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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅲ-Ⅲ 惨劇の夜

2018.5/19 更新分 1/1

「おお、このような夜更けに申し訳ないな、ゼラ殿」


 クリスフィアがそのように呼びかけると、祓魔官のゼラは「いえ……」と頭を下げた。


「このような刻限を指定したのは、わたしのほうであるのですから……こちらこそ、お詫びの言葉もございません……」


「なに、わたしと違ってゼラ殿は多忙の身であるのだろうからな。同行を了承してもらえて、ありがたく思っているぞ」


 そこは、金狼宮の端にある控えの間であった。クリスフィアにあてがわれた赤蛇宮は男性の立ち入りが禁じられているために、この場で待ち合わせることになったのだ。

 すでにとっぷりと日は暮れて、クリスフィアも晩餐をたいらげた後であった。気の早い人間であれば、そろそろ寝支度を始めている頃合いであろう。


「かなうことなら、今日の内に話をつけておきたかったのだ。あの薬師めが『賢者の塔』に引きこもっているのなら、こちらにとっても都合がいいからな」


 薬師というのは、もちろん新王の従者であるオロルのことであった。

 オロルは新王の従者として黒羊宮に居を移していたが、ここ最近は体調を崩して、『賢者の塔』の自分の寝所で休養しているという話であったのだった。


「わたしがあの場所に向かうとなると、いちいち通行の許しなどを求めなくてはならなくなるからな。それでは敵方にもこちらの動きを悟られてしまうので、またゼラ殿に案内を願いたいのだ。どうか、お願いする」


「は……しかし、今さらあの薬師めに、どういったご用事なのでしょうか……? 必要な情報は、すでにのきなみ聞き出しているように思うのですが……」


「うむ。実は日中の騒動を経て、ひとつ疑念が浮かんでしまったのだ。今日は、それを問い質してやろうと思ってな」


 秘密の通路で出くわした妖魅に関しては、すでにゼラにも伝えられている。幼子のように小さな体躯をしたゼラは、うろんげに首を傾げているようだった。


「何でしょう……? まさか、あの薬師めが妖魅を放ったとお疑いなのでしょうか……?」


「いや、そうではない。通路を抜けた先に、カノン王子らがしばし身を留めたと思しき痕跡が残されていたという話は聞いておろう? その場で王子らに力を貸したのが、あのオロルという薬師なのではないかと、わたしは疑っているのだ」


 ゼラは、愕然とした様子で矮躯を震わせた。


「どうして、姫はそのようなことを……? そもそも本当に、王子らに力を貸した人間など存在するのでしょうか……?」


「それは、まだわからん。しかし、カノン王子らが本当にあの隠し通路で災厄の場から逃れたとして、誰の手も借りぬままに行方をくらますのは難しいように思えてならんのだ」


 それは日中に、ティムトたちともさんざん語らった話であった。


「人目につかぬように王都から離れるには旅人を装うしかないであろうし、旅には路銀も必要となる。そういった旅支度を整えた何者かが存在する、と考えたほうが、自然ではないか? もともとヴァルダヌス将軍が王都から逃げる準備を整えていた、というのなら、話も違ってくるのだろうがな」


「…………」


「然して、カノン王子にそのような助力をする人間など、ごく限られている。あの薬師などは、王子の美しさに魂をつかまれてしまったなどと言い放っていたのだから、その役目にもうってつけではないか?」


「しかし……それでは、腑に落ちぬ点もございます……」


 ゼラは、のろのろとそう言った。


「王子らに助力をしたのが、あの薬師だとして……あの薬師は、どうして王子たちが銀獅子宮の隠し通路を使う、などと予見することができたのでしょう? そもそもあの夜に、ヴァルダヌス将軍が王子を連れ出すことなど、誰にも予見できぬことでありましたし……また、薬師風情では隠し通路の存在を知ることさえできなかったはずです……」


「だから、それを問い質そうと考えているのだ」


 クリスフィアは、そのように答えてみせた。


「もしかしたら、あの薬師は最初から王子らと共謀していたのかもしれん。ヴァルダヌス将軍が王子をエイラの神殿から救い出し、積年の恨みを果たすために父親や兄たちを謀殺し、火をつけて、隠し通路で逃げ出した……そして、その先では薬師が旅支度を整えていた、という筋書きだな」


「姫は……王子が自らの意思で前王らを謀殺した、とお考えなのですか……?」


 ゼラの声が、陰鬱さを増した。

 クリスフィアは、それをなだめるように微笑みかけてみせる。


「真実を知るのは、本人たちだけだ。ゼラ殿は、カノン王子がそのように非道な真似をするはずがない、と信じておられるようだな」


「…………」


「では、もうひとつの筋書きを話そうか。あの薬師オロルこそが、カノン王子らに冤罪をなすりつけた大罪人の一味である、という筋書きだ」


 ゼラは、さきほどよりも激しく身体を震わせた。


「そもそも我々は、カノン王子ではなく別の人間が前王らを弑したのではないかと疑っていた。その連中ならば、あの夜にカノン王子が前王の寝所を訪れるのを知っていたはず……というか、その者たちこそが王子を寝所に送りつけた、と考えるべきであろう。ならば、王子らが隠し通路で逃げ出すことも、予見することはできたはずだ」


「しかし……それならば、どうして王子らの逃亡を手助けせねばならないのです……? 王子らに罪を着せようと考えるならば、何としてでも口を封じようとするはずでありましょう……?」


「うむ。だからわたしは、あのオロルが大罪人どもを裏切って、独断で王子らの逃亡を助けたのではないか、と疑っているのだ」


 それが、クリスフィアの導き出した結論であった。

 ゼラは深くかぶった頭巾で表情を隠したまま、無言である。


「あのオロルは、もともとカノン王子の美しさに心を奪われていた。しかし、悪党どもの命令に逆らうことはできず、悪事に加担することになった。それでも王子を見殺しにすることはできず、人目を忍んで逃亡の手助けをした。……わたしとしては、こちらの筋書きのほうがしっくりくるように思えてしまうな」


「なるほど……あの薬師めは、ジョルアン将軍の命令でシムの媚薬を準備したと告白しておりましたし……敵方の一味であることに間違いはないように思います。しかしその反面、王子を思うよすがに、禁忌の歴史書を盗み出したなどと述べていたのですから……姫の仰るような真似をしても、おかしくはないのかもしれません……」


「うむ。ゼラ殿の賛同を得られたのなら、幸いだ」


 クリスフィアは、にっと笑ってみせた。


「では、『賢者の塔』までご案内いただけるだろうか? あまりに遅い訪問となると、衛兵どもにあやしまれてしまうだろうからな」


「承知いたしました……ご案内いたしましょう……」


 ゼラがそのように答えると、ずっと退屈そうに二人のやりとりを見守っていたロア=ファムが「やれやれ」と腰を上げた。


「ようやく出発か。夜が明けるまで語らっているのかと思ってしまったぞ」


 日中の試し合いであちこち手傷を負ってしまったロア=ファムであるが、このたびはジェイ=シンに助力を頼むこともできなかったので、同行を願っていた。三人で連れ立って回廊を進みつつ、クリスフィアはそちらにも笑いかけてみせる。


「お前にも苦労をかけてしまうな、ロア=ファムよ。傷が痛んだりはしておらぬか?」


「無用の心配だ。木剣で打ち合ったぐらいでどうにかなるような俺ではない」


「うむ。しかし、ロア=ファムを連れ出したことが知れたら、またフラウに叱られてしまうな。フラウはずっと、お前の身を案じていたのだぞ」


 ロア=ファムは赤い顔をして、何か言い返そうとした。

 が、金狼宮の出口が近づいてきたので、ふてくされたように口をつぐんでしまう。分厚い両開きの扉の前では、ディラーム老の配下たる兵士たちが見張りの仕事を果たしていた。


「邪魔をしたな。今日はこれにて帰らせていただく」


「は。日も沈んでおりますので、どうぞお気をつけください」


 兵士たちの開いてくれた扉から、外界に足を踏み出す。

 すでに夜半であるが、あちこちにかがり火が焚かれているために、足もとに不自由はない。しばらく石畳の上を進んでいくと、やがて庭園の片隅にトトスと車の姿が見えてきた。


「どうぞあちらにお乗りください……手綱は、わたしがお預かりしましょう」


「うむ。よろしくお願いする」


 クリスフィアが車の戸に手をかけたとき、ロア=ファムが「待て」とつぶやいた。


「そこにいるのは、何者だ? 俺たちの後を尾けていたな?」


 クリスフィアは驚いて、ロア=ファムの視線の先を追った。

 屋外でも、回廊には屋根が張られている。ロア=ファムがにらみつけているのは、その屋根を支える石柱であった。


「いまさら気配を殺しても遅い。姿を現さぬなら、敵と見なすぞ」


「まあ待て。短慮な小僧だな」


 と――どこか聞き覚えのある男の声が、薄明かりの中に響きわたった。

 やがて石柱の向こうから、大柄な人影がゆらりと出現する。その姿を見て、クリスフィアはあらためて驚きにとらわれた。


「お前は……メルセウス殿の、従者のひとりだな」


「ああ、ご覧の通りだ」


 その若者は、少しおどけた感じに肩をすくめた。

 メルセウスが王都にまで引き連れてきた、森辺の狩人のひとり――大柄で、褐色の髪を短めに切りそろえた、十六、七歳ぐらいに見える若衆である。日中に見たときと同じように従士のお仕着せを纏っており、腰には短剣だけを下げている。


「お前も、さすがは狩人の端くれだな。やはり、足音が響いてしまったか」


「ふん。どれほど気配を殺そうとも、足音を鳴らしては意味がない」


 ロア=ファムはそのように述べていたが、クリスフィアは何の音も聞いた覚えはなかった。

 若衆はふてぶてしく笑いながら、革の長靴を履いた足で石畳を蹴る。


「こんな窮屈なものを履いていなければ、決して気取られたりはしなかったのだがな。まあいい。何か非礼があったのなら、詫びさせてもらおう」


「非礼も何も、お前は気配を殺して俺たちを尾けていたのだろうが? 何故、そのような真似をした?」


「むろん、主人の命令だ。文句があるなら、主人のほうにお願いする」


 若衆は悪びれた様子もなく、胸の前で腕を組んだ。

 メルセウスを警護する森辺の狩人の中では、この若衆がもっとも逞しい身体つきをしている。背丈などはクリスフィアよりも頭半分以上は大きいし、胸板などは驚くほどに分厚い。それでいて、手足は長く、腰のあたりも引き締まっているので、鈍重そうな感じはまったくなかった。


(三人の中で、もっとも腕の立つのはジェイ=シンであるという話だったが……こやつも、わたしやロア=ファムでは相手にならぬ化け物であるのだろうな)


 その事実が、クリスフィアに小さからぬ緊張感をもたらしていた。

 そんなクリスフィアを見返しながら、若衆はうっすらと笑っている。


「どうした? 俺はべつだん、無法者ではないぞ? 王都で騒ぎを起こすつもりなどはさらさらないから、あなたがたも好きに振る舞うがいい」


「……好きに振る舞えと言われてもな。お前はいったい何のために、わたしたちの姿を盗み見ていたのだ?」


「だから、主人の命令と言っているだろうが? 俺はただ、あなたの動向を見守っていただけだ、クリスフィア姫とやら」


「わたしの……動向?」


「うむ。あなたがどこに行き、誰と会い、何を為そうとするか。俺はそのさまを見届けるだけだ」


 クリスフィアは、思わず眉をひそめることになった。


「メルセウス殿が、そのようなことを命じたというのか? わたしには、そのような真似をされる覚えはないぞ」


「ならば、堂々と振る舞えばいいのではないか? どのみち、さっきのように宮殿の中にまで入られたら、俺には後を追うこともできなくなるのだからな。とりたてて、あなたがたの邪魔になることはあるまい」


「……では、金狼宮の中にまでは足を踏み入れていない、ということか」


「当然だ。俺のような人間を衛兵どもが通すわけはないし、勝手に忍び込めば、それは罪となる。俺たちは、決して王国の法を踏みにじったりはしない」


 そう言って、若衆は黒い瞳を愉快げに光らせた。


「あなたがたも罪を犯したりしていないのならば、何も恥じる必要はあるまい? それとも……俺の主人は、間違った相手を信じてしまったのだろうかな」


「なに? それは、どういう意味だ?」


「俺の主人は、あなたがたが正しい心を持っていると信じた。今ごろは、白牛宮とやらで公爵様と心情を打ち明け合っているはずだ」


 白牛宮に留まっている公爵といえば、レイフォンのみのはずである。

 クリスフィアは慌てて事情を問い質そうとしたが、そこでゼラが「よろしいでしょうか……?」と声をあげた。


「姫、この場では誰に話を聞かれているかもわかりませぬ……これ以上の言葉を重ねるならば、いったん車の中にお入りになるべきではないでしょうか?」


「うむ……そうだな」


 クリスフィアは一瞬迷ったが、ゼラの言葉に従うことにした。

 若衆のほうに向きなおり、トトスの車を親指で指し示してみせる。


「よかったら、こちらで話をうかがおう。お前が本当に、我らに害意を持っていないというのならばな」


「どうして俺が、あなたがたを害さねばならんのだ。いちおう俺の仕事には、あなたの身を守ることも含まれているのだぞ、クリスフィア姫」


「なに? わたしを何から守るというのだ?」


「知らん。しかし、あなたがたは昼間、この世ならぬ妖魅に襲われたそうではないか。そんな愉快なものが存在するなら、俺もお目にかかりたいものだ」


 どうやらメルセウスは、この若衆にも日中の一件を伝えていたらしい。

 まあ、同じ森辺の民であるジェイ=シンが遭遇した出来事であるのだから、隠す理由もないのだろう。クリスフィアはひとつうなずいて、車の戸を開いてみせた。


「では、こちらに入るがいい。ゼラ殿、話はわたしがうかがうので、車を『賢者の塔』に頼む」


「……よろしいのですか?」


「かまわんだろう。きっとこの若衆は、走ってでも追いかけてくるつもりなのだろうからな」


「ふふん。走って追わずに済むのなら、幸いだ。まあ、車を引いたトトスなどに走り負けることはないがな」


 あくまで不敵に笑いながら、若衆は車に乗り込んできた。

 クリスフィアやロア=ファムも乗り込み、後部の戸を占めると、御者台のゼラがトトスを鞭で打つ。トトスの車は、庭園の外周に沿って走り始めた。


「さて……それでは最初に、名前でも聞いておこうか。わたしはまだ、お前の名を知らんのだ」


「俺か? 俺は、ザザ家の末弟ギリル=ザザだ。ジェイ=シンらとともに、主人メルセウスの護衛役を担っている」


「ギリル=ザザか。よき名だな」


 そういえば、西の王国で氏をつけることを許されるのは、ロア=ファムのような自由開拓民のみのはずである。森辺の民というのは、さまざまな部分で王国の規格に収まらない存在であるのだった。


「では、話をうかがおう、ギリル=ザザ。レイフォン殿とメルセウス殿が心情を打ち明け合うというのは、どういう話なのだ?」


「知らん。知らんが、その公爵様が信用に足る人間かどうかを確かめてくる、などと言っていたな。もしも見込み違いであったのなら、大罪人として告発するしかないそうだ」


「大罪人? どうしてレイフォン殿が、大罪人であるのだ?」


「だから、俺は知らん。詳しい話は、明朝にでも聞かせてくれるそうだ」


 クリスフィアは、しばし考え込むことになった。

 レイフォンが犯した大罪というと――唯一考えられるのは、本日の出来事を隠匿した一件である。隠し通路で妖魅と出くわしたことや、カノン王子らが残したと思われる痕跡に関しては、しばらく秘密のままにしておくという話であったのだった。


(そうか。妖魅のほうはともかく、王子らの一件を隠匿するというのは、叛逆罪と見なされてもおかしくはないのやもしれん。表向きは、カノン王子らが前王らを弑したということになっているのだからな)


 裏事情を知らないメルセウスであれば、そのように考えるのが道理である。

 しかしメルセウスは、その足で新王のもとに駆けつけるのではなく、レイフォンのもとに向かったのだという。そうして、レイフォンと心情を打ち明け合う、などと述べていたのなら――こちらの側に、何か深い事情があると察してくれた、ということなのだろう。


(ならばこれで、どうあってもメルセウス殿を味方に引き込むしかなくなった、ということだな。それはそれで、悪い話ではあるまい)


 クリスフィアは納得して、ギリル=ザザのほうに向きなおった。


「おおよその事情は理解できたように思う。それでメルセウス殿は、わたしの身を守るように、などと言ってくれていたのだな?」


「ああ。万が一のときは、刀を抜くことを許す、とな。まあ、俺たちが宮中で身に帯びることを許されているのは、こんなちっぽけな短剣だけだが」


「そうか。メルセウス殿の厚意をありがたく思うぞ。……ロア=ファムよ、『賢者の塔』にはこのギリル=ザザも同行してもらおうかと思うのだが、どうだろうか?」


 クリスフィアの言葉に、ロア=ファムは「ふん」と鼻を鳴らした。


「森辺の狩人が同行するならば、俺の出番などなさそうだ。金狼宮に戻るべきか?」


「何を言っている。ロア=ファムがいなければ、わたしはギリル=ザザが覗き見をしていることにも気づかなかったのだ。お前の力を、頼りにしているぞ」


 ロア=ファムに笑いかけてから、クリスフィアはギリル=ザザのほうに視線を戻した。


「ギリル=ザザよ。我々はこれから、とある人物を糾弾しに出向くところであったのだ。よければ、お前にもその姿を見届けてもらいたい」


「ふん。言われずとも、それが俺の仕事だからな」


 そう言って、ギリル=ザザはにやりと笑った。


「それにまあ、あの公爵様はともかく、あなたは信用に足る人間だと思っているぞ、クリスフィア姫。ジェイ=シンは何やらぶちぶちとぼやいていたが、あなたが虚言を吐いているようには思えん」


「うむ。ジェイ=シンには色々と隠し事をすることになってしまったからな。おたがいの心情を打ち明け合って、手を取り合うことができたら、わたしは心から嬉しく思うぞ」


 ギリル=ザザは、ジェイ=シンよりも快活で、屈託がないように思えた。きっと、ジェイ=シンよりも若年であるのだろう。大柄で、厳つい面立ちをしているものの、その笑顔には稚気のようなものが感じられる。


(そのぶん、怒ったら手がつけられなそうだな。このような者たちを味方につけられれば、幸いだ)


 クリスフィアがそんな風に考えている間に、トトスの車が動きを止めた。

 御者台のほうの小窓から、ゼラの陰鬱な声が聞こえてくる。


「『賢者の塔』に到着いたしました……お話は済みましたでしょうか?」


「うむ。ギリル=ザザにも、中まで同行してもらおうと思う」


「……承知いたしました。気をつけてお降りください」


 戸を空けて外に出ると、そこはずいぶん薄暗かった。

 闇の向こうに、ひときわ黒々とした影がそびえたっている。王都の学士や医術師たちが住まう、『賢者の塔』である。


 御者台を降りたゼラを先頭に、その入り口を目指す。塔の入り口には、今日も二名の衛兵が立ちはだかっていた。

 ゼラが小声で何かを伝えると、衛兵の手によって扉が開かれる。クリスフィアたちの素性が問われることもなかった。


「……すいぶん陰気な場所であるようだな」


 石造りの螺旋階段をのぼりながら、ギリル=ザザがそのように述べたてた。

 ゼラの掲げた燭台の火に、眉をひそめた横顔がぼんやりと照らしだされている。


「それに何だか、不吉な気配がする。お前はそのように思わんか、シャーリの狩人よ」


「俺の名は、ロア=ファムだ。……確かに、以前に来たときとは様相が異なるようだな」


 そのように述べながら、ロア=ファムは刀の柄に指先をかけていた。


「クリスフィアよ、用心するがいい。もしかしたら、この場にも妖魅というやつが待ちかまえているのかもしれんぞ」


「そうだとしたら、いよいよあの薬師めも無関係ではない、ということだな」


 クリスフィアも最大限に用心をしながら、階段をのぼることになった。

 ひとりゼラだけは、変わらぬ様子でひたひたと歩を進めている。

 しかし、長い階段を踏破して、目当ての回廊にまで到着しても、クリスフィアたちが異変に見舞われることはなかった。


 回廊は、今日も静まりかえっている。薬師や医術師たちは、すでに寝入っているのだろうか。クリスフィアたちの足音だけが陰々と響きわたる、重苦しい静寂がその場には満ちみちていた。


「……おかしな気配は、なくなったな。いったい何だったのだ、さっきの気配は?」


 と、ギリル=ザザが低い声でつぶやいた。

 ロア=ファムのほうを見てみると、そちらもけげんそうに小首を傾げている。両者の感じていた不吉な気配というやつが、消失してしまったらしい。


「何か、獲物に逃げられてしまった気分だ。おそらく、もう妖魅などが現れることはあるまい」


「それはそれで幸いな話だが……ひとたびは、この場に妖魅が現れたということなのだろうか?」


「さてな。さきほどの気配が何であったのかは、その姿を目にしないことには判別もできん」


 クリスフィアはえもいわれぬ焦燥感にとらわれながら、ゼラを振り返ることになった。


「ともあれ、用事を果たすことにしよう。ゼラ殿、お願いする」


「かしこまりました……オロル殿、いらっしゃいますでしょうか……?」


 ゼラが、手の甲で扉を叩いた。

 先日と同じように、返事はない。


「オロル殿、本日はこちらにいらっしゃると聞いていたのですが……ご不在でしょうか……?」


「薬師よ、アブーフ侯爵家のクリスフィアだ。至急、うかがいたい話がある」


 クリスフィアも、そのように声をあげてみせた。

 しかし、やっぱり返答はない。


「また居留守を決め込んでいるのではないか? かまわぬから、押し入ってしまおう」


「はあ……」と応じつつ、ゼラが懐から針金を取り出した。前回も、この部屋には鍵が掛けられていたので、ゼラの手管で忍び入ることになったのだ。

 そうして扉の取っ手をつかんだゼラは、ぴくりと肩を震わせる。


「姫……こちらの扉には、鍵が掛けられていないようです……」


「なに? それは、ずいぶんと無用心ではないか」


 クリスフィアはゼラを押しのけるようにして、その取っ手をひっつかんだ。

 扉は、何の抵抗もなく開いてしまう。その向こうに待ち受けているのは、深淵のごとき漆黒の闇であった。


「これは……」と、ロア=ファムがつぶやいた。

「うむ」と、ギリル=ザザもうなずいている。


「クリスフィア、これは血の臭いだ。しかもこれは……生半可な量ではないぞ」


「なに!?」と、クリスフィアは暗がりの中に足を踏み入れた。

 その腕を、後ろからロア=ファムにつかまれる。


「待て、俺が先に行く。人の気配は感じられないが、この前もあいつは気配もなく現れたからな」


 ロア=ファムがゼラから燭台を受け取って、それを闇の中に突きつけた。

 以前と変わらぬ、雑然とした様相である。この場所は、もはやオロルにとって物置きに過ぎないのだ。


「俺の後から、ついてこい。血臭の出処は……左の部屋だな」


 左の壁には、古びた帳が二重に掛けられている。前回、オロルはその帳の向こうから現れたのだ。


 ロア=ファムを先頭に、クリスフィア、ゼラ、ギリル=ザザの順番で続く。誰もが息を詰めて、来たるべき異変に備えていた。


「開くぞ……」という声とともに、ロア=ファムが帳に手をかける。

 それが開かれた瞬間、狩人たちの感じていた異臭が、クリスフィアのもとにも押し寄せてきた。

 生臭く、どこか錆びついた金属のような臭いも混じった、血臭だ。


「ああ、これは……!」


「……どうやら、ひと足遅かったようだな」


 そこは、小さな寝所であった。

 棚や木箱に埋もれるようにして、木造りの寝台が置かれている。その寝台の上で、薬師のオロルは息絶えていた。


 いや――しかしそれは、本当にオロルの遺骸であったのだろうか?

 確かに背格好は、オロルと同一であるように思える。東の民のように痩せこけていて、背の高い、骨ばった身体つきだ。その身に纏った漆黒の外套も、胸もとに垂らした首飾りも、クリスフィアの記憶にある通りの形状をしていた。


 しかしそれでも、クリスフィアはそれがオロルの遺骸である、と確信することができなかった。

 何故ならば――その遺骸には、首がなかったのである。

 まるで巨大な怪物に首から上をかじり取られたかのような様相で、その遺骸は血の海に沈んでいたのだった。

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