Ⅲ-Ⅰ 森辺の狩人
2018.3/10 更新分 1/1
クリスフィアは、金狼宮の中庭にいた。
現在その場では、ロア=ファムとジェイ=シンによる剣技の試し合いが行われていたのである。
使われているのは木剣で、両者は兜と胸あてと篭手のみを装着している。革でできた簡素な防具であり、王都の兵士たちがこういった演習で使用するものであるのだそうだ。
勝負はすでに、十本目にも及んでいた。
しかし、ロア=ファムはまだ一本も勝利を収めることができずにいた。
「……俺が偉そうな言葉を並べたてる筋合いはないが、お前の剣は、いかにも我流だな。人を斬るための稽古などしたこともないのだろう?」
石畳に膝をついたロア=ファムを見下ろしつつ、ジェイ=シンがそう言った。
「肉体の強さはなかなかのものだが、それだけでは俺には勝てん。そろそろ終わりにしたらどうだろうか?」
「……ふざけるな。俺はこのていどのことで屈したりはせん」
木剣を杖にして、ロア=ファムはよろよろと立ち上がった。
兜のひさしの下で、ジェイ=シンは青い瞳を光らせている。
「そうか。しかし、剣技の試し合いで手加減をすることはできん。そのつもりでかかってくることだ」
「手加減など、いるか!」
ロア=ファムは、横殴りの格好で木剣を振り回した。
それを紙一重でかわしつつ、ジェイ=シンは鋭い突きを放つ。その剣先は、ロア=ファムの胸の真ん中をまともにえぐっていた。
たとえ木剣で、革の胸あてを装着していたとしても、凄まじい衝撃であったのだろう。ロア=ファムは「かはっ」と息を吐き、再び膝を折ることになった。
「ああ、もう見ていられません! 姫様、ロア=ファムを止めることはできないのですか?」
クリスフィアの隣に控えていたフラウが、泣きそうな声でそのように述べてくる。
しかし、クリスフィアとしても溜息まじりの声を返すことしかできなかった。
「この試し合いはロア=ファム自身が望んだことなのだから、余人に口出しすることはできん。迂闊なことをしたら、ロア=ファムの誇りを踏みにじることになろう」
「でも、あんなに激しく叩かれていたら、いずれ大きな手傷を負ってしまいます!」
それもまったくの同感であるが、だけどやっぱりクリスフィアにはどうすることもできない。なまじロア=ファムの気持ちが理解できるために、クリスフィアとしてはロア=ファムの覚悟を見守ることしかできなかったのだった。
(それにつけても、あのジェイ=シンというのは想像以上の化け物だ。まさか、これほどの手練であったとはな)
すでに十本以上の勝負をしているというのに、ジェイ=シンは息ひとつ乱していない。それはまるで、野生の獣のごとき強靭さであった。
ロア=ファムとて、シャーリの大鰐という危険な獣を相手に腕を磨いてきた、グレン族の狩人なのである。ジェイ=シンの言う通り、人間相手の剣術の心得などはないのであろうが、身体能力はきわめて秀でている。生半可な剣士では、ロア=ファムから一本を取ることだって難しいはずだった。
そんなロア=ファムが、まるで子供のようにあしらわれてしまっている。
もちろんジェイ=シンも手加減などはしていないのだろうが、さきほどから相手の木剣か、あるいは防具を纏った箇所にしか斬撃を撃ち込んでいない。それぐらいのゆとりをもって、的確に、相手を打ち倒しているのである。
(これが、ジェノスの森辺の民……ギバ狩りの狩人の強さなのか)
クリスフィアは前髪をかきあげながら、ディラーム老の向こう側で茶などをすすっているメルセウスに声をかけた。
「メルセウス殿、ひとつお聞きしたいのだが……あのジェイ=シンというのは、森辺の民の中でも、特に秀でた力を持つ狩人なのだろうか?」
「うん? さて、どうでしょう。とりあえず、去年のジェノスの闘技会においては、ジェイ=シンが第一位の座を獲得することになりましたけれど」
「ならば、ジェノスで一番の剣士ということなのではないのか?」
「はい。ですが、闘技会に参加する森辺の狩人というのは、三名までに人数を絞っているのですよね。そうしないと、すべての位を森辺の狩人に独占されかねませんので」
虫も殺さぬ笑みを浮かべつつ、メルセウスは後方を振り返った。
「ともあれ、そういう話は僕ではなく、彼らに聞くべきでしょうね。ねえ、ジェイ=シンというのは、森辺の集落の中でどれぐらいの力を持つ狩人であるのかな?」
「さてな。少なくとも、俺たちより腕が立つというのは確かだ」
メルセウスの背後に立ち並んだ内の片方が、ぶっきらぼうな口調でそう答えた。大柄で、褐色の髪を短めに切りそろえた、若衆である。
すると、その隣に控えていた若衆が、とても沈着な眼差しを主君のほうに差し向ける。こちらはすらりとした体格で、とても凛々しい面立ちをした若衆だ。
「ジェイ=シンは、森辺の狩人の力比べにおいて、ようやく八名の勇者に選ばれたと聞いている。あの若さで勇者に選ばれるというのは大した話だが、まだまだ歴戦の狩人には歯が立たないのだろうな」
「ふうん。だけど、それなら森辺で八番目に強い、ということになるのかな?」
「何を言っている。力比べというのは、近しい血族の中で行われるものだ。俺の血族にだって、ジェイ=シンに劣らぬ力を持つ狩人は何人かいる。……お前だって、それぐらいのことはわきまえているだろう」
「ああ、そうか。これはうっかりしていたよ。……ただ、貴き方々の前で、お前呼ばわりは控えるようにね」
若衆は、沈着な面持ちのまま、一礼した。
その若衆も、隣の大柄な若衆も、どちらも浅黒い肌をしている。メルセウスは、このたびの王都訪問に三名もの森辺の狩人を同行させていたのだった。
両名ともに、従士としての立派な装束に身を包んでいるものの、どこかそれを窮屈そうにしているように見受けられる。それに、その鍛え抜かれた肉体からは、ジェイ=シンと同じく静かな力感ともいうべき不思議な気配が発散されていた。
(この二人も、ジェイ=シンに劣らぬ化け物であるようだ。こんな連中が何百人も存在するというだけで、それはもう一つの脅威だな)
クリスフィアがそんなことを考えている間に、大柄なほうの若衆が笑いを含んだ声で言った。
「しかしな、狩人の力量と剣士の力量というのは、必ずしも一致するわけではないのだ。たとえば、俺の親父などは血族で無双の狩人であるが、剣術などというものは一切手ほどきを受けていない」
「ああ、確かにな。森辺においては、若い人間ほど町の人間と交流が深いので、俺たちの親の世代で剣術の手ほどきを受けている人間は少ないのだ」
「なるほど」と、クリスフィアは会話の中に割って入った。
「では、あのジェイ=シンやお前たちなどは、きちんと剣術の手ほどきを受けている、ということなのだな?」
とたんに、二人の狩人はぴたりと口をつぐんでしまった。
メルセウスが、笑いながらクリスフィアを振り返る。
「申し訳ありません。こちらの両名はジェイ=シン以上に口のきき方を知らないので、くれぐれも王都の貴き方々に粗相がないようにと、森辺の族長たちに厳命されているのです」
「そうなのか。わたしはべつだん王都の人間ではないし、気安い口をきかれるほうが心地好いぐらいだ。よければ、気兼ねなく言葉を交わしてほしく思う」
二名の若き狩人たちは、疑り深そうにクリスフィアをねめつけてきた。
「……そのように言いながら、後で難癖をつけるつもりではなかろうな?」
「ああ。俺たちの行いで、ジェノスの名を貶めるわけにはいかんのだ」
「大丈夫だというのに。わたしがそのような小細工をする人間に見えるのか?」
クリスフィアが言葉を重ねると、二人の狩人はいっそう鋭い視線を向けてきた。
その末に、大柄なほうの狩人が「よし、信じた」と言い捨てる。
「それで、剣術の話だったな。……ああ、俺たちもジェイ=シンも、ジェノスの城下町で剣術の手ほどきを受けている。時には衛兵の仕事を受け持つこともあるので、それは必要な行いであるのだ」
「ほう。お前たちは貴人の護衛ばかりでなく、そのような仕事まで受け持っているのか。狩人というのは、狩りにのみ生命を懸けるものだと思っていたのだが」
「森辺の民は、ここ十数年でずいぶん数が増えてしまったからな。あまり躍起になってギバを狩る必要がなくなってしまったのだ」
「うむ。しかし、それでは狩人としての力を失ってしまいかねない。だから、手の空いている時期は町の仕事を受け持ったり、剣術の手ほどきをしてもらったりして、常に己を磨いているのだ」
どうやらこの両名は、意外に話し好きなのかもしれなかった。
態度は不遜で、蛮人とそしられても否めないところであったが、クリスフィアはそういう人間こそを好んでいる。クリスフィアの部下である傭兵たちだって、ふてぶてしさでは彼らに負けていなかった。
「なるほどな。それでは、ロア=ファムも手こずるわけだ。お前たちのように凄まじい力を持った人間が剣術の手ほどきを受ければ、それこそ誰も相手にはなるまい」
クリスフィアがそのように述べたとき、フラウが「ああ!」と悲鳴まじりの声をあげた。ロア=ファムが、またジェイ=シンに叩きのめされてしまったのである。
ロア=ファムは石畳に両手をついて、ぜいぜいとあえいでいる。そして、兜の内側から赤いしずくがぽたぽたと滴っているのが、この距離からでも判別できた。
「姫様、もう限界です! わたくしはとても見ていられません!」
「ああ、確かに限界のようだ。……ならばいっそ、フラウが止めてやればいいのではないか?」
「え? わたくしがですか?」
「うむ。わたしやディラーム老やメルセウス殿が止めるよりは、ロア=ファムの誇りを傷つけずに済むような気がするのだ」
フラウは気丈な面持ちでうなずくと、「わかりました」とロア=ファムたちのもとに駆け寄っていった。
そのほっそりとした後ろ姿を見やりながら、ディラーム老が深々と息をつく。
「いや、見事な試し合いであった。ロア=ファムとて、いっぱしの剣士を名乗れるほどの力量であるはずなのだが……あのジェイ=シンという若者は、その上をいく英傑であるようだな」
「はい。僕にとっては自慢の臣下であり、そして大事な友であるのです」
メルセウスは、とても無邪気な感じに微笑んでいた。
そんな中、二名の剣士とフラウがクリスフィアたちのほうに舞い戻ってくる。
「ご苦労様、ジェイ=シン。防具を解いて、ゆっくり休むといいよ」
ジェイ=シンは無言のままうなずいて、革の兜を取り去った。
炎のように赤い蓬髪が、ばさりとたなびく。その浅黒い面には、さすがにうっすらと汗が浮かんでいた。
そしてロア=ファムのほうは、額に手傷を負ってしまっている。革の兜ではどうにもならないような一撃を受けてしまったのだろう。フワウがすかさず織布でその傷口をおさえると、ロア=ファムは顔を赤くして身を引いた。
「よせ。これぐらいは、自分でなんとかする」
「いけません。自分で顔の手当をするのは難しいでしょう? わたくしにおまかせください」
フラウは決然たる面持ちで、ロア=ファムの額に織布を押しあてた。
クリスフィアは、笑いながら立ち上がる。
「さあ、ここに座るがいい、ロア=ファムよ。これだけフラウを心配させたのだから、逃げようとしても詮無きことだぞ」
「そうですよ。わたくしはずっと、生きた心地がしませんでした」
フラウは唇をとがらせながら、間近からロア=ファムをにらみつける。
ロア=ファムはいっそう顔を赤くしながら、クリスフィアの空けた席に腰を下ろした。
「ジェイ=シンよ、見事であったな。聞けばジェノスの闘技会で第一位の勲を賜ったそうだが、いずれの地においてもお前ほどの剣士はそうそう存在しないはずだ」
同胞から受け取った織布で顔の汗をぬぐっていたジェイ=シンは、いぶかしそうにクリスフィアを振り返る。
「お前……いや、あなたこそ、女人とは思えぬような力量を感じる。もしかしたら、今度はあなたに力比べを挑まれるのだろうか?」
「いや、わたしは遠慮しておこう。ひとたび剣を交えては、ロア=ファム同様に引けなくなってしまう性分なのでな。これ以上は、フラウを心配させたくないのだ」
口惜しいことに、クリスフィアとジェイ=シンの力量差は歴然であった。正直に言って、自分であればロア=ファムよりも上手く戦う自身はあったが、このジェイ=シンというのは文字通りの化け物じみた存在であるのだ。
(ジェイ=シンはもちろん、そちらの二人にだって勝てる気はせん。こちらが鋼の剣を持ち、あちらが素手であったとしても、結果は変わらぬだろう。こやつらは人の身でありながら、アルグラの銀獅子にも等しい膂力を備え持っているのだ)
剣士としての本能で、クリスフィアはそれを察知していた。
それを口惜しく思う気持ちはあれど、ロア=ファムのように勝負をふっかける気持ちにはなれない。それは人間の知恵を持つ獅子に勝負を挑むに等しい行いであるように思えてならなかったのだった。
(わたしの本分は、戦で勝利を収めることだ。わたし個人の力量などは、そのために必要なひとつの武器に過ぎん。……そこのところが、己の力のみで生きる狩人のロア=ファムと異なっているのだろうな)
何にせよ、クリスフィアの頭を占めているのは、別の事柄であった。
これほどの力を持つ剣士たちを、なんとか味方に引き入れることはできないものか――目に見えぬ戦いに挑んでいるクリスフィアにとって、いま一番重要なのはその案件であるのだった。
(アブーフと同じぐらい遠方に城をかまえているジェノスの人間であれば、そうやすやすと王家の権威に屈したりはせぬはずだ。問題は、この若君にそれほどの気概が存在するかどうかだな)
クリスフィアはこっそりと、メルセウスに検分の視線を向けた。
とても優しげな面立ちをした、若き貴族である。聞けば年齢は、クリスフィアと同じく十八歳であるという話であった。
侯爵家の第一子息という身分も、クリスフィアと同一である。いずれはこの若君が、ジェノスの行く末を担うことになるのだ。
荒くれた森辺の狩人を従者に登用するという、その気性はとても好ましく思える。だが、それだけでは用事が足りない。現在の王ベイギルスが不当な手段で玉座を得ていたとしたら、それを糾弾しようという気概がこの若君に存在するかどうか――クリスフィアは、それを見極めなければならなかったのだった。
「……僕の顔に、何かついていますか?」
と、メルセウスがふいにクリスフィアを振り返ってきた。
完全に虚をつかれて、クリスフィアは思わず口ごもってしまう。
「あ、いや……ど、どうしてわたしが、メルセウス殿を見ていたと?」
「いえ、さきほどから頬に視線を感じていたのです。そうしたら、ジェイ=シンがクリスフィア姫のほうをちらりと見て、その正体を教えてくれました」
「いや、べつだん他意はなかったのだ。不快にさせてしまったのなら、謝ろう」
「何も不快ではありません。クリスフィア姫のようにお美しい姫君に目を向けられるというのは、光栄なことです」
メルセウスは、子供のように、にこりと微笑んだ。
邪気のない、あけっぴろげな笑顔である。
「ううむ……これまた失礼なことを言ってしまうのだが、メルセウス殿はあまり父君とは似ておられぬようだな」
「え? クリスフィア姫は、父をご存知であったのですか?」
「うむ、遠目でお姿を拝見しただけだがな。それも、わたしが幼かった頃の記憶だ」
前王の戴冠二十年の祝典で、クリスフィアはこの王都を一度だけ訪れている。そのときに、同じく来賓であったジェノス侯爵の姿を目に留めていたのだ。
年齢は、クリスフィアの父親とさほど変わらないぐらいだろう。灰色の瞳を冷たく光らせた、武人のごとき毅然とした風貌であったことを、今でも強く覚えている。
「そうですか。僕は常々、母親似だと言われていたのですよ。それに、二人の姉に囲まれて育ったせいか、ずいぶん柔弱な気性に育ってしまいました」
「ふむ。本当に柔弱な人間は、自分のことをそのように評したりはしないのだろうがな」
「あはは。でも、剣の腕はからきしです。僕の父君は、かつてジェイ=シンの父親と闘技会の第一位を争ったほどの剣士であったのですけれどね」
「それは、凄まじい手練ではないか。ジェイ=シン殿の父親ともなれば、やはり相応の力量を備えていたのであろう?」
クリスフィアが目を向けると、ジェイ=シンは不本意そうな面持ちで赤い髪をかき回していた。
「その時代は森辺の民が人間相手の剣技を磨く習わしもなかったので、俺の父も相当に苦戦したのだと聞いている。だから俺も、ジェノス侯爵の息子とは同じように腕を競えるのではないかと楽しみにしていたのだがな」
「ご期待にそえず、申し訳なかったね。でも、よき友にはなれたのだから、それで十分じゃないか」
メルセウスは、あくまでも屈託がない。ディラーム老も、笑顔でそんな主従の姿を見守っていた。
「さ、できました。しばらくは、無理をしてはいけませんからね。額の傷というのは、とても血が流れやすいのです」
と、気づけばロア=ファムの手当が終わっていた。
額に包帯を巻かれたロア=ファムは、ぶすっとした顔でそっぽを向いている。その黄褐色の肌は、まだいくぶんの赤みがさしていた。
「フラウは幼い頃から、わたしの手当を手伝ってくれていたからな。その言葉は医術師と同じぐらいの重みがあるはずだぞ」
クリスフィアも声をかけたが、やっぱりロア=ファムはそっぽを向いたままであった。
ジェイ=シンは、青く光る瞳でそちらを見やる。
「ロア=ファムよ。そういえば、お前は何歳であるのだ?」
「……俺は、十五歳だ」
「十五歳か。俺は、十八歳だ。三年前の俺であれば、もう少しは手こずらされていたであろうな」
「……それでもお前の勝利は動かないと言いたげだな」
「森辺において、虚言は罪とされている。お前の気持ちを慰めるために、虚言を吐くことはできん」
そのように述べてから、ジェイ=シンはふいに口もとをほころばせた。
「しかし、お前の力量もなかなかのものだったぞ。そこらの兵士では、お前の相手にはならないだろう。剣術の手ほどきも受けていないのに、大したものだと思う」
ロア=ファムは、びっくりしたように目を見開いていた。
ジェイ=シンの言葉にではなく、その表情に驚かされたのだろう。クリスフィアも、同じ心情であった。
(なんとも魅力的な顔で笑うやつだな。そこらの婦女子であれば、たやすく恋に落ちてしまいそうだ)
もちろんクリスフィアは自分を婦女子とも思っていないので、心を乱されることもない。ただ、ジェイ=シンの純真なる気性が垣間見えて、それを喜ばしく思うばかりであった。
(ジェノス侯爵家の当主も、メルセウスも、ジェイ=シンも、誰もが信頼に値する人間であるように思える。やはりここは、何としてでもこやつらを味方に引き入れたいところだな)
クリスフィアがそのように考えたとき、ディラーム老が「おや」と声をあげた。
「あれは、レイフォンとその従者ではないか。金狼宮を訪れるのは中天を過ぎてからと聞いていたのに、ずいぶんと早いお出ましだな」
金狼宮の従者の案内で、レイフォンたちがこちらに向かってくる姿が見える。それを迎えるディラーム老は、いくぶん張り詰めた面持ちになっていた。
(予定より早く訪れたということは、何か変事でも生じたのだろうか)
クリスフィアもまた、気を引き締めてその両名と相対した。
レイフォンは、普段通りのやわらかい表情で微笑んでいる。
「メルセウス殿も、こちらでしたか。ディラーム老に、何かご用事でも?」
「ええ。ジェイ=シンとそちらの従士殿の剣技を見物させていただいていたのです」
「剣技?」と首を傾げてから、レイフォンは目を見開いた。
「ロア=ファム、その怪我はどうしたんだい? ずいぶん痛々しい姿じゃないか」
「大した傷ではない。剣技の試し合いで、少し力が入りすぎただけだ」
ロア=ファムは、ふてくされた顔でまたそっぽを向いてしまう。
レイフォンは、困惑した様子で眉尻を下げていた。
「そうか。実はロア=ファムに頼みごとがあったのだけれど……今日のところは、控えておいたほうがよさそうだね」
「何か、荒事か? このていどの手傷で、俺の力が落ちることはない」
ロア=ファムがそのように答えると、フラウがすかさず「いけません」と声をあげた。
「むやみに動くと、また傷口が開いてしまいます。それに、他にもあちこち痛めているのでしょう? せめて今日一日は、ゆっくり休んでください」
「いや、そんな大層な手傷では――」
「駄目です」と、フラウが怖い顔をロア=ファムに近づける。
多感なる少年は、再び頬を染めることになった。
「無理をしてはいけないよ、ロア=ファム。クリスフィア姫がいてくれれば、こちらもまずは十分さ」
「ほう、わたしにもお声をかけてくれるのか。それは……なかなかのお話であるようだな」
「うん、まあね」と、レイフォンは肩をすくめている。
その隣では、ティムトがいくぶん無念そうに眉をひそめていた。
(わたしとロア=ファム、両方の力が必要なほどの話であったのか。ならば――)
と、クリスフィアは一瞬で決断した。
表面上は何気ない顔をして、メルセウスのほうを振り返る。
「では、メルセウス殿からジェイ=シンをお借りするというのは、どうであろう?」
「ジェイ=シンを?」と、メルセウスは目を丸くしていた。
ジェイ=シンは、うろんげに眉をひそめている。
「ロア=ファムを働けなくしたのは、ジェイ=シンだからな。その責任を取ってもらおう。……などという言いがかりをつけるつもりはない。ただ、わたしももう少しジェイ=シンと絆を深めておきたかったので、同行してもらえたらありがたいなと考えたのだ」
「そ、それは失礼な申し出だよ、クリスフィア姫。彼はメルセウス殿を護衛するのが仕事なのだからさ。こちらの都合であちこち連れ回すわけにはいかないよ」
レイフォンは慌てた風であり、テイムトはきつい目つきでクリスフィアをねめつけている。やはりこれは、赤の月の災厄にまつわる案件なのだろう。
(ならば、ジェイ=シンやメルセウス殿にも、さまざまな真実を知った上で、進むべき道を選んでもらうというのが、一番の早道であろう)
少なくとも、彼らがクリスフィアたちを裏切って、敵方につくとは思えない。それだけは、クリスフィアにも信ずることができた。
メルセウスは、不思議そうにクリスフィアとレイフォンの姿を見比べている。
「それはいったい、どのようなお話であるのでしょう? 僕も彼の君主として、それを聞いておかねばなりません」
「いや、それは……ちょっと危険な場所を巡らないといけないので、ロア=ファムに護衛役をお願いしようと考えていたのだよね」
レイフォンがそのように答えると、メルセウスは「そうですか」と微笑んだ。
「それなら、ジェイ=シンは適任ですね。護衛役は他にも二名おりますので、ジェイ=シンはクリスフィア姫にお貸ししましょう」
「ええ? いいのかい? まだどこにお連れするとも言っていないのに……」
「どこでもかまいません。ジェイ=シンであれば、どのような苦難でも退けることができるでしょう」
そう言って、メルセウスはいっそう無邪気そうに微笑む。
「それに、クリスフィア姫は信頼に値する御方とお見受けしました。クリスフィア姫にでしたら、大事な友であるジェイ=シンをお預けすることにも不安は感じません」
「そのように言ってもらえるのは、光栄なことだ。もしもジェイ=シンに相応しからぬ仕事であった場合は、その場でメルセウス殿のもとにお返しすると約束しよう」
「承知しました。それじゃあ、ジェイ=シン、クリスフィア姫の力になってもらえるかな?」
「お前は俺の君主なのだろうが? だったら、そのように命じればいい」
ジェイ=シンがぶっきらぼうな声で応じると、メルセウスは「いや」と首を振った。
「これはジェノス侯爵家の仕事ではないからね。僕が個人的に、友としての君に頼んでいるんだ。嫌だと思うなら、率直にそう言ってほしい」
「いちいち面倒なことを抜かすやつだ」
ジェイ=シンは長めの前髪をかきあげながら、横目でクリスフィアをねめつけてきた。
「それで? 俺はどこに行けばいいのだ?」
こうしてクリスフィアたちは、その日の冒険をジェイ=シンとともに果たすことになった。
ティムトは不本意そうな顔をしていたが、クリスフィアとしては満足な結果であった。