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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅰ-Ⅲ 昏睡

2018.5/5 更新分 1/1

 寝台の上で、ナーニャは昏々と眠り続けていた。

 グワラム城の、とある一室である。その身に宿された魔なる力で氷雪の妖魅どもを退けたナーニャは、あれから二日間も昏睡の状態にあったのだった。


(ナーニャはいったい、どうなってしまうんだろう……もしもこのまま、ナーニャが魂を返してしまったら……ううん、そんなことは絶対にない!)


 リヴェルは激しく頭を振って、重苦しい不安感を打ち払った。

 そうして、ナーニャの額に乗せていた織布を取り上げて、冷たい水で絞ってから、また乗せる。ナーニャはこのたびも、体内に火を宿しているかのような高熱に苛まれてしまっていたのだ。


(どうしてナーニャが、こんな苦しみを背負わなければならないんだろう……これも火神の呪いというものなのかな……)


 これほどの高熱を発しているというのに、ナーニャの面は普段以上に血の気を失って、ほとんど白蝋のような色合いになってしまっていた。

 秀麗な形の眉をひそめて、固くまぶたを閉ざしている。その美しい面には苦悶の脂汗がしたたって、呼吸は荒く、浅かった。


 しかし、それでもなお、ナーニャの相貌は美しい。

 髪も眉も睫毛も白銀で、陶磁器のようになめらかな肌をしているためか、まるで作り物のようだ。それはまるで、苦悶する妖精の姿をシムの硝子に刻み込んだ、精緻な彫刻であるかのようだった。


(炎の魔法を使うたびに、ナーニャはこんな風になってしまう……きっと今回も、ひどい無理をしたんだろうな……)


 このたび、リヴェルはその姿を見届けていなかった。

 メフィラ=ネロが姿を消した後、マヒュドラ軍の長たるヤハウ=フェムと取り引きをしたナーニャは、たった一人でその苦難に立ち向かうことになったのである。


 より正確に言うならば、リヴェルは人質であった。ナーニャが本当に氷雪の妖魅どもを退けることができたら、リヴェルをはじめとする仲間の安全を保証するということで、皆はナーニャと引き離されてしまったのだ。


 そうしてナーニャはマヒュドラ軍の精鋭とともに市街地へと下りて、残存していた妖魅どもをすべて焼き滅ぼした――と、リヴェルは聞いている。

 それ以来、ナーニャはこうして昏睡の状態に陥ってしまっていたのだった。


(父なる西方神よ、どうかナーニャをお救いください……ナーニャはかつて、セルヴァの王子であったのです。ナーニャがこんな風に呪われてしまったのは、きっと邪な心を持つ何者かのたくらみであったのです。どうかナーニャに、西方神のお慈悲を……)


 そうしてリヴェルが何度めかの祈りを心中で唱えたとき、木造りの扉が外から叩かれた。

 リヴェルの返事も待たずに扉が開かれて、そこからチチアが姿を現す。その背後にはマヒュドラの兵士たちの姿も見えたが、彼らはチチアだけを部屋に押し込んで、扉を閉ざした。


「よお、そいつはまだ目を覚まさないのかい?」


「ああ、チチア……はい、熱もまったく下がらないようで……わたしはいったい、どうしたらいいのか……」


「そんなの、誰にもわからないでしょ。普通の病魔とはわけが違うんだからさ」


 チチアはふてくされれたような声で言うと、リヴェルの近くに椅子を引き寄せて、荒っぽく腰を下ろした。

 そして、寝台の上のナーニャにさまざまな感情のはらんだ視線を差し向ける。


「だけど、さすがに丸二日も目を覚まさないなんてのは、初めてのことだよね。こいつ、このまま死んじゃうのかなあ?」


「そ、そんなことは決してありません。ナーニャはどれほどの苦難に見舞われても、最後には力を取り戻していたではないですか?」


「だけどさ、今回はひと晩中、あの炎の魔法ってやつを使ってたんでしょ? そんなの、身体がもつのかね」


 椅子に座したまま、チチアはナーニャの苦しげな寝顔を覗き込んだ。

 それから、「ちっ」と小さく舌を鳴らす。


「このままこいつがくたばっちまったら、今度こそあたしらもおしまいだね。マヒュドラの兵士どもに首を刎ねられて、城門の上に野ざらしだ。あーあ、けっきょく最後までロクでもない人生だったなあ」


「だ、大丈夫です。ナーニャは決して魂を返したりはしません。チチアも、ナーニャを信じてください」


「信じて救われるなら、そうするけどさ。期待をかけるだけかけて裏切られたら、目もあてられないでしょ? あたしには、あんたみたいに祈る神もないしさ」


 チチアはかつて、邪神教団に属していた身であるのだ。

 それが自分の本意ではなかったとしても、父なる西方神を捨てたことに変わりはない。現在の彼女は神を持たない獣にも等しい身の上であるのだった。


(でも……きっとそうだからこそ、ナーニャはチチアをそばに置いていたんだろう)


 そしてチチアのほうも、ナーニャの持つ不可思議な吸引力に、少しずつ心をひかれ始めていたはずだ。

 さきほどから悪態ばかりつきながら、チチアの瞳にはすがるような光も宿っていた。


「あの……ゼッドやタウロ=ヨシュも、お元気なのですか? あと、イフィウスという御方も……」


「んー? まあとりあえず、くたばっちゃいないよ。いちおう食事も出されてるし、鎖や縄で縛られたりもしていないしさ」


 ナーニャに付き添う人間は一名のみと、ヤハウ=フェムに命じられていた。なおかつ、武力を持つゼッドにその役は与えられないということで、リヴェルがナーニャとともにあることに定められていたのである。それ以外の皆は、少し離れた部屋でマヒュドラの兵士たちに見張られているはずだった。


「人のことより、あんたのほうは? しっかり食べてんの? なんか、病人みたいな顔になってんじゃん」


「ああ、はい……なるべく食事を残さないように心がけているのですが、どうしても胸が詰まってしまって……」


「そんなんじゃ、あんたのほうが先にくたばっちまうよ。遠からず首を刎ねられるとしても、腹ぺこでいるよりは腹いっぱいでいるほうがマシなんじゃない?」


 チチアは怒っているような顔で言って、リヴェルの肩を軽く小突いてきた。

 これでも彼女なりに、リヴェルの身を思いやってくれているのだろう。リヴェルは何だか泣きたいような心地になりながら、「ありがとうございます」と頭を下げてみせた。


「お礼を言われるような筋合いじゃないっての! ……でも本当にさ、そろそろ覚悟を固めておくべきだと思うんだよね。たとえこいつが目を覚ましたとしても、あんな化け物にはかないっこないんだからさ」


「それは……メフィラ=ネロと名乗った、あの妖魅のことですか?」


「やめてよ! そんな名前、聞きたくもない!」


 チチアは毛皮の上着の前をかきあわせながら、ぶるっと身体を震わせた。


「こいつも十分に化け物だとは思ってたけど、ありゃあ駄目だよ。あんな化け物を退治することなんて、できっこない。あんただって、あいつの姿を見たんでしょ?」


「ええ、はい……薄暗かったですが、いちおうは……」


 氷雪の巨人の頭部に、上半身を生やしていた、メフィラ=ネロ。その美しくもおぞましい姿は、忘れようにも忘れることはできなかった。

 チチアは自分の爪を噛みながら、小さく肩を震わせている。


「あいつは人間みたいな姿をしてたけど、絶対に人間じゃない。あれは……正真正銘の化け物さ。あれに比べたら、蛇神ケットゥアのほうが、まだマシだね。あいつはきっと本当に、王国を滅ぼせるぐらいの化け物なんだよ。あんなやつに立ち向かうぐらいなら、今のうちに首を刎ねられたほうが、まだしも幸福なんじゃないのかね」


「チ、チチア……」


「だったらこいつも、このままくたばっちまったほうが幸福ってことさ。苦しんで死ぬよりは、気を失ったまま死んだほうが――」


「……それはずいぶん君らしからぬ気弱な言葉じゃないか、チチア……」


 リヴェルとチチアは、同時に飛び上がることになった。

 そして、同時に寝台を振り返ると、固く閉ざされていたナーニャのまぶたがわずかに見開かれていた。


「あんた! いつの間に目を覚ましたんだよ!」


「いつだろうね……何か騒がしいなと思っていたら、君の声が耳に飛び込んできたんだよ、チチア……」


「ああ、ナーニャ……」と、リヴェルは何を考えるいとまもなく、ナーニャの胸もとに取りすがってしまった。

 毛布の下からのばされたナーニャの指先が、リヴェルの髪にそっとあてられてくる。


「心配かけたね、リヴェル……僕はどれぐらい眠っていたのかな……?」


「二日間です……二日が過ぎて、今は三日目の朝方です……」


 言いながら、リヴェルは自分の目からこぼれたものが毛布にしみを作っていくのを感じていた。

 ナーニャの指先は、まるで壊れ物を扱うみたいにリヴェルの髪を撫でている。


「何だよ、しぶとい野郎だね。今度こそ、くたばったと思ったのにさ!」


「そいつはお生憎さまだったね……まだまだ火神に屈したりはしないよ……僕は最後まであがいてみせると、自分自身に誓ってしまったからさ……」


 ナーニャの声はとても小さくて、かすれていた。

 リヴェルは身を起こして、卓の上の水差しに手をのばす。


「ナーニャ、水を飲んでください。あれだけ汗をかいたのですから、水が必要なはずです」


「ああ、まるで咽喉が焼けつくようだよ……チチア、申し訳ないけれど、身体を起こすのを手伝ってくれないかな……?」


 チチアはがりがりと頭をかきながら、寝台の向こう側に回り込んだ。

 そうしてナーニャの背に手を差し入れると、ゆっくり持ち上げていく。灰色の夜着を纏ったナーニャは、以前よりもいっそう細くなってしまったように見えた。


「どうぞ、ナーニャ……ゆっくり口に含んでくださいね」


 リヴェルが水差しを近づけると、ナーニャは血の気を失った唇をわずかに開いた。

 まぶたを閉ざして、冷たい水を飲み下していく。そうしてリヴェルが水差しを引っ込めると、ナーニャは「ふう」と息をついた。


「生き返ったよ。ありがとう、リヴェル……それに、チチアもね」


「ふん。わざわざ苦しむために生き返ったようなもんだね。あのままくたばってたほうが幸福だったんじゃないの?」


 へらず口を叩きながら、チチアは一心にナーニャを見つめていた。

 ナーニャは寝台に半身を起こしたまま、うっすらと笑っている。


「僕にとってはそうだったかもしれないけれど、それじゃあゼッドやリヴェルに申し訳が立たないからさ……僕一人が幸福な心地で死んでいくなんて、そんなの許されないだろう……?」


「あん? 何を言ってるのか、さっぱりだね。うわ言だったら寝てる間に済ましておきなよ」


「僕は、呪われた存在だった。でも、ゼッドやリヴェルのおかげで、人間らしい幸福というものを味わうことができたのさ。……だったら魂を返す前に、少しは恩を返しておかないとね……」


「恩だなんて、そんな……」


 リヴェルは発作的に、ナーニャの指先をつかんでしまった。

 まだその指先は、炎のように熱い。ナーニャはリヴェルの指先を握り返しながら、優しげに微笑んだ。


「うん、恩という言葉は、あまり適切ではなかったかな……僕はただ、ゼッドとリヴェルの情愛に報いたいだけなんだよ……二人は僕のような呪われた存在にこれほどの情愛を傾けてくれたのに、僕のほうは凶運を撒き散らすことしかできないだなんて……そんなの、耐え難いことだろう……?」


「ふん! ずいぶん甘ったるい言葉を聞かされるもんだ! この場で乳繰り合うつもりなら、あたしは退散させていただくよ!」


「さすがに今は、そんな力を振り絞ることもできそうにないね……」


 ナーニャの赤い瞳に、悪戯小僧のような光がくるめく。

 激しい羞恥に見舞われながら、それでもリヴェルはナーニャがわずかなりともナーニャらしさを取り戻せたことに、また涙をこぼしてしまいそうだった。


「とにかく僕は、凶運に立ち向かうつもりだよ……あのメフィラ=ネロというのは、僕にとっての凶運そのものなんだからね……」


「はん! あんな化け物を敵に回して、勝てるとでも思ってるの?」


「勝てようが勝てまいが、立ち向かうしかないんだよ……彼女は四大王国を滅ぼすために存在するんだから、どのみちどこにも逃げ場はないのさ……」


 そのように述べてから、ナーニャはいくぶんうろんげな眼差しになった。


「ところで、この場にはリヴェルとチチアしかいないんだね……ゼッドやタウロ=ヨシュは、無事なのかな……?」


「はい。他のみんなは、別室で休んでいます。ゼッドとタウロ=ヨシュは、ナーニャに近づくことを許されていないので……」


「それじゃあ、イフィウスやベルタたちは……?」


「あいつらは、あたしらの隣の部屋に閉じ込められてるみたいだね。たまーにイフィウスってやつが、剣士さんと話しに来るよ」


 リヴェルとチチアがそのように説明すると、ナーニャは口もとをほころばせた。


「それじゃあ、ヤハウ=フェムも、僕との約束を守ってくれたんだね……イフィウスたちも、囚人扱いではないんだろう……?」


「よくは知らないけど、こっちと一緒でしょ。縛られたりはしない代わりに、剣とかの武器は取り上げられて、どこに行くにしてもマヒュドラの連中がひっついてくるよ」


「まあ、それぐらいの不自由さは許容するしかないだろう……西の民と北の民は、もともと敵対関係だったんだからさ……」


 そのように述べてから、ナーニャはくすくすと笑い声をたてた。


「だけど今は、そんな確執にとらわれている場合でもない……ヤハウ=フェムが正しい判断をしてくれたことを、心からありがたく思っているよ……それじゃあ僕も約束通り、彼らと手をたずさえて、この災厄を退けないとね……」


「手をたずさえる? あんた、北の民と一緒に戦うつもりなの?」


「こうなってしまっては、北も西もないよ……メフィラ=ネロは四大王国そのものを滅ぼそうと考えているんだからさ……四大神の子らが仲違いをしている場合でもないだろう……?」


 そのとき、何の前触れもなく、扉が引き開けられた。

 驚いて振り返ると、何名かのマヒュドラ兵たちがずらりと立ちはだかっている。


「まほうつかいナーニャよ、ヤハウ=フェムしょうぐんがおまちだ」


「やれやれ、やっぱりこの部屋には伝声管が仕込まれていたようだね……まあ、当然の用心なのかもしれないけどさ……」


 ナーニャは笑っていたが、リヴェルはそれどころではなかった。椅子を蹴って立ち上がり、マヒュドラの兵士たちと相対する。


「お、お待ちください。ナーニャは身体が弱っているのです。もう少し回復するまで、身体を休めておかないと……」


「われわれは、すでにふつかもまちつづけていた。これいじょうまつことはできない」


 兵士たちの目は、いずれも爛々と燃えさかっていた。

 しかしその眼光には、畏怖や恐怖の感情も入り混じっている。彼らはその目で、ナーニャが炎の魔法をあやつる姿を見届けていたのである。


「異存はないよ。ヤハウ=フェムのもとまで案内してもらおう。……ただ、さすがにこんな格好では、将軍閣下に失礼なんじゃないのかな……? よかったら、着替えを準備してほしいのだけれども……」


「……おまえのきていたものは、このへやにしまわれている。すぐにじゅんびをととのえるがいい」


「了解したよ……それまで、部屋の外で待っていてもらえるかな? ついでに身体も清めておきたいのでね……」


 兵士たちは、無言で部屋から消えていった。

 リヴェルは唇を噛みながら、ナーニャに取りすがる。


「ナーニャ、無茶をなさらないでください。そんな身体で出歩いたら、どうなってしまうかもわかりません」


「でも、ヤハウ=フェムを怒らせるわけにはいかないからね……メフィラ=ネロは十日の猶予をくれると言っていたんだから、話が終わったらまたゆっくり休ませてもらうことにするよ……」


 そう言って、ナーニャはリヴェルの身体をふわりと抱きすくめてきた。


「メフィラ=ネロを退けるには、彼らの力も必要なんだ……というか、これは本来、彼らとメフィラ=ネロの戦いなんだからさ……この災厄を退けない限り、四大王国の民に生きる道はない。彼らがこの大陸で生きながらえたいのなら、これは避けては通れない道なんだよ……」


 ナーニャの言葉は難しく、リヴェルには理解しきれなかった。

 ただ、その優しい響きが、リヴェルの胸の奥にまでしみいってくる。これほど弱り果てながら、ナーニャはかつてないほど優しく、そして、断固たる意思を秘めているように感じられた。

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