表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アムスホルン大陸記  作者: EDA
第五章 神の下僕
102/244

Ⅳ-Ⅰ 奇妙な案内人

2018.3/17 更新分 1/1

 ダリアスは、ひとり煩悶していた。

 場所はダーム公爵邸の、ダリアスにあてがわれた客間である。


 本来この客間は、ダリアスとラナとリッサにあてがわれた部屋であった。

 その場所に、今はダリアスの姿しかない。三日前の、王都からの調査団を返り討ちにした夜に、ラナとリッサは忽然と消え失せてしまったのだった。


(ラナ、どうしてお前ばかりが、このような目に……お前はいったい、どこに行ってしまったのだ……?)


 ダリアスは頭をかきむしりながら、卓の上に置かれた紙片に視線を落とした。

 手の平ていどの大きさしかない、ちっぽけな紙片である。その紙片の中央に、『ご心配なきように』という言葉が妙に精緻な筆跡で記されていた。


 ダーム公爵邸を占拠していた防衛兵団の兵士たちを撃退し、ダリアスがこの客間を訪れると、卓の上にこの紙片が残されていたのだ。

 そうして邸内をくまなく探しても、ラナとリッサの姿はなかった。それに、ラナの身を預かると言ってくれていたフゥライもまた、煙のように消え失せてしまっていた。


 当初はフゥライが、ラナとリッサを連れて、どこかに身を隠したのだと考えていた。しかしそれは、すぐにありえない話であるということが判明した。ダーム公爵邸は五十名を数える兵士たちに占拠されており、出入り口は固く見張られていたのである。


 生かして捕らえることのできた兵士たちには何度となく問い詰めることになったが、ラナたちの行方を知る人間はいなかった。別の部屋に監禁されていた屋敷の使用人たちにしてみても、それは同じことだった。


「が、学士長フゥライを名乗る老人は、弟子や侍女と同じ部屋に閉じ込めておいた。外から鍵をしめたので、それ以降のことは何も知らん」


 小隊長の身分にあった男は、そのように述べていた。

 ダリアスがどれだけ恫喝しても、刀を咽喉に押しあてても、その返答が変わることはなかった。


 また実際、ラナたちが何者かに拉致されたという痕跡もなかった。客間はダリアスが出ていったときとまったく変わらぬ整然とした様相を呈しており、飲みかけの茶や読みかけの書物なども、そのまま卓に残されていたのだった。


「もしや、あの部屋にも隠し通路の類いが存在したのでは?」


 ダリアスは一縷の望みをかけて、トレイアスにそう問うてみたが、答えは「否」であった。


「どうして客間に、隠し通路などを造る必要があるのだ? そのような真似をしても、俺には何の得もないではないか」


「いや、しかし……客間に覗き見の穴や伝声管などを仕掛ける人間はいなくもないはずです」


 ダリアスがそのように食い下がると、トレイアスは豪放に笑っていたものであった。


「俺がそのような仕掛けのある部屋をダリアス殿にあてがっていたと? そうだとしたら、ダリアス殿も俺に隠し事をすることはできなかっただろうな」


「いえ、決してそのような意味で言ったのではないのですが……」


「何にせよ、たとえ覗き穴や伝声管が存在したとしても、そのような場所から部屋を抜け出すことはできまいよ。フゥライ殿たちは、兵士どもの目を盗んで逃げ去ったというだけの話ではないのかな」


 トレイアスはそのように言っていたが、ダリアスは釈然としなかった。

 ダリアスがこの客間を訪れたとき、扉にはしっかりと鍵が掛けられたままであったのだ。その鍵は予備の分も兵士たちが保管していたし、明かり取りの窓も、人間が出られるほどの大きさではなかった。


 なおかつ、客間とフゥライの部屋には三名分の荷物がまるまる残されていたし、路銀用の銅貨も手付かずの様子であったのである。

 それに、フゥライが使っていたトトスと車も、屋敷の倉に残されたままであった。たとえ首尾よくこの屋敷を脱出することができても、銅貨やトトスがなければろくに身動きは取れなかったはずであるのだ。


(ならばこれは、どういうことなのだ? この伝言は、本当にフゥライ殿が残したものなのか? ラナは……ラナはいったい、どこに行ってしまったのだ?)


 苦悶のうめき声をこらえながら、ダリアスが再び頭をかきむしったとき、客間の扉が外から叩かれた。

 ダリアスがハッとして面を上げると、小姓の澄んだ声が聞こえてくる。


「アッカム様、主様がお呼びです。応接の間までご足労をお願いいたします」


 ダリアスは紙片を懐にねじ込んでから、扉に向かった。

 扉を開けると、そこには小姓ばかりでなく、二名の兵士も立ち並んでいる。ダリアスの護衛役として選出された、ダーム騎士団の兵士たちである。すでにダリアスの正体を伝えられているその両名は、小姓に気づかれないように、さりげなく敬礼をしていた。


 小姓の案内で回廊を進むと、応接の間の前にも二名の兵士が立ち並んでいる。それらの人々に見守られながら、ダリアスは部屋の中に足を踏み入れた。


「おお、待っていたぞ、ダリアス殿。とりあえずは、楽にしてくれ」


 トレイアスは、いつも通りに侍女のレィミアを侍らせつつ、長椅子に座していた。

 その正面に座しているのは、ダーム騎士団の副団長たるムンドルである。歴戦の勇士である老騎士は、わざわざ立ち上がって敬礼をしてから、再び長椅子に腰を落とした。


「ムンドル殿もおられたのですね。姿を消した三名に関して、何かわかったのでしょうか?」


「いや、そちらに関しては、まだ何も。港町の捜索も続けていますが、それらしい者たちの姿を見た人間はおらぬようです」


 そのように述べながら、ムンドルはトレイアスのほうに目をやった。


「また、騎士団の兵舎に拘留した叛逆者どもからも、新しい情報は引き出せておりません。儂もトレイアス殿から招集を受けて、この場に馳せ参じたのです」


「ああ。こちらではちょっと動きがあったのでな。それをお伝えしようと思い、お二人にご足労を願ったのだ」


「ラナたちの行方が、わかったのですか?」


 勢い込んでダリアスが身を乗り出すと、トレイアスは「いやいや」と手を振った。


「マルランとバンズにやった使者が、戻ったのだ。敵方の間諜があちらに潜んでいたとしても、何とか今回はそれを出し抜くことができたようだぞ」


 ダリアスはがっくりと肩を落とし、その代わりにムンドルが「ほう」と身を乗り出す。


「マルランとバンズ、それぞれの公爵家と連絡を取り合うことができたのですか。それで、どのような返答であったのでしょうかな?」


「やはりあちらでも、王都に不穏な動きがあるということは察しておるようだ。それに、思わぬ話を聞くこともできたぞ」


 そのように言いながら、トレイアスはにんまりと微笑んだ。


「どうやらな、グワラムの城が正体不明の勢力に襲撃を受けたらしい。昨日の夕暮れ時、戴冠式の前祝いの席で、その報が届けられたそうだ」


「グワラムが、襲撃? それは、アブーフやタンティの軍ではないのでしょうかな?」


「新王陛下は、アブーフやタンティにそのような命令を下した覚えはないそうだ。それに、グワラムを攻める際には、王都の軍も必要であろうからな。アブーフやタンティが独断でそのような真似に及ぶことはありえまいよ」


「それで、正体不明の勢力ということでありますか……しかし、グワラムに侵攻する勢力など、セルヴァの他に存在はせんでしょう。それはいったい、何者であるのでしょうな?」


「それがわからぬから、正体不明なのだ。まあ、今のところは狼煙で異変が伝えられただけなのだから、近在の領地から使者がおもむくのを待つしかなかろう。……しかし、周囲が騒がしくなれば、俺たちもそれだけ動きやすくなろうというものさ」


 そうしてトレイアスが酒杯を持ち上げると、レィミアが硝子の瓶から果実酒を注いだ。トレイアスの放埒さをあまり快く思っていないムンドルは、皺深い顔をしかめている。


「では、マルランとバンズのご当主たちは、どのように言っておられたのです? 我らとともに、刀を取ってもらえるのでありましょうかな?」


「いやいや、まだそこまで込み入った話を持ちかけてはおらんよ。あちらが敵方に懐柔されていれば、それこそ命取りになりかねんからな。まずは、そろりと探りを入れてみただけのことだ」


 果実酒で唇を湿しながら、トレイアスはまた笑う。


「ただ、やはりバンズ公爵は、騎士団長の死を不審に思っていたらしい。同じく騎士団長を失った俺からの言葉を、重く受け止めてくれたようだ。何か水面下で途方もない陰謀が蠢いているのかもしれぬと、俺の意見に同意してくれた」


「では、こちらが叛逆者どもに襲撃を受けたという話に関しては、まだ打ち明けておられないのでしょうか?」


「もちろんだ。王都から差し向けられた一団を返り討ちにした、などと聞いてしまったら、刀を取る前に縮こまってしまうかもしれんからな。そのような話を打ち明けるには、まだ早かろう」


 慇懃にして実直なる老騎士は、ますます不本意そうに眉をひそめた。


「しかし、我らが襲撃を受けてから、すでに三日が経過しているのですぞ? 首謀者の名も判明しておるのですから、一刻も早く王都の審問にかけるべきでありましょう」


「首謀者といっても、あやつらが口にしたのは千獅子長までだ。その千獅子長に命令を下したのが十二獅子将のジョルアン将軍であるという確証を得るまでは、迂闊に動くわけにはいくまい」


 それは確かに、トレイアスの言う通りであるはずだった。

 しかもダリアスは、そのジョルアンの裏にさらなる黒幕が潜んでいるはずだと疑っているのである。ここで千獅子長ごときを糾弾しても、大した戦果は得られないように思えてならなかった。


「だから、何としてでも王都のクリスフィア姫に連絡をつけたいと願っているのだがな。クリスフィア姫は、知略家として名高いヴェヘイム公爵家の第一子息と志をともにしているという話であるから、ジョルアン将軍の尻尾をつかむことができているかもしれん」


「そのようなものは、首謀者と目されている千獅子長を糾弾すれば済む話でありましょう。たとえ千獅子長といえども、上官の命令なくしてこれだけの兵士を動かすことはできないのですから、言い逃れはできぬはずです」


「しかし、現在の第二防衛兵団の長は、ジョルアン将軍の副官であった男であるのだ。こちらが下手な手を打てば、その男にすべての罪をなすりつけて、ジョルアン将軍を逃すことになるやもしれん」


「ですが……ダリアス殿とて、あやつらに襲撃されたという話ではないですか。その頃の団長は、ジョルアン将軍その人であったはずです」


 言いながら、ムンドルは同意を求めるようにダリアスを見つめてきた。

 この実直なる老騎士を味方につけるために、ダリアスはすべての話を打ち明けておいたのだ。

 しかしこの際は、ムンドルに同調することはできなかった。


「それでもやはり、証もないままにジョルアンめを糾弾することは難しいでしょう。配下の誰かが口を割れば、それが証になるのでしょうが……審問の前に暗殺でもされてしまえば、それもかなわなくなります」


「暗殺……シーズ殿のように、ということですな」


 ムンドルは、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。

 この老騎士は、そのシーズの副官をつとめていた立場であるのだ。


「妹君を人質に取って、シーズ殿を間諜に仕立てあげていたなどとは、それだけでも決して見過ごすことのできぬ大罪です。そのような卑劣漢どもは、一刻も早く成敗せねばなりますまい」


「はい。そのためにこそ、今は時期を見ているのです。ムンドル殿も、どうかご理解をお願いします」


「では、ダリアス殿も今は動くべきではない、という意見であるのですな」


「ええ。証さえあれば、俺がこの手でジョルアンめを討ち取ってくれましょう」


 ムンドルは、溜息をつきながら席を立った。


「では、儂はもうひとたび、叛逆者どもを尋問することにいたしましょう。あやつらがジョルアン将軍の名を口にすれば、それですべては収まるのですからな」


「うむ。くれぐれも、生命までは脅かさぬようにな」


 トレイアスの言葉には目礼だけを返し、ムンドルは早々に退室してしまった。

 果実酒を口に運んでから、トレイアスは「やれやれ」と肩をすくめる。


「まったく、頑迷なるご老人だ。やはり俺ひとりでは、あのご老人の手綱を握ることは難しかったことだろう。口添えを感謝しているぞ、ダリアス殿」


「ええ。今はむやみに動くべきではありません。ティートさえ意識を取り戻せば、それで王都とは連絡をつけられるはずなのですから、短慮はつつしむべきでしょう」


「ふむ。ダリアス殿が本心からそのように言っているのなら、俺もひと安心だ」


 トレイアスの声に、皮肉っぽい響きがまじる。


「しかし、ダリアス殿とて、つい先日までは血気にはやっていたはずだな。それなのに、ずいぶん大人しくなってしまったものだ」


「……トレイアス殿は、いったい何を仰りたいのですか?」


「いや、ダリアス殿が動きを控えているのは、大事な存在が行方知れずになってしまったゆえなのかと邪推したまでだ」


 ダリアスは、ひそかに拳を握り込むことになった。

 トレイアスは、「ふむ」と下顎をさすっている。


「その顔を見るに、見当外れの邪推でもなかったか。ダリアス殿は、消えた三名の客人たちが敵方の手に落ちたのではないかと不安に思っているわけだな」


「……その可能性は、ないとは言い切れないところでしょう」


「ああ、そうだな。しかし、それが原因でダリアス殿の刃先が鈍ってしまっては、俺としても困り果ててしまうのだ。万が一、あの客人たちが人質とされてしまったら――ダリアス殿は、これまで通り王国のために忠義を尽くせるのだろうか?」


 ダリアスには、答えることができなかった。

 トレイアスは、「やれやれ」と息をつく。


「これはもう、客人たちが敵方の手に落ちていないことを祈る他あるまい。俺のためにも、王国の行く末のためにもな」


 ダリアスは胸を焦がす痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。


「お話が終わりであれば、俺も戻らせていただきます。また何か進展があったら、お声をかけてください」


「ああ。とりあえずは、ゆっくり身体を休めてくれ。酒でも女でも、必要があればいくらでも届けさせるからな」


 ダリアスは一礼して、応接の間を後にした。

 そうして護衛役の兵士たちとともに客間に戻ると、腰を落ち着ける前に扉を叩かれる。

 ダリアスの返事も待たずに入室してきたのは、たったいま別れたばかりのレィミアであった。


「ちょいと失礼するよ。あんた、さっきの態度は何なのさ?」


「さっきの態度? ……何の話だ?」


「すっとぼけるんじゃないよ。娘っ子が一人いなくなったぐらいで、辛気臭い顔しちゃってさ」


 レィミアはずかずかと近づいてきて、ダリアスの眼前に立ちはだかった。


「あんな娘っ子が、いったい何だってのさ? あんたは自分の正義を押し通すために、王様にさえ刃を向けようって決意した身なんだろう? だったら、余計なことに思い悩んでるんじゃないよ!」


「余計なこと? ラナの身を案じるのが、余計なことだと言うのか?」


「ああ、余計なことだね! あの娘っ子と夫婦だってのは大嘘だったんだろう? それなら、あんな娘っ子がどうなろうと、どうでもいいことじゃないか!」


「そんなことはない! 俺は……俺はラナの身を守り通すと、セルヴァに誓ったのだ!」


 ダリアスも大きな声を返してしまうと、レィミアは「はん」とせせら笑った。


「そいつは王国の行く末ってやつより大事な誓いなのかねえ? あんな娘っ子の生命ひとつと、王国の行く末を天秤にかける気かい?」


「ラナの生命も守れずに、何が王国の行く末だ! 民があっての国であろうが?」


「しゃらくさいことを抜かしてるんじゃないよ。それじゃあ、あんたは、あの娘っ子を人質に取られたら、トレイアス様をも裏切ろうって魂胆なのかい?」


 レィミアの双眸が、獣のようにぎらぎらと輝き始めていた。


「トレイアス様をこんな騒ぎに巻き込んでおいて、後ろから斬りつけるような真似をしたら……誓って、あんたの首に毒針をブッ刺してやるからね!」


「……そうか。お前の立場なら、そのように考えるのが当然だな」


 レィミアが昂ぶったことにより、ダリアスは沈静することになった。


「ならば、案ずることはない。たとえどのようなことがあっても、俺は味方を斬りつけたりはしない」


「ふうん? じゃあ、あの娘っ子を見殺しにするのかい?」


「そのときは……誰よりも早く、俺が魂を返すことにしよう。そうすれば、ラナもむやみに生命を奪われたりはしないだろうからな」


 レィミアはますます凶悪な顔つきになりながら、ダリアスの胸ぐらをひっつかんできた。


「ふざけんじゃないよ! そんなの、あんた一人が楽になるだけのことじゃないか! 後に残されたあたしたちは、どうすりゃいいんだよ!」


「……俺一人の力など、たかが知れている。王都にはクリスフィア姫やレイフォンもいるし、ゼラだって力を貸してくれるだろうから――」


「王都の連中なんて、知ったことじゃないよ! 今このダームにいるのは、あんただけだろう? あとはあの、頑固で融通のきかない爺だけじゃないか! あの爺をうまく使うためにはあんたの力が必要だって、トレイアス様が言っていたのを忘れたのかい?」


 ダリアスの胸ぐらをひっつかんだまま、レィミアは怒りに震える声を振り絞った。


「この何日かで、あたしもトレイアス様の言葉が理解できたよ。あの爺は、これっぽっちもトレイアス様のことを信用していない。あんたが間を取り持ってなかったら、こっちの言うことなんてひとつも聞きやしないだろうよ。トレイアス様が生きのびるには、あんたの力が必要なのさ」


「……わかっている。俺は決して、トレイアス殿を裏切ったりはしない」


「だから、それじゃあ用事が足りないってんだよ! あんたは生きて、トレイアス様の剣となるんだ! たとえ、あの娘っ子を失うことになろうともね!」


 そのようにがなりながら、レィミアはぐっと身を寄せてきた。


「あんたはそんなに、あの娘っ子がお気に入りだったのかい? あんなの、さえない町娘じゃないか? あんたが望むなら、港町から極上の娼婦を呼びつけてもいいし……それで用事が足りないなら、あたしがとびきりの快楽を教えてあげてもいいよ」


「何を言っている。お前は、トレイアス殿にその身を捧げているのだろう?」


「ああ。トレイアス様を守るためなら、どんな真似でもしてみせるさ。あたしはそのために存在してるんだからねえ」


 ダリアスは首を振り、レィミアの肩に手を置いて、わずかに押しやった。


「馬鹿なことを考えるな。お前が自分の身を犠牲にする必要はないし、そのような真似をしても、何も変わることはない」


「……それじゃあ、どうあっても、トレイアス様を裏切ろうってのかい?」


「トレイアス殿を裏切ったりはしないし、さっきの言葉も取り消そう。もしもラナを人質に取られたりしても、俺は自ら生命を投げ出したりはしない。この手でラナを取り返し、悪党どもに報いを受けさせてみせる」


 ダリアスは、自分に言いきかせるようにして、そう宣言してみせた。


「確かに俺は、気弱になっていたようだ。それで、お前やトレイアス殿に不安を与えてしまったのだろう。だが、もう大丈夫だ。俺は王国の行く末もラナの行く末も、どちらもこの手で救ってみせる」


 ダリアスに両肩をつかまれたまま、レィミアはまだぎらぎらと両目を燃やしていた。

 その指先が、ようやくダリアスの胸もとから離れていく。


「ふん……ちっとはマシな面になったみたいだね。ったく、娘っ子が一人いなくなったぐらいで、気弱になるんじゃないよ」


「ああ、すまなかった。お前の中からあふれかえる力が、俺の目を覚まさせてくれたようだ」


 そう言って、ダリアスはレィミアに笑いかけてみせた。

 それはダリアスにとって、三日ぶりの笑顔であった。


「どのような苦難でも乗り越えてみせると、ここに誓う。トレイアス殿にも、そのように伝えてくれ。不甲斐ない姿を見せてしまって申し訳なかった、とな」


「ふん!」と鼻を鳴らしながら、レィミアはダリアスの手を振り払い、扉のほうに近づいていった。

 その優美な後ろ姿に、ダリアスは「レィミア」と呼びかける。


「もしもトレイアス殿を人質に取られてしまったら、お前はどうする?」


「……そんなもん、悪党どもに毒針でもくれてやって、トレイアス様をお救いするに決まってるだろうよ」


「ああ、俺も同じ気持ちだ。俺もお前のように、強く振る舞うと約束する」


 レィミアはひとつ肩をすくめてから、客間を出ていった。

 ダリアスはようやく椅子に腰を下ろして、息をつく。


(そうだ。俺は何を気弱になっていたのだ。何があっても、ラナをこの手に取り戻す……俺は、そのことだけを念じるべきであったのだ)


 胸中の痛みは、消えていない。しかし、その痛みさえもが、ダリアスに力を与えるかのようだった。

 怒りや悲しみや不安の感情が、そのまま力に転化されていく。冷たく凍えていた手足の隅々にまで、熱が通っていくかのような感覚であった。


(俺ももう一度、兵士どもに話を聞いてみるか。あいつらが行方を知らなくとも、何か手がかりになるような話を聞けるかもしれん。あいつらは、ラナたちが姿を隠したその瞬間まで、同じ屋敷で過ごしていたのだからな)


 そのように考えて、ダリアスが腰を浮かせかけたとき――ふいに、その声が響きわたった。


『やれやれ、大層な剣幕であったな。あのように美しい姿をしているのに、台無しだわい』


 ダリアスは、愕然と周囲を見回すことになった。

 しかし、どこにも人間の潜んでいる気配はない。


『心配めされるなと書き置きを残したのに、あまり役には立たなかったようじゃな。まあ、それもこれもおぬしの大事な娘を守るためであったのだから、勘弁なされよ』


「だ……誰だ! どこから俺に呼びかけているのだ!?」


『べつだん、姿を隠したりはしておらぬよ。まあ、ちょいと目につきにくい姿をしてはおるがな』


 ダリアスは刀の柄に指先をからめながら、さらに視線を巡らせた。

 その視界の隅で、ちょろりと灰色の影が動く。


『ここじゃ、ここじゃ。おぬしを迎えに来たのだから、いきなり斬りつけたりはせんでおくれよ?』


 ダリアスは、己の正気を疑うことになった。

 部屋の奥に設置された、石造りの暖炉の上――そこから一匹の小さな獣が、じいっとダリアスを見つめていたのである。


『おぬしの大事な娘と二名の客人たちは、儂のところでお預かりしておるよ。今からその場所におぬしを案内したいと思うのだが……どうか儂を信用して、ついてきてもらえるかのう?』


 飄々とした、老人のような声である。

 しかし、その声を発しているのは、ダリアスの手の平に乗りそうなほどの、小さな獣――黒い瞳と灰色の毛皮を持つ、一匹の鼠であったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ