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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
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Ⅲ-Ⅱ 邪神の眷族

2018.4/14 更新日 1/1

「な……何だい、あれは?」


 クリスフィアの背後で、さしものレイフォンも上ずった声をあげていた。

 しかしそれも、無理からぬことであろう。闇の中に浮かびあがった青い鬼火は、あまりに禍々しく、不吉であった。


「しょ、鍾乳洞に巣食う洞穴生物か何かかな? こういう場所には、蝙蝠だとか奇怪な虫だとかが棲みつくらしいけど……」


「いや、あれはそのように生易しいものではない。あれは……この世ならぬ、妖魅の類いだ」


 そのように応じながら、クリスフィアも灯篭を足もとに置き、抜刀した。

 剣士としての闘争心が、腹の底からせりあがってくるのがわかる。


「正体はわからないが、妖魅であることに間違いはない。これは、シーズ殿の生命を奪った妖魅と同じ気配だ」


 クリスフィアは、ほとんど本能でその事実を察知していた。

 シーズの生命を奪った、おぞましい使い魔――毛むくじゃらの身体に緑色の眼光を燃やす、あの奇怪な存在と同質の気配を、クリスフィアはまざまざと感知していたのだった。


 しかも今回は、その規模が尋常ではない。あのときはわずか一体の妖魅であったが、このたびは邪悪な意思をひそめた眼光が無数に瞬いているのである。

 闇に閉ざされた洞穴いっぱいに、床にも、壁にも、天井にも、その妖魅どもは群がっている。クリスフィアは煮えたぎるような闘争心をかきたてられると同時に、悪夢の中に踏み込んでしまったような悪寒をも味わわされることになった。


「正体が何であるにせよ、あれは俺たちの生命を狙っている。あなたも下がっているべきではないか、クリスフィア姫?」


「ほう、お前ひとりであの数を相手にするつもりなのか、ジェイ=シンよ?」


「……あなたがたを守るのが、今の俺の仕事であるからな」


 この世ならぬ怪異を目の前にして、ジェイ=シンは心を乱している様子もなかった。

 そのかたわらで長剣の柄を握りしめながら、クリスフィアは「ふふん」と笑ってみせる。


「心づかいはありがたいが、わたしとてアブーフの騎士だ。姫君扱いは遠慮してもらおう」


「勝手にしろ」とジェイ=シンが言い捨てるのと同時に、一対の鬼火が凄まじい勢いで飛びかかってきた。

 すかさずジェイ=シンは足を踏み込み、長剣を一閃させる。

 青い眼光を持つ妖魅はその一撃で頭部を砕かれ、闇の中で霧散したようだった。


(ふむ。あの使い魔のように、体液を撒き散らすことはないようだな。これは僥倖だ)


 なおかつ、姿ははっきり見えなかったものの、あの使い魔よりもさらに身体は小さいように思える。そんな矮小な妖魅どもが、床や壁や天井にひしめきあって、クリスフィアたちを無言でねめつけているのだ。


「クリスフィア姫よ、この通路はせまいので、二人の人間が刀を振り回すゆとりはない。あなたはこの場に踏み留まり、俺が取りこぼしたやつの始末を頼めないだろうか?」


「いいだろう。引き受けた」


「では」と言い捨てるなり、ジェイ=シンは青い鬼火の群れに頭から飛び込んでいった。

 たちまち四方から、妖魅どもが飛来する。

 その小さな黒影を、ジェイ=シンは次々と返り討ちにしていった。


 さきほどのロア=ファムとの試し合いが児戯とも思えるような、凄まじい剣技である。

 長剣の刀身は白銀の閃光と化して、縦横無尽に闇を切り裂いていく。それはまさしく、獅子の力を持つものが、鋼の爪で敵を屠っていくかのような光景であった。


(生命のかかった場では、これほどの力を発揮できるのか。こちらはこちらで、怪物じみた存在だな)


 そのようなことを考えるクリスフィアの頭上からも、一体の妖魅が飛びかかってきた。

 クリスフィアは、狙いたがわず、その頭を叩き斬る。

 そうして妖魅が黒い塵と化して消滅する寸前に、クリスフィアはようやくその正体を知ることができた。


(こやつらは、蛇か)


 それは、人間の腕ぐらいの太さを持つ、漆黒の蛇であった。

 しかしもちろん、ただの蛇であるわけがない。それはまるで凝り固まった闇にかりそめの生命を与えたかのような、異形の存在であった。


「用心しろよ、ジェイ=シン! このような妖魅は、触れるだけでどのような害があるかもわからぬからな!」


 ジェイ=シンは縦横無尽に刃先を走らせながら、「わかっている」と応じてきた。

 これほど激しく動きながら、息を乱す様子もない。クリスフィアは、あらためて森辺の狩人の人外じみた強靭さを思い知らされた心地であった。


 青い鬼火の眼光は、着実に減じていっている。

 壁や天井を這ってジェイ=シンの刀から逃れた妖魅は、クリスフィアの手によって消滅し果てた。


「こ、これなら何とかなりそうだね」


 レイフォンの声が、さほど遠からぬ位置から聞こえてくる。剣術は苦手であるという若君も、その場に踏み留まってクリスフィアたちの戦いを見届けているようだった。


「油断をするな。本番は、これからのようだぞ」


 と、ジェイ=シンが獣のような俊敏さで、クリスフィアのもとまで後ずさってきた。


「凄まじい気配が近づいてきている。これは……生半可なギバよりも手ごわそうだ」


 ギバというのは、森辺の狩人が獲物としている獣の名称である。

 クリスフィアのかたわらに戻ったジェイ=シンは、両手で長剣を掲げつつ、その青い瞳を爛々と燃やしていた。


「逃げるのは性に合わないので、俺はこの場で迎え撃とうと思うが……正直に言って、余人の身まで守り通せる自信はない。生命が惜しければ、道を引き返せ」


「だ、だけど、帰り道にも同じ妖魅が待ち受けていないとも限らないからね。相手が妖魅では、どこから出現するのかもわかったものではないし」


 そう言って、レイフォンはかすかに笑ったようだった。


「それに、メルセウス殿からお借りした君だけを置いて逃げるなんて、それでは私も面目が立たないよ。何の力にもなれはしないけれど、運命をともにさせてもらおうと思う」


「ふむ。あなたもなかなか肝が据わっているようだな。少し見直したぞ、貴族殿」


 正面の闇を見据えたまま、ジェイ=シンはすっと腰を落とした。

 妖魅どもは、すでに半分ぐらいの数にまで減じている。そして、その目を妖しく瞬かせながら、その場を動こうとしなかった。

 同じ青色でも、ジェイ=シンとは比べるべくもない、おぞましい眼光である。そこから見て取れるのは、虚ろな敵意ばかりであった。


「来るぞ」と、ジェイ=シンが囁く。その瞬間、闇の向こうに巨大な鬼火が瞬いた。

 人間の拳ほどもある、巨大な眼光である。

 もしもそれが、周囲の妖魅と同じく蛇の姿をしているとしたら――人間でもひと呑みにできるぐらいの大蛇であろう。シャーリの大鰐よりも巨大で、危険な存在であった。


「これは……」と、ティムトのつぶやく声がした。


「……斬りかかるのは、お待ちください。僕にひとつ、考えがあります」


「なに? あのような怪物に、いったい何をしようというのだ?」


 ジェイ=シンは、いつでも斬りかかれるように、全身の筋肉をたわめていた。クリスフィアも、それは同様である。

 そんなクリスフィアのかたわらに、明々と燃える灯篭が差し出されてくる。


「クリスフィア姫。この灯篭を、あの妖魅にぶつけてください」


「何だと? このような場所で、炎を広げるつもりか?」


「はい。周囲は岩なのですから、燃え広がる恐れはないでしょう」


 クリスフィアは、横目でちらりとティムトの表情を確認した。

 これだけの怪異を前にして、ティムトの顔にも怯懦の色はない。ただ、灯篭をつかむその指先は、わずかに震えているようだった。


「……わかった。お前の知略を信じよう、ティムト」


 クリスフィアは長剣を左手に持ち替えて、灯篭を受け取った。


「ジェイ=シン、わたしがこいつを投げつけるからな。油が弾けていきなり明るくなるはずなので、目を痛めないように気をつけてくれ」


「承知した」


 クリスフィアは、渾身の力で灯篭を投げつけた。

 天井近くにまでのびあがっていた妖魅の頭に、灯篭が炸裂し――赤い炎が、闇に弾ける。


 その火が、妖魅の巨体をあらわにした。

 それはやはり、想像を絶する巨大な蛇の姿をしていた。

 胴回りは、人間よりも太いぐらいであろう。闇の向こうにはどこまで胴体がのびているのか、想像もつかないほどである。


 その巨大な頭部から咽喉もとまでが、赤い炎に包まれた。

 灯篭の内部に仕込まれていた油が、瞬時に炎を広げたのだ。


 その瞬間、凄まじい波動が辺りの空気をびりびりと震わせた。

 妖魅の大蛇が、苦悶の声をあげているのである。しかしそれは、人間の耳で聞こえるような性質のものではないようだった。


 妖魅は狂ったようにのたうち回ったが、その炎の責め苦から逃れることはできなかった。周囲の小さな妖魅たちは、主人の怒りに恐れおののいているかのように、闇の中を逃げまどっていた。


「こいつはずいぶんと効いているようだ。もっと灯篭を投げつけてやるか?」


「それでは僕たちが目の頼りを失ってしまいます。投げるなら、これをお願いします」


 ティムトが差し出してきたのは、口を固く縛られた革の小袋であった。予備の油が詰め込まれた小袋である。

 クリスフィアはその口をわずかにゆるめてから、悶え苦しむ妖魅のもとにそれを投げつけた。

 炎はいっそう激しく燃え広がり、周囲の小さな妖魅までをも呑み込んでいく。


「よし――」と、ジェイ=シンが突如として身を躍らせた。

 クリスフィアが制止の声をあげる間もなく、地面を蹴り、のたうち回る大蛇の頭に長剣を振り下ろす。


 炎に包まれた大蛇の頭が、真っ二つに断ち割られた。

 青い双眸が左右に分かれて、それぞれが地面に墜落する。

 そして――ひときわ凄まじい断末魔で洞内の空気を震わせてから、妖魅の大蛇は黒い塵と化していった。


 炎はそのまま地面に広がり、残された妖魅どもを焼いていく。

 壁や天井にへばりついていた妖魅どもも、何かをあきらめたような従順さで炎の中に落ちていき、消えていった。

 そうしてすべての油が燃え尽きる頃には、すべての妖魅がその場から消え失せていたのだった。


「ああもう、寿命が何年も縮まってしまったよ。まさか、このような妖異を目にすることになるとはねえ」


 さしものレイフォンも湿った壁にもたれながら、深々と息をついていた。

 その目が、力ない笑いをたたえて、ティムトを見る。


「しかし、ジェイ=シンとクリスフィア姫の剣技もさることながら、ティムトの知略も見事であったね。どうしてあの妖魅に炎が有効だということがわかったんだい?」


「……それは、あの歴史書のおかげですよ」


 ティムトもぐったりと肩を落としつつ、額の汗をぬぐっていた。


「あれは、あの歴史書に記されていた妖魅とそっくりの姿をしていたんです。……もっとも、歴史書の中では妖魅でなく神として描かれていましたけれどね」


「神? あのおぞましい妖魅が、神だって?」


「正確には、神の眷族ですけれどね。今のはたぶん、『蛇神ケットゥア』の眷族であったのでしょう。本物の蛇神であれば、この鍾乳洞を埋め尽くすような大きさなのでしょうから。……そして、『蛇神ケットゥア』は水妖であり、炎を嫌うと、あの歴史書にはそのように記されていたのです」


 周囲の闇に用心深く視線を巡らせながら、「蛇神ケットゥア?」とクリスフィアも割って入る。


「それはもしかして、四大神ならぬ神を崇める邪神教団とかいうやつの神のことか? そのようなものは、おとぎ話だと思っていたのだが」


「邪神教団は、存在しますよ。蛇神ケットゥア、蛙神グーズゥ、猫神アメルィアなどの、異形の神を崇める狂信者たちです。……あの歴史書では、それらがみんな大神アムスホルンの身から分かたれた小神であると記されていました」


 その言葉に、ジェイ=シンがぴくりと反応した。


「ちょっと待て。今の怪物が、大神アムスホルンの眷族であると抜かすつもりか? 大神アムスホルンというのは……決して邪な存在ではないはずだ」


「ええ。その歴史書では、大神アムスホルンに背いた四大神こそが邪神であると記されていましたよ。……僕たちが邪神の子であるならば、大神の眷族をおぞましいと感じるのも当然の話なのかもしれませんね」


 ティムトの声は、無感情であった。

 ジェイ=シンは、何故だか不満そうに唇をとがらせている。


「そもそもアムスホルンというのは、四大神の父であろうが? お前の言っていることはさっぱりわからんぞ、子供よ」


「僕の名前は、ティムトです。そういう得体の知れない歴史書が存在するというだけで、僕がその内容を信じているわけではありませんよ。ただ……」


 と、そこでティムトは口をつぐんでしまった。

 ジェイ=シンが急き立てても、それ以上は口を開こうとしない。同胞ならぬジェイ=シンに語るべき内容ではない、と思い至ったのだろう。

 しかしクリスフィアには、ティムトの疑念が理解できたような気がした。


(わたしたちがその禁忌の歴史書を手に入れるなり、あのような妖魅が目の前に姿を現した。これは果たして、偶然の出来事であるのか?)


 しかもその歴史書はカノン王子の寝所に隠されていた書物であり、クリスフィアたちが立っているのは、そのカノン王子が通ったのではないかと疑われている秘密の通路だ。

 これではあまりに、偶然が過ぎるというものだった。


(やっぱりあの禁忌の歴史書というやつが、このたびの陰謀に深く関わっているのかもしれん)


 そのように考えながら、クリスフィアは長剣を鞘に落とし込んだ。


「さて、これからどうするのだ、レイフォン殿? 探索を続けるべきか、来た道を引き返すべきか……わたしとしては、このまま逃げ帰る気持ちにはなれないのだが」


 レイフォンは前髪をかきあげながら、ティムトを振り返った。

 ティムトはしばし黙考してから、決然と面を上げる。


「進みましょう。レイフォン様がさきほど言っておられた通り、この道を引き返しても、何か別の妖異が待ちかまえているかもしれません。それなら、先に進むべきだと思います」


 そうして一同は、再び洞内を進むことになった。

 灯篭はひとつ減ってしまったので、レイフォンだけがティムトに寄り添いながら、手ぶらで歩いている。幸いなことに、分かれ道などが現れて探索者たちを悩ますような事態にも至らなかった。


 それから、どれほどの時間がすぎたのか――

 そろそろ予備の油を補充するべきではないか、という頃合いで、一同は終着点を迎えることになった。


「行き止まりだな。しかし、どこにも出入り口などは見当たらぬぞ?」


「いえ、見てください。この壁の亀裂に、何か隠されています」


 ティムトの指し示した亀裂の中を覗き込むと、そこには一本の棒が隠されていた。

 革紐でぐるぐる巻きにされた、鉄の棒である。ティムトの了承を得て、クリスフィアがそれを引っ張ると、上部が手前に倒れ込んできた。

 それと同時に、横合いの壁からまばゆい光が差し込んでくる。壁の一部が横側に動いて、秘密の出入り口を現出させたのだ。


「おお、これはすごい仕掛けだな」


 クリスフィアが棒から手を離してそちらに近づこうとすると、壁はするすると閉ざされてしまった。


「ふむ。この棒から手を離すと、扉は閉められてしまうのか。これでは全力で駆けつけないと、外には出られなそうだぞ。ずいぶん不便な作りではないか」


「おそらく、外側からは閉める手段がないのでしょう。銀獅子宮にまで通じている秘密の通路に、外の人間を踏み込ませるわけにはいかないでしょうからね」


 今度はティムトが棒を引き倒し、その上に荷袋を載せた。

 さほど大きな荷袋でもなかったが、それで棒は倒れたままとなり、扉が閉まる気配もない。一同は、クリスフィアを先頭として、その出入り口から外界を目指した。


 最初はずいぶん明るいように感じたものの、いざ脱出してみると、その場もぞんぶんに薄暗かった。

 ただ、行く手にはさらに明るい光が見える。この場所も、洞穴であったのだ。


 洞穴の出口は、蔦や蔓草でふさがれている。それをかきわけて、いざ外界に首を出してみると――そこは、鬱蒼とした雑木林の中であった。


「周囲に人の気配はないな。二、三刻は歩いたように思うが、ここはすでに王都の外なのだろうか?」


「少なくとも、石塀の外ではあるようだね。アルグラッドの城下町に、このような雑木林は残されていないはずだよ」


 クリスフィアに続いて、レイフォンが姿を現す。灯篭の火を消して、うーんと大きくのびをしてから、レイフォンはあらためて視線を巡らせた。


「ああ、あちらに城の影が見えるね。太陽の位置から考えると……おそらく、マルラン公爵領の城砦だろう。ということは、マルランとバンズの中間地点であるようだね。この雑木林を北上すれば、人目につかないまま五大公爵領を出て、街道にまで出られるはずだ」


「ふむ。秘密の抜け道には相応しい場所であるようだな」


 そのように述べてから、クリスフィアは後方を振り返った。

 いつまで経っても、ティムトとジェイ=シンが姿を現そうとしないのだ。


「どうしたのだ? また妖魅でも現れたのではあるまいな?」


 蔓草をかき分けて洞穴の内部を覗き込むと、地面に膝をついていたティムトと目が合った。


「これを見てください。焚き火の跡が残されています」


「焚き火? どうしてこのような場所で火を焚かねばならんのだ?」


 しかし確かにティムトの言う通り、そこは岩盤が焦げついており、小枝の燃えさしなども残されているようだった。

 クリスフィアが首をひねっていると、別の場所で膝を折っていたジェイ=シンも近づいてくる。


「俺はこのようなものを見つけたぞ。これは、ロロムの葉の欠片だろう」


「ロロムの葉……熱冷ましの薬草か」


 ジェイ=シンの手の平に載せられていたのは、ごく小さな黒い滓のようなものだった。

 鼻を寄せて確認してみると、確かにロロムの葉の独特の香気がわずかに感じられる。


「それにこの場には、かすかに人間の過ごしていた気配が感じられる。この場で火を焚き、食事をして、身体を休めていたのだろう。……ひと月やふた月ぐらいは前の話なのかもしれんがな」


「ひと月やふた月? それなのに、気配が感じられるのか?」


「出入り口がふさがれていたので、匂いがこもっていたのだろう。逆に言うと、それぐらいの時間が経っていなければ、もっと気配が残されていたはずだ」


 すると、燃えさしを探っていたティムトもうなずいた。


「赤の月の災厄からは、すでにふた月近くの日が過ぎています。もしもカノン王子らが銀獅子宮の火災で手傷を負っていたならば、この場で数日は身体を休めていたのかもしれません」


「ああ、火傷を負えば、ロロムの葉が必要にもなるからな。そうして傷を癒してから、悠々と脱出を果たしたということか」


「しかし、それでは辻褄の合わないこともあります。王子らは、どのようにしてロロムの葉や食料を手にしたのでしょう? この近辺ではヴァルダヌス将軍のお顔も知れ渡っていますし、カノン王子は……ひときわ目に立つ風貌をしていたはずです」


 そのように述べながら、ティムトはゆっくりと立ち上がった。


「もしかしたら……誰かが、逃亡の手助けをしたのかもしれません」


「逃亡の手助け? 先王らを弑逆した疑いをかけられている王子らに、誰が手を差しのべるというのだ?」


 そんな風に言ってから、クリスフィアは別の驚きにとらわれた。


「いや、それよりも、ティムトはすっかりカノン王子らが生きているという前提で語っているかのようだな。カノン王子らは、本当に生きて王都を脱出したのだろうか?」


「今のところ、可能性は五分です。……しかし、これまでは確実に死亡したと考えられていたのですから、これは大きな進展と言えるでしょう」


 そのように述べるティムトの瞳には、実にさまざまな感情が渦巻いているように思えた。

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