけるなと言いつけたはずだぞ!」
この部屋の主であるディラーム老が一喝すると、扉の外からはかしこまった武官の声が聞こえてきた。
「申し訳ありません! 緊急の用件ということで……聖教団の人間が、祓魔官ゼラ殿に伝書を携えて参りました!」
ディラーム老は、強く光る目でゼラをねめつけた。
「祓魔官よ、この会合は内密のものと定められていたはずだ。おぬしは、その約定を破ったのか?」
「……わたしがこの場に参じていることは、信用のおける従者にしか伝えておりません……そして、よほどのことがなければこの場を訪れることはならぬと申しつけておりました……」
「ふん。おぬし自身が神官長の従者でありながら、その下にまだ従者がおるのか」
「わたしは言わば、従者長のような立場でありますため……伝書を受け取ってもよろしいでしょうか……?」
ディラーム老は険しく眉を寄せながら、自ら扉に近づいていった。
そうして扉を薄く開くと、そこから伝書を受け取り、こちらに向きなおる。
「祓魔官よ。儂はレイフォンやその賢い従者ほど、おぬしのことを信用してはおらん。おぬしが我々と運命をともにする覚悟を携えているのならば、どのような秘密も共有するべきであろう」
「はい……仰る通りかと思います……」
「ならば、この伝書を儂が先に読むことを、許すか?」
「……どうぞ、ご随意に……」
ディラーム老はゼラの矮躯をひとしきりにらみつけてから、その伝書の封を切った。
そこから手の平の上に転がり落ちたものを見て、うろんげに眉を寄せる。
「何だこれは。これが伝書なのか?」
それは、小さく丸められた紙の筒であるようだった。太さや大きさは、人間の小指よりも小さいぐらいである。
「それは……烏に運ばせる伝書でございます……」
「烏だと? おぬしたちは、そのようなものに伝書を運ばせておるのか?」
そのように述べながら、ディラーム老は小さな紙の筒を一気にまくりあげた。
広げても、小さな小さな紙片である。
そこに記された文字を読む内に、ディラーム老は見る見る驚愕の表情となっていった。
「これは……ダリアスからの伝書だ」
「ええ? ダリアス将軍の? そ、それは本物であるのですか?」
「そのようなことは、儂には判別できん。ただ……ここには、ジョルアンの配下である百獅子長を叛逆者として捕らえたと記されている」
ディラーム老は、惑乱しきった目つきでゼラを見た。
「祓魔官よ、これは本当にダリアスの手によるものであるのか? これは、おぬしに宛てられた伝書であるのだろうが?」
「……署名には、なんとありましょうか……?」
「署名? だからそれは、ダリアスと……いや、おかしいな。鉄の月、弓の日、などという文字まで添えられている。何なのだ、このでたらめの日付は?」
「それは、わたしが配下の者たちと取り決めた暗号になります……鉄と弓は、ダリアス様とともにダーム公爵領に発った、ティートなる従者の署名となります……」
「シーズ殿に斬られたティートという人物が、ついに目覚めたということか!」
思わずクリスフィアが大きな声をあげてしまうと、ゼラは「はい……」とうなずいた。
「これで、ダリアス様と連絡を取り合うことが可能となります……こちらは、どのような文書をしたためるべきでありましょうか……?」