Ⅱ-Ⅲ 同盟
2018.5/12 更新分 1/1
夜――レイフォンは、退屈していた。
銀獅子宮の地下に眠る秘密の通路を探索した、その日の夜のことである。マルラン領の村落でトトスの荷車を借りて、無事にアルグラッドにまで戻ってきて以来、ティムトがずっと禁忌の歴史書の検分に没頭してしまっているのである。
普段であればレイフォンの軽口につきあってくれるティムトも、この日ばかりはそれを許してくれなかった。それぐらい、ティムトは根を詰めてその検分の作業に取り組んでいるのだ。こういう際にはどのようなちょっかいをかけても無駄であることを、レイフォンは経験上わきまえていた。
(しかし、ティムトがこれほど根を詰めるというのは、滅多にないことだな。それだけこの禁忌の歴史書というのが重要であるということか)
燭台という燭台に火をつけて、昼間のように明るくなった執務室の中で、ティムトは一心不乱に歴史書の字を追っている。ときおり帳面に何かを書き記しては、また書物に目を落とす、その繰り返しであった。
ちなみにクリスフィアのほうは、いまごろゼラやロア=ファムとともに、薬師のオロルのもとに向かっているはずである。日中の一件で思うところのあったクリスフィアは、今度こそオロルを締め上げて、さまざまな真実を暴きたててみせると息巻いていたのである。
しかしそんな騒ぎにも、ティムトが関心を示すことはなかった。それよりも、この歴史書の調査を進めるのが先決である、と考えているのだ。
「ねえ、ティムト。明日になったら、そいつの検分にはゼラ殿の手も借りてみたらどうだろうか?」
レイフォンがそのように呼びかけると、ティムトは顔も上げぬまま「何故です?」と反問してきた。
「何故って、そいつを調べ尽くすには十日ぐらいもかかるっていう話だっただろう? 手分けをすれば、それだけ仕事もはかどるじゃないか」
「無理ですね。そもそも神官長の従者である祓魔官殿に、そんな時間を捻出することはできないでしょう。あちらはあちらで本来の職務と並行して、ジョルアン将軍や第二防衛兵団の動向を探ってくれているのですから、これ以上の仕事を受け持つゆとりはないはずです。そうだからこそ、あの薬師のもとに向かうのも、このような夜更けになってしまったのでしょう?」
「いや、だけど……」
「それに、これは余人には頼みようのない仕事なのですよ。僕自身、何を求めてこの歴史書を検分しているのかを把握しきれていないのに、どうやって協力を願えばいいのです? 言ってみれば、これは質問の内容もわからないままに答えを探し出そうとしているようなものなのです」
そのように述べながら、ティムトは新しい頁を繰った。
「お気遣いには感謝します。でも、僕のことにはかまわず、レイフォン様は先にお休みになられてください」
「べつだん、まだ眠たくはないけれどね。……よかったら、茶でもいれようか?」
「はい。ギギの茶をいただけたら、嬉しく思います。砂糖や乳は不要です」
ギギの茶は、そのままで口にすると、とても苦い。ティムトはその苦さで疲れや眠気を払いのけようとしているのかもしれなかった。
(やれやれ、いったい何がティムトをこれほどまでに駆り立てているのかな)
そんな風に考えながら、レイフォンは茶の準備をすることにした。
(もちろんそれは、昼間に遭遇したあの妖魅が関係しているんだろうけど……でも、いまさらこの歴史書とやらを検分したところで、何か得るものでもあるのだろうか)
日中、レイフォンたちはこの世ならぬ妖魅に襲われることになった。とほうもなく巨大で、とほうもなく邪悪な、黒き大蛇どもである。ティムトはそれが、禁忌の歴史書に記されていた蛇神ケットゥアの眷族であると言いたてていたのだが――しかし、そのようなことが本当にありうるのだろうか。
(邪神教団の崇める、異形の神々か……しかもそれが大神アムスホルンの身から分かたれた小神であるなんて、つくづくとんでもない話だな)
大神アムスホルンというのは、四大神の父であり、この大陸そのものだ。父なるアムスホルンが長きの眠りについたために、世界は四大神に統治されることになった――それが本来の、アムスホルンの神話である。
(それが、禁忌の歴史書においては、アムスホルンと四大神が敵対する存在として記されている、なんて言っていたな。しかも、邪神どもはすべてアムスホルンの眷族だなんて……いったい何がどうなったら、そんな話になってしまうんだろう。そんなものは、すべての神に対する冒涜じゃないか)
レイフォンは陶磁の杯にギギの茶を注いで、ティムトのもとに舞い戻った。
そうして、卓の上に二人分の杯を置くと同時に、扉が外から叩かれた。
「レイフォン様、ジェノス侯爵家の第一子息、メルセウス様が面会をお求めになられております」
長椅子に腰を下ろそうとしていたレイフォンは、目をぱちくりとさせながら、ティムトの姿を見下ろすことになった。
ティムトは心から無念そうな面持ちで、歴史書にしおりをはさんでいる。
「どうしようか? ティムトが忙しいなら、私一人でお相手をしてもいいよ?」
「しかし、このような時間に来訪してきたということは、よほど重要な話であるのでしょう。それなら、僕も同席しないわけにはいきません」
「そうか。まあ、ティムトが目を休めるいい機会であったかもしれないね」
レイフォンが承諾の言葉を返すと、小姓の手によって扉が開かれた。
メルセウスが従者のジェイ=シンを引き連れて、入室してくる。小姓の手によって扉が閉められると、メルセウスはにこやかな表情で一礼した。
「夜分に申し訳ありません、レイフォン殿。少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「うん、もちろん。どうぞ、そちらに掛けてくれたまえ」
さきほどまでティムトの座っていた場所に、メルセウスが腰を下ろす。ジェイ=シンがその長椅子の背後に陣取ろうとしていたので、レイフォンはそちらに笑いかけてみせた。
「よかったら、ジェイ=シンも腰を下ろすといい。君の主人が、それをお許しになるならね」
「もちろんです。お気遣いありがとうございます、レイフォン殿」
メルセウスの視線を受けて、ジェイ=シンはそのかたわらに腰を落ち着けた。
それを見届けてから、レイフォンもティムトに着席をうながす。
「ああ、ちょうど茶をいれたところであったのだよね。ギギの茶でよければ、お出ししようか」
「いえ、それには及びません。夜半にギギの茶を口にすると、寝付けなくなってしまいますので」
そう言って、メルセウスはにこりと微笑んだ。
「このような時間に押しかけてしまって、本当に申し訳ありません。明日は色々と予定がたてこんでいたもので、今日の内にお話をうかがっておきたかったのです」
「かまわないよ。日中はこちらが無理を言って、ジェイ=シンをお借りしてしまったしね。……しかも、とんでもない騒ぎに巻き込んでしまって、こちらこそ申し訳なく思っているよ」
「いえ、ジェイ=シンの力がお役に立てたのなら、何よりです。……しかし本当に、言語に絶する騒ぎであったようですね。僕もジェイ=シンから話を聞いて、心から驚いてしまいました」
灰色の瞳を明るくきらめかせながら、メルセウスはそう言った。
「それで……けっきょくその騒ぎについては、王陛下にもご報告なさらなかったのですか?」
「いや、報告はしておいたよ。ただし、穏便な形でね」
「穏便な形?」
「ああ。銀獅子宮の地下に隠されていた鍾乳洞を探索したところ、無数とも思える蛇の群れと、怪物のように巨大な蛇と遭遇し、それを討ち取ることになった、とね。どこにも嘘はないだろう?」
メルセウスは「あはは」と声をたてて笑う。
「なるほど。確かに、僕がジェイ=シンから聞いた話と一致します。でも、退治した蛇たちは灰塵となって消滅し、死骸も何も残らなかった――というような話は、伏せているわけですね」
「うん。無用に人心を騒がすことは避けるべきだからね。ましてや、銀獅子宮にまで通じていた場所にそのような妖魅が出現したなどと言いたてたら、とんでもない騒ぎになってしまうだろうからねえ」
「しかし――」と、ジェイ=シンが声をあげかけた。
が、すぐに口をつぐんで、不服そうに目を伏せる。
「失礼した。俺などが口をはさんでいい場ではなかったな」
「そんなことはないよ。こうして同じ席に座っているのだから、今はメルセウス殿の従者ではなく友人として振る舞っても許されるのじゃないかな?」
メルセウスが同意するようにうなずくと、ジェイ=シンは青く光る目でレイフォンをねめつけてきた。
「ならば、言わせてもらう。あれほどの騒ぎの真実を隠してしまうというのは、主君たる王に対して、あまりに不実な行いになるのではないか?」
「それは確かに、その通りだね。だけど今は戴冠式を控えた大事な時期だから、王陛下のお心を騒がせたくなかったのだよ。まずはあの妖魅の正体をきちんと調べあげてから、日を改めてご報告させていただこうかと考えていたところだ」
すると、ジェイ=シンは大きく溜息をついてから、真っ赤な髪を荒っぽくかき回した。
「やはり、本心は打ち明けてもらえないのか。ならば俺も、これ以上の口出しは控えさせてもらおう」
「ううん、困ったな。ジェイ=シンは、そこまで人の本心を察することができるのかい?」
「……森辺において、虚言は罪なのだ。あなたは本心を隠すことに長けているようだが……虚言かそうでないかの察しをつけることぐらいはできる」
レイフォンはひとしきり笑ってから、苦いギギの茶に口をつけた。
「ひとつだけ弁解させてもらおうかな。貴族というのは、建前と本音を使いわける習わしにあるんだ。すべての本心をさらけだしていたら、平穏に生きていくことも難しくなってしまうからね」
「それで、俺たちには本音をさらす気がない、ということなのだろう? ならば、これ以上は言葉を重ねる意味もない」
「うん。それならそれで、私はいっこうにかまわないよ。その問答は、昼間にもクリスフィア姫と交わしているはずだ。これは王国の行く末を左右するほどの一大事であるのだから、うかうかと本音をさらすわけにはいかない――とね」
ましてや現在は、自由にして奔放なるクリスフィアの姿もない。レイフォンとしては、ティムトの許しもないままに本音をさらすわけにはいかなかったのだった。
二人のやりとりを興味深げに見守っていたメルセウスは、「なるほど」と言って長椅子に座りなおす。
「それでは、ジェイ=シンが口を閉ざしている間に、僕が語らせていただきましょうか。……レイフォン殿、あなたがたが鍾乳洞で遭遇した妖魅というのは、いったい何なのでしょう?」
「それは今、こちらで調べている最中だよ。妖魅の正体を突き止めることなんて、なかなかできそうにないけれどね」
「そうなのですか? しかし昼間には、それが邪神の眷族であるという話を、すでにされていたと聞いているのですが」
レイフォンが視線を差し向けると、ティムトが「はい」とうなずいた。
「それを語ったのは、この僕です。僕が検分していた歴史書に、それらしき記載があったので、ひとつの推論として語らせていただきました」
「ふむ。その歴史書の中では、妖魅が神の眷族として記されていたそうですね。しかもそれが、大神アムスホルンの身から分かたれた小神であるとか……それは、事実なのですか?」
「……はい。そのように記されていたというのは、事実です」
メルセウスは穏やかな表情のまま、ティムトの顔を真っ直ぐに見つめていた。
「この世では邪神として忌避されている存在が、大神アムスホルンの眷族ですか……では、四大神というのは、どういう扱いになるのでしょう? 本来であれば、アムスホルンの子は四大神であるはずですよね?」
「ええ。その歴史書には、四大神こそが邪神であると綴られています。邪悪なる四神、セルヴァ、シム、ジャガル、マヒュドラが、大いなるアムスホルンを封印して、この世界を奪い去ったのだと……そんな風に記されていましたね」
「……そのようなことが、ありえるのでしょうか?」
メルセウスの率直な問いかけに、ティムトは涼しい顔で首を振っていた。
「ありえる、ありえないの話ではありません。そのような話は、あってはならないのです。四大神の存在を穢す者は、この大陸に住まうことを許されない。それが、王国の法でありましょう?」
「そうですね。では、その書物は四大神を穢す存在であるわけですか」
「ええ。ですから、こういった書物は禁忌の歴史書と呼ばれているそうです」
また「なるほど」と言って、メルセウスは口をつぐんだ。
燭台の火を受けて、灰色の瞳がゆらゆらとゆらめいている。そこには、深い思案に沈む老賢者のような光が灯っているように感じられた。
「それで……レイフォン殿たちは、その禁忌の歴史書にまつわる何かを探っておられる、ということなのでしょうか?」
しばしの沈黙ののち、メルセウスがそのように問うてきた。
「だからこそ、容易に本心をさらすことができないのでしょうか? 四大神を穢す存在についてなど、うかうかと口にするわけにはいかないのでしょうからね」
レイフォンは用心深く口を閉ざしたまま、またティムトの様子をうかがった。
禁忌の歴史書がここまで重く取り沙汰されるようになったのは、本日からなのである。本日、あの妖魅どもと遭遇するまでは、詳しい検分も後回しにされていたほどであるのだ。
(でも……よく考えたら、クリスフィア姫は最初からあの書物の行方を追い求めていたんだよな。いったいどうしてそのようなものを追い求めているのかと、私はうろんに思っていたものだが……蓋を開ければ、けっきょくクリスフィア姫の直感が正しかったということか)
レイフォンがそんな風に考えている間に、ティムトは心を決したようだった。
メルセウスの顔を見返しながら、「そうかもしれません」と口にする。
「ただ、この書物がどのような意味を持つのかは、まだ判然とはしていません。現在、検分を進めている最中です」
「そうですか」と、メルセウスは微笑んだ。
「では、僕たちがそれに力を添えましょう」
「え?」
「この僕、ジェノス侯爵家のメルセウスと、森辺の民ジェイ=シンが、あなたがたに力をお貸ししたく思います。必要とあらば、もう二名の狩人たちにも助力を願うことにしましょう」
「な、何故ですか? あなたがたは、こちらが何を探っているのかもお知りにはなられていないでしょう?」
それとも、レイフォンたちのいないところで、クリスフィアが真相を打ち明けてしまったのか――レイフォンはそのようにも思ったが、メルセウスは「はい」と微笑んでいた。
「でも、僕たちにはそれを見過ごすことができないのです。忌まわしき邪神たちが大神アムスホルンの眷族であるなどという話は、とうてい看過できませんからね」
「どうしてだい? そのような話は讒言に決まっているのだから、真面目に取り合う必要もないように思うのだけれども」
レイフォンが口をはさむと、メルセウスは「いえ」と首を振った。
「レイフォン殿は、ご存知ではなかったですか。ジェノスというのは、聖域を擁する地であるのです」
「聖域? 何だい、それは?」
「人が決して立ち入ってはならない、神の聖なる領域です。そしてその神とは、大神アムスホルンに他ならないのですよ」
そう言って、メルセウスはまた微笑んだ。
そのかたわらで、ジェイ=シンは炯々と青い瞳を燃やしている。
「さらに言うならば、その聖域というのは、モルガの山のことなのです。森辺の民というのは、聖域の山麓に住まう一族であるのですよ。彼らもまた聖域に足を踏み入れることは許されませんが……大神アムスホルンが邪な存在であるなどという話は、決して見過ごせぬ立場にあるのです。そしてそれは、森辺の民の君主筋であるジェノス侯爵家の人間にしてみても、同じことなのです」
「では……君たちはいったい、私たちに力を貸して、何を為そうというのかな?」
「真実を知ることです」
メルセウスは、朗らかでありながら力強い口調でそう言いきった。
「さしあたっては、みなさんを脅かした妖魅についてでしょうかね。その妖魅の正体を知るために、僕とジェイ=シンが力をお貸しすることをお許しください。僕はともかく、ジェイ=シンの力は大いに役立つことでしょう」
「いや、それはもちろん、非常にありがたい申し出ではあるのだけれども……」
やはりレイフォンとしては、ティムトの許しもなくそのような申し出を受け入れるわけにはいかなかった。
ティムトは無言で、探るようにメルセウスとジェイ=シンの顔を見比べている。
すると、メルセウスは無邪気に口もとをほころばせながら、さらに言った。
「レイフォン殿、これは王国の行く末を左右するほどの一大事であるのでしょう? ならば、王国の民たる僕とジェイ=シンにも、その運命を担わせてはいただけませんか? それをお許しいただけるのならば、僕たちも秘密を守ると誓います」
「秘密? とは、いったい何のことなのかな?」
「それはもちろん、レイフォン殿たちが王陛下にすら打ち明けようとしなかった事柄についてです」
あくまでも無邪気な面持ちで、メルセウスが言葉を重ねる。
「レイフォン殿たちは妖魅の一件ばかりでなく、カノン王子についての話も、陛下にご報告されていないのでしょう? カノン王子とヴァルダヌス将軍は、秘密の通路を使って脱出を果たした可能性がある――その痕跡を発見しながら、陛下へのご報告を怠るというのは、叛逆罪に問われてもおかしくはない行いなのではないでしょうか?」
「いや、それは――」
「僕は、レイフォン殿やクリスフィア姫が正しい心を持っているのだと願っています。レイフォン殿たちの行いは、すべて王国の行く末を守るために為されているのだと――そのように信じたいのですよ」
そう言って、メルセウスは長椅子の背もたれに身体を預けた。
「そうでなくては、僕はレイフォン殿ではなく陛下のもとを訪れていたことでしょう。僕とジェイ=シンは、王国の民として恥ずることのない道を進むのだと、固く心に決しているのですよ」
レイフォンは、深々と溜息をつくことになった。
今日一日で、ジェイ=シンはあまりに多くのものを見すぎてしまったのだ。ことがここまで及んだら、もはや彼らを味方につけるか敵に回すか、そのどちらかしかないように思えてしまった。
「……これもすべて、クリスフィア姫がそちらの御方を巻き込んでしまった結果なのでしょうね」
レイフォンと同じ気持ちに至ったらしいティムトが、感情を押し殺した声でそのようにつぶやいた。
「わかりました。すべてをお話ししましょう。その上で、あなたがたがレイフォン様の敵に回られるようであれば――こちらも生命を賭して戦うまでです」
「決してそのようなことにはならないと、僕は信じていますよ。これでも、人を見る目はあるつもりなのです。……僕も、こちらのジェイ=シンもね」
そうしてティムトは、従者としての仮面すらかなぐり捨てて、すべてを語ることになった。
赤の月の災厄を発端とした、すべての出来事についてである。
すべてを聞き終えた後、メルセウスとジェイ=シンはどのような心情を抱くことになるのか。レイフォンとしては、この奇妙な主従が敵方に回らないようにと、西方神に祈ることしかできなかった。