Ⅱ-Ⅲ 嘆きの老将
2016.12/24 更新分 1/1
「どうぞ、こちらです……」
トトスの車を降りた小男が、短い指で前方を指し示す。
そこにそびえ立っているのは、灰色の煉瓦を組み上げて築かれた巨大なる塔――宮廷お抱えの医術師や学士の住まう《賢者の塔》であった。
その塔の一階と地下階層は貴き身分の病人や負傷者を癒す施設であり、先の災厄で深手を負った老将ディラームもそこで療養しているのだった。
もちろんこの《賢者の塔》も王城の一部であるため、レイフォンたちの居住している白牛宮から徒歩で半刻もかかりはしない。が、神官長のバウファはよほど人目を恐れているのか、わざわざトトスの車を差し向けて、レイフォンたちをこの場まで案内させたのである。
案内人は、バウファの従者であるゼラだ。暗灰色の頭巾と長衣で風体を隠した小男のゼラは、ちょこちょこと幼子のような足取りで歩きながら、レイフォンとティムトを塔の入り口までいざなった。
華美なる宮殿に比べれば、実に質実な造りをした塔である。最初の扉の前には二名の衛兵が立ちはだかっており、そこを抜けて薄暗い回廊を進む間にも、両手の指では足りないぐらいの兵士たちの姿を見ることになった。
「ずいぶん厳重に警護されているのだな」
歩きながらレイフォンが呼びかけると、ゼラは「ええ……」と乾いた木枯らしのような声音で応じてきた。
「十二獅子将であらせられたディラーム様の身に万が一のことがあってはなりませんので……警護の数は、倍ほどにも増強されております」
「ふうん。王宮内にあって、その身が危うくなることなどありそうにないけれどねえ」
しかしまた、その王宮内で王と王子が害されるという災厄が勃発してもいるのだ。どことなく釈然としない思いを抱えつつ、レイフォンはティムトに叱られないよう、それ以上の無駄口は叩かないことにした。
そうして導かれたのは、やはり二名の衛兵に守られた扉の前であった。
すでにゼラたちが到来する旨は告げられていたのか、衛兵たちは無言で槍を引き敬礼する。
が、ゼラがその扉に手をかけようとすると、衛兵の片方が感情のない声をあげてきた。
「ただ今こちらのお部屋には、先客の御方が参っておられます」
「先客……? わたしの主から、人払いを申しつけられていたはずだが……?」
「は、薬師が薬を届けに参った次第です」
ゼラは一瞬迷うような素振りを見せたが、かまわず扉を引き開けた。
窓に目隠しのされた暗い部屋で、日中から燭台の火が灯されている。
室の奥には寝台があり、そのすぐ手前に背の高い何者かの後ろ姿が見えた。
「其方は……薬師のオロル殿であらせられたか」
ゼラの呼びかけに、その人物が振り向いた。
ゼラに劣らず、あやしげな人物である。
漆黒の長衣をぞろりと纏っており、やはり頭巾で顔を隠している。それに口もとまで黒い布を巻いた徹底ぶりだ。わずかに見える目もとには皺が深く、相当な老齢であるのだろうと察せられる。肌の色は奇妙に青黒く、瞳は闇のように黒い。むやみに背が高くて痩せ細っているので、東の王国シムの民なのではないかと思えるほどであった。
「これは失礼いたしました……薬の処方は終わりましたので、わたくしはこれにて……」
その声もまた、ゼラに劣らず不吉な響きを帯びている。
錆びた金属を擦り合わせているかのような、聞き取りづらい声だ。
そうしてその不吉な人物は、レイフォンたちの脇をすり抜けてさっさと部屋を出ていってしまった。
「薬師か。この塔に住む医術師の一人なのかな?」
レイフォンが尋ねると、ゼラは短い首を横に振った。
「あれは国王陛下が王弟殿下であられた時代から付き従っていた薬師なのだと聞いております……陛下から絶大なる信頼を得ているようですので、ディラーム様の看護を任されているのでしょう」
「ほう、それはそれは」
ゼラといい今回のオロルといい、どうして誰も彼もがこのように不気味な人間を従者にしたがるのだろうか。それに比べて自分は果報者だな、とレイフォンはかたわらの少年の理知的な細面を見下ろしながら内心でひとりごちることになった。
「それでは、こちらに……」と、寝台のほうに導かれる。
薄闇の中、老将は力なく横たわっていた。
かつての十二獅子将にしてアルグラッド軍の元帥、《右の牙》たる老将ディラームである。
しかし、現在のその姿からかつての勇壮なるたたずまいを見て取ることはかなわなかった。
頭には白い包帯が巻かれ、身体には灰色の毛布が掛けられている。その目は弱々しく閉ざされたままで、頬はこけており、無精髭に覆われた顔にはまったく生気がなかった。
以前は長かった灰色の髪も、治療のために切られてしまったのか、あるいは火災で焼けてしまったのか、短く刈りこまれてしまっている。老将といってもまだ六十には届かぬ齢であったはずだが、身体はひと回り細くなってしまい、まるきり病身の老人のようだ。
「ディラーム様、お眠りになられているのでしょうか……? ヴェヘイム公爵家の第一子息、レイフォン様がお見えです……」
ゼラが小声で呼びかける。
すると、水気のないまぶたがのろのろと開かれた。
その濃い茶色の瞳にもかつての力強さはなく、ただ虚ろにレイフォンたちの姿を見返してくる。
「おひさしぶりです、ディラーム老。お休みのところを押しかけてしまい、まことに申し訳ありません」
レイフォンがそのように声をかけても、老将の瞳に輝きは戻らなかった。
ディラーム老は若い時分、ヴェヘイム領に駐屯する騎士団の長を務めていたのである。
レイフォンなどは幼子であったので、当時の記憶も虚ろであったが、ともあれ父のヴェヘイム公爵とディラーム将軍はその時代からの朋友であったのだ。ともに刀を取ってゼラド大公国の軍を退けたこともあるというし、ディラームが王都に戻されてからも、縁が切れることはなかった。
ゆえに、レイフォンにとってもこの老将はそれなりに気の置けない存在であったのだが、この来訪がまったく歓迎されていないということは明白に過ぎた。
老将は、仕えるべき君主ばかりでなく、副官や参謀長といった腹心までをも失ったあげく、自身もこのような深手を負ってしまったのである。武官としてその一生を王家に捧げてきた老将は、一夜にして何もかもを失ってしまったのだった。
ひび割れた唇を舌で湿してから、老将は弱々しい声を振り絞る。
「何も話すことはない……帰ってくれ」
「長居はいたしません。少しばかり、私の話を聞いてはいただけませんか?」
レイフォンは、部屋の隅に追いやられていた椅子に腰を下ろし、それからゼラを振り返った。
「ゼラ殿、いささか込み入った話もしたいので、老と二人にしてもらえればありがたいのだが」
ゼラは無言でレイフォンを見つめ返してくる。
幼子のように小さな男であるので、レイフォンが椅子に座してもまだ視線が正面から合うことはない。しかし、頭巾に隠されたその顔を半分ぐらいはうかがうことができた。
動物のように目玉のぎょろりとした、かなり独特な風貌である。
鼻や口の造作も大きくて、下顎は角張っている。身体は幼子のように小さいのに、実に厳つい面立ちだ。前にせりでた眉のあたりには、縮れた茶色の髪が蔓草のようにもつれかかっていた。
その大きな目玉でじろじろとレイフォンを見つめてから、ゼラは陰気に息をついた。
「それではわたしは、扉の外でお待ちいたしましょう。御用がお済みの際は、お申しつけください」
「ああ、すまないね」
ゼラは一礼し、レイフォンに背を向けた。
ティムトもその後を追おうとしたので、レイフォンはさりげなく「ああ」と声をあげる。
「ティムトはこの場に残ってもかまわない。ディラーム老に水を飲ませてさしあげてくれ」
ここまでは段取りの通りである。
というか、あくまで矢面には立ちたくないというティムトの要望に従ったまでだ。
ティムトはすました顔でレイフォンのほうに向きなおり、ゼラだけが部屋を出ていった。
「水などいらぬ……お主たちも出ていくがいい」
「お加減が悪いのでしょうか? 無理に口をおききになる必要はありませんので、どうか私の言葉を聞いてやってください」
レイフォンがそのように述べている間に、ティムトは素早く四方の壁を探っていた。覗き穴などが仕込まれていないか、確認しているのだ。
「いくぶんお痩せにはなったようですが、こうして無事なお姿を見ることがかなって胸を撫でおろしています。最後にご挨拶をさせていただいたのは……たしか、昨年の王太子の祝宴の折であったでしょうか」
「…………」
「あれからわずか一年でここまで状況が激変してしまおうとは、予想だにできませんでした。まったくセルヴァの御心というのは計り知れないものです」
レイフォンが適当な言葉を並べている間に、ティムトが戻ってきてうなずきかけてきた。とりあえず、この付近をうかがえるような覗き穴は存在しなかったらしい。
しかし、伝声管が存在するかを調べるには、さらに多くの時間と手間が必要となる。そのようなものは捻出できなかったので、ティムトは次なる段取りへと進んだ。
肩から下げていた平たい革鞄を開け、そこからパプラの紙を束ねた帳面と筆の筒を取る。ティムトはディラーム老と筆談をする心づもりであったのだ。
ティムトはまず、あらかじめその帳面に書かれていた文字をディラーム老のほうに示してみせた。
『盗み聞きをされている恐れがあるので、この帳面の内容を悟られないようにご注意をいただきたい』
そこには、そのように記されているはずであった。
ディラーム老は、うろんげに眉をひそめている。
「……ともあれ、ディラーム老が魂を召されずに済んで、私は心より安堵しております。セルヴァには、何度感謝の祈りを捧げても足りないでしょう」
この時間、レイフォンは盗み聞きをされてもかまわないような言葉を発し続けるのが役割であった。
実にレイフォンの器量に見合った役回りである。
「何せ前王や王太子ばかりでなく、半数もの十二獅子将が魂を召されることになってしまったのですからね。これは王都アルグラッドのみならず、王国セルヴァにとっての未曾有の危地であるといえるでしょう」
『十二獅子将の六名がそれぞれ災厄に見舞われたという話はご存知ですね?』
ディラーム老は横たわったまま、顎を引くように小さくうなずいた。
その瞳に、ちろちろと生気の火が瞬きつつある。
「そんな中、ディラーム老が一命を取りとめたというのは僥倖でありました。まったく許されざるべきは、廃王子と背信者ヴァルダヌスでありますね」
『老はヴァルダヌス将軍が大罪に手を染めたとお考えですか?』
老将はひび割れた唇を噛み、探るようにレイフォンたちをにらみつけてきた。
その表情をじっと観察しつつ、ティムトは次の頁を繰る。
『ヴァルダヌス将軍は陰謀に巻き込まれたのではないかと、我々は考えています』
「それは……!」とディラーム老が声をあげかける。
レイフォンは慌てて、そこに言葉をかぶせた。
「ええ、老のお怒りはごもっともです。いかに廃王子が不遇の生を与えられたといっても、このような暴虐が許されるわけはありません。そうであるからこそ、許されざるべき背信者たちも断罪の炎で焼かれることになったのでしょう」
最初の頁をもう一度見せつけてから、ティムトは新たな文字を帳面に記し始めた。ここからは、ディラーム老の返事に合わせて言葉を選んでいくのだ。
『真の大罪人は誰なのか、我々はそれを突き止めたいと考えています。ヴァルダヌス将軍やカノン王子が無実であるとしたら、他に前王を鏖殺した者が存在するはずなのです』
老将は、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。
その面は死人のように青ざめたままであるが、瞳には完全に生気が蘇っている。怒りが手負いの老将に力を与えたのだ。
『王都に残っていた十二獅子将の内、手傷を負うことなく生きながらえたのはジョルアン将軍のみです。また、グワラム戦役に参加した十二獅子将の内、生きながらえたのはロネック将軍のみです。この両名が陰謀に加担していたのではないかと、我々は疑っています』
その長い文章を老将が燃えるような眼差しで読んでいる間に、ティムトがレイフォンをじろりとにらみつけてくる。
レイフォンもその文面に気を取られて、自分の役回りを忘れてしまっていたのだ。
「ええと……しかし、新王ベイギルス二世陛下が王位を継承することで、セルヴァ王家の血筋は守られました。新王陛下にはユリエラ姫という嫡子もおられるのですから、王家の行く末も安泰でありましょう。これからは新王陛下と残された臣下で、アルグラッドを再建していかねばならないのです。そのためには、五大公爵家とて力を惜しむものではありません」
『バンズ公爵領のウェンダ将軍は、災厄の日の直前に病死されることになりました。これも偶然とは考えにくいです。先王カイロス陛下に忠実であったウェンダ将軍、ルデン元帥、ディザット将軍、アローン将軍がいちどきに魂を返すことになったのです。ここに何者かの悪意が介在していなかったなどと、我々は信ずることができません』
老将は寝床に肘をつき、震えながら身を起こした。
そして今度は、力強くうなずき返してくる。
「ですから、ディラーム老にもお力をお貸しいただきたいのです。神官長のバウファ殿からもお声をかけられているとは思いますが、まだ若きジョルアン殿やロネック殿の支えとなっていただきたいのですよ。ベイギルス陛下も、またディラーム老が十二獅子将として復帰されることを望んでおられます」
『ただし、新王がすなわち大罪人であるかは確証がありません。新王が玉座を得ることで利を得る他の何者かが、すべてを企てたのだという可能性も残されているからです』
「うむ……」とうなるような声で言い、老将はティムトのほうに手を差しのべてきた。
ティムトはその手に帳面と筆を託し、老将の痩せた背中にそっと手を添える。
『新王が戴冠したことによって、バウファは宮廷内での権勢を得たと聞く。あの者こそが、すべての糸を引く大罪人なのではないのか?』
震える指先で、そのような文字が記された。
ティムトがうなずき、帳面を受け取る。
『可能性としては大いにありえます。それゆえに、ディラーム老には十二獅子将として復帰していただき、神官長の動向を探っていただきたいのです』
『この刀をふるうしか能のない老人に、間諜の役を務めろと?』
『何も特別なことをする必要はありません。ただ王宮内にその身を置き、真実を見極めていただきたいのです』
「ディラーム老であれば、そのていどの手傷は何ほどのものではないでしょう? 我々にはディラーム老のお力が必要なのですよ」
筆談の内容と入り乱れてしまわないよう気をつけながら、レイフォンはようよう言葉を重ねた。
しっかりしてくださいよ、という目つきでレイフォンをにらみつけてから、ティムトはさらさらと新たな文字を書き記す。
『それにまた、大罪人を討つには刀が必要です。ディラーム老の他、誰にその役が務まりましょう?』
老将はいったんまぶたを閉ざしてから、あらためてレイフォンたちの姿を見据えてきた。
その瞳には、歴戦の老将としての眼光が炎のように渦巻いていた。
「……しかしわたしは老いている上に、このような手傷を負った身だ。陛下のご要望に応えられるものかどうかは、はなはだしく疑問であろう」
何かをこらえるような低い声音で、老将はそのような言葉を述べた。
「しかし、お主の真情はこの老いぼれの胸にしみわたった。……わたしはまだ数日ばかりは養生が必要なので、またこの部屋を訪れてその言葉を聞かせてほしく思う」
「そうですか。ありがとうございます、ディラーム老」
レイフォンはほっと安堵に胸を撫でおろした。
そんな中、老将がまた筆を取る。
『ヴァルダヌスは、本当に魂を召されてしまったのだろうか?』
ティムトは少し迷うような表情を見せたが、やがて流麗なる文字でそれに答えた。
『遺骸は確認されていません。ヴァルダヌス将軍が無実でありご存命であることを、我々は強く願っています』
「そうか……」と老将は重く息をついた。
表面上の会話が成立していないのではないか、とレイフォンはいくぶん慌てたが、ティムトは老将をにらみつけたりはしなかった。老将は、最前までとはまた異なる表情で、何か遠い記憶に思いを馳せている様子であった。
すべての息子を戦場で亡くした老将は、若きヴァルダヌスのことを自分の息子のように可愛がっていたのだ――レイフォンがティムトからそんな言葉を聞かされたのは、白牛宮の部屋に戻ってからのことであった。