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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
112/244

Ⅳ-Ⅲ 隠者トゥリハラ

2018.5/26 更新分 1/1

「大神アムスホルンの民の、末裔だと……?」


 ダリアスがそのように応じると、トゥリハラは『そうじゃ』と笑い声をたてた。


『まあ、四大王国の民であるおぬしには、何のことやらわからないやもしれんがの。そちらの学士なる者たちであれば、そろそろ理解できる頃合いであろうかな?』


「ふむ。確かにこの禁忌の歴史書には、その存在が記されておったよ。父なるアムスホルンが眠りについた際、四大神の子となることを拒絶して、人の世から身を引いた一族が存在する、とな」


 長椅子に座したフゥライが、そのように答えた。その言葉に、ダリアスは仰天する。


「ちょ、ちょっと待たれよ。フゥライ殿がお読みになられていたのは、例の禁忌の歴史書であったのか? それは、書庫から盗まれたはずでは……?」


「うむ。それとは、別物だ。儂があの場で目にした歴史書はもっと古びていて、表紙の題名も擦り切れてしまっておったからな」


 そう言って、フゥライはその手の書物をダリアスのほうに掲げてきた。

 赤みがかった革の表紙に、金箔で書名が捺されている。その文字は――『アムスホルン大陸記』とあるようだった。


「しかし、内容は同一であるらしい。それに、たとえそうでなかったとしても、この書が禁忌の歴史書であることに間違いはないようだ」


『おそらく、同一の書物であるはずじゃよ。儂にとっても敵方にとっても、その書こそが唯一にして絶対なる教典であるのじゃからな』


「教典だと? では、お前も四大神を邪神扱いする背信の徒であるということか、トゥリハラよ」


 震えるラナの身体を左腕一本で抱きすくめつつ、ダリアスはそのように言ってみせた。

 樹怪の内で遺骸のように座した老人トゥリハラは、また使い魔を通して『ほほほ』と笑う。


『そもそも儂は最初からアムスホルンの子であったのだから、背信者という言葉には当てはまるまいよ。四大神の子として生まれ落ちながら、大神アムスホルンに信仰を移した者たちにこそ、背信者という呼び方は相応しい……つまりは、それが儂らの敵であるのじゃ』


 ダリアスは、数日前にフゥライから聞かされた言葉を思い出していた。

 大神アムスホルンを崇めて、その復活を願う者たち――四大王国においてはその名を語られることもない、まつろわぬ民の末裔たち。禁忌の歴史書の内容を真実だと信ずる、そういう者たちが存在するのだと、フゥライはそのように述べていたのだ。


「そやつらは、陰からひそかに四大王国を滅ぼそうと暗躍している、という話だったな。それでは、そやつらこそが邪な願いを成就させるために、セルヴァの前王カイロス陛下や王太子たちを謀殺した、ということなのか?」


『そうとも言えるし、そうでないとも言える……そして、儂にはその真実を語ることが許されないのじゃ』


「何故だ。お前にとってもそやつらが敵であるならば、庇い立てする理由はあるまい」


『庇い立てをしているわけではない。何度も言っている通り、儂はうつつの事象に関与しないと誓いを立てた身であるのじゃよ』


 幼子のように小さなトゥリハラの肉体は、屍のように微動だにしない。

 ただ、その澄みわたった青い瞳だけが、確かな叡智をたたえて、ダリアスを見返していた。


『儂にできるのは、真実を知るための手助けをすること……じゃから、そちらの二人には、この場で知恵をつけてもらうことにしたのじゃ』


「ふむ。読めば読むほど混乱が増すばかり、とも言えるがな。それに、大神アムスホルンのみが絶対の神であり、四大神はそれに叛逆した邪神であるなどという話は、とうてい許容できるものではない」


 フゥライが穏やかな声で述べたてると、ダリアスが入室して以来ずっと無言であったリッサが「そうでしょうか?」と述べたてた。


「そんなのは、ただ立場が異なるゆえの対立と解釈することもできるでしょう。たとえば、シムとジャガルは数百年来の敵対国ですが、僕はどちらかが邪な存在であるなどとは思いません。また、シムやジャガルから見たセルヴァとマヒュドラの対立も、きっと同じことのはずです。アムスホルンと四大神の対立も、それと同じような話なのではないですか?」


「しかし、この書には四大神こそが邪神である、と記されているではないか」


「だからそれは、アムスホルン側の視点であるからです。……いや、アムスホルンを信仰する民の目線、というべきでしょうかね。何にせよ、ジャガルの民がシムの民を毛嫌いしているようなものですよ。人間というのは、自分の側に正義があると信じなければ、なかなか生きていくことも難しい存在でありますからね」


 またトゥリハラが『ほほほ』と笑い声をあげた。


『理解が早くて助かるのう。そして、まるで己の神をも一つの駒として扱うような豪気さではないか、娘御よ』


「そんな大それた真似をしているつもりはありませんけどね。ただ、信仰心に足を引っ張られて、破綻した理論を積み上げたくはないと願っているだけです」


 そのように述べる間も、リッサは書物に目を落としたままである。

 その姿を眺めながら、フゥライは苦笑まじりに息をついていた。


『おぬしらが信仰心を捨てる必要はないし、四大神が邪神であるなどと信ずる必要もない。ただ、それ以外の部分では、その書に記されている内容が真実であると信じてもらえたら、幸いじゃな』


「それを信じたら、どうなるというのだ? お前は敵方の人間の名を明かそうともしないし、自分の目的を話そうともしない。そのような相手を味方だと信ずることはできんぞ」


 ダリアスがそのように口をはさむと、トゥリハラは『やれやれ』と呆れ気味の声を響かせた。


『つくづくせっかちな気性なのじゃな、おぬしは。話はまだ始まったばかりじゃろうに』


「では、話せ。お前の目的は何なのだ、トゥリハラよ?」


『儂の目的は、まつろわぬ民たちの野望を阻止することじゃ。あやつらは、自分たちの手で大神アムスホルンを復活させようと目論んでいるので、それを食い止めたいと願っておる』


「何故だ? お前とて、アムスホルンの民なのであろう?」


『アムスホルンの民だからこそじゃ。アムスホルンはいずれ、来たるべき日に復活を遂げるのじゃから、我々はただその日を待てばよい。人間風情が大神の眠りをさまたげようなどと考えることは、許されぬのじゃよ』


 妙に真面目くさった口調で、トゥリハラはそう言った。


『また、我々は四大神の民と争うことを禁じられておる。アムスホルンが目覚めるまでは、おたがいに干渉せず、それぞれの生を生きるというのが、一番最初に交わされた約定なのじゃよ』


「約定? 誰と誰が、そのような約定を交わしたというのだ?」


『我々の祖じゃよ。四大神の子らとアムスホルンの子らが、そのように約定を交わしたのじゃ。そののちに、我々はアムスホルンの聖域に身を隠し、四大神の子らは四大王国を建立した。それが、すべての始まりであったのじゃ』


「それではお前たちは、六百年以上も前から、姿を隠していたというのか?」


『その通りじゃ。儂のかつての同胞たちは、今もなお大陸に点在する聖域において、大神の復活を待ち続けておる』


「聖域……」と、ダリアスは繰り返した。


「それは何度か、耳にした覚えがある。人間の立ち入りを禁じられた、山や森のことだな。……聖域ではなく、魔境などと呼ぶ者もいるようだが」


『うむ。何にせよ、四大王国の民はその約定を守って、聖域を踏み荒らそうとはしなかった。それなのに、まつろわぬ民たちは四大王国を滅ぼしてまで、大神アムスホルンを復活させようと企んでおるのじゃ』


 トゥリハラの声に、いくぶん怒っているような響きが感じられた。


『あやつらは、決して我々の同胞ではない。聖域の外で生まれた、四大神の子らであるのじゃ。そんな連中が大神アムスホルンに神を乗り換えて、四大王国に牙を剥こうと目論んでおる。このような話が、とうてい見過ごせるわけはないじゃろう?』


「うむ……まあ、お前の言い分も多少は理解できたように思うが……それでも、もっと明け透けに語ることはできんのか? その許されざる背信者の正体を明かしてくれれば、俺がこの刀で斬り捨ててくれよう」


『それは、できんのじゃ。何度も言う通り、儂はうつつに干渉できぬ身であるからな。本来であれば、こうしておぬしたちと言葉を交わすことさえ、大きな禁忌であるのじゃよ』


 卓の上に陣取っていた鼠が、石造りの床を駆けて、トゥリハラの足もとに腰を落ち着けた。そして、トゥリハラと一緒になって、ダリアスをじっと見つめてくる。


『それでも儂は、こうしておぬしらに力を貸そうとしている。これは、アムスホルンの民の中でも、儂にしか成し得ぬことであろうからな』


「ふむ? それは、どういう意味であるのだ?」


『儂もまた、アムスホルンの民の中では、異端者であるということじゃ。真実を明かしてしまうと、このような魔法の力をうつつに持ち込んでしまうことも、我々の間では禁忌とされておるのじゃよ』


 トゥリハラの青い瞳に、ややさびしげにも見える光がちらついていた。


『アムスホルンの眠りとともに、魔法の力と技は封印されたのじゃ。いずれアムスホルンが目覚めるまで、我々は野の獣のように生きることしか許されなかった。四大王国のもたらす石と鉄の文明も受け入れず、ただ山の中で獣のように生きる。それが我々の歩むべき、唯一の道であったのじゃよ』


「ふむ。確かにここは、山の中ではないようだな」


『うむ。儂は先人の教えに背いて、魔法の技を蘇らせてしまった。幸か不幸か、儂には生まれつき魔法の技を使う力が宿されていたのじゃ。それで儂は、聖域に隠れ潜む同胞とも袂を分かち、一人で生きていくことにした。うつつで生きる幸福や喜びを引き換えにして、真実を探究する道を選んだのじゃ』


「羨ましい限りですね。僕もそのように生きてみたいものです」


 書物の頁を繰りながら、リッサが気のない声をあげた。

 トゥリハラは『ほほほ』と切なげに笑う。


『それはなかなかに、孤独な道であるのじゃがの。すべての真実を知っても、それを余人に語ることは許されない。それは、幸福な生であるのかのう?』


「どうでしょうね。そもそも、一生をかけてもこの世の真実を知り尽くすことなど、とうていできそうにないように思えますが」


『うむ。確かに儂は、いまだにこの世の真実を知り尽くしてはいない。卑小なる人間の身では、そのように大それた所業はかなわぬのやもしれんな』


「それで……このような場所に引きこもっていたお前が、背信者どもの悪行を知って、俺たちに力を貸すことに決めた、ということなのか?」


 ダリアスが話を引き戻すと、トゥリハラは『うむ』と応じた。


『あの背信者どもの蛮行を、これ以上放っておくことはできん。うかうかしていれば、四大王国のすべてが滅ぶことになろう。父なるアムスホルンが、血塗られた大地で復活を遂げることになってしまうのじゃ』


「しかし、どのように力を貸そうというのだ? お前は、俗世の出来事に手を出せない身であるというのだろう?」


『うむ。それでも、いくばくかの力を授けることはできよう』


 鼠の黒い瞳が、長椅子に座する二人のほうに向けられた。


『まずは、叡智じゃ。それらの書物で叡智を身につければ、おぬしたちも自らの力で、こたびの陰謀の真実を暴くことができるはずじゃよ』


「ふん。敵の正体を明かしてくれれば、何よりの早道であるはずだがな」


『それはできぬと言うておろうに。……そもそも、儂がそのような真似をしたところで、証もないままに刃を振るうことができるのかのう? おぬしらの王国において、罪人を裁くには証が必要なのではないのかな?』


「……世捨て人のくせに、賢しげなことを抜かすのだな」


『儂はこの世のすべてを知り尽くすことに己の生を捧げたのじゃからな。お望みなら、西の王国の法を一から諳んじてみせてもよいぞ』


 そうしてひとしきり笑ってから、トゥリハラは口調を改めた。


『しかし、すべての真実を暴いても、それだけであやつらを討ち倒すことはできん。そのための手段を、おぬしに授けようと思う』


「何だ、魔を退ける秘宝でも授けてくれるのか?」


『それでは、うつつの摂理に背くことになる。おぬしらは、おぬしらの力で敵を斬らねばならんのじゃ。……その刀を、儂に預けるがよい』


「刀を? それでいったい、どうしようというのだ?」


『それを言葉で説明したところで、おぬしに理解はできまいよ。ほれ、とっととよこすのじゃ』


 ラナが悲鳴をあげて、ダリアスの胸に取りすがってきた。トゥリハラを包む樹怪の枝が、みしみしと音をたてながらダリアスのほうに差し伸べられてきたのである。


「奇っ怪な……あまりラナを脅かすな」


『仕方あるまいよ。儂は指一本動かせぬ身であるし、鼠めに刀を運ぶ力はないのじゃ』


 丸太のように太い枝が、催促するように揺れている。その先に生えていた葉もざわざわと蠢いて、奇怪なことこの上なかった。

 ダリアスはしばし迷ってから、やがて覚悟を決めて、長剣を差し出してみせる。鞘から抜いた刀を葉の上に乗せると、それはトゥリハラのもとまで引き寄せられていった。


『ふむ。これは立派な刀じゃな。これならば、四大神の祝福に耐え抜くこともできよう』


「おかしな真似をするのではないぞ、トゥリハラよ。それは俺にとって、とても大事な剣であるのだ」


 もちろんそれは、ラナの父親であるギムから授かった長剣であった。

 長剣は、トゥリハラの目の高さにまで持ち上げられている。そうして、その青い瞳がじっと刀身を見つめていると――やがて長剣が、四色の光に包まれ始めた。


 赤と、青と、金と、銀の光が、渦を巻いて長剣の刀身を駆け巡っている。その輝きは見る見る間に激しさを増していき、やがては正視もあたわぬほどの、光の奔流と化していった。


 凄まじい力の波動が、突風のようにダリアスたちの髪をなぶっていく。

 もはや悲鳴をあげることもできないラナの身体を、ダリアスは固く抱きしめることになった。


 そうして、どれほどの時間が過ぎたのか――気づくと、光の乱舞は消失し果てていた。

 しかし、目の奥にまでその光が浸透してしまい、しばらくはまともに物が見えなくなってしまっている。ダリアスは、小さく震えているラナに「大丈夫だ」と呼びかけながら、自分の目もとをもみほぐした。


『すまなかったの。剣を返すぞ、獅子の騎士よ』


 ようやくダリアスの目がもとの力を取り戻すと、鼻先に長剣が差し出されていた。

 左腕でラナをかばいつつ、ダリアスはそろそろと剣の柄に手をかける。


 見たところ、長剣に異常はないようだった。

 ただ、今まで以上に柄の感触が指先に馴染み、刃先の輝きが増しているように感じられる。


「……お前はいったい、この剣に何の細工をほどこしたのだ、トゥリハラよ?」


『何の細工もしてはおらん。ただ、本来のあるべき力を引き出したのみじゃよ』


 トゥリハラは、愉快そうにそう言った。


『鋼というのは、四大神の民にとって、もっとも要となる存在であるのじゃ。その鋼こそが、四大神の民にとっては魔法にも匹敵する叡智の結晶であるのじゃからな』


「叡智の結晶……」


 そのように繰り返しながら、ダリアスは長剣を高く掲げてみた。

 白銀の刀身が、美しくきらめいている。もとより見事な刀ではあったが、それは魂を吸い込まれるような美しさであった。


『大地より授かった鉄に、風を送って、炎で溶かし、水で固める。鋼には、四大精霊の息吹が込められておるのじゃ。魔法を扱えぬおぬしたちが魔なるものを滅ぼすには、鋼の力を使うしかあるまい。その刀であれば、どのような魔でも退けることがかなうはずじゃよ』


「この先も、俺たちの前には魔なるものが立ちはだかるということか」


 シーズの生命を奪った使い魔のことを思い出しながら、ダリアスはそう応じた。

 トゥリハラは『ほほほ』と笑っている。


『あのていどの使い魔であれば、どのようななまくらでも斬り捨てることはできよう。その刀であれば……そうじゃな、おぬしらが邪神と呼ぶ存在にも太刀打ちできるはずじゃ』


「邪神だと? それは……蛇神ケットゥアや蛙神グーズゥなどのことを言っているのか?」


『蛇神ケットゥアは、すでに退けられておるよ。まだその眷族はうつつに留まっておるようじゃが、主人なくして大した悪さを行なうこともできまい。……いや、その眷族すらも、幼き賢人と猛き狩人に退けられたようじゃな』


「…………?」


『いやいや、戯言じゃ。おぬしが気にする必要はない。それと、これもおぬしに授けよう』


 灰色の鼠が、ちょろちょろとダリアスの足もとに寄ってきた。

 その口に、小さな布の袋がくわえられている。


『その中には、儂の調合した秘薬が収められておる。どのような深手を負った人間でも、わずかばかりは力を取り戻すことがかなうじゃろう』


「ふむ。これを、どうせよと?」


『それを考えるのは、おぬしじゃ。もっとも正しいと思う相手に使うがよい。日に一粒を与えて、水もたっぷり飲ませるのじゃぞ』


「わかった」とうなずいて、ダリアスは長剣を鞘に収めた。

 が、ラナがぎゅっと取りすがっているために、身を屈めることもかなわない。


「ああ、ラナ、悪いのだが……」


「あ、も、申し訳ありません!」


 ラナは顔を真っ赤にしながら、ダリアスから身を離した。

 ダリアスは万感の思いを込めてその姿を見つめ返してから、袋を拾いあげる。


「トゥリハラよ、お前のやり口は気に食わないと思っていたが……今では、少し考えを改めることができたぞ」


『ふむ? それは幸いじゃな』


「ああ。お前は俺の仲間でも同胞でもないが、俺に武器と薬を与えてくれた。あれこれ指図を受けるよりも、こうした力添えのほうが、俺の気性には合っているのかもしれん」


 そう言って、ダリアスはトゥリハラに笑いかけてみせた。


「お前の言う通り、この場で大罪人どもの正体を聞かされたところで、証がなければうかうかと信ずることもできぬのだろうしな。ならば俺は、自分の力で道を切り開いてみせよう」


『うむ、その意気じゃ。おぬしの獅子の星が、災厄の星群を蹴散らすことを祈っておるぞ』


 トゥリハラも、笑っているようだった。

 ただ、その本体は穏やかな無表情で、ダリアスを見つめているばかりである。


『では、そろそろおぬしのいるべき場所に戻るがいい。誰かがおぬしの部屋を訪れていたら、またややこしい話になってしまうじゃろうからな』


「うむ。しかし、ラナたちのことはどう弁明するべきであろうな。さきほども言ったが、ラナたちは鍵の掛けられた部屋から消え失せてしまったので、ちょっとした騒ぎになってしまっているのだ」


『どうせ一番騒いでいたのは、おぬしなのじゃろう? まあ、娘御らをうつつに戻す前に、適当な言い訳をこしらえておくことじゃな』


「なに? ラナたちも、俺とともに帰るのだろう?」


『いや、そこな学士たちには、もう少しばかり知恵をつけてもらう必要がある。その娘御とて、むやみにうつつに戻すよりは、この場にいたほうが安全であろうよ』


「いや、しかし――」


 と、ダリアスがトゥリハラに詰め寄ろうとすると、ラナがその腕をそっとつかんできた。


「わたしたちのことは心配ありません。わたしなど、ダリアス様のそばにあっても邪魔にしかならないのですから……どうぞお気になさらないでください」


「気にしないわけにいくか。いつまでもこのような場所に、ラナたちを置いておくわけにはいかん」


『いつまでもではない。時が満ちるまでの、しばしの間じゃよ。おぬしがこの地を発つ際には三名とも引き連れる必要があろうから、それまでの辛抱じゃ』


 それでもダリアスが不満顔をさらしていると、フゥライも声をあげてきた。


「トゥリハラ殿が敵ではないと信ずることができたのなら、その言葉に従っておくべきではないのかな。もとより、トゥリハラ殿が儂らを害するつもりであったのなら、これまでにいくらでも機会はあったのだから、いまさら心配には及ぶまい」


『そうじゃそうじゃ。色恋の情念に惑わされて、本道を見失うのではないぞ』


「お、おかしなことを抜かすな。ラナが気を悪くするだろうが」


 ラナはうつむき、また顔を赤くしてしまっていた。

 ダリアスも、首から上に血が集まっていくのを感じている。


『ともあれ、おぬしの居場所に戻るがよい。おぬしが正しき道を進めば、すぐに星図が動くじゃろう。さすれば……最初の敵の居場所もわかろうよ』


 トゥリハラの陽気な声に、少し重たい響きが加わった。


『四精霊の忌み子どもが諍いを起こしたのは、こちらにとっても重畳じゃ。しかし、炎が氷雪の風に吹き消されてしまったら……おそらく、王国のひとつが崩落することになる。我々にはあまり時間が残されていないのじゃよ、獅子の騎士よ』


 ダリアスには、トゥリハラのその言葉もまったく理解できていなかった。

 しかし、その言葉は妙な重圧をともなって、ダリアスの心にのしかかってくるように感じられた。

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