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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅳ-Ⅱ 隠者の部屋

2018.4/21 更新分 1/1

「お前……お前はいったい、何者なのだ?」


 刀の柄に手をかけたまま、ダリアスはそのように問い質した。

 石組みの暖炉の上にちょこんと居座った灰色の鼠は、『ほほほ』と奇怪な笑い声をあげる。


『儂の名前など、うつつの世においては何の意味も持ちはしない。そのようなものを耳にしたところで、おぬしの心が安らぐことはあるまいよ』


「黙れ、妖魅め……お前が、ラナたちをかどわかしたのだな?」


 言いざまに、ダリアスは刀を抜こうとした。

 とたんに、鼠は『待たれよ』と小さな身体を震わせる。


『この鼠めは、儂の言葉を運ぶ使い魔にすぎんのじゃ。こやつを斬り捨ててしまったら、おぬしは大事なあの娘と顔をあわせる手立てを失ってしまうのじゃぞ』


「いいから、ラナたちを今すぐに返せ! さもなくば、この場で叩き斬ってやる!」


『話のわからん御仁じゃな。儂は、俗世の事象には干渉しないという己の誓いを破ってまで、あの娘たちを救ってやったのじゃぞ? そして、この場にあの娘たちを戻してしまったら、今度こそ取り返しのつかないことになってしまうやもしれん。おぬしは、それでもかまわんというつもりか?』


「取り返しのつかないことだと? ラナたちをかどわかしたのは、お前ではないか!」


『そのように声を荒らげるものではない。外の兵士どもに聞かれたら、何を一人で騒いでいるのかと、いぶかられることになるぞ?』


 そう言って、鼠は身体を小さく上下させた。

 まるで、溜息でもついたかのような仕草である。


『それにな、この場で儂と問答するのも、なるべくは避けるべきなのじゃ。儂の気配を敵に気取られたら、それこそ厄介なことになってしまうじゃろうからな。……おぬしは、あの娘と再会したくはないのか?』


「どのような手を使ってでも、ラナはこの手に取り返してみせる!」


『ならば、ついてくるがいい。問答は、その後じゃ』


 鼠が、ひらりと床の上に降り立った。

 ダリアスは刀を抜き、一歩だけ後退する。

 しかし鼠はダリアスのほうなど見向きもせず、そのまま暖炉の中にその小さな身体を隠してしまった。


「待て、妖魅め!」


 ダリアスは、慌てて暖炉のほうに駆け寄った。

 膝を折って、暖炉の中を覗き込むと、遠くのほうに鼠の姿が青白くぼうっと浮かびあがっているのが見える。


『さあ、こっちじゃよ。頭をぶつけぬように、気をつけてな』


 鼠の姿がちょろちょろと遠ざかっていく。

「待て!」と声をあげつつ、ダリアスはなかなかその場から動くことができなかった。

 いかに巨大な暖炉とはいえ、そこまでの奥ゆきがあるわけはない。というか、この暖炉の奥は石壁であり、石壁の向こうは中庭であるのだ。隠し通路の存在を疑っていたダリアスはこの場所もさんざん検分した後であったので、それだけは確かだった。


(それなのに、あの鼠めは奥へ奥へと逃げ込んでしまっている……これもまた、魔法だか何だかの手管ということだな)


 青白く発光する鼠の姿は、すでに豆粒のように小さくなってしまっていた。

 ダリアスは意を決し、頭を屈めて暖炉の内部に足を踏み入れる。


(そもそも、あのような鼠が喋っているように見せかけているのも、何かしらの手管であるのだ。そんなあやしげな術を使う輩のもとに、ラナを置いておくことはできん)


 ほとんど這いずるような体勢で、ダリアスは前進した。

 周囲は漆黒の闇であり、どのような構造になっているのかもわからない。後方を振り返ると、暖炉の入り口がぽっかりと白く瞬いているのが見て取れた。


『もう頭を上げても大丈夫じゃよ。はぐれぬように、ついてくるがいい』


 ずいぶん遠ざかっているはずであるのに、その声はさきほどまでと変わらぬ明確さで、ダリアスの耳に届いていた。

 ダリアスは、抜いたままであった刀で頭上を探ってから、ゆっくりと身を起こす。さらに左右に刀を振ってみても、何かの手応えが返ってくることはなかった。


『足もとも、しっかりしておるじゃろう? しかし儂とはぐれたら、一生この闇の中をさまようことになってしまうからな。心して、ついてくることじゃ』


 ダリアスは闘志を奮い立たせながら、急ぎ足で鼠に追いすがった。

 鼠は立ち止まっていたらしく、その姿がぐんぐんと近づいてくる。闇の中で目に映るのは、その鼠のちっぽけな姿のみであった。


『よし、こっちじゃよ』


 ダリアスの刀が届きそうな位置にまで近づくと、鼠は再びちょろちょろと動き始めた。

 灰色であったその姿が、ぼんやりと青白く光っている。墓場に浮かびあがる燐光のごとき、妖しい色合いである。


『やれやれ。ここまで来れば、ひとまずは安心かの。あやつらが使い魔を放っていたとしても、盗み聞きをされる心配もあるまいて』


 せわしなく足を動かしながら、鼠はそう言った。

 刀の柄を握りしめつつ、ダリアスは「おい」と呼びかけてみせる。


「ならば、いいかげんに名を名乗ってみせろ。お前が本当に、俺たちに害をなす存在ではないと言い張るのならな」


『ふむ? まあ、名前を明かさねば、問答も難しいか。……儂の名は、トゥリハラじゃよ』


「トゥリハラ。……お前はいったい、何者なのだ?」


『儂は、何者でもない。現世との縁をすべて断ち切った、隠者じゃよ。それがまさか、このような騒ぎに首を突っ込んでしまおうとはな』


 小さな鼠が、また溜息をついたような気配がした。


『しかし、ひとつだけ言っておこう。儂は、おぬしの味方じゃよ。おぬしが西方神の導きにその身をゆだねるつもりであるならばな』


「言われるまでもなく、俺は西方神の子だ。しかし、このような手管を使う人間に味方をされるような覚えはない」


『そうじゃのう。儂とて、おぬしに力を貸すいわれはないのじゃが……敵の敵は味方である、ということになるのかのう』


「敵」と、ダリアスは反問した。


「お前の敵とは、何者なのだ? それが、俺の敵と同一であるというのか?」


『うむ。儂の敵は、この世の摂理を乱すものじゃ。本来であれば同胞にもなりえたはずであるのに、あやつらと儂の道は正反対の方向を向いてしまった。ならば、同胞ならぬおぬしに力を添える他あるまい』


「……お前の言っていることは、さっぱりわからん」


 ダリアスがぶっきらぼうに応じると、トゥリハラと名乗った鼠はまた『ほほほ』と笑った。


『無理に理解する必要はない。ただ、儂を味方だと信じてくれれば、それで十分じゃ』


「そんな得体の知れない相手を、どうして味方だなどと思えるものか」


『それももっともな話じゃがな。おぬしにとってもっとも大事な娘御を守ってやったという行いをもって、何とか信じてはもらえんかのう?』


 闇の中を駆けながら、トゥリハラはそう言った。


『儂が力を添えていなかったら、あの娘は今ごろ敵の手に落ちていたはずじゃ。そうしたら、おぬしの命運もそこで尽きていたことじゃろう。おぬしのように真っ直ぐな気性をした人間には、王国のために一人の人間を見捨てることなど、とうていかなわないじゃろうからな』


「それでは……お前の言う敵とは、あの王都から派遣されてきた防衛兵団の兵士たちのことなのか?」


『違う違う。あんな兵士どもは、自分たちが誰の思惑で動かされているのかもわかっていない、捨て駒にすぎぬじゃろう? 儂が言っているのは、その裏の裏の、さらにそのまた裏側に隠れ潜んでいる咎人のことじゃ』


「お前は、その正体を知っているというのか?」


 無限に続くかとも思える闇の中を突き進みながら、ダリアスはそのように問い質した。


「それはいったい、何者であるのだ? いったい誰が、西の王国にこのような災厄をもたらしたのだ?」


『それは、言えん。儂にはそこまで現世に関わることが許されないのじゃ。それをしてしまったら、あやつらと同じ罪を犯すことになってしまうからのう』


 トゥリハラは、飄々とした声でそう言った。


『ただ言えるのは、あやつらが許されざる禁忌を犯しているということじゃ。そのために、西の王国の王や王子たちは魂を返すことになり……おぬしも得体の知れない相手に追われることになってしまったわけじゃな』


「ふん。お前が西の王国を襲った災厄にまで精通しているということは理解できた。しかし、それだけでお前が味方であると信ずることはできんな」


『頑固じゃのう! そのように頑なであるから、好いた娘の一人も安心させることができないのではないのか?』


 闇の中で、ダリアスは頬が熱くなるのを感じた。

 そこに、『よし』という声が響く。


『ようやく到着じゃ。この可愛い鼠めがおぬしの肩に乗ることを許してもらえるかのう?』


「なに? どうしてそのような真似を許さねばならんのだ?」


『そうしなくては、儂の結界に入ることがかなわぬからじゃ。これも、あの娘たちを守るための手管じゃよ』


 鼠が立ち止まり、黒い瞳でダリアスを見上げてきた。

 ダリアスはひとつ溜息をついてから、闇の中で膝を折る。すると、鼠はダリアスの腕を駆け上り、肩の上でちょこんと鎮座した。


『そのまま目を閉ざし、三歩だけ進むがいい。そうすれば、儂の結界の内じゃ』


 ダリアスは刀の柄を握りなおし、全身の神経を研ぎ澄ましてから、まぶたを閉ざした。

 そうして慎重に足を踏み出すと、その三歩目で、異様な感覚が五体をつらぬいていく。


 ねばねばとした触手に手足をとらわれて、深淵の中に引きずり込まれたかのような感覚であった。

 ダリアスが思わずわめき声をあげて、目を開くと――やわらかい光が、瞳に覆いかぶさってきた。


「うむ……これは……?」


 手ひどい目眩に襲われながら、ダリアスが声を振りしぼる。

 それと同時に、「ダリアス様!」という声が響き、ダリアスの胸もとに温かいものが飛び込んできた。


「ああ、ダリアス様……よくぞご無事で……」


「ラ、ラナなのか?」


 ダリアスが何度かまばたきをすると、視力が戻ってきた。

 まず目に映ったのは、自分の顔のすぐ下で揺れている褐色の髪である。その懐かしい色合いが、ダリアスにとてつもない激情をもたらした。


「ラナ、お前こそ、よくぞ無事で……俺が、どれほど心配していたか……」


「申し訳ありません、ダリアス様……ああ、ダリアス様……」


 ダリアスの胸もとにすがりつきながら、ラナが顔をあげてきた。

 純朴そうなその顔が、涙に濡れている。しかしラナは、涙をこぼしながら幸福そうに微笑んでいた。

 刀を握ったままであったダリアスは、左腕だけでラナを抱きすくめる。ラナは目を閉ざし、幼子のように安心しきった表情でダリアスに身をゆだねてきた。


「うむ、再会できて、何よりであったな。ラナはこの場でずっとおぬしの身を案じておったのだぞ、ダリアス殿よ」


 笑いをふくんだ老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。

 それで我に返ったダリアスは、ラナの身を抱いたまま、目を上げる。

 そこは雑然とした書庫のような場所であり、長椅子に座したフゥライが、とても優しげな眼差しでダリアスたちの姿を見守っていた。


「フゥライ殿! フゥライ殿も、ご無事であったのだな!」


「ああ、ご覧の通り、息災にしておったよ。もちろん、リッサもな」


 小さな卓をはさんだ向かいの長椅子に、リッサが座していた。が、こちらは読みかけの書物から顔を上げようともしない。


『さて、これで少しは儂のことを信用してもらえたかのう。この三日間、客人たちには何不自由なく過ごしてもらっていたはずじゃぞ』


 青白い光を消した灰色の鼠が、卓の上に駆け上がった。

 それでラナも我に返ったらしく、真っ赤な顔をしてダリアスから身を遠ざけようとする。


「も、申し訳ありません、ダリアス様。ついつい我を失ってしまって……ど、どうぞお手をお離しください」


「あ、ああ、こちらこそ済まなかったな、ラナ」


 ダリアスが慌てて手を離すと、ラナは一歩だけ後退し、その頬の涙をぬぐい始めた。

 その可憐な姿にまた情動を揺さぶられつつ、ダリアスは灰色の鼠をねめつけてみせる。


「確かにラナたちは無事であったようだ。しかし、この場所は何なのだ? ダーム公爵邸の一室ということはあるまい?」


『ここは、儂のこしらえたかりそめの部屋じゃよ。いい機会であったので、客人たちには書物で知恵をつけてもらっておったのじゃ』


 鼠が左右に顔を動かすと、フゥライが「うむ」と笑顔で応じた。


「すでに三日も経っていたとは、驚くべき話であるな。この場所には昼も夜もないので、日がな書物を読みあさっておったよ。……文字の読めぬラナにとっては、まったく気の休まらなかった三日間であっただろうがな」


「い、いえ、とんでもありません。フゥライ様たちがそばにいてくださったのですから、わたしはそれだけで……」


 と、ラナははにかむように微笑んだ。

 その普段通りの笑顔に内心で安堵の息をつきつつ、ダリアスは言葉を重ねてみせる。


「やはりフゥライ殿たちは、あの鼠めによって兵士どもの手から救われた、ということなのか? あちらでは、鍵の掛けられていた客間から皆の姿が消えてしまい、大変な騒ぎになっていたのだぞ」


「うむ。どういう手管なのかはさっぱりわからぬが、このトゥリハラ殿が儂らを救ってくれたのだ。暖炉の中に案内されたら、鼻をつままれてもわからぬような真っ暗闇で……その先に現れたこの部屋で、今日までかくまわれておったのだよ」


 そのように述べてから、フゥライは小さき鼠に向きなおった。


「ただし、儂らはあの兵士たちに、そこまで粗雑に扱われていたわけではない。ただ、あのままダーム公爵邸に留まっていては、よからぬ輩に身を害されてしまうことになるとトゥリハラ殿に諭されて、ここまで同行することにしたのだ」


『あの場には、妖魅が迫っておったのじゃよ。あのまま放っておけば、二人の客人は妖魅に害されて、娘はかどわかされていたことじゃろう。その歪んだ星図を正しい形に引き戻すために、儂はしかたなく腰をあげることにしたのじゃ』


「それでは、敵の狙いはラナであったというのか? ……何故だ?」


『それはもちろん、その娘がおぬしの泣きどころであったためじゃよ。おぬしの命運を操るには、その娘を手に入れることが一番の早道じゃ。そうじゃからこそ、儂とあやつらはその娘の身柄を奪い合うことになったわけじゃな』


 そのように述べながら、鼠はぴょこんと上体を起こした。細長い尻尾を振りながら、黒い瞳でダリアスのことをじっと見つめ返してくる。


『もはや星図は乱れに乱れきってしまっているのじゃがな。その中で、もっとも軌道から大きく外れておるのは、おぬしの星じゃ。本来であれば、大きな役を果たすことのない命運にあったおぬしの星が、今では星図の真ん中に煌々と輝いておる。そんなおぬしであるからこそ、この災厄を退けるための大いなる力となろう』


「何だ、それは。東の王国の、占星術というやつか?」


『ほほほ。それはもともと、すべての人間に与えられていた力と技じゃった。しかし、大神の眠りとともに、その力と技は封じられて……ごくわずかな力のみが、シムの民に引き継がれたのじゃ。あやつらは、四大神の子となりながら、もっとも大神アムスホルンの力を残した一族であるのじゃろうな』


「さっぱりわからんぞ。けっきょくお前は、何を為そうとしているのだ? お前の敵とは、いったい誰なのだ?」


『儂の敵は、大神アムスホルンの眠りを脅かすもの……天命に背いて、自らの力で世界を揺るがそうとするものどもじゃ。仕える神は違えども、儂らは手を携えることが可能であるはずじゃよ』


 ダリアスは首を振り、卓の前まで歩を進めた。


「お前はわざと、話をはぐらかそうとしているのか? そうであれば、やはりお前と手を携えることはできん。このように妖しげな術を使う人間は、四大王国の敵であろう」


『うむ。四大王国は、魔法の力を奪われた人間が築きあげた、石と鉄の王国であるからな。おぬしがそのように思うのも、もっともな話じゃ』


 そう言って、鼠は小さな身体を震わせた。


『しかし、おぬしの敵はその魔法を操るものどもであるのじゃぞ? 意味の失われた鋼の剣で、魔なるものを滅ぼすことはかなうのであろうかな? おぬしには、儂の力が必要であるはずじゃ』


「しかし、いまだにその姿を見せようともしない人間などを信ずることはできん。俺と手を携えたかったら、まずはその姿を見せてみよ」


『……儂の名前に意味がないように、儂の肉体にももはや意味はともなっていないのじゃがな。そうまで言うなら、姿を見せてやろう』


 ギイッ、と扉の開く音がした。

 ダリアスもラナもフゥライも、仰天してそちらを振り返る。つい一瞬前までは煉瓦の壁であった場所に、巨大な両開きの扉が出現していたのだ。


 大きく開け放たれた扉の向こうから、何かがギシギシと軋む音色が響いてくる。

 そして――その奇怪な存在が窮屈そうに扉をくぐって姿を現した瞬間に、ダリアスは再び抜刀することになった。


「お前はやはり、妖魅であったのだな! 何が味方だ、この化け物め!」


『ひどい言い草じゃのう。姿を現せと言ったのはおぬしのほうじゃろうに』


 それは、樹怪ともいうべきおぞましい存在であった。

 足もとに生えた無数の根をうねうねと蠢かしながら、ダリアスたちのほうに近づいてきている。一本の年経りた老樹が、かりそめの生命を得て動きだしたかのような有り様である。


 ダリアスが腕をのばしても届かないぐらいに背が高く、てっぺんに青々とした葉が茂っている。そして、図太い幹に空いたふたつのうろに、ぼんやりと白い光が宿り、それが目の役割を果たしているようだった。


『言っておくが、これも使い魔じゃよ。むやみに傷つけぬよう、お願いしたいところじゃな』


「だ、だったらさっさと姿を現せ!」


『やれやれ。せっかちな客人じゃな』


 めきめきと音をたてて、樹怪の身がふたつに裂け始めた。図太い幹の真ん中に黒い亀裂が走り抜けて、そこから左右に分かれ始めたのだ。

 てっぺんの部分に茂った葉や、枝や、根が、苦悶するように蠢いている。そのおぞましい姿に顔色をなくして、ラナはまたダリアスの胸もとに取りすがってしまっていた。


「これは……お前が、トゥリハラなのか?」


『左用じゃ。はじめまして、とでもいうべきなのじゃろうかな?』


 樹怪の身がぱっくりと裂けて、その内部に隠されていたものの姿がダリアスたちの前にさらされていた。

 小さい――幼子のように小さい、老人の姿である。

 樹怪の内側はびっしりと蔓草で満たされており、その老人はその中でひっそりと座しているような格好を取っていた。


 もしもこれが自分の足で立ち上がっても、ラナより頭ひとつ分は小さかったことだろう。祓魔官のゼラとほとんど変わらないぐらいの、矮躯である。

 真っ白の髪と髭がぼうぼうに生えのびており、その隙間から覗く肌の色は、煮しめた皮のような黄褐色だ。そして、頬のあたりには奇怪な黒い紋様が刻みつけられているようだった。


 小さく干からびた身体には白い長衣を纏っており、そこに蔓草が何本もからみついている。力を失った老人の身体を、その蔓草が支えているかのようだ。一見では、祭壇に捧げられた聖者の遺骸であるかのようだった。


 しかし、この老人は生きていた。

 ぴくりとも動かないその姿の中で、白い眉の下に光る青い双眸だけが、確かな生気と知性を宿して、炯々と明るくきらめいていたのだった。


『儂にはもう、自分の口で語る力も残されていないのでな。使い魔の力を借りなければ、おぬしたちと言葉を交わすこともかなわぬのじゃ。……しかし、頭のほうはしっかりしておるので、何も心配をする必要はないぞ』


「お前は……お前はいったい、何なのだ?」


『儂は、トゥリハラじゃ。おぬしたちにわかる言葉で語るとしたら……古きの時代、四大神の子となることを拒み、うつつの世界と縁を切った、大神アムスホルンの民の末裔じゃな』


 そう言って、トゥリハラは愉快そうに笑ったようだった。

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